第15話 桜宮家の御曹司
基地へと戻る来栖くんたちと別れたあと、僕はひとり雨の中を歩いていた。
深夜に差し掛かろうとする街は静かで人気がない。いつもは多少の賑やかさを見せるものだったけれど、今日は雨のせいか、僕以外に歩いている人はだれもいなかった。真っ暗な闇のなかで、街灯の光を反射する雨だけが星のように輝いている。
しかし星とは違い、雨は冷たい感触を僕に与えてくる。熱った心を冷ますようなその冷たさに、僕は現実に引き戻された気分だった。
さっきまでの喧騒が懐かしい。最後は少しだけ盛り下がったけれど、それでも楽しいひと時だった。
来栖くんやエリック、それからエリと過ごす時間は今の僕にとってかけがえのない時間だった。
気の置けない仲間たちに囲まれた日常は——それがたとえ戦いの狭間の出来事だったとしても——とても温かい光に包まれた世界で、ずっと居たいと思わせてくれる。
それは二年前の、全てを諦めていた僕では考えられない光景で。
その全てが、彼女の残してくれた宝物だ。
……でも、だからこそ辛い。
ひとりになってしまうと、彼女がいない事実を嫌でも意識してしまうから。
雨はたくさんの感情を洗い流してくれるはずなのに、肝心の心はいつだって流してはくれない。まるで潮風のように、悲しみだけを残していく。
いっそ本当に錆び付かせてくれればと思う。柔らかな微笑みの裏で鉄を錆び付かせている潮風のように、悲しみが僕の心も鈍らせてくれれば、僕はこんなにも苦しまなくて済むはずだった。
何も感じず、何物にも心を動かされない世界はひどく単調で、けれど驚くほど楽そうに思えた。
しかし雨は悲しみを増やすばかりで、決して僕の心を錆び付かせてはくれない。いたずらに募らせるばかりだった。
でも結局、雨が降っていなかったとしてもそれは変わらないのだと僕は思う。雨はただその水位を上げるだけで、初めから僕の心には消し難い悲しみがあるのだから。
むしろ問題は夜という時間の方だ。いつも夜になると、僕の気分は最悪になる。
夜が嫌いだというわけじゃない。子どもの頃はどんな時間よりも好きだった。夜が明けた先にあるまだ見ぬ明日を期待して。
でも今は——。
あるいは非行に走る子どもとはこんな気持ちなのかもしれない。
いや、事実そうなのだろう。彼らと違って反抗する勇気も意志も持たないだけで、結局は僕も家に帰りたくないだけなのだから。
そして今日も僕はたどり着く。〝桜宮〟の名が掲げられた門のまえに。
「……ただいま」
「お帰りなさいませ、幸人さま」
恭しく頭を下げて僕を迎え入れてくれたのは初老の男性だった。堅苦しい燕尾服に身を包み、一挙手一投足が優雅で気品のあるその仕草はどこか異世界じみている。しかしこの家にあっては、当然にあるべきものであるかのように馴染んでいた。
彼の名前は林宗孝。僕が小さな頃からこの家の執事長を勤めている人だった。
彼は僕にタオルを差し出しながら訊ねてくる。
「ご夕食はいかがいたしましょう?」
「いいよ。食べてきたから」
「かしこまりました。ではご入浴の用意が済んでおりますので、そちらに」
「うん、ありがとう」
浴室まで連れ立って歩き、それから去っていこうとする林を僕は呼び止めて、
「それで……あの人は?」
「旦那さまでしたら書斎にてお休みになっておられます」
「そう」
「なにか言付けがありましたらお伝えしておきますが」
少しだけ考えて僕は首を振った。
「いや、いいよ。後で僕が自分で行くからさ」
「かしこまりました。それでは、私は失礼させていただきます」
「うん、おやすみ」
そして入浴を終えたあと、僕はこの家の主人がいる部屋の扉を叩いた。
「幸人です」
「――入りなさい」
もう草木も眠る時間が近いにもかかわらず、すぐに返事がやってくる。
