蛭子(12)
「足止めしておけ、って言われても、どうしろってんだよ」
凡海潮見は途方に暮れた。
西宮神社の境内、潅木の影に隠れて、晴比古と開葉を見張っていたのである。佳海からの連絡で、大兄が着くまでどうにか引き止めて欲しい、と言われたが、どうしたらいいのか見当もつかない。
「早く行けよ。何でもいいんだよ。東京にとんぼ帰りさせなきゃいいって、それだけだって、佳海姉も、言ってたじゃん」
凡海凪沙は潮見の尻を蹴飛ばす。まったく、このウスノロは、図体ばかりでかくて、からっきし役に立たない。
「そんなに言うんなら、おまえ行けよ」
「あたしが?」
凪沙の声は尾行者の声の大きさの限界を超えている。もういっぺん、潮見の尻を蹴った。
「自慢じゃないが、中二から高三までずっと引き籠りやってたんだ。卒業できたのが奇跡だ、って母ちゃんにも言われてる。裏でこそこそつけまわすだけ、って大兄の兄ちゃんに言われたからこんなことやってるんで。見ず知らずの相手に声かけるぐらいなら、死んだほうがマシだ」
「勝手なこと言うなよ」
潮見の声は小さいが、声の質は悲鳴に近い。
「もう尾行してんのバレてんだろう。そんな相手にどんな顔して話しかけりゃいいんだよ」
「バレてんだから、好きに話せばいいじゃないか」
「おまえ、誰かにつけまわされてたら、どうするよ」
「相手の首へし折るよ」
「だろう? なのに、アイツら何もしてこないんだぞ。おっかなくて声なんかかけられるか」
幸い当の二人はおかしな格好の爺さんと話しこんでいる。遠くから聞いていても、女のほうが爺さんの言葉を繰り返すだけとか、どう見ても普通ではないのだが、少なくとも、あの爺さんがいるうちは、ここを動くことはないだろう。
問題は、あの爺いがいなくなってからだ。
潮見は息をひそめて、三人のやりとりを見つめている。凪沙はまだぶつぶつ言っているが、ときどき潮見の尻を蹴るだけで、自分で動く気はないようだ。
あっ、と、小さく潮見が声を上げた。
「神主の爺さんが消えた」
「実体じゃなかったってことだろ。もう誰もいないんだから行けよ」
もう一度、凪沙が潮見の尻を蹴ろうとしたとき、いきなり二人の肩を掴む者があった。
「は〜い、エブリバディ、どうしたこんなところで、怪しさ大爆発だぞ」
「げ、洋行」
「何しに来たんだ、お前」
凡海洋行に肩をつかまれた二人の背に悪寒が走る。こいつは苦手だ、というのが潮見と凪沙の数少ない共通認識だ。
「ん〜、つれないなあ、マイフレンズ。ミスター大兄に言われて、ユーたちのサポートに来たんじゃないか。ほらほら、早くしないとターゲットにゲタウェイされてしまうよ」
「なら、お前行け」
「そうだ、お前行け」
洋行が来ると二人の結束は固くなる。息もぴったりだ。
「オーケー、オーケー、ダブルオーケー。話は聞いてるさ。では、ぼくの華麗なコミューニケーションスキルで、彼らをトリコにしてみせようじゃないか」
洋行はすたすたと、晴比古と開葉のほうに歩いていく。その背を漠然と見つめていた潮見と凪沙だが、はっと気づいてあわてて後を追いかける。
「コングラッチュレーション、ハゥドゥユゥドゥ?」
遅かった。やっちまった。潮見と凪沙は、洋行の三歩後ろで固まってしまった。
晴比古と開葉は顔を見合わせる。とりあえず晴比古の方から、この不思議な青年に話しかけてみた。
「How do you do? Welcome,and nice to meet you. What’s your name?」
