第13話 祝勝会
「——はっはっはっ、にしても傑作だったぜ。エリのあの乱れっぷりはな」
〝G〟を撃破した夜、僕らは基地近くのファミレスでささやかな祝勝会を行っていた。
参加者は僕と来栖くん、それからエリックとエリ。リアルボディを秘匿するエリックはいつものようにモニターだけの参加だった。
『いやはや、まさかあのタイミングでエリの暗示が解けるとはね。驚いたよ』
「な。おかげでいいもん見せて貰ったぜ、くっくっく」
「——し、仕方ないじゃん! 生理的嫌悪感がやばかったんだし! むしろあの状態で魔法を放てたことを褒めて欲しいくらいなんだからッ!」
煽り会話に花を咲かせていた二人に向かってテーブルを叩きながら抗議するエリ。
あれからすぐに基地内の医務室へと運び込まれたエリは、キャリバンの誇る優秀なドクターによる診察を受けた結果、急激なストレスに晒されたことによる失神と診断された。
どうやら詠唱中に催眠の効果が切れていたみたいで、つまるところ、〝G〟という巨大なゴキブリを見た光景が脳内にフラッシュバックした衝撃により気絶してしまったらしい。
目を覚ましたエリはしばらく錯乱していたけれど、身体には何の異常もなくこうして祝勝会へと参加できていた。僕はほっと安堵した。
しかし医務室で乱れ暴れる姿をおなじく目撃していた来栖くんはエリを盛大にいじり続けた。
もちろん彼だって戦場で意識を失うことの危険性をわかっているから、きっとエリに責任を感じさせないための配慮だったのだろうけれど、それでもエリにとっては耐え難い屈辱だったようだ。
ひたすらに揶揄われたエリは夕陽よりも真っ赤な顔をして来栖くんに宣言していた。
「覚えておいてよね……! この先凛太郎の嫌いな犬型の〝残滓〟が出たときには絶対笑ってやるんだから!」
「はっはっは、残念だったな、エリ。俺は別に失神するほど犬が苦手なわけじゃねえよ。せいぜい肌が粟立つくらいだな、かっかっか」
「……ぐぬぬぬ」
来栖くんにやり込められ、チワワのような唸りをあげているエリ。しかし僕としては、朦朧としていたであろう意識に耐えながら魔法を撃ってくれたパートナーをこれ以上放っておくのは忍びない。
僕はこの場を収めるために咳払いをひとつしてから、
「まあでも無事でよかったよ。ひとつボタンを掛け違えていれば僕らはやられていたかもしれないわけだからね。それにしてもエリック。暗示っていうのはさ、あんなすぐに効果が切れるものだった?」
自分が受けた時のことを思い出して僕は首をひねった。あの時は確か半日ほどは持続していたと記憶している。何か副作用的なことがあって持続時間を薄めたのだろうか?
