第39話 姉として
「あなたには兄弟がいないからわからないかもしれないけれど」と、そんな前置きから朱音さんの話は始まった。「年の離れた妹ってね、もう本当に可愛いのよ。とりわけ三歳くらいの頃は天使と一緒なの。わかるかしら? 両親が共働きで忙しかったから私が面倒を見てたってこともあるんだけれど、とても懐いてくれて、私の後をいつも『おねえたぁん』とか舌足らずな声を出しながらとことこと付いてくるのね。あー可愛かったな……。って、もちろん今も可愛いんだけどね。ちょっと生意気になったけれど、それも背伸びしてますって感じがして良いと思うわけ。……ああ、ごめんなさい。別に妹が天使だというのは本筋とはあまり関係がなかったわね。ごほんっ、話を進めましょう。そうね、いま重要なのは、妹がいわゆる神童と呼ばれる存在だったってこと。神童ってわかる? そう、天才ってことよ。身内贔屓をなしにしても、妹は天才だったわ。勉強も、運動も、何をやらせてもずば抜けた才能を発揮した。本当に何でもできたけど、そんな中から妹はひとつを選んで、いちばんを目指していたし、実際に同世代のトップを走っていた。大人たちはこぞって期待したわ。この子がいれば未来は明るい、この子がいれば世界に希望を持てるってね。……だけど、人間って早熟な子と晩成型の子がいるから、子どもの頃に優れていたとしても成長するとともに伸び悩んでしまうことがあるのよ。……ほら、昔からよく言うでしょ? 『十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人』って。もちろん彼女——風戸アンリのように神童のまま成長する人もいるわ。……でも、残念ながら妹はそうじゃなかった。大きくなるにつれて上手くいかないことが増えていって、ライバルと目されていた子にも抜かされちゃって、それでも必死に頑張っていたんだけど……努力しても追いつけないくらいの差ができて心が折れてしまったのね……妹は歩くのをやめてしまった……」
ここまでを一息に話し終えた朱音さんは一度言葉を切り、吸ってもいいかしらと白衣のポケットからタバコを取り出した。僕は了承するように頷いたけれど、朱音さんがタバコを吸うところを見るのは初めてだった。吸ってるということも知らなかった。
僕の内心の動揺をよそに、朱音さんはタバコに火を灯す。シュボッというライターの音とともに、医務室のなかを煙がわたあめのように広がっていった。父のそれとは違い、不思議と嫌な香りではなかった。
吐き出した煙にまみれながら朱音さんは話を続ける。
「……でもね、本当はもっと前から限界だったんじゃないかって思うの。いま思い返してみると、あの頃の妹はいつも無理をしていた。周囲から期待される理想の自分と現実の自分とのギャップに苛立って、明らかにあの子は限界を超えて頑張ってた。そのことにもっと早く気づいてあげられていたらと思うのは傲慢かもしれないけれど、それでもやっぱり気づいてあげたかったと思う。……ねえ、私思うんだけれど、心が折れる瞬間ってね、多分、劇的な事態があるわけじゃないのよ。どうしても越えられない壁にぶつかったときでも、才能の差に絶望したときでもない。頑張って頑張って、頑張り続けて、でもある時ふと、もうダメだって思うんじゃないかしら。頑張り続けることに意味を見出せなくなるのね。……妹もね、多分そうだった。夏の終わりに花火をやったの。私と妹のふたりで。別に特別な日ってわけじゃなかったんだけれど、なんだか花火をしたい気分になってね、私から誘ったのよ。妹も喜んでやろうって言ってくれたから、近くの浜辺でやることにしたのね。手持ち花火から始まって、ねずみ花火がくるくると回るのを見て、最後にやったのが線香花火。潮風が静かに漂う夜の浜辺で、パチパチと爆ぜる火の玉を見つめていたときに、ふと妹が言ったの。『……ねえ、お姉ちゃん……、アタシもうダメかもしれない』って。私は言ったわ。『どうしたの急に? 何の話?』って。突然のことに戸惑う私に、妹はじっと線香花火が弾ける様子を見つめながら、『……もうなんだかどうでもよくなっちゃった。これ以上努力することに何の意味があるのかわからなくなっちゃったの。……だから、もうやめてもいいかな……諦めても、いいかな……』。……波の音に混じって、線香花火の爆ぜる音が白々しく私の耳を揺らしていた。『何もやめることないでしょ?』と私は言った。『せっかくここまで頑張ってきたんだから、もう少し頑張ればいいんじゃない。』ってね。……ホント、馬鹿だったわ。どうしてそんなことしか言えなかったのかしら。妹が初めて吐露した弱音だったのにね……。本当のところ、あのとき妹が何を言って欲しかったのかはわからないし、どうするのが正解だったのかもわからないけれど、私の言葉が間違っていたことだけはわかる。今でも覚えているわ、沈むように落ちていった火の玉が最後に照らしていた妹の姿を。感情を失った彼女の表情を。……そしてその日を境に妹は頑張ることをやめた。ずっと部屋に閉じこもって、学校にも行かなくなった。扉越しに呼びかけても、拒絶の言葉が返ってくるだけになった』
