第19話 いつか雲が晴れた時に
傘を借りて意気揚々と基地を飛び出してみたはいいものの、特に行きたい場所も、帰りたい家があるわけでもなかった僕はあてのない逃避を続けていた。エリックとの会話にひと段落ついたことを機に早々と基地を離れたのはやっぱり失敗だったかもしれない。
傘に落ちる雨は激しさを増し、結局、今日もまた僕らの心を冷たくさせる。地面から薫る雨の匂いは次第に弱まり、本格的な雨の到来を告げていた。道の傍では植物が落ち込んだ葉を見せていた。
雨、雨、また雨——。
いつまでも降り続ける雨にうんざりし始めていた僕は公園に行くことにした。昨日エリを待っていた公園。あそこでなら、あるいはまた雨が好きになるかもしれない。
しかしそこで僕は意外な姿を見かける。
「……エリ?」
杉屋町エリの姿だった。エリは制服のままベンチに座り、ぼんやりと思索にふける哲学者のように虚空を見つめていた。
「どうしたんだい? こんな雨のなか」
その似合わない姿に傘を閉じることも忘れ、僕はエリにむかって声をかけた。「だれかと待ち合わせにしては真剣な表情だね」
エリはゆっくりと顔をあげて僕のことを見た。その瞳を見て、僕は軽口を叩いたことをすぐに後悔した。なんだか様子がおかしい。いつもの快活さがすっかり鳴りを潜めていた。
「別に……」
とエリは小さく呟き、小さな言葉をこぼした。
「雨の音を聴いてたの」
「雨の音?」
僕は困惑して問い返した。しかしエリは僕の言葉に答えることなく、
「それよりセンパイは? どうしてここに来たの?」
「偶々だよ。基地からの帰り道に通り掛かっただけさ」
「ふーん、じゃあ運命に導かれてきたんだ」
僕は思わず微笑んだ。
「さっきからずいぶん詩的な言い方だね。偶々だよ、偶々」
「センパイ知らないの? 偶々ってことは、もうそれは運命ってことなんだよ」
呆れるくらいの真っ直ぐな言葉は、しかし杉屋町エリの口から出るにしては歪で不条理な言葉だった。
「……いったいどうしたっていうんだ、エリ。きみらしくないよ」
「……」
常ならざるエリの様子に僕が戸惑っていると、エリは雨が地面に描く波紋に視線をうつしながら言った。
「——センパイはさ、いま何のために戦ってるの?」
いやにはっきりと耳に届く声だった。
「どうだろう……」と僕は答えた。「生き残るのに必死で、考えたこともないよ」
「嘘」
「嘘じゃないさ」
「嘘だよ。だってそれは……風戸アンリさんと一緒だった時のことでしょ。いまのセンパイはもう、守られるだけの存在じゃない」
「……エリ」
どうしてか、僕の周りにいる人たちは、僕のことを過剰に評価するきらいがある。きっと引っ張られているんだ。風戸アンリという存在に。あの強さに満ちた少女の姿に。彼女と一緒にいたという事実だけが僕の評価を高めている気がした。
「……確かに僕は強くなったかもしれない」と僕は言った。よりいっそう強く傘を叩きはじめていた雨に負けないような声を意識して。「でも、それはあくまでも肉体的なことなんだ。レベルを無理やり上げられた勇者みたいなモノで、精神的には何も成長していない。本当に、何も」
むしろ弱くなったとさえ思う。今にして思えば、あの頃の僕は純粋な子どもだった。与えられたお使いに満足できず泣き出す我儘な子ども。そうだ。確かに来栖くんの言う通り、風戸アンリと一緒にいた頃の僕は我儘な子どもだった。我儘で、傲慢な、恥知らずの子どもだったのだ。
そして恥知らずだったからこそ、僕は何も考えず必死で彼女についていくことができた。無鉄砲さが時に英雄を育てる。あるいはそんな言葉がピッタリなのかもしれない。おもちゃのボートに乗せられた子どもが、実は紐で引っ張られていることも知らずに、おもちゃのオールを漕いで自分の力で進んだ気になっているのに似ていると僕は思った。
「……だから結局、僕は何も変わらないんだ。だれかを守れるくらいの強さを手に入れても、自分で自分の行く道を決められないくらいの弱さを持ってるどうしようもない人間なんだよ」
「……そっか」とエリは呟いた。「センパイはアンリさんのことが本当に好きだったんだね……」
