第6話 世界、あるいは彼女の秘密
屋上での邂逅で、彼女は僕に『一緒に世界を救ってほしい』と言っていたわけだけど、それは冗談でも比喩でもなんでもなく、純然たる事実だった。
『――この世界はね、キミが思ってるほど優しくはないんだよ』
文化祭の翌日、僕を呼び出した彼女はそう言った。穏やかな陽光がふりそそぐ日曜日の午後、風に揺れる淡く染まったショートカットの髪を押さえつけながら彼女は寂しそうに笑っていた。
『ううん、ちょっと違うかなァ。……優しくなくしてる存在がいるんだよ』
『優しく、なくしてる存在……』
僕らがいたのは公園で、日曜日の公園にはたくさんの子供たちが遊んでいた。ベンチに座る僕らのもとまで楽しそうな声が聞こえてくる。そんな子どもたちの姿を親らしき大人たちが微笑ましそうに眺めていた。
『これからキミにすべてを話そうと思う。この世界の秘密を、ね。――でも、それを知ってしまったらキミはもう元の生活には戻れない。これまでのように世界の優しさを信じることはできなくなる、かもしれない。それでもいい?』
彼女は最後通牒を示す軍官のように僕の意思を確認してきた。その言葉に僕は目を閉じて考えてみた。でもそれは彼女に見せるだけのポーズに過ぎず、実際は考えるまでもなかったのだ。なぜなら当時の僕はまさにこういう出来事が起こることを切望していたのだから。
『構わないよ』と僕は言って微笑んだ。『――聴かせてよ。きみの言うこの世界の秘密ってやつを、さ。大丈夫、覚悟はできてるよ』
彼女は少しだけ驚いた様子を見せたけれど、すぐに『言質は取ったからね』といたずらっぽく笑った。
あいかわらず子供たちの喧騒が響いていた休日の公園は、何らかの秘密を話す場としてはふさわしくないように僕には思えた。だれが聞いているか知れない場所で話す秘密ほど漏れやすいものはないからだ。しかし彼女はその話の性質上、聞かれたとしても問題ないと判断していたのか、周囲の耳を気にすることなく話し始めた。
『——わたしさァ、実は〝魔法使い〟なんだよね』
そして彼女は僕にさまざまなことを教えてくれた。この世界の秘密や彼女自身のこと、それから彼女が戦っているものの正体についてなど。僕はときおり質問を挟んだり、子どもたちが遊んでいる様子に視線を移したりしながらその話を聴いていた。
全部を話し終わる頃には太陽は僕らの影を細長く伸ばしていて、子どもたちは親らしき大人に手を引かれるように公園を後にしていった。僕ら以外だれもいなくなった公園のなかで、話を終えた彼女はブランコを漕いでいた。錆びついた金属の音が醸し出すノスタルジアな世界で、しかし僕はひとりベンチにとどまっていた。彼女の言葉を受け止めるのに必死だったのである。
昼を過ぎた秋らしい陽気に身を縮ませることも忘れ、僕はその驚愕というべき事実についてを消化しようと努めた。そのあまりにリアリティのない話に、僕はじぶんが夢をみてるのではないかと疑った。僕にとって都合の良すぎる夢を。
しかし頬をつねるまでもなく、肌を刺すような冷たい風と彼女が揺らすブランコの錆びついた響きが、ここが紛れもない現実だと僕に教えてくれていた。
『……つまり、今までのきみの話を要約すると――』
やっとのことで僅かながらも消化を果たした僕はベンチから立ち上がり、彼女の隣のブランコに腰を下ろすと、穏やかな夏の微笑のような瞳を浮かべて僕のことを見ていた彼女にむかって言った。
『――きみは魔法使いで、この世界には魔物が実在していて、僕ら人類は〝魔王〟と呼ばれる魔物たちの親玉に滅ぼされようとしている。そういうことになるのかな?』
彼女は笑い、首を傾けた。『やっぱり信じられない?』
もちろん信じられはしなかった。彼女の言葉のすべてがたちの悪い冗談に聞こえた。あるいは僕をからかっているのだろう、と思った。あるいは彼女は有名な動画配信者で、困惑する僕の様子を面白おかしく配信しているのではないかとさえ僕の思考は飛躍しかかった。
