契約
だが、事態はそう順調ではなかった。
榎本将記からの連絡によれば、交渉は難航中とのこと。
チーム・スペクトラムのメンバーは、どうしてもソフィアを受け入れられないようだ。
中でもサメ男は、そもそも事実などどうでもいいらしく、とにかくソフィアの首を刈りたがっていた。メガネ男にしても、プライドの高さがネックとなり、考えを改めようとしない。
そうこうしているうちに、アルケイナ界に呼び出されてしまった。
ソフィアは浮かない表情だ。
のみならず、信じられないことを言い出した。
「もしかすると、もう手遅れかもしれない」
手遅れ。
具体的に、いったいなにがどう手遅れだというのか。
いや、答えはひとつしかない。
なのだが、俺たちは信じたくなかった。理解したくなかった。
彼女は彫刻のある白い転移門を出現させた。
「行こう。きっと待ってる」
「ああ……」
いずれにせよ行くしかない。
それは分かっている。
*
新たな領域は、不毛の山岳地帯だった。
緑はなく、ただ岩石のような山々が連なっている。
俺たちは久々に空を飛んだ。
このところずっと地上戦だったせいか、バランスをとるのが難しい。
ソフィアの服装は、白い布のまま。
背中の翼をパタパタ動かして浮いている。
「一番高い山、見える?」
「ああ」
それは山というより、まるで天を支える柱のようだった。
雲を貫き、天を衝かんばかりの高さでそびえている。
彼女は、つぶやくように言った。
「生命の樹は、あの山頂にあるの」
人が登れる高さではない。
だが、空を行けるいまの俺たちなら、難なく到達できるだろう。
向井六花が近づいてきた。
「さっき言ってた『手遅れ』ってどういう意味なの?」
そうだ。
俺たちは、いずれ知らねばならない。
目をそらしていても、事実は変わらないのだ。
ソフィアは神妙な顔でうなずいた。
「邪龍はまだ復活してない……。でも、もう止められないところまで来てる」
「根拠は?」
「エーテルの流れを感じるから」
俺には分からないが、この世界の管理人が言うのだから、きっとそうなんだろう。
ソフィアはちらと琥珀を見た。
「きっと石板を使えば、状況を変えられると思うけど」
「えっ?」
琥珀は目を丸くしている。
だが彼女が返事をするより先に、俺は断言した。
「ダメだ。琥珀、それだけは絶対にやるな」
「なんで?」
「寿命を失う」
「で、でも私、あと三百年あるよ?」
そうか。
まだバレてないと思ってるんだな。
「三十年だろ。知ってるぞ」
「なんで!?」
「なんでもだ。とにかく、お前に死なれたら意味がない。頼むから使わないでくれ」
「お兄ちゃん……」
少し強く言い過ぎたかもしれない。
けど、それくらい本気だった。
ソフィアも責めなかった。
「そうだね。命は大事にしたほうがいいと思う」
上島明菜が不安そうに口を開いた。
「じゃあどうするの? 邪龍は復活しちゃうんでしょ? あたしたち、そいつと戦うの?」
そう。
俺たちは、邪龍を倒すか、あるいは復活前に逃げ切るか、いずれかの選択を迫られている。
もし逃げた場合、ソフィアを見捨てることになる。
まあ、逃げるといっても、そもそもこの領域を解放しないといけないから、どちらにしろソフィアの協力は必要になるのだが。
ソフィアは静かにかぶりを振った。
「戦うしかないよ。もし復活しちゃったら、この世界だけじゃなく、君たちの世界だって壊されちゃう。そのとき君たちが戦士をやめていたら、戦う手段さえなく、一方的に滅ぼされることになるよ」
選択肢はない、というわけだ。
やるしかない。
*
俺たちは山頂を目指した。
高い、高い、山だった。
雲を抜け、さらに上へ。
山頂はラッパのように広がっていて、緑も生い茂っていた。
生命の樹も見えた。
高さは数メートルといったところだが、姿が異様であった。伸び切った枝と、飛び出した根とが絡まり合い、円形を成している。
もちろん実はなっていない。
ここは現実世界と違い、酸素濃度の違いはないようだ。息苦しくないし、俺たちは高山病にもなっていない。
風の音は、下から聞こえてくる。
不思議な感覚。
ソフィアは樹へ近づき、円になっている部分をなでた。
「まさかこれが、悪魔の罠だったなんてね……」
動機はともあれ、大事に育ててきた樹が想定外のものだったら、落胆もするだろう。
内藤くららがエーテル銃を持ち上げた。
「壊したらダメなの?」
「間に合わないよ。それに、まだ残ってる命もすべて消えてしまう」
「どっちにしろ邪龍に使われるんでしょ?」
「そうかもね……。でも、いまはやめて。どうしても壊したいなら、次来たとき、私の見ていないときに……」
「分かった」
本日の戦闘はナシ、か。
チーム・ホワイトも来ていないようだしな。
*
山頂を去った俺たちは、少し低いところで転移門を使った。
雲上の神殿へ戻り、また次回、ということで別れた。
そこまではよかった。
白いもやがかかり、アルケイナ界から追い出された。
なのに、俺はまだ夢の中にいた。
そこは古い洋館のように見えた。
外では風が吹き荒れ、木の床が軋んでいる。
暖炉には火。
一人の男が、こちらを見ていた。カラスのようなマスクをしているから、顔は分からないが。
ベストの上にコートを着込み、中世の貴族のような服装。黒の革手袋までしている。
「はじめまして、愚者。私は……そうだな、神の御使いとでも思ってもらおうか。今日は君に話があって、ここへ来てもらった」
話?