それからエリは僕の言葉を待たずに僕に向かって言った。
「——ねえ、センパイ。あたしさ、センパイのこと好きだよ」
僕は薄く微笑んだ。
「……僕も好きだよ、きみのこと。もちろん、後輩としてね」
しかし杉屋町エリは首を振る。ゆっくりと、世界が終わってしまったことを告げるサンタクロースのように。
「ううん、そうじゃなくて……異性として、好き」
「……わからないな。いったい僕のどこに惹かれる要素があるって言うんだい? 自分のことにいつまでもうじうじと思い悩むようなつまらない男だよ、僕は」
彼女は優しく微笑んだ。
「ひと目惚れって言ったらどうする?」
「……眼鏡をかけることをお勧めするよ。あるいはよく目を洗うんだね」
「あはは、だったらセンパイ、買いに行くの付き合ってよ」
冗談めかした言葉で、しかし寂しげに笑うエリ。僕は黙ってエリの目を見つめていた。
さめざめとした雨粒の音がまるでだれかの泣き声のように響いている傘の下で、僕は蒸し暑さから汗が背中を流れていくのを感じた。不愉快な汗だった。
「……初めて会ったときのセンパイの目が忘れられないんだよ」
やがて杉屋町エリはぽつりと呟いた。
「まるで、夏の夕暮れみたいな目だった」
どこかで聞いたようなセリフを。
「……前にもそんなふうなことを言われたことがあるよ。その時も僕には意味がわからなかったけどね」
「そうなの?」とエリは口元を緩め、「じゃあその人はきっと泣きたい気分だったんだね」
「泣きたい気分? どうして?」
「だって夕暮れには哀しさしかないから。何かを哀しいものに喩えるってことは、その人の気持ちも、そうだっていうことでしょ?」
僕にはわからなかった。それに僕には夕暮れこそが希望に満ちた空だと思った。少なくとも、こんな雨空よりはずっと。
だけど杉屋町エリは否定する。あるいは風戸アンリもそうだと言って。
「よくわからないけど……それじゃあ、きみにとって希望の色を示す瞳は、いったいどんな空なんだい?」
エリはにっこりと笑って答えた。
「——雨あがりの空のような瞳。それがあたしにとって、これからの希望に溢れた空だよ、センパイ」
「……雨あがりの空のような瞳」
僕は呟いて、十月の空から落ちる雫を手で受け止めてみた。涙よりも冷たい感情が、涙よりもたくさんの感情を乗せて空からこぼれ落ちていた。
しかしそんな秋の空の下で、杉屋町エリが言った。
「……いまはまだ無理かもしれない。でもねセンパイ。いつか必ずあたしが、世界は希望に満ちたモノだってこと、センパイに思い出させてあげるよ」
ひどい冗談だと僕は思った。世界が希望に満ちているのなら、いったいどうして彼女は死ななければいけなかったのだろうか。なんで彼女ひとりだけが……。
「——だからさ、デートしようよ」
僕の思考を遮るように杉屋町エリが続けた。
「今度の土曜日にさ、あたしとデートしようよ」
「……嫌だ。僕は忙しいんだ。きみの酔狂に付き合っているほど暇じゃない」
「むぅ、ひどいなぁ。じゃあ訓練に付き合って。それならいいでしょ?」
「……まぁ、それくらいなら」
「よし! じゃあ決まりね! 明後日の土曜日はあたしと過ごす! ちゃんとメモしておいてよ?」
「……まったく。僕の知り合いは強引な人が多すぎるよ」
僕はため息を吐いて、傘越しの目に映る曇天の空を見た。クリームシチューに散りばめられたパセリのように雨が雲を彩る空。もうすぐ日暮れだっていうのに、星ひとつ見えない空はひどく物憂げな僕の心を反映しているかのようで、やっぱり僕には雨が好きになれそうになかった。
「じゃあね、センパイ!」さっきまでとは対照的な様子でベンチから立ち上がり、明るく微笑んだエリは僕を指差して、「——約束、忘れないでよ!」
走っていくエリの姿をぼんやりと眺めながら、ふいに満天の星空が見たいと思った。こぼれ落ちるような星空の下で、緩やかな時間を感じながら、穏やかな夜を過ごしたいと僕は願った。
しかし星はどんなふうに見えていただろうか。
もうずいぶん長い間見ていないから、どうやら忘れてしまったらしい。
僕にはもう思い出すことができなかった。