『いいや、そんなはずはないんだけどね……考えられるとしたら、思っていたよりもエリがずっとゴキブリが苦手だったってことくらいかなぁ?』
「ふむ」
僕はエリのことを見る。不貞腐れてやけ食いを始めていたエリの口にどんどん食べ物が吸い込まれていく様子に、僕は星を呑むブラックホールを連想した。どうやら僕らの話は聞いていないようだ。
僕はエリックの映るタブレットモニターに視線を戻して言った。
「なるほど。まあでも一応効果を見直すよう本部に進言した方がいいね。そういう例があったっていう報告にもなるし」
『だね。たったの一時間で効果が切れるっていうのはやっぱり大変だよ。相手が昆虫型だったからよかったけど、動物型だったら大惨事だ』
僕らの言葉に来栖くんも同意する。
「確かにな。もし俺や幸人がそれを必要になって受けても、〝残滓〟と交戦中に切れたりでもしたら笑いごとじゃねえもんな」
しかし言葉とは裏腹に、笑いを抑え切れない来栖くんはフライドポテトを一本取り、マヨネーズを付けてから口へと運んでいた。それからニヤけ続ける顔を誤魔化すように、
「そういや、アンリの奴もゴキブリが苦手だったなぁ」
遠い昔を懐かしむように来栖くんは言った。エリックもおなじようにモニターに映る目を細めながら、
『彼女の場合、ゴキブリが嫌いっていうより虫全般が嫌いだったけどね』
「はは、そうだったなぁ。あいつは昔っからその手の奴が大っ嫌いだったよ」
「——え、お、じゃなくて風戸アンリさんって虫が嫌いだったの?」
と、口に押し込む食事の手を止めてエリも不思議そうに訊いてきた。やはり彼女のことはエリも気になるのだろう。魔法使いであるエリにとって、風戸アンリという存在はそれこそ雲の上の存在だ。僕らが偉人に惹かれるのとおなじように興味があるのは当然だった。
来栖くんはそんなエリに先ほどとは違った種類の声で笑いかけた。
「ああ、虫だけじゃなくて結構色んなもんが苦手でさ。機嫌を直すのに苦労したもんだよ」
「そうなんだぁ。あたし、ずっと完璧な人だって思ってた。嫌いなものなんて何もなくて、いつも人の心を思い遣る太陽みたいな人だって」
「まあエリからしたらそう思うのは無理ねえけどな。けどホント、素のアイツは割りかし子どもっぽいとこがあったよ。頑固で負けず嫌いで、ははっ思い出したら笑けてくるな。なあ幸人?」
「……」
「おい幸人?」
「……え、あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「大丈夫、センパイ?」
来栖くんからのパスに反応できなかった僕を心配そうに見るエリに、僕は笑って応える。その様子を来栖くんは意味ありげな瞳で見ていたけれど、僕は気づかないふりをして話題に乗っかった。
「うん、確かに彼女の虫嫌いは本当にひどかったよ。いつだったか、教室にハチが入ってきた時があったんだけどさ、彼女は真っ先に逃げ出してたよ」
「ああ、覚えてるぜ、それ」
「あれ? 来栖くんも知ってるんだ?」
意外に思う。実のところ来栖くんもおなじ学校に通ってはいるんだけれど、今も昔もクラスが違うからクラス内での話題を共有することは基本的にない。
だから僕がこの話を来栖くんにするのが初めてである以上、彼が知っている理由はひとつだけ。
「彼女から聞いたの?」
「いやまあ、〝聞いた〟というより〝見た〟だな。俺、その時ちょうど屋上にいたんだけどさ、アンリのやつ、凄え顔して飛び込んできたんだよ。で、すぐに俺がいるのに気がついてさ、『ちょっと凛太郎! 教室にハチが! なんとかして!』とか言ってよ。まったく、コレが世界一の魔法使いの姿かよって呆れたぜ」
「ははっ、彼女らしいや」
初めて知る事実に僕は淡い春風のような気分で笑みを浮かべる。しかしそれからなんとなくこれ以上彼女の話を続けたくなくて、
「そういえばなんだけどさ、来栖くん」と、話題を変えることにした。「……通信の時にコードネームで呼びあったり、オーバーとかアウトとか言うのやめない? あれ、結構恥ずかしんだけど……」
「なに言ってんだ、幸人」と、来栖くんはコップの中身を飲み干しながら言った。「無線通信の世界じゃああいうのが常識じゃないか」
「いやまあそうなんだけど……そもそも僕らの端末は携帯と一緒で同時に会話が可能なんだからさ、言う必要ないと思うんだけど」
