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短編置き場

学問という異世界

作者: 坂下茉莉

 まだ幼かった頃。私は、何か不思議な巡り合わせで、とある山の麓にたどり着いた。


 一体何が起こっているかわからない。夢か幻か、その山は自在に変化していたのだ。鮮やかな緑色が見えたかと思えば、突然空を思わせるような青になる。そしてふと脇目をして次に視線を向けた時には、既に深紅に染まっているのだ。ある時は虹色にさえなった。


 一体何が起こっているか、全くわからない。


 高く、高くそびえ立ち、真っ青に晴れた空を通してもなお、頂が霞んで見えない。


 しかし、いや、だからこそ私の子供心はその美しさに強く惹き付けられた。


 一緒に遊んでいた友達のことも忘れ、夢中で見いっていた。


 ぐるりと山の周りを見回し、遂に入り口を見つけた。私は迷うことなく足を踏み入れた。



 その山は、[化学]といった。



 楽しい登山が始まった。少なくとも初めは、整備された広い道のある森だった。周りには木々が生い茂っている。柔らかな雲のような葉は、輪郭こそぼんやりしているが、一つ一つが黄金色に輝いているようだった。


 幹と幹が交わり合うことはない。しかし、柔らかな葉の群れは隣の木のそれとひとつに溶け合う。あるいは飛びうつる。枝と枝は手を取り合い、繋がったところからは暖かな光が生まれる。周りの景色は絶えず動き続け、時として思いもよらぬ変化を見せた。


 しばらくすれば、この神秘的な動きの中に規則性が見えてきた。ある程度動きが読めるようになった。それは決して、種明かしされた手品みたいに味気なくなった、という訳ではない。むしろ、分かるということ、知るということは更なる喜びだった。


 分かれば分かるほど、更に遠くに歩を進めることが出来た。知れば知るほど、更に美しさは増していくようだった。その巧妙さに、いつも息を呑んだ。始まりの(とき)に目にしたあの色にも、ちゃんと理由があった。


 無数の枝葉は輝きながら手を繋ぐ。楽しげに、踊るように。その様子を眺めながら歩くのに、飽きることなどなかった。


 道は少しずつ細く、険しくなりながら、無数に分かれていた。私は特に何も考えず、ただ何となく面白そうな道を選んで進んでいった。それには、多くの難しいことをも学ばねばならなかった。だが、そのこと自体が楽しかった。


 ☆


 この先の道を進むためには、他の山にあるものが必要だ――そんなことを知らされて驚いた。


 というのも、[化学]の木々は、[物理]に源を持つ水に生きている。更に[物理]は、[数学]という山と重なっている。[数学]の中でこそ手に入る道具がなければ、ここの木々の真実には永遠にたどり着かない。


 全てが、繋がっているのだ。


 そのことを知ってからは、私は時々、[数学]の鉱脈にも足を運ぶようになった。何も知らぬ、歩きなれぬ道だから、いつもよりずっと険しいもののように思えた。それでも、[化学]のためなら苦は無かった。――「[化学]のための道具」でしかなかった。初めの頃は。


 それでも――[化学]にない美しさを見つけるのに時間はかからなかった。


 何も知らぬうちは、無機質な鉱山のように見えた。入り口近くは、確固たる足場がある以外灰色の世界。少しでも先を見れば、そこは何かがうごめく闇。思わず足がすくむ。モノクロの視界。ただ硬く冷たいだけの景色。


 しかし、一歩一歩、地図と睨めっこしながら慎重に歩みを進める。小さな蝋燭を灯せば、そこには、緻密な造形。あるいは、鮮やかに輝く宝石。岩肌は生きているようにうごめき、中に孕んでいたらしい美しいものをあらわにする。


 私の目は輝くばかりだった。この世にこんな宝物があったなんて、と。


 私には見えないだけで、本当は絶えず動いていて、そんな宝物が次々と花開いているのだ。年月を経て、それらが入り口近くに流れてくることもあるらしい。


 小さな蝋燭の灯す光のもとでは、おぼろげにしか見えない。秩序を見出すにはあまりに入り組んでいる。しかし、その独特の美を単なる道具と呼ぶにはもったいないということだけは、感ぜられた。


