第16話 きみのいない教室
翌日の空はそれまでの雨が嘘のように晴れやかだった。
予報では今日はこのまま快晴で行くらしい。明日からはまた雨が降り出すそうだったけれど、少なくとも今日いちにちは天気が続くことを僕は嬉しく思った。
道のあちこちには水たまりが出来ていて、長靴を履いた小さな子どもが嬉しそうに飛び込んでいる。ぱしゃぱしゃと水が服に跳ねるたびに母親らしき女性が不安げな、けれど微笑ましそうな表情で子どもを見つめていた。僕はそんな失われた朝の光景の隙間を縫うようにして学校まで歩いた。
学校に来るのは三日ぶりだった。教室に入ると、三年間変わらないクラスの顔ぶれが僕を迎える。迎えると言っても、彼らはちらりと僕を見るだけで、すぐに興味を失った猫のような顔でまた元の日常へと戻っていく。ある者は友達同士たわいない朝の会話を交わし合い、またある者は参考書を開き受験前の秋を忙しなく過ごしていた。
窓際いちばん後ろの席が僕の席だった。席につくと、窓から冷えた秋の空気が入り込んできた。心地の良い風にカーテンが揺れている。穏やかな時間の流れを感じて僕は優しい気持ちになった。
「――ねえ」と、しかしそんな偽りの時間を遮るように、「悪いんだけどさ、窓閉めてくれないかな? 寒いんだよね」
隣の席の、名前も忘れてしまった女子にそう言われた僕は黙って窓を閉めた。それから僕が役目を果たすかどうか見張り続けていた女子にむかって僕は言った。
「……閉めたよ」
「ありがと」
それっきり彼女は彼女の日常へと戻っていった。
ため息を吐きたくなるような気分。昨夜から切り替えられた朝の気分が台無しになったように感じた僕は窓を通して空を見た。快晴の予報だった空は、しかし灰色に染められた小さな雲がところどころに散りばめられていた。雨の予感に満ちた空。
ふいに彼女との思い出が脳裡によみがえってくる。
『――ユキトくんはさ、どの季節がいちばん好き?』
『……冬、かな。冷たい風が頬にあたる感触が結構好きだからね』
『だと思った。キミはいつも冷静で、冬のような性格してるし』
『……そういうきみは?』
『わたしは断然秋! ほら、空とかにさァ開放感があると思わない?』
『開放感』と僕は呟いて、分厚い雲が垂れ込める冬の空を見た。『まあ、そうかもしれないね』
しかし今僕が過ごすのは密閉された秋の空間だった。瓶詰めされた雲のような教室で僕は卒業までの日々を過ごしている。
本鈴のチャイムが鳴るのに合わせて担任の教師が入ってきた。クラスメイトたちが席につく。散らばっていたおもちゃがひとりでに片付くようなその光景を僕は可笑しく思った。
それから教師の言葉が続く教室のなかを僕はさりげなく見渡してみた。あくびを噛み殺しているクラスメイト、膝上に隠したスマホの操作に余念のないクラスメイト。変わらない顔ぶれのなかで、欠けてしまった彼女の姿を幻視した。
目が合った時に使う秘密のサイン。答えがわからなくても澄まし顔でいる姿。しかし僅かに染まる首元の紅を僕はもう二度と見ることはできない。
――わたしのために泣いたりしないで。
あるいは彼女にそう言われていなければ、僕の目からはとめどない光が溢れていたかもしれない。そしてクラスじゅうから奇異の瞳に晒され、それでも止まらない感情に僕は教室を飛び出すのだ。ああ、哀れな僕。けれど涙を封じられた僕にとって理想的な僕。
でも一体、泣くという行為だけが感情を表現する方法であろうか。泣くという行為だけが現実に干渉し、他者の死を労わる唯一の情動なのだろうか。もちろん、そんなはずはなかった。
憎しみもまた、僕ら人類がどうしようもない運命に翻弄された際に抱く情動のひとつだった。
そして実際のところ、僕はじぶんが怒りに襲われていることを自覚していた。ふつふつと沸き立つような静かな怒り。
僕の目に映るのは、変わらない日常を過ごしているクラスメイト。彼女がいなくなったことにまるで気がついてないように振る舞っている教室のなかの世界。
結局のところ、彼らにとって彼女はその程度の存在だったのだ。いてもいなくても変わらない存在。空気のような存在。
だけど本当に空気のような存在だったのなら、彼らは今彼女の重要性を実感しているはずだった。無くなると息ができなくなる空気のように。しかし彼女のありがたさを感じている者はこのクラスにはいなかった。あるいは空気よりもずっと僕ら人類にとって大切な存在だったはずなのに。
筋違いなのは理解していた。彼らには何の責任もない。彼女自身の意志で、彼女はクラスメイトたちとほとんど交流することはなかったのだから。よく知りもしない人間のために流される涙の数は、乾いた大地に降る雨よりも少ない。ましてや彼女はただ転校したとだけ知らされていたのだから。
僕だって彼女の秘密を知らなければ、きっと何でもない日々を送り続けていたはずである。彼女がもうこの世界にはいないなんて考えもしなかったと思う。それどころか、なにも知らない毎日を、なにもかも知っているような気持ちで過ごし、世界が退屈なものだという確信を気取った無知を盲目的に信奉していたに違いない。
そしてソクラテスが死に、ひとつの機械に支配されたこの世界ではだれも無知を恥じたりはしない。指先ひとつで全てを知れるという幻想に取り憑かれた者たちは、目の前に流れる日常に何ら疑問を感じないのだ。
……ああ、気持ちが悪い。僕はひどい吐き気を覚えた。あるいは今朝食べた卵があたったのかもしれない。朝食を用意してくれた林への言い訳を胸に、僕は机に突っ伏して目を閉じた。
授業が始まってもだれも声をかける者はいない。既に僕は空気よりも軽い存在だった。
昼休みになると同時に僕は教室を飛び出した。沈み続ける気分を変えるために。新鮮な空気を求めて。
もちろん、向かう先は決まっていた。