第43話 ひとりっきりのバースデー
子どもの頃、僕にとって大人という存在は光そのものだった。僕の歩んでいく未来を照らしてくれる光。言い換えれば、完全な存在であると信じていた。
子どものように泣いたり、駄々をこねたりしない完全な存在。
そう考えるようになったのは、やはり両親……とりわけ母の影響が大きかったと思う。
母——母さんに関する初めての記憶は、満面の笑み。
僕が抱っこをねだると、いつだって優しく抱きあげてくれた。母さんの腕の中の温もりはどんなものにも代え難くて、僕は甘える猫のようにギュッと身を埋めた。
だけど、いつの頃からか、母さんとの記憶にはベッドが常にあるようになった。
白いシーツ。傍に置かれた文庫本。半身を起こした姿で柔らかい微笑みを投げかけてくれる母さん。その姿が日に日にやつれていく。
でも子どもだった僕にとって母さんは母さんでしかなくて、何も知らず無邪気な態度で接し続けた。どうしてお外に行けないの。どうして一緒にご飯食べてくれないの。そんな僕の残酷な質問にも、母さんは嫌な顔ひとつせずに答えてくれた。
『ごめんね幸人。お母さん、ちょっとだけ元気がないの。だから今は無理だけど、いっぱい寝て頑張るから、その時はまた一緒に遊ぼうね』
僕はそんな母さんが大好きだった。
ある日、僕は林から折り鶴の作り方を習った。絵本か何かで千羽鶴というものの存在を知ったからだ。
『お母さん、よろこんでくれるかな?』
『もちろんでございます。きっとお喜びになられますよ』
林と一緒に三十羽くらいを折ってから、僕は母さんに会いに行った。その頃には母さんの病状は悪化していて、大きな病院に移っていたのだ。
『どう? うれしい?』と僕がわくわくして訊くと、『ありがとう幸人。とっても嬉しいわ』と、口元が優しく動く。僕はそれを見るのが嬉しくて、毎にち折り鶴を病室に運んだ。苦しさなんて僕には一欠片も見せやしなかった。
雪の降る日だったと思う。僕は病室にいて、窓の外を見ていた。まだ昼だっていうのに窓は白く染まっていて、病室に置かれたクリスマスツリーの明かりをちかちかと星のように反射していた。
『ねえ、あしたはぼくの誕生日だよ』
『……』
僕はもう反応することのない母さんに向かってただ話していた。病室には僕らのほかに誰もいない。さっきまで僕と話していた看護師さんも、母さんの呼吸が乱れているのに気づくと慌てて出て行ってしまった。
『お父さんはね、百科事典を買ってくれるって。お受験がんばったごほうびなんだって』
『……』
『でも変なんだ、最近のお父さん。ぼくのことなんか目に入ってないみたいに無視するんだよ』
『……』
『ぼくのこと、嫌いになったのかな? ねえ、お母さんはどう思う?』
僕が視線を向けても、母さんは何も答えてはくれなかった。僕は母さんがもう死んでしまったのだろうかと不安になって、そっと身体に触れてみた。
でも母さんはまだ頑張っていた。ほっそりとした手から伝わる温もりと、一定の間隔で響く振り子のような電子音と、モニターに映る線のかすかな揺らぎだけが母さんの命がまだそこにあるということを簡単に示していた。
気がつくと、僕は泣いていた。拭っても拭っても、鼻水が流れるのを止められなかった。
あるいは僕がもう少しだけ子どもだったのなら、母さんがベッドに臥し続ける意味も、母さんが目を開けないことの意味も、何もわからずに泣きじゃくるだけだったのかもしれない。
でもその時の僕はもう理解していた。早熟な子どもだったのだ。いや、早熟であるように育てられてきたと言ってもいい。
——〝桜宮の名に恥じぬよう生きるべし〟
そんな古臭いしきたりが存在する家に生まれた子どもにとって、世界はたくさんの色に満ちていた。
僕は特別で、選ばれた人間なんだ。そんな子ども特有の傲慢な考えが実際に形になる。それが僕の生まれた〝桜宮〟という家だった。
『……』
もう目を開けることのない母さんを見つめながら、僕はこの場にいない父についてを考えた。僕にとってのヒーロー。でも、ヒーローはいつだって僕らがピンチのときには駆けつけてくれるはずだった。
だからお父さんはヒーローなんかじゃないんだ。だって僕らは今こんなにも苦しんでいるのに、お父さんは来ないじゃないか。
そんなことを考えているうちに夜になって、母さんの呼吸は止まって……その三時間後、僕は六歳になった。
結局、父さんは最期まで病室には現れなかった。
ひとりっきりの誕生日。
雪の降る夜は静かで、悲しみよりも深い黒だけが僕の誕生日をラッパのように祝っていた。
僕はその音に耳をすませながら膝を抱えて泣き続けた。
きっと僕はその日、世界の優しさを信じることをやめたのだ。




