第2話 彼女との出会い
二年前の春のことだ。つまりは、僕が高校生になったばかりの頃。
僕はひとりの女の子と出会った。
暗い海の底に沈んでいるみたいだったそれまでの僕の人生を、温かい太陽の光に包まれた芝生のような世界に変えてくれた女の子に。
けれどそれは別に、例えばシンデレラが魔法の杖を持った老婆に出会った時のように、あるいは浦島太郎がいじめられていた亀を助けたときみたいに、物語の始まりを予感させるような劇的な出会いだったというわけじゃない。
日常にひっそりと、どこにでもあるような出会い。
彼女は僕の新しいクラスメイトのうちの一人だった。
『——風戸アンリです。よろしくお願いします』
入学式の後にクラスで行われた自己紹介で、彼女はやっとみんなに聞こえるくらいの小さな声でそう言った。それは本当に小さな声だったから、隣の席だった僕でさえ、彼女が自己紹介を終えたことに気がつかないくらいだった。
彼女が腰を下ろしたことで、初めて僕らは彼女が自己紹介を終えていたことに気がついて、ぽつりぽつりと、まばらな拍手の音を教室の中に響かせていった。
彼女の言葉は自己紹介と呼ぶにはあまりにもシンプルだった。僕らが知ることができた情報は名前しかない。でも誰も、教師でさえ、そんなことは気にしていないみたいだった。
自己紹介なんて所詮はそんなものだ。みんな自分が何を言うべきか必死で、誰も他人の挨拶の内容なんて本気で聞いてはいない。教師にしたって、結局は顔と名前を確認するぐらいで、中身なんてどうでもいいと思っている。それはただの習慣的な儀式に過ぎなかった。
それから自己紹介が続く間、彼女はクラスメイトたちに注意を向けることなく、じっと前を向いて席に座り続けていた。
窓から入り込んできた春風だけが、彼女が石像ではないことを訴えるように、彼女の持つ淡く染まったショートカットの髪を静かに揺らせていた。
四月が終わっても彼女は変わらなかった。
学校での彼女は、まるで白鳥の群れに紛れたアヒルの子のようにいつもその存在感をなくしていた。
後に知ることになる彼女の性格を考えれば、彼女が意識的にクラスメイトたちと関わることを避けていたことは明白だった。
どうしてそんなことをする必要があったのだろうか。
彼女と話すようになってからしばらくして、僕は尋ねてみたことがある。
『——だって仲良くなると、別れる時に辛くなるじゃない? わたしは明日にでもいなくなっちゃうかもしれないんだしさ』
放課後の屋上で、沈みゆく夕日を背後に告げる彼女に、その時の僕はとっさに何も言えなかった。
でも何か言わないとダメだと思った僕は、花びらが舞い散るような間が過ぎた後に、ただ一言、『そっか』とだけ応えた。それは考えうる限り最悪の言葉だったと僕は後悔している。
けれどそういうわけで、彼女は学校内の誰とも深く関わることなく真面目に大人しく過ごし、学校パンフレットのモデルみたいに制服をきちんと着こなし続けていた。
事務的な会話以外でクラスメイトと話しているところを見かけたことはなかったし、とうぜん僕との間に接点なんてあるはずもなかった。
そうでなくとも、僕は僕で問題を抱えていたから、彼女のことなんて意識の上にのぼることさえなかった。
そうしてただのクラスメイト以下の関係であった僕と彼女との間に何ら物語が始まる兆しも見せずに、春はヒツジのように過ぎていき、季節は夏を迎えた。