第7話 彼女と過ごした日々
それからの僕らは世界を救うために一緒に戦い続けた。
彼女と過ごすうちに、僕は世界について色々なことを知った。
そして僕が思っていたよりも、世界はずっと危機に瀕していたことも。
この世界には一般人に隠された多くの秘密が存在する。
例えばそれは宇宙人の存在だったり、大統領暗殺事件の真相だったり、魔法だったりする。
多くの人は眉を顰めるかもしれない。
馬鹿馬鹿しい。隠された秘密なんてあるはずがない。この世界は開かれているんだ。妄想と現実を一緒にするな。
だけどいったい、自分が知らないというだけで、世界にはそれが存在しないなどと、どうして言うことができるのだろうか。
神様でもない限り、僕たち人間には世界のすべてを知ることなんてできるわけがないのだ。
そして事実、この世界には〝魔法〟が存在する。それどころか、〝魔物〟と呼ばれる存在も。
たとえどんなにそれを否定しようとも、それは紛れもない現実だった。
この世界には魔法が存在していて、彼女はホンモノの魔法使いで、世界を守るために魔物と戦い続けていた。
もちろん彼女ひとりで戦っていたというわけじゃない。いくら彼女が魔法使いとは言っても、人間がひとりだけで守るには世界は広すぎた。
彼女には仲間がいた。お互いがお互いを、少なくとも表面上は信頼し合う仲間たち。
〝キャリバン〟と呼ばれる組織に彼女は所属していた。
組織を創設した人物は、きっと皮肉が好きだったのだろう。あるいは本当に文字通りの意味で使っていたのか。
いずれにしろ、そんな怪物じみた名前よりも、僕は〝プロスペロー〟とでもする方がよっぽどいいと思った。
しかしそんな特別な組織にあっても、彼女は特別だった。
キャリバンには多くの魔法使いが所属していたけれど、〝魔王〟に対抗できるほどの力を持っていたのは彼女だけだったのだ。
――〝天才魔法少女〟
それが彼女を指し示す端的な言葉であり、多くの仲間たちが憧れと敬意と、ほんの少しの嫉妬を込めて付けた呼び名だった。
『——だから大丈夫。キミはただわたしと一緒にいてくれるだけでいいの。戦う必要なんてない。ただ一緒にいて、わたしの戦いを応援してくれるだけでいい。それで十分だし、それ以上は望まないよ』
三日月が沈んだ夜の公園で、そう言って涼やかに微笑んだ彼女の表情を、電灯の光は強く、星の光は弱々しく照らしていた。
僕は自動販売機でホットコーヒーを二本買ってきて、一本を彼女に渡しながら訊ねた。
『本当にそれでいいの?』
僕には彼女の真意がわからなかった。わからなかったから、わずかな動揺も見逃さないように、視線に力をこめて言ったのだ。
『きみに協力すると決めた以上、できる限りのことを僕はするつもりでいる。きみが魔物と戦えと言うのならそうできるように努力するし、きみが魔法を放つあいだ時間を稼げと言うのなら喜んで盾にもなる。——だから、もしもきみが僕の身を案じて何もするなというのなら、それはやめてほしい。それはきみと協力することを選んだ僕の勝手だし、僕が決めることだから』
プルタブを起こし、コーヒーを喉に流し込んだ時に感じた強い苦味を僕はいまでも思い出す。身体を震わせた緊張も、夜風に冷やされた空気の匂いも、僕はすべて思い出すことができた。
缶コーヒーを両手で包み込むように持っていた彼女は、少しのあいだ考えるそぶりを見せた後、一度こちらに視線をむけ、それから夜空を見上げて言った。
『…………たぶん、わたしはキミに日常を感じていたいんだと思う。キミの存在がわたしの帰るべき日常を、守りたいと思っている場所を強く意識させてくれることを望んでいるんだと思うんだ。——だから本当に大丈夫。わたしはキミに、キミの存在以上のことは何も望まない』
秋の夜空は静かで、まだ澄み切らない空気を通して届く星たちの弱々しい輝きを彼女はじっと見つめていた。
僕はそんな彼女の様子と答えに、苛立ちを感じてまた訊ねていた。
『わからないよ。それなら、どうして僕なんだ? きみが僕に日常を感じたいっていうのなら、そんなの、誰だっていいじゃないか。先生や他のクラスメイト、コンビニの店員だっていい。それなのに、どうして僕なんかを選ぶんだよ』
でも一体、それを追及することになんの意味があったというのだろうか。彼女は間違いなく僕を必要としていた。レールの上を脱する機会を切望していた僕にとって、それだけが重要で、理由なんてどうでもいいことのはずだったのに。
でも僕は訊ねた。訪ねてしまったんだ。
……あるいはきっと、特別な何かになりたかった僕は、特別な存在だった彼女に、特別な理由で必要とされたかったのかもしれない。他でもない、僕という個人が必要とされているという実感が欲しかったのだ。
だから僕は求めた。求めてしまったんだ。僕の自尊心を満たしてくれる答えを。僕に安らぎを与えてくれる言葉を。
でも彼女の答えは残酷だった。
『……そうだね。うん、キミの言うとおり、キミである必要はないよ。誰でも良かったんだよ、誰でも。だから強いて言えば、キミがあの日屋上にやってきたこと。それがキミを選んだ理由——』
その瞬間、僕の世界からは音が消えた。星たちの声さえ聞こえなくなった。
ショックだった。