扉を開けるとむせ返るような煙管の匂いが鼻をついた。顔をしかめないように努力する僕をよそに、その人はゆったりと窓辺に置かれた安楽椅子に身を預けて煙をふかせていた。
「……ただいま帰りました」
「ああ」
僕をちらりと見るその眼鏡の奥に見える細まった瞳は鋭く鷹のようだ。まるで世界の全てを拒絶しているかのような瞳。この人の瞳には世界は一体どんなふうに映っているのだろう。会うたびに、そんなことをいつも考える。
彼は窓の外へと目を向けると、つまらなさそうに言った。
「それで、こんな時間に一体何のようだ」
「……いえ、ご挨拶に伺っただけです」
「ふむ。ずいぶん殊勝な心がけだな」
冷笑に近い仕草で口元を僅かに動かす彼を見て、僕はやはり来るべきではなかったと後悔した。しかし来なければ来ないで嫌味を言われるのだから、たまったものじゃない。が、こうして義務を果たした以上、この場にとどまっている必要はない。僕は黙って頭を下げて扉へと手を掛けた。
「——待て、幸人」と、しかし彼は僕を呼び止めて、「――お前はいつまで遊んでいるつもりだ?」
「……遊んでいる、とは? 僕は貴方の望みどおりにやっているつもりですが」
「ほう、私の望み通りだと? 笑わせるな。お前は私の目を誤魔化せると思っているのか?」
鋭い眼光で僕を射抜く。それから彼は徐に立ち上がり、正面から僕と対峙して言った。
「いいか幸人。お前は私の跡を継ぎ〝桜宮〟を導く使命がある。くだらない者たちと、くだらない飯事をやっている時間はお前にはない。わかっているな?」
「……はい」
握りしめる拳が痛い。血が出そうだった。でもそうしていなければ、僕は彼を殴ってしまう。あるいは今の僕なら彼の鼻っ面を叩くのは簡単なことだ。だけどそれはただの暴力で、暴力は何の解決にもなりはしない。
見えない言葉で傷つけられた心よりも、目に見える形で傷つけられた身体に人々は同情する。反抗すれば、それは彼が僕に罰を与える大義名分になるのだ。
「どうした、何か言いたそうな顔だな?」
「……いえ、何も」
しばらくの間、凪いだ海のように心を殺し耐えていると、やがてつまらなそうに彼は鼻を鳴らした。
「ふん、まあいい。だが覚えておけ。またなにか問題を起こしてみろ、今度は一週間の外出禁止だけでは済まないからな」
「……はい、わかっています」
「ならいい。私はもう寝る。出ていきなさい」
「……はい」と言って頭を下げた僕は扉に手を掛け、それから去り際にそっと呟いた。「……おやすみなさい、父さん」
廊下に出た僕は深く息を吸い込んだ。肺にまで浸透した煙管の匂いを浄化してくれることを期待したけれど、変わらない澱んだ空気に咳き込みそうになる。悲しみ以外の全てを流してくれる雨も、どうやら家の中にまでは届かないらしい。
薄暗く湿った廊下を歩きながら、僕は情けないほどに強く唇を噛み締めた。いつまでも変われない僕の強さ、破綻してしまった僕らの関係に対するどうしようもなさに、血が涙のように流れていく。
あるいは母が生きていれば違ったのかもしれない。僕が六歳になった夜に亡くなった母。思い出の中の母はいつだって桜のような笑みを僕らに向けていた。そんな母のそばで無邪気に笑う僕。しかつめらしく頬を緩めている父。
あるいはまた迷宮を脱出したイカロスのように、この鳥籠のような世界から飛び出せる翼さえ手に入れられれば、僕はどこまでも自由に生きられるのではないかと期待した。
しかしそれらは栓なきことだ。仮定の世界で生きられるのなら、僕はもうとっくの昔に旅立っている。
どんなに願ったところで、母はもういないし、手にしかけたその翼はもう焼かれてしまったのだ。あたかも父の言いつけを叛いたイカロスのように、僕の甘さと慢心が招いた結果によって。
そして翼をもがれた鳥はもう二度と空を飛ぶことは叶わない。
それが世界の真理だった。