第3話 忘れられない出来事
しかし夏になっても、僕と彼女の物語が始まることはなかった。
あいかわらず僕は僕以外のことに無関心だったし、彼女は彼女でクラスメイトたちと関わることを頑なに避け続けていた。
だから僕と彼女との出会いを描写する上で、高一の夏という季節は飛ばしてもよかった。
でも僕はあえて語ることにする。とある出来事についてを述べておきたいからだ。
さっきも言ったとおり、学校での彼女は、陽の光を恐れる吸血鬼のように目立つことを避けていた。
授業で当てられても言葉に窮することなく無難な答えを返し、昼休みや放課後になるといつの間にか教室から消えていて、朝は予鈴間際に登校して来るくらいの徹底ぶりだった。
だけど夏休みに入る前に一度だけ、彼女がクラスの注目を集めたことがあった。それは本当に珍しいことで、後にも先にも、僕はこの時以外のことを思い出すことができない。
それは美術の時間でのことだった。
その日は一学期の美術の成績を決めるための課題の提出日だった。
何回かの授業時間を利用して決められた絵を描いていく課題で、教師から出されていたテーマは人物画を描くことだった。
『——あなたたちにとって一番大切なひとをモデルにした絵を描いてきてください。期限は一ヶ月後のこの時間まで。素敵な絵がたくさん見られることを楽しみにしています』
暑さを嘆きはじめたアブラゼミの鳴き声を尻目に、僕らは美術の時間になると思い思いに絵を描き進めていった。
クラスメイトたちはお互いに進捗を見せあったりしていたようだったけれど、僕は他人の描いた絵に興味はなかったし、またクラスメイトたちも僕という存在に興味はなかったわけだから、僕はひとり静かに誰にも邪魔されることなく黙々と絵を描いていった。
僕が描いたのは自画像だった。ふざけていると思われるかもしれないが、決してそんなことはなく、その頃の僕は自分以上に大切な者なんてこの世界にはないと本気で信じていた。
もしも僕のこの考えを寂しい考え方だと感じられるのなら、それはきっと愛に満ちた幸福な世界で生きてきた証拠だと僕は思う。
もちろん僕だって本気で自画像が受け入れられるとは思っていなかった。課題の意図から外れていることは明らかだったし、些細な違いを無視させるだけの技量も持っていなかったから。
でも、どうせ見るのは教師だけなのだ。なんの役にも立たない成績のために他人の顔を描く気は起きなかった。
しかし迎えた提出の際に教師は信じられないことを言った。
『せっかくなのでひとりずつ順番に発表していってもらいましょうか。第三者からの批評を受けることは成長につながりますからね』
美術教師は短大をでたばかりの新米で、教育者としての希望とやる気に満ち溢れていた。彼女が過ごしたであろう青い春のなかで起きた事件のように、絵を照れ臭そうに見せ合うことが僕らにとってかけがえのないイベントになると本気で信じているようだった。
もちろんクラスメイトたちのほとんどが反対の声をあげたが、自己陶酔に陥っていた教師の決定に逆らえるはずもなく、僕らは順番に絵を発表していくことになった。
ほとんどは平凡な題材だった。家族の顔だとか、友達の顔だとかを見せられた。中には好きなクラスメイトを描くという蛮勇を行なった者もいた。題材となったクラスメイトはみんなからひやかしを受けていたが、満更でもない表情をしていたように僕には見えた。
とうぜん僕も僕が描いた絵をみんなに披露した。出来栄えには満足していたけれど、予想どおり僕の自画像を見た教師やクラスメイトたちの反応は冷ややかだった。動物園で展示されているヒトを見た時のような白けた表情。場の雰囲気を取りなすために目が上手く表現できていると教師が困ったような顔をしながら誉めていた。
そうしているうちに彼女の番になった。
そして僕らは驚いた。困惑のざわめきが波紋のように美術室のなかを広がっていった。
彼女が描いてきたのは風景画だった。校舎の屋上から望んだ夕暮れ時の光景。山並みに挟まれた街が描かれ、画面いっぱいに太陽が柔らかなオレンジ色の光を散らしていた。しかしその絵の中に肝心の人の姿は影も形もなかった。