朱音さんはそこで初めて思い出したかのようにタバコを喫んだ。すっかり短くなってしまったタバコを咥えて、煙と一緒に後悔を呑み込むように。ふーっと吐き出した息が白く天井に昇っていく。
朱音さんの話を聴いて心に描いた姿は誰の姿だっただろうか。会ったこともない朱音さんの妹のシルエットが心に浮かぶ。夜の海にたたずむ少女。線香花火の終わりとともに儚げに消えていく表情。闇の中に蹲った姿。それは悲しさに支配された光景だった。
「……妹さんは、いま何を?」
最悪の可能性を考慮に入れながら、それでも訊ねた僕に、しかし朱音さんは柔らかく微笑んだ。
「元気でやっているわ。理想の場所とは違うかもしれないけれど、それでも頑張ってる。きっと歯を食い縛りながら」
「……そう、ですか」
強いな、と僕は思った。信じられない強さだ。僕がおなじ立場だったら、きっともう歩けない。理不尽な世界を呪いながら、膝を抱えて閉じこもっているはずだ。
冷たい風が窓を飛び越すように僕の身体を打った気がした。空調の完備された部屋はまろやかな熱気を僕に与えている。午後の秋雨は明けることのない夜のように降り続いていた。
「ねえ」と、しばらくして朱音さんが言った。「どうして私がこの話をしたかわかる?」
僕は首を振って答えた。
「……さあ、僕にはわからないです」
「嘘つき」朱音さんは笑った。「あなたは賢いから、私の思惑なんてお見通しでしょうに」
そうして朱音さんはもう一度タバコを喫むと、緩やかに紫煙を吐き出しながら言った。
「あなたの弱点は賢すぎることね。だから、自分ひとりで何でも抱え込もうとする。誰かに頼ることを弱さだと思ってるから、そんなふうに深く自分を傷つけることしかできない」
「……ひとりで抱え込むことの、何が悪いんですか。いいでしょ、別に……誰にも迷惑をかけずにすむんだから」
「そうね、もしもこの世に完璧な人間なんて存在がいるのなら、それでもいいかもしれないわね。……だけどね、完璧な人間なんて、この世にはひとりもいないのよ。みんな弱さを抱えながら生きている。そう見えない人がいるとしたら、きっとその人は弱さを隠すのが上手なだけ。隠すのが上手なだけで、弱さ自体は持っている。だからいつか爆発する。私の妹のように、あるいは……あなたのように」
ほのかな微笑を見せながら、二本目のタバコに火をつける朱音さんは、まるで世界を知った家猫のような動作で息をつく。僕はじっと朱音さんの動きを見つめていた。紫煙が僕らの感覚を麻痺させるようにまとわりついていた。
朱音さんは言った。慈しむような瞳を見せながら。
「——辛いのなら、逃げてもいい。誰にだって苦しい時がある。才能に裏切られても、大切な人と死に別れても、……それでも、人生は続いていくの。生きていかなきゃいけないの。そのためには、いっとき立ち止まったって構わない。最後に前を向いてさえいられれば、過程なんてどうだっていい。そう私は思うわ」
「……」
きっと、朱音さんが口にした言葉は陳腐な言葉だった。もう神話の時代から使い古された言葉。星よりも輝く綺麗事だった。
だけど、僕にはその言葉を跳ね除けることができなかった。
「……どうしたら、前を向けるようになるんだろう」
視線を逸らしながらポツリと呟いた僕に、朱音さんは言った。
「もっと人を信じなさい。エリも、凛太郎も、……あなたのオペレーターも。みんながあなたを待っている。彼女たちに弱さを見せるのが嫌だって言うのなら、私を頼りなさい。私はいつだってここにいる。……私はね、あなたのことを弟だと思ってるの。弟の幸せを祈らない姉はいないし、弟の悩みを馬鹿にするような姉もいない。ねえ、そうでしょ、ユキト?」
最後にそう言って、朱音さんは恥ずかしそうに微笑んだ。それは大人というよりも少女のような笑みだった。家族だけに見せる子どもの頃のあどけなさを残したはにかみだった。
雨が窓を打っていた。風が木々を揺らしている。僕の心だけが時間を失くしてしまったかのように止まっていた。
「……そうだわ。あなたに渡したいものがあるんだった。待ってて、持ってくるから」
本当に恥ずかしくなったのだろうか。朱音さんは乱暴にタバコをもみ消すと、早口にそう言って席を立った。足早に医務室を出ていく。
「……」
ひとり残された僕は窓を流れる雨を見つめ続けた。雫がさめざめとこぼれ落ちていく。部屋の主がいなくなった空間を、タバコの残り香が潮風のように漂っていた。
僕はまだ子どもだった。早く大人になりたいと願う子どもに過ぎなかった。
次回——第40話 エリック——の更新は、10月15日(日)ごろを予定しています。




