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『きみのいない世界で、僕は生きていく。』  作者: Pocket12
第一章 きみのいない世界
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第15話 桜宮家の御曹司

 基地へと戻る来栖くるすくんたちと別れたあと、僕はひとり雨の中を歩いていた。


 深夜に差し掛かろうとする街は静かで人気ひとけがない。いつもは多少のにぎやかさを見せるものだったけれど、今日は雨のせいか、僕以外に歩いている人はだれもいなかった。真っ暗なやみのなかで、街灯がいとうの光を反射する雨だけが星のように輝いている。


 しかし星とは違い、雨はつめたい感触を僕に与えてくる。ほてった心をますようなそのつめたさに、僕は現実に引き戻された気分だった。


 さっきまでの喧騒けんそうが懐かしい。最後は少しだけ盛り下がったけれど、それでも楽しいひとときだった。


 来栖くんやエリック、それからエリと過ごす時間は今の僕にとってかけがえのない時間だった。


 気の置けない仲間たちにかこまれた日常は——それがたとえ戦いの狭間はざまの出来事だったとしても——とてもあたたかいひかりつつまれた世界で、ずっとたいと思わせてくれる。


 それは二年前の、全てを諦めていた僕では考えられない光景で。


 その全てが、彼女の残してくれた宝物たからものだ。


 ……でも、だからこそつらい。


 ひとりになってしまうと、彼女がいない事実を嫌でも意識してしまうから。


 雨はたくさんの感情を洗い流してくれるはずなのに、肝心かんじんの心はいつだって流してはくれない。まるで潮風しおかぜのように、悲しみだけを残していく。


 いっそ本当にび付かせてくれればと思う。やわらかな微笑ほほえみの裏で鉄を錆び付かせている潮風のように、悲しみが僕の心もにぶらせてくれれば、僕はこんなにもくるしまなくて済むはずだった。


 何も感じず、何物なにものにも心を動かされない世界はひどく単調たんちょうで、けれど驚くほどらくそうに思えた。


 しかし雨は悲しみを増やすばかりで、決して僕の心を錆び付かせてはくれない。いたずらにつのらせるばかりだった。


 でも結局、雨が降っていなかったとしてもそれは変わらないのだと僕は思う。雨はただその水位すいいを上げるだけで、初めから僕の心にはがたい悲しみがあるのだから。


 むしろ問題は夜という時間の方だ。いつも夜になると、僕の気分は最悪になる。


 夜が嫌いだというわけじゃない。子どもの頃はどんな時間よりも好きだった。夜がけた先にあるまだ見ぬ明日あしたを期待して。


 でも今は——。


 あるいは非行ひこうに走る子どもとはこんな気持ちなのかもしれない。


 いや、事実そうなのだろう。彼らと違って反抗する勇気も意志も持たないだけで、結局は僕も家に帰りたくないだけなのだから。


 そして今日も僕はたどり着く。〝桜宮さくらみや〟の名がかかげられた門のまえに。


「……ただいま」

「お帰りなさいませ、幸人ゆきとさま」


 うやうやしく頭を下げて僕をむかれてくれたのは初老しょろうの男性だった。堅苦かたくるしい燕尾服えんびふくを包み、一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく優雅ゆうが気品きひんのあるその仕草しぐさはどこか異世界じみている。しかしこの家にあっては、当然にあるべきものであるかのように馴染なじんでいた。


 彼の名前は林宗孝はやし むねたか。僕が小さな頃からこの家の執事長しつじちょうつとめている人だった。


 彼は僕にタオルを差し出しながらたずねてくる。


「ご夕食はいかがいたしましょう?」

「いいよ。食べてきたから」

「かしこまりました。ではご入浴の用意が済んでおりますので、そちらに」

「うん、ありがとう」


 浴室まで連れ立って歩き、それから去っていこうとする林を僕は呼び止めて、


「それで……あの人は?」

旦那だんなさまでしたら書斎しょさいにてお休みになっておられます」

「そう」

「なにか言付ことづけがありましたらお伝えしておきますが」


 少しだけ考えて僕は首を振った。


「いや、いいよ。後で僕が自分で行くからさ」

「かしこまりました。それでは、わたくしは失礼させていただきます」

「うん、おやすみ」


 そして入浴を終えたあと、僕はこの家の主人がいる部屋のとびらを叩いた。


「幸人です」

「――入りなさい」


 もう草木くさきも眠る時間が近いにもかかわらず、すぐに返事がやってくる。


 扉をけるとむせ返るような煙管キセルにおいが鼻をついた。顔をしかめないように努力する僕をよそに、その人はゆったりと窓辺まどべに置かれた安楽椅子に身を預けてけむりをふかせていた。