でもそれを告げる彼女の目が真剣だったから、声にちゃかすような響きがなかったから、僕はそれを信じるしかなかったんだ。
『そりゃあね。実際のところ、キミの話してくれたことの半分も僕には理解できない。突拍子がなさすぎて、まるで小説かなにかの構想を聴かされた気分さ。――だけど、信じることにするよ。嘘じゃないんだろう?』
本当のことを言うと、僕はその言葉で彼女が満願の笑みを浮かべてくれることを期待していた。叔父という理解者を得た子どものような笑みを。
『それはまあ、そうだけど……』
しかし彼女は僕の予想に反して、その瞳を曇らせて僕のことを見た。それからまるですました表情で排泄物を隠すネコのような声音で呟いた。
『なんだかキミってさァ、将来ひどい騙され方をしそうだよね。例えばユダが香油壺を買わされるみたいなさァ……』
『……その例えは僕には理解できないけれど、キミが嬉しく思ってないのは伝わってきたよ。……どうしてかはわからないけどね』
『だってさ、普通信じないよ。こんな話……』
そう呟いてうつむいた彼女の肩は震え、ブランコの鎖をつかむ手に力が入っているように見えた。そして僕はそのとき初めて、彼女が感じていたであろう不安に遅まきながら気がついたのだった。
僕はうつむき震える少女にむかって言った。
『……僕だって、闇雲に人の言葉を信じたりはしないさ。むしろ信じないようにしてきたと言ってもいいよ。僕にとって他人の語る言葉はいつだって剥き出しの刀のようなものだったからね』
『じゃあどうして? どうしてキミは、そんなに簡単にわたしの話を信じるの?』
彼女は顔を上げ、すがるような瞳で僕を見た。そこにあのまっすぐな強い意志を感じさせる瞳はなく、何かを期待するような弱さだけが灯っていた。
僕はブランコから立ち上がると、あらためて彼女の姿を見つめ、そして悟った。
そこにいたのが世界の秘密をかたる謎めいた少女ではなく、ましてや僕を救い出してくれる存在でもない、〝風戸アンリ〟という名のひとりの女の子だということに。
『……きみだから』と、僕は覚悟を決め、恥ずかしさにそっぽを向いて言った。『――きみだから信じるんだよ』
どうにもキザすぎる言葉だ。出会ったばかりの女の子にかけるような言葉ではなかった。実際、どうしてこんなセリフを吐いたのか僕自身にもわからなかった。ただ、なんとかしたいと思ったんだ。
だからさらに突っ込まれたとしたら厄介なことになっただろう。なぜなら僕はその答えをまだ持ち合わせてはいなかったから。しかし幸いにも彼女は視線を落とし『……ありがと』と小さな声で呟いただけで、僕が危惧したような言葉をぶつけてくることはなかった。
冷たく鋭い風が僕の頬を撫でていった。いつのまにか周囲は薄闇に包まれており、公園内の電灯が瞬いて灯った。西の空では三日月が太陽のあとを追うように山の稜線に消えようとしていた。肌寒い夜だった。しかし僕らの間に横たわる空気だけが熱を持ち続けているかのように僕の頬を赤く染めていた。そしてあるいは彼女の頬も。
僕は空気を変えるために口を開いた。
『それよりさ。きみは僕に一緒に世界を救ってほしいと言っていたけど……具体的に、僕はいったい何をすればいいの? 自慢じゃないけど僕はいたって平凡な高校生だから、いきなりきみの言う魔物とやらと戦えって言われてもたぶん無理だよ』
もしもこれが巷に溢れるフィクションの世界での話なら、きっと僕は彼女を救う英雄になれたはずだった。己の中に秘められた才能を呼び起こし、彼女の抱える闇を切り払い、物語をハッピーエンドに導けるような英雄に。
だけどここは現実で、フィクションの世界ではない。表面上は平和に見える世界で平凡に生きてきた十五歳の高校生に過ぎなかった僕にできることなんてたかが知れていた。
『大丈夫よ』
しかし彼女は寂しげな微笑を持って答えた。それからまた疑問を口にしようとした僕をよそに、零れた星くずを探すかのように虚空を見つめながらそっと言葉を続けた。
『——わたしは〝天才〟だからね』