第41話 見上げた先にある空
幸いなのかどうかは知らないけれど、新たに出現した〝残滓〟は植物型だった。
呼称名は〝名も知らない草〟。ふざけた名前だったけれど、なんの特殊能力も持たないその存在に、今更僕らが苦戦するはずもなかった。
だから戦闘の最中にも拘らず、僕の頭には余計な考えがちらついた。
どうして僕はまだ戦っているのだろうか。
どうして僕が戦わないといけないのだろうか。
剣を交わすたびに、名前のない感情が忍びやかに僕の心を攫っていく。ぽっかりと空いた胸の中を暴れまわっているのは、一体なんという感傷なのだろうか。
〝残滓〟を倒してもわだかまりは消えてくれない。
その名前を教えてほしくて、戦闘のあとに足を運んだのはいつもの公園。ベンチに腰を下ろした僕は目を閉じて公園内に響く音に耳を澄ました。
落ち着かない冬の足音が一歩ずつ大きくなる世界は、まるで透明な音色で彩られたコンサートホールのようで、しめやかな夜のような触感を僕の肌に与えてくる。
楽団を率いる指揮者は優秀らしい。調和のとれた音の旋律が花びらのように僕の耳元で踊っている。
いつまでも聴いていたいと思うのは、やっぱり僕が雨の音を好きだということなのだろうか。いずれにしろ、いまの僕にとって、雨の音こそが何よりも心に寄り添ってくれるもののように思われた。
しかし、美しさを騙った現実逃避も長くは続かない。
心地の良い音のなかに、無遠慮に踏み躙るノイズが交じる。その足音はひどく不恰好な装いを纏った運命の足音に聞こえた。
「どうしたの? こんな雨の中」
「別に……」
歩み寄る気配が止まると同時に掛けられた声に、僕は静かな吐息で答えた。
閉じた傘から滑り落ちた水滴が雨上がりの午後のような軽快さを僕の耳に届けている。浸水し始めた道路の上をバイクが一台泥水をかき分けながら走っていった。
「いつまでもこんな所にいたら風邪引くよ、センパイ」
「……」
ベンチに座る僕。背後に立つ少女。
いつかとは反対の立ち位置。いつかと変わらない気持ちは凝固した糊のように僕の口を閉ざしている。
それでも沈黙を嫌った僕の口は言葉を紡ぎ出していた。
「……ただ、考えてたんだ」
「考えてたって、何を?」
「色んなことだよ。本当に色んなことを考えてたんだ。例えば、どうして僕はまだ〝残滓〟と戦い続けてるんだろう、とかね」
正直な気持ちを吐露する。目的を見失った……いや、初めから目的なんてなかったのだ。がむしゃらに進んでいけば自然と見つかると思った。春が来て、夏が来て、秋が来るように、生きていればおのずと理由が湧いてくると信じていた。
そんなわけがなかった。もしも人生がそんなに簡単なものだったら、僕のいま感じている虚無感も、子どもの頃から感じている閉塞感も、存在していいはずがない。
自分の浅はかさに呆れて首を振る。乾いた笑いと共に、渇いた言葉が喉を飛び出した。
「……もうどうでもいいんだ、別に。世界がどうなろうと、僕にとっては」
あの時から止まってしまった時間。
みんなが進めようとしてくれた時間。
でも、僕にとってはずっと。
いつまでも灰色なんだ。灰色で、苦くて、息苦しくて……もう疲れたんだ。
「……だから辞めることにしたんだ、キャリバンを。僕にはもう、〝残滓〟と戦い続けるだけの気力も、前に進むだけの意志も残っていないから」
どんな言葉でエリに告げるべきか、あれから随分と考えたけれど、結局ただ事実のみを口にした。
雨粒がしとしとと世界を打つ音が東屋の中を反響する。どこか遠い場所で鳴った警笛が思い出をノックするように聞こえる空間で、僕はエリに背を向けたまま、エリの言葉を、判決を言い渡される被告人の心境で待った。
「……ないでよ」
震えた声が、はっきりと耳に届く。
「——勝手なこと言わないでよ」
振り返ると、視線の先には怒りを堪えるように唇をかむエリの姿があった。
「なんでそんなこと言うの? だって、センパイはまだ、生きてるじゃん」
「……生きてるだけだよ。中身はもう、ぬけがらなんだ。きっとあの日からずっと」
「じゃあどうして今日まで闘ってきたのよ!」
「……それは、ただ僕に選ぶ勇気がなかったから」
「——違う! どうしてわからないの!? 自分のことなのに!」
顔を歪めたエリは叫んだ。
「——憧れてるんでしょ!? 憧れているから、センパイは苦しい思いをしながら闘い続けてるんだ!!」
「……僕が、何に憧れているっていうんだ」
声が震えた。理由のわからない焦燥が身体の芯からのぼってくる。明らかに身体は何かを恐れているのに、理性は何も気づかない。
「……教えてよ。僕がいったい、何に憧れてるっていうんだ?」
半ば逆ギレするかのように訊き返した僕に、少女は怯まずに告げた。あるいは、悲しみを我慢するように僕を見ながら。
「——日常」
僕はため息をつく。
「……きみが何を言いたいのか、僕にはまったくわからない。僕が日常に憧れているだって? 理解できないよ」
「わからないのなら、わかるまで何度でも言ってあげる」
少女は冷たく、けれど抑えきれない興奮を吐き出すように言った。
「センパイは日常に憧れているんだ。でもそれはただの平和な日常になんかじゃなくて。辛いことがあっても、自分の力だけで前に進んでいけるような、そんな日常に。だってそれは生きているという実感を与えてくれるものだから。だってそれは――」
――お姉ちゃんと過ごした時間のなかで、手に掴んだと思ったものだから。
凛ちゃんやエリック、朱音さんたちと過ごしたキャリバンでの生活が、センパイに教えてくれたものだから。
だから、センパイはいまもずっとそんな生活に憧れているんだ。
誰かに言われるがままじゃない。
生きているという、その確かな実感を得るために、今日まで苦しみながらも闘い続けてきたんだ。
でも。
また失うのが怖いから。
避けてるんだ。
ひとりで壁を作って、もう立ち上がれないフリをして。
お姉ちゃんを理由にしていれば、みんなが同情してくれるとわかっていながら……。
ズルいよ。
手を伸ばせば、みんなが受け入れてくれることを知っているはずなのに!
