蛭子(15)
夜半、凡海権大の屋敷を訪れた者がいる。
「まあ、史郎。あなた行方不明だって、海部さんが」
「あれ、おかしいな。海部さん、なにか誤解してると思うんだけど、父さんいるかな?」
玄関で驚く母親を制して史郎が言う。
「そりゃあ、いるけど、こんな夜遅くに連絡もなしにいきなりだなんて」
「自分の家だしね。急に帰りたくなることだってあるさ」
そのまま奥の間にあがりこんだ史郎は、父を呼ばせ、人払いをさせる。
「どういうつもりだ、史郎」
「ちょっと相談したいことができたんでね。父さんも忙しいとは思ったけど、こっちも急ぐんだ」
「豊玉を探す気にはなったのか」
「豊玉、ああ、あれね」
史郎はポケットから黒い玉を取り出して、掌の上に転がした。
その黒、無月の闇より深く、虚空の深遠にも匹敵する。
「これ、豊玉」
権大は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「本物か?」
「まあ、たぶん、そうだと思うよ」
「は、はやく、彦爺の所へ行け」
権大は史郎を急かした。思わず立ち上がったものの、歯の根があわない。
「い、いや一緒に行こう。俺が話をつける。お前が長だ」
「いや、そういうのどうでもいいから」
史郎は権大の言葉など意に介さない。
「長は大兄さんがやってくれるんでしょう? あの人面倒見いいし、ちょうどいいんじゃないの。だいたい、これ凡海衆のものじゃないし、借り物だよ」
「莫迦をいうな」
権大が史郎を叱咤する。
「豊玉は凡海衆のもの、我祖先、あらかま様が大海人皇子に托された秘宝だ。それを他人のものなどと」
「だからさあ、ようは大海人皇子にあげちゃったんでしょ。それから天武系の百余年、称徳天皇まで、豊玉はそれなりにがんばったさ」
豊玉、と熱病のように浮かれ、黒色の玉に手を伸ばそうとする権大。しかし、さっと史郎が掌を返し、玉を懐奥にしまいこむ。
「だめだめ、借り物なんだよ、これは。ボクの体を貸し与える代りに、一時借り受けただけさ」
「体を貸した、だと?」
史郎の言葉に権大の体がこわばる。
「うん、そうだよ。だから凡海衆に渡すわけにはいかないんだ」
「誰だ? お前に豊玉を与え、お前の体に巣食ったのは、誰だ」
すっ、と史郎の表情が変わる。不敵大胆とは言え、まだ若さとあどけなさの残る面影が消え、老成した趣がその面相に宿る。
「弓削道鏡と申す」
「おのれ道鏡、死してなお我らに祟りなすか」
叫んだ権大は床の間にかけた槍に手を伸ばす。
「やれやれ」
史郎が一歩踏み出し、権大の腕を掴んでしぼりあげる。
「やめてよ道鏡さん、出てこないって約束したじゃない」
もとの快活な青年に戻った、その声を裏返し、道鏡が一言短く返答した。
「申し訳ない」
「父さんも落ち着いてくれないかな」
史郎は握った手を緩めることなく、かえって力を込めた。権大の顔が苦悶に歪む。
「称徳は天武系最後の天皇じゃないか、大海人皇子、天武天皇から百年、豊玉が支え続けた天武系の最後の天皇に生涯尽くした道鏡さんが、豊玉の味方であれ、敵であることはないだろう?」
史郎の言うとおりであった。称徳天皇を最後に天武系の血は耐え、天智系の天皇の時代となるのだ。
「どうする気だ」
権大は問うたが、それが史郎にむけたものか、はたまた道鏡かは、判然としなかった。
「数千年を経て、この豊玉にはさほどの力は残っていない」
史郎の身を借りた者が答えた。
「新しい豊玉の力を借りねば、国に帰ること叶わず」
「新しい豊玉、だと?」
「伊耶那岐、伊耶那美に送られた豊玉さ。ボクらはそれを追わなきゃならない」
腑抜けのように力の抜けた権大の体から、史郎は手を放した。
「長々と余計なことばかりしゃべってしまった。今日は父さんに頼みがあって来たって言うのに」
「俺に頼みだと?」
権大は問い、史郎が答えた。
「父さん、最近、おかしな奴らとつき合ってるね。それ、やめてくれない?」
権大は無言で史郎を睨み付けた。
「本当にやめて欲しいんだ」
史郎は権大の焼け付くような視線に怯むことなく、一片の紙人形を差し出した。
「これ持っててくれる? 道鏡さんの形代」
「こんなもん、いらん」
「それなら、それでいいけど」
史郎はこの夜はじめて見せる、悲しそうな表情をした。
「でも、本当に彼らとの関係は断ってほしい。そうしないと」
史郎は権大の目をまっすぐに見据えた。
「ボクは、父さんを殺さなきゃならないかもしれない」
権大が怯んだ一瞬に、史郎は襖を開け雨戸を踏み抜いて、庭に出た。
「どこに行く、史郎」
権大の言葉にも、もはや史郎は振り返らなかった。
「蛭子の国へ」
史郎の声が闇に響いた。
「伊耶那岐、伊耶那美が最初に産んだ島、蛭子の国へ行くよ」