僕の自画像とは違い、明確に課題に沿わない絵。
だけど課題に沿わないからと言って、技量が損なわれるかというとそれはまた違う話だ。彼女の描いた絵は牧歌的で、僕にはそれがモネやゴッホよりも僕の心をざわつかせているのを感じた。どうしてそんなに惹きつけられたのかは今でもわからない。タッチによってか、はたはた色づかいか、あるいは題材か……いずれにせよ、鑑賞する者の感情を動揺させる力が彼女の絵にはあった。
そしてそれは教師も同じだったらしい。
『……とても素敵な絵ね』と美術教師は彼女の絵を見て微笑んだ。『哀愁があって、どこか懐かしい気持ちにさせてくれる……ええ、私はとても好きよ』
しかしその賛美の声は歯切れが悪く僕らの耳に届いていた。六歳児の絵を誉めるときに出すような声。むろん教師は迷っていたのだろう。ネズミを獲ってきた猫を褒めるべきかどうか迷っている飼い主のように、課題から大きく逸脱した〝素敵な絵〟を描いてきた生徒を褒めるべきかどうか。
そして一度まぶたを閉じ、深く眉間に皺を寄せた後、教師はどちらを選ぶか決めたようだった。
『——だけど』と美術教師は言って、彼女の瞳をじっと見つめた。『私があなた達に提示した課題は人物画だったはずよね? けれどあなたの描いたこの絵は風景画。残念だけど、これではあなたに良い評価はあげられないわ』
教師の下した決断を責めることは僕にはできない。彼女が間違っているのは明らかだった。教師から出された課題は人物画で、風景画は人物画ではない。
一定の自由を認めた上で、しかし普遍的なルールに従うことを求められる。それが学校というものだった。
そしてそれは彼女だって理解していたはずだった。いつもの——入学式からそれまでの間に僕らが目にしていた彼女なら、課題に沿った無難な絵を描いてきたはずだった。
けれどその日の彼女は違った。毅然とした態度で教師に立ち向かった。まるで聞き分けのない少女のように。
『先生が出した課題はいちばん大切なひとを描いた絵でしょ?』
『そうね。だからあなたにも人物画を描いてきて欲しかったのよ』
『でもね、先生。だったらわたしには何も描けない』
『描けないって、どうして?』
『だってわたしにとっては、この世界に住むすべてが、何よりも大切なもの。いちばん大切なものなんて決められない——』
——だからわたしはいちばん好きな世界の姿を描いたの。守られるべき世界の姿をね。
ともすれば、彼女の言葉は大言壮語な物言いに聞こえるかもしれない。自分に酔った聖職者がおこなう説教のように演出じみた物言いに。
しかし僕らのなかに彼女の言葉を茶化す者は誰もいなかった。むろん彼女がクラスに馴染めていなかったということもあったのだと思う。もしも彼女がクラスの人気者だったなら、冷やかしのひとつや二つは飛んでいたかもしれない。
あるいは圧倒されていたのかもしれない。僕とおなじように。
僕はそれまであんなにも真っ直ぐで揺らぎのない瞳を見たことがなかった。どうしようもない正しさを訴える瞳。一方で悲しさと危うさを内包した瞳だった。
しばらくの間、美術室の中には緊張した瞳が漂っていたが、やがて教師が描きなおしてくるよう命じ、彼女がおとなしくカンバスを抱えて席へと戻っていったのと同時に霧散していった。
その出来事があった後も、彼女はあいかわらずその存在を日常の中へと綺麗に溶け込ませていた。
だからきっと、それはもうクラスの誰の記憶にも残っていないような小さな出来事。彼らが過ごした青い夏の思い出に邪魔されて、ふとした瞬間に思い出すことすらない砂のような記憶だった。
しかし僕の中では小さくないくびきを打っていた。あるいはこの時が初めてだったのかもしれない。僕が彼女という人間を意識したのは。
彼女は明らかに自分の信念を持っているようだった。たとえ誰に指図されようとも決して揺るがない心を。
そのことを、僕は今でも羨ましいと思っている。