俺はまだマーチングバンドみたいな格好のままだし、虚無も手にしていた。戦おうと思えば戦える。
「神の御使い?」
俺が尋ねると、彼はマスクをあげて中を見せてくれた。
空洞にエーテルが満ちている。
精霊だろうか……。
「話はシンプルだ。邪龍の友達になって欲しい」
「は?」
「悪く言われてはいるが、あの子は純粋な存在でね。寂しさに耐えかねると、つい不満を爆発させてしまうんだ。しかし、本来は無害な子だよ。できれば誰か寄り添って欲しい」
直感した。
こいつは悪魔だ。
もしくは悪魔の使役している精霊。
いずれにせよ邪悪な存在だろう。
そう考える根拠はある。
アルケイナ界は、そもそも合意なく人間の命を吸い上げる邪悪なシステムだ。そんなもので復活させた邪龍が、純粋なわけがない。いや仮に純粋なのだとして、他の方法でやれと言いたい。
カラス男は揚々と言葉を続けた。
「もし私の望みを聞いてくれるなら、代わりに、君の願いもひとつ叶える。なんでもというわけにはいかないけれど。人の望みなら、だいたいは叶えられる」
ご褒美で釣ろうってのか?
俺はつい鼻で笑った。
「妹の寿命を延ばせって言ったら、そうしてくれるってのか?」
「もちろん」
「……」
ホントに?
こちらが黙っていると、彼はこう続けた。
「もちろん永遠の命というわけにはいかない。けど、倍に伸ばすくらいなら簡単だ。お望みなら三倍でもいい」
もし三倍なら、百四歳まで生きる。
俺はツバを飲み込んだ。
「信用できない」
「ま、そうだろうね。私にも自覚はあるんだ。自分が悪魔と呼ばれていることをね」
みずから正体を白状したか。
俺はほっと息を吐いた。
「だったら話が早い。俺は悪魔と手を結ぶ気はない」
「もちろんみんなそう言うさ。だが、信じて欲しい。私は神だ。対立する神々が、私を悪魔と呼んでいるだけでね。私に言わせれば、彼らのほうが悪魔だよ」
「モノは言いようだな」
「その通り。だが、誤解をとく用意はある。疑問があるなら聞いてくれ。なんでも答える。なんでもね。そして私こそがよき存在であり、彼らがいかにウソつきなのか、ぜひ証明したい」
「どういう意味だ?」
会話に応じるべきではないのかもしれない。
だが、俺は好奇心を抑えられなかった。
「言葉通りの意味さ。彼らはウソをついている。まず、生命の樹。あれは本物だ。もし本物じゃなかったら、邪龍だって復活させられない。私は願いに応じ、本物の生命の樹を用意した」
「証拠はあるのか?」
「ない。そもそも君は実物を知らないわけだし。目の前に出しても真偽を判断できないだろう」
「だったらあんたの言葉も信じられない」
「いいだろう。ならこの件は保留だ。ただし、私が正しさを証明できないのと同じく、彼らにだって証明できないはず。そこだけは間違えないでくれ」
ああ言えばこう言う。
だが、ムカつくことに、この男の説明にも一理あった。
すると彼は「ふむ」とうなり、こう続けた。
「では次。異界文書の一件だ。ソフィアが契約を求めたとき、私以外の神々は、見て見ぬフリをした。少女が必死に懇願していたにも関わらず、だ。まったく自堕落で怠惰な神々だろう? 救済の手を差し伸べたのは、この私だけだった」
「悪用するためだ」
「違うね。さっきも言った通り、生命の樹とは邪龍そのものなんだ。だから生命の樹を用意するということは、すなわち邪龍の復活を意味する」
「あの錬金術師は、そんなこと願ってない」
「契約とは書面がすべてだ。本人がどういうつもりであろうと、あの書きようでは、そういう解釈になるさ」
だったら、やっぱりこいつが悪意をもって願いを叶えたってことじゃないか。
錬金術師は一人の人間だ。完璧じゃない。契約についても欠陥があったのだろう。だからこそ神々は応じなかった。
なのに、こいつだけが応じた。