僕自身、どうしてそこまでショックを受けたのかはわからなかった。彼女が僕を選んだ理由がただの偶然だなんてこと……そんなこと、わかりきったことだったのに。
たまたま偶然彼女と出会って、たまたま偶然彼女の秘密を知っただけの男であった僕が、一体どうして彼女にとっての特別な何かではないと告げられただけで、これほどのショックを受けたのか。
怖かったんだと思う。彼女に特別視されていなかったことじゃない。捨てられるかもしれないと気づいたことが怖かった。
彼女にとって僕を引きずり込んだことは偶然で、気まぐれなことだったとしても、僕にとってそれは一生に一度起きるかどうかの幸運だったのだ。宝くじで一億円が当たるよりも、朝に降る流れ星を見つけられるよりもずっと。
だけどその幸運な関係は、彼女が拒絶するだけで消えてしまう一方的な関係に過ぎないという事実が、僕に恐怖を感じさせたのだ。
だから僕は必死に足掻いた。やっと掴んだ翼に振り落とされないように、ただ闇雲にしがみ付き続けた。
『——凄いなァ、お前。普通あきらめるぜ? アイツは特別なんだ。アイツを見たら、大抵のやつは追いつこうなんて考えもしなくなる。お前みたいに、アイツのためにできることなら何でもやるってのはさ、ホントにすげえことなんだ』
いつか来栖くんはそう言っていたけれど、真実はただ僕にはそうすることしかできなかっただけだった。そうすることでしか、彼女に見捨てられない道を見出すことができなかったのだ。
でもそんな僕に向かって来栖くんは言った。
『ま、そんな自分を卑下すんなって。たとえどんな理由からでも、がむしゃらに努力できるってのは凄いことなんだ。それは立派なお前の武器なんだよ』
『来栖くん……』
『俺はさ、幸人。お前だったら、いつかアイツの〝騎士〟にだってなれるって気がするんだ。ま、なんとなくだけどな』
来栖くんは魔法使いではなかったけれど、だからこそ、彼の言葉はまるで魔法のように僕の心に浸透していった。
彼の言うように〝騎士〟になれば、たとえ彼女から見放されたとしても、決して日常と交わらない人生を生きていけると思った。
そうして僕は〝騎士〟になる道を選んだ。特別な何かになるための道を。
そう決意した後の日々は、本当にあっという間に過ぎていった。
厳しい訓練を重ね、魔物との実戦にも出向いた。もちろん彼女は反対した。僕に日常の象徴でいて欲しかった彼女にとって、僕が戦いに参加するなんていうのは酷い裏切り行為だったから。
でも僕だって譲れなかった。
何度目かの魔物との戦いの後に、彼女は渋々ながらも認めてくれた。
『——その代わり、容赦しないから。魔物との戦いに苦しくなって、もう戦いたくないって、キミが泣いて頼んでも許してあげないから。覚悟しといてよね』
『うん、ありがとう』
『やめてよね。わたしはとっても怒ってるんだから。感謝される謂れなんてない』
『そうだね。でも、やっぱり僕にはありがとうって言うことしかできないよ。——ありがとう。きみのおかげで僕は羽ばたけるような気がするんだ』
『……むぅ、何だかずるい』
『え?』
『だってキミ、とても真っ直ぐな目をしてる。初めて会った時はそんなんじゃなかったのに。もっと酷い目をしてたのに』
『そ、そうかな? 変わらないと思うけど……』
『そうなの! まったく何で気づかないかなァ?』
不平をこぼす彼女を見て僕はなんだかおかしくなって笑った。
『なんで笑うのよ』
『ごめん。でも本当にそうだとしたら、きっとそれもきみのおかげだよ。きみがいてくれたから、僕は世界がこんなにも広いんだと知ることができたんだから』
『…………むむむぅ』
『ど、どうしてそんなに睨むんだよ。僕なにか気に触るようなこと言った?』
『……言った。すっごく言った。……やっぱわたし、キミのことが嫌いかも』
でも、この時にはもう、僕が戦いを望む理由は変わっていた。
彼女と過ごし、打ち解けた日々を送るなかで、僕はただ守りたいって思ったんだ。
あの日屋上で出会った特別な少女、だけど本当は案外子どもっぽいと知った女の子。
僕に翼を与えてくれた、初めて仲良くなった女の子のことを、理由に関係なく、僕はただ守りたいと思い始めていた。
『——でもホントはね、ユキトくん。わたしはキミに期待してるのかも。もしかしたら、キミがわたしよりも強くなって、いつかわたしを守ってくれるんじゃないか。そんな情けない期待を、ね』
そして僕と彼女の物語は加速していく。
それは生きがいを感じられた日々。いつまでもこんな日々がつづけばいいのに。そう願った初めての時間。
だけどそれはまさしく幻想だった。ひと握りの砂のように儚い夢だったんだ。気がついたときには手のひらからこぼれ落ちていて、後には何も残らない。握っていたという感触だけを残して。
〝幸せ〟という概念は、平凡な日々と比較することで初めて気づくことができるのだと僕が気づいた時、全ては手遅れだった。
だから僕もそれがどんなに貴重で、得難いものだったかということに最後まで気づくことなく、流される時間に押されるがままに消費していった。
季節はどんどんと流れていった。寒さ厳しい冬が終わり、麗かで陽気な春が来て、蝉の声が高らかに響いた夏が過ぎて、また秋にめぐって……。
僕は知った。
——魔王を倒すためには、彼女の命が必要だということを。