実際、キャリバンのなかでもやっているのは僕と来栖くんの間だけだった。教育係だった来栖くんの言葉を鵜呑みにしてエリックとの初めての通信時に使って恥をかいたのは苦虫を噛むような思い出だ。
ここは是非とも廃止したいところだったけれど、しかし来栖くんは受け入れる気はないようで、
「細けえことはいいんだよ、ああいうのは雰囲気が大事なんだ。いい加減お前もロマンが解る男になれよ幸人」
「……ロマン、ね」
と僕は呟いて、もしも僕がロマンを解する人間だったとしたら、一体どんな人生になっていたのだろうかと考えながらメロンソーダを流し飲む。しかし炭酸の抜けた甘ったるい喉越しに、僕は砂糖水に溺れそうになっているアリの気持ちを想像するハメになった。いつの間にかずいぶん話し込んでいたみたいだ。
だけどそれもまだまだ終わりそうにない。
来栖くんは新たなドリンクを取りに行こうとしているし、エリは店員を捕まえて追加の注文を頼んでいる。エリックはエリックでこっそり録画していたらしい医務室でのエリの様子をモニターに映し出していた。みんな居座る気満々の様子だった。
「え?」と、しかし僕はその異変に声を漏らす。
「——ちょっと待って! 何してるのよッエリック!?」
おなじように気がついたらしきエリが悲鳴のように叫んだ。
いや、本当に何をしてるんだか……。そんなことをしたらエリがどういう行動に出るかなんて火を見るよりも明らかじゃないかエリック。
ほら見ろ。エリのやつ、モニターを思いっきり床に叩きつけようとしているぞ。
『——エリを止めてくれぇ幸人! このままじゃ壊されるぅぅ!!」
「……だったら何でそんなことをしたんだよ、まったく」
しかし放っておけば貴重な備品が壊されるのは事実だ。基地の予算も多くはない。仕方なく僕はエリを鎮めるために動いた。
「止めないでよセンパイ! このままじゃあたしの尊厳がズタズタになるんだよ!?」
「いいから落ち着きなって。——エリックもエリックだ。どうして蒸し返すようなことをするんだよ?」
責める僕らの視線を受け、モニターからはか細い声が漏れてくる。
『……すまない幸人、エリ。でもボクにはどうすることもできなかったんだ。所詮その場にいないボクには、ね』
その哀愁のただよう言葉に僕とエリは真犯人の存在を確信する。そして僕らは同時にある一点を見つめた。
ドリンクコーナーの一角にいた彼は鼻歌まじりにドリンクを選んでいた。既にひとつは選び終えていたようで、片手に若草色の液体で満ちたコップを持って悩んでいる姿は憎らしいほどに平常な来栖くんの姿だった。
「あんにゃろー」とエリは制服の腕を捲りながら、「——こらぁ来栖凛太郎ッ! 覚悟はできてるんでしょうね!!」
「——ちょ、おい、何だよエリ! いきなり飛びかかって来んなよ! 危ねえだろうが!」
般若の如き様相で突撃していったエリに、来栖くんはコップの中身を溢さないようにわたわたと死守している。
「うるさいこの卑怯者ッ! まさか凛ちゃんがこんな男になったなんてガッカリだよ!」
「イテテ、おいおい一体何のことだよエリ! 俺にはお前の言ってることがまったくわかんねえぞ!?」
「うるさい! 自分の胸に聞けぇ!!」
「ガハッ……この、俺が何したって言うんだよ!」
僕はそんなふたりの様子を見つめながら、
「……ねえ、エリック。本当に来栖くんが映像を流したのかい?」
『え? ボクそんなことひと言でも言ったかい?』
「……」
言ってはいない。ただそう思わせるように仕向けられただけだ。
「……ねえ、何かエリと来栖くんに恨みでもあるの?」
『特にないよ、エリには。ただ来栖にはもっと慎みを持ってもらいたいと思わないこともないね』
「……はぁ、いい性格してるよ、キミ。ホントに」
モニターに映る金髪碧眼の男の姿が悪辣な神父の姿と重なった。あるいはエリックの中身は嫉妬深いハイエナなのかもしれない。いずれにしろ、きっと来栖くんは僕が知らないうちに何かエリックの気に触ることでも言ったのだろう。僕はため息を吐いて、せめて出禁にならないくらいの騒ぎにとどめて欲しいなと思った。
宴会はまだまだ続く。僕はドリンクコーナーから聞こえてくる喧騒をBGMに、店の窓に付着している雨粒が滑り落ちるのを見ながら、モニターに映る優男の機嫌を決して損ねないようにしようと心に誓った。