 ☆


 いつしか、[化学]の山道は初めよりずっと険しく、細く、でこぼこになっていた。そして、木々は更に乱舞していた。


 愉快な舞踏会。繋いだり開いたり、跳んだり回ったり。輝きを放つ雲のような衣装を身に纏っていて、いかにも絢爛豪華という言葉が似合う。絢爛豪華な舞の中にも、巧みな秩序が垣間見えるようになってきていた。


 私は、この道をずっと歩いていく。しかし、ひとりに思えたこの道も、独りではなかった。探求を共にする先輩も居た。支え続けてくれる恩師も居た。


 そして――ふと気づいて顔を上げれば、かつての遊び友達とは違う、馴染みのない顔ぶれが並んでいた。彼らも、同じようにこの山を登っていた。私と同世代でありながら、しかし私とはかけ離れた知を具している。そんな精鋭たちが、私の遥か前方で競いあっていた。


 私にも、追い付けるだろうか。


 ……まさか。


 ……いや、ひょっとすると――


 競う相手が出来たいま、歩調は一気に速まる。


 一時はその中に交わることが出来たかに見えた。話せるだけの距離に来た。談笑して、相手の知性に感銘を受けて、刺激されて。そうしているうちに、気づけば後れをとっていて、くたびれた足を叱って駆けてみて、しかし相手は軽やかに歩いていて。


 ――同世代の星とも言える彼らに、近付き、話し、親しむことで、結局、彼我の差を一層思い知らされる。みんな遥か前方に行き、私はその後ろに取り残される。一刹那は隣に居た人たちが、羽ばたかんばかりに先の世界に行く。私は、背中をただ眺めている。同い年と思えぬ大きな背を。


 もっと……強く、なりたい。


 ☆


 ある時、山道に石碑があるのに気づいた。この山の頂に達し、新たな道を拓いた先人たちの名が刻まれている。


 そうだ――私も、こうして名前を残したい。せっかく、ここまで来たのだから。肉体が朽ち果てても、ずっとこの山に居続けたい。まだまだ頂は遥か遥か遠くにあるけれど。


 ……いや、待てよ。


 私は、じゃあ、名を成すために、ここに居るというのか?


 改めて考える。私は何故、ここまでこの山を登って来たのか? 何のために――目的は何か?


 ひょっとすると……名を惜しんだのもあるかもしれない。始まりの時、私が同郷の仲間たちを顧みずに輪から躍り出て行ったのを皆が見ている。それで、もし私がのこのことまた引き返したり、歩む道を変えたりして、訝しい顔をされるのが、怖いのかもしれない。いや、あるいは、単純な優越感に浸りたくて、そんな薄っぺらなアイデンティティにすがっていたくて、追い付かれるのが怖かったのかもしれない。


 それか、この世界で出会った、異郷の偉大なる同世代の星たちが、私に失望して離れていくのが、怖かったのかもしれない。


 もしかしたら、そんなつまらぬ体面に――私は、拘泥しているのかもしれない。


 ――私は……


 ――嫌だ、嫌だ。そんなこと、絶対にない。


 ――いや、大いに、あるかもしれない。


 しかし、もしそうだとしても――やっぱり、私はただここに居たい。どう考えてみたって、それが変わることがなかった。やっぱり、この世界が楽しいのだ。この面白さが、果てることなどない。


 絢爛豪華な木々の舞。それからこれへと、変幻自在な光の戯れ。


 私は、ただ、知りたい。この世界を支配する、不思議で神秘的な秩序を。


 もっと、知りたい。


 分かること――それ自体が喜びなのだ。


 だから、また歩く。


 感嘆しながら、また新たなものを学ぶ。


 この森の美しさを、秩序を――



 今度は私が、新しい景色を作っていく番だから。

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