返事がない、首をかしげてニコニコ笑っているだけだ。今度は開葉が話しかける。
「こんにちは、はじめまして、あなたどなた?」
「すいません、こいつ、あたしらの連れなんですけど、頭おかしいんです」
凪沙が顔を真っ赤にして割って入る。もう限界だったのだ。
「頭おかしいとか、ひどいなあ。ぼくはクレイジーじゃなくてクレバーなんだよ」
「お前黙ってろ」
凪沙の顔は燃えあがらんばかりに赤い。
「えっと、この変なのは洋行で、このでかいのが潮見、それで、あたしが凪沙」
「はあ」
「ナギサ、ちゃん?」
晴比古と開葉は当惑している。凪沙の頭の中で血流がぐるぐる回る。初対面の人とこんなにしゃべったのは初めてだ。でも、まだ、なにか言わなきゃ。言わなきゃ。こんなときはどうする? どうすれば? 佳海姉、助けて。
佳海の顔を思い浮かべたとき、凪沙は思い出したことがある。こういうときはアレを出すんだ。
あわててポシェットを開け、中身をひっかきまわした凪沙は、一枚の名刺を取り出した。
「あたし、これなんです」
凪沙が両手で差し出した名刺には、凡海コーポレーション、調査員、凡海凪沙とある。
名刺を受け取った晴比古が問うた。
「凡海、というと凡海大兄さんの関係の方ですか?」
「大兄あんちゃん、いや、ちが、ちがう、社長、社長を知ってるんですか?」
「ああ、凡海さんが社長なんだ。めずらしい名字だからもしかしたらと思ったんですが。すると、みなさん、凡海さんの会社にお勤めなんですね」
晴比古は名刺入れから名刺を取り出して、三人に手渡した。
「僕はこういうものです」
「近衛公人、って、賀茂晴比古じゃないの?」
名刺を見た凪沙が、すっとんきょうな声をあげる。
「あ、これ仕事用の仮名なんです。タレントの芸名みたいなものだと思ってください。それにしても、よく僕の本名をご存じで」
言われた凪沙はあせった。せっかく、名刺を出して一段落したと思ったのに、もう何を言っていいかわからない。
「あの、それは、りゅ、ゆ、ゆ、ゆ」
「ゆゆ?」
不審気な顔で問いかける開葉に、凪沙は完全にパニくってしまった。
「ゆ、ゆ、ゆば」
「ゆば?」
「ゆば、そう、ゆば」
凪沙は、ゆば、にすべてをたくし、一気にまくしたてた。
「ゆばです。ゆばのおいしいところがあるん、です。これは、そのぉ、なんだっけ、接待、接待なの。接待で、お客さんを、お客さんはあんたたち、でぇ、ゆばの店に連れていけ、ってなんだ、社長? そう、社長に言われて、これから、ゆばのお店に行くんです。一緒に行こう。ねえ、行きましょう。もう、お願い」
凪沙はいまにも泣きだしそうに見えた。あとの二人の青年はつっ立ったままだ。晴比古と開葉は顔を見合わせる。
「どうします?」
「知合いなんでしょ。キョージュの?」
「いや、この人たちじゃなくて、ここの社長さんとは一度仕事したことがあるんですけど」
「悪い人じゃないんですね?」
「そんな感じじゃなかったですし、それに、この人たちも悪い人には見えませんけど」
「じゃ、そういうことで」
開葉は凪沙に向かい、なるべく刺激しないようにおだやかな口調で声をかけた。
「あの」
「は、はいっ」
「せっかくのお誘いですので、ご一緒させていただきます」
「ほんと? ほんと?」
凪沙の顔は、はちきれんばかりの笑顔になった。
「あ、それじゃ、社長に連絡するから、いや、社長に連絡いたますので、あれ違う、社長に連絡いたまし、ちがう……、とにかくちょっと待ってて」
凪沙は携帯を出して電話をかけ始めた。
大丈夫かなあ、と開葉の脳裏に一抹の不安がよぎった。