「もっとみんなを……あたしを頼ってよッ!!!」
少女の叫びがアケビの蔓のように巻き付いていく。震える全身が新鮮な空気を求めて熱く火照っている。
僕が、日常に憧れているだって?
そんなことあるはずがない。
僕の過ごしてきた世界は暗く、鳥かごのようで、他人を骨の髄までしゃぶるほどの汚さで満ちているんだ。
だから、そんな世界の日常に憧れるだなんてこと……あるはずがないんだ。
認めるわけにはいかない。否定しないと。今すぐに。
違うんだ、エリ。きみは勘違いしている。僕にとっては彼女が全てで、だからこそ、彼女のいなくなった世界での生き方を見失っているんだけなんだ。
だから、僕が逃げるのは、決して日常に憧れているからじゃない。
だって僕は、僕は、僕は……。
僕は……。
……。
「…………誰も、責めなかったんだ」
言葉は雨の中。雪のように溶け込んでいく。
知らない感情が、反論にもならない言葉とともに、ゆっくりと世界に溶けていく。
「……僕の周りの人たちはみんな優しいから。来栖くんも、朱音さんも、エリックも。誰ひとり僕がキャリバンを辞めようとすることを非難しなかった」
それだけじゃない。
彼女を失ったときも。僕だけが止められる立場にありながら、止められなかったことを誰も責めなかったんだ。
責めてくれた方が楽だった。罵ってくれた方が楽だった。
慰めは毒だ。薬になんてなりはしない。優しさはいつも僕らの心身を蝕んでいく。
「教えてよ、エリ……。この先、僕はどうしたらいいんだい? どうすれば、僕は……」
「そんなの、わかんないよ……」
消え入りそうな声で呟かれた言葉は、何も救ってはくれない。
「……でも、誰も責めなかったことが辛いって言うのなら」
だけど、エリは続けて言った。
「今日、あたしがセンパイを責めます……!」
毅然とした態度で僕の目の前に立ったエリの瞳にはすでに涙が溢れていた。透き通るような感情が頬を流れていく。灰色に濁った空からはとめどなく雨が落ちていた。
「どうして……」
風が少女の言葉を運んでくる。
「どうしてお姉ちゃんを助けてくれなかったの……」
静かな声だった。
「センパイなら……あなたなら、止められたはずでしょ……?」
瞳は冷たく潤んでいて。
「止めてくれると思ってた。会ったこともなかったけど、信じてた。お姉ちゃんがあんなに嬉しそうに話してくれるような人が……お姉ちゃんを大切に思ってくれているはずの人が、お姉ちゃんひとりだけが犠牲になるような結末を許すはずがないって。そう信じてた」
血が滲むほどに強く唇をかみしめている。
「なのに、どうしてッ……! どうしてお姉ちゃんを助けてくれなかったのよォッ!!」
止まらない嗚咽が喉から溢れていた。僕の襟元を掴みながら崩れ落ちた少女はただ世界に向かって叫ぶ。
「あたしは! お姉ちゃんさえいてくれたらよかった! ほかに何も望まなかったのに! どうしてよ!! ねえ! 返してよ! お姉ちゃんを返してよォ!! 返してよォッ!!! う、ううッ……!」
……ああ、いったい僕は何を勘違いしていたのだろう。
わかっていたはずだった。
彼女を失って辛いのは僕だけじゃない。
来栖くんも、エリックも、もちろん朱音さんも。
みんな気丈に振舞っているだけ。我慢しているだけ。ほんの少しのバランスで保っているだけの、見せかけだけを取り繕った強さでしかないなんてこと。
そんなこと、分かりきったことだったじゃないか。
なのに、都合の悪い事実には目を背けて、僕だけが自分勝手に悲劇のヒロインを演じ続けている。
彼女の死が何でもないことだったように振る舞える。それが強さゆえだと決めつけて。勝手に失望し続けてきた。
馬鹿だ、僕は。自分で思っていたじゃないか。他人の口から理想に適う言葉が出たとして、どうしてそれが本心だと信じられるのかって。
そんなわけがないんだ。
悲しみに心を砕かれながらも、みんな歯を食いしばりながら、それでも前に進むためにもがいているんだ。
きっとそれだけが、彼女の報いになると信じて。
それなのに、僕は。僕だけは――。
……結局のところ、僕はたった一人の女の子を救うことすらできない大馬鹿野郎に過ぎなかった。
少女の泣き声に、掛ける言葉を失くした僕は、ぼんやりと虚空を眺める。
けれど、見上げた先にある空は、いつまで経っても晴れることを知らない。
灰色だけが僕の世界を夜のように支配していた。