「……ただいま帰りました」

「ああ」


 僕をちらりと見るその眼鏡めがねの奥に見える細まったひとみするどタカのようだ。まるで世界の全てを拒絶きょぜつしているかのような瞳。この人の瞳には世界は一体どんなふうにうつっているのだろう。会うたびに、そんなことをいつも考える。


 彼は窓の外へと目を向けると、つまらなさそうに言った。


「それで、こんな時間に一体何のようだ」

「……いえ、ご挨拶にうかがっただけです」

「ふむ。ずいぶん殊勝しゅしょうな心がけだな」


 冷笑れいしょうに近い仕草で口元くちもとわずかに動かす彼を見て、僕はやはり来るべきではなかったと後悔した。しかし来なければ来ないで嫌味を言われるのだから、たまったものじゃない。が、こうして義務を果たした以上、この場にとどまっている必要はない。僕は黙って頭を下げて扉へと手を掛けた。


「——待て、幸人」と、しかし彼は僕を呼び止めて、「――お前はいつまで遊んでいるつもりだ?」

「……遊んでいる、とは? 僕は貴方あなたの望みどおりにやっているつもりですが」

「ほう、わたしの望み通りだと? 笑わせるな。お前は私の目を誤魔化せると思っているのか?」


 鋭い眼光がんこうで僕を射抜いぬく。それから彼はおもむろに立ち上がり、正面しょうめんから僕と対峙たいじして言った。


「いいか幸人。お前は私のあとを継ぎ〝桜宮〟を導く使命がある。くだらないものたちと、くだらない飯事ままごとをやっている時間はお前にはない。わかっているな?」

「……はい」


 にぎりしめるこぶしが痛い。血が出そうだった。でもそうしていなければ、僕は彼をなぐってしまう。あるいは今の僕なら彼のはなつらを叩くのは簡単なことだ。だけどそれはただの暴力で、暴力は何の解決にもなりはしない。


 見えない言葉で傷つけられた心よりも、目に見える形で傷つけられた身体からだに人々は同情する。反抗すれば、それは彼が僕にばつを与える大義名分たいぎめいぶんになるのだ。


「どうした、何か言いたそうな顔だな?」

「……いえ、何も」


 しばらくの間、いだ海のように心をころえていると、やがてつまらなそうに彼は鼻を鳴らした。


「ふん、まあいい。だが覚えておけ。また(・・)なにか問題を起こしてみろ、今度は一週間の外出禁止だけでは済まないからな」

「……はい、わかっています」

「ならいい。私はもう寝る。出ていきなさい」

「……はい」と言って頭を下げた僕は扉に手を掛け、それからぎわにそっと呟いた。「……おやすみなさい、とうさん」


 廊下に出た僕は深く息を吸い込んだ。肺にまで浸透しんとうした煙管キセルの匂いを浄化じょうかしてくれることを期待したけれど、変わらないよどんだ空気にみそうになる。悲しみ以外の全てを流してくれる雨も、どうやら家の中にまでは届かないらしい。


 薄暗く湿しめった廊下を歩きながら、僕はなさけないほどに強くくちびるめた。いつまでも変われない僕の強さ、破綻はたんしてしまった僕らの関係に対するどうしようもなさに、なみだのように流れていく。


 あるいは母が生きていれば違ったのかもしれない。僕が六歳になった夜にくなった母。思い出の中の母はいつだってさくらのようなみを僕らに向けていた。そんな母のそばで無邪気むじゃきに笑う僕。しかつめらしくほおゆるめている父。


 あるいはまた迷宮ラビリントスを脱出したイカロスのように、この鳥籠とりかごのような世界から飛び出せるつばささえ手に入れられれば、僕はどこまでも自由に生きられるのではないかと期待した。


 しかしそれらはせんなきことだ。仮定の世界で生きられるのなら、僕はもうとっくの昔に旅立っている。


 どんなに願ったところで、母はもういないし、手にしかけたその翼はもう焼かれてしまったのだ。あたかもダイダロスの言いつけをそむいたイカロスのように、僕の甘さと慢心まんしんまねいた結果によって。


 そして翼をもがれた鳥はもう二度と空を飛ぶことは叶わない。


 それが世界の真理だった。


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