彼は得意げに言葉を続けた。
「君はいま怒りをおぼえているかもしれないね」
「ご明察」
「だが勘違いしないで欲しい。私は、私の勝手で人を傷つけたりなどしていない。あくまで本人の希望に応じ、その願いを叶えただけなのだ。もし君の願いがシンプルなら、それはそのまま叶うだろう。妹の寿命も延びる」
そうなのかもしれない。
こいつの言っていることは、おそらく正しいのだ。
だが、それだけにムカついている。
「邪龍と友達になるってのは、どういう状態を指すんだ?」
「言葉通りさ。あの子を傷つけず、寄り添ってくれればいい」
「けど俺の仲間たちは、そんなこと関係なく戦い始めるぜ。もし俺が取引に応じれば、みんなとも対立することになる。やっぱり応じられない」
すると彼は、やたら自信満々に胸をそらした。
「本当に?」
「えっ」
「本当に、みんなが提案を拒否するはずだと?」
「どういう意味だ?」
「じつはいま、私は別の場所にも存在していてね。複数の空間で、みんなに交渉をかけているところなんだ」
琥珀にも? 向井六花にも? 上島明菜にも?
チーム・ホワイトや、チーム・スペクトラムのメンバーにも仕掛けているのだろうか?
「みんな、いろいろな願いを持っているね。私もできる限り応じたい。みんながあの子に優しくしてくれたなら、無益な争いだって起こらない。みんなの願いも叶う。みんなが幸せ。彼らも応じてくれているよ。ひとり。またひとり」
クソが。
じつに理想的な提案だ。
つい応じてしまいたくなる。
それだけにクソだ。
俺はキッパリと言い切った。
「遠慮しておく。俺は、あんたとは手を組まない」
「君の妹は応じているんだけどね」
「はぁ?」
なにを勝手なことを……。
そんなわけないだろ。
「君の妹は応じたんだ。どんな願いだと思う?」
「ふざけるな。どうせウソだ」
「ウソじゃないさ。君を大統領にして欲しいそうだ。もちろんそれは難しいから、まずは大臣の席を用意することにしたよ。そこからは君の頑張り次第だね」
「やめろ! ウソだ!」
だが、ヤツは口を閉じなかった。
「向井六花くんは、君との縁談を望んでいるね。もちろん承諾したよ。私が手を貸すまでもないことだ。上島明菜くんは、みんなと仲良く過ごすこと。内藤くららくんは、琥珀くんと一緒にいられること。どれも素晴らしい願いじゃないか」
「黙れ! ウソを並べるな!」
「ウソじゃない。君たちにとっては幸福なことだろう? いったいなにが不満なんだ?」
もし事実なら、受け入れたい気持ちもある。
だが、こいつがウソをついている可能性だって否定できない。
分からないなら、確認するまでだ。
俺は虚無を鏡に変形させ、モニターのようにして異空間を覗き込んだ。
みんなの姿が見えた。
カラス男もいる。
それぞれの画面の中で、カラス男がこちらを指差すと、みんなが手を振ってきた。
こちらの存在に気づかれたか。
だが、たいした問題じゃない。
俺が困ったのは、みんな笑顔だったことだ。
のみならず、俺を説得するようなことまで言ってきた。
「悪い話じゃないと思う」
「八十村くんも一緒に」
「もう戦いはやめようよ?」
「私、お兄ちゃんと戦いたくない」
本当に?
映像を操作されているのでは?
話がウマすぎる。
きっと裏がある。
この取引に応じてしまえば、俺たちは大事なものを失う気がする。
カラス男は穏やかな口調で言った。
「君はズルいな。勝手に覗いたりして。だが許そう。きっと不安だったんだろう。それに、説明の手間も省けた。さ、決断したまえ。あの子と仲良くなって戦いを終わらせるか、それともまだ暴力を望むのか」
絶対に応じちゃダメだ。
ダメなのだが、もし俺だけが拒絶すれば、妹たちと戦うハメになる。
ここはウソでもいい。
応じたフリだけすれば。
もし邪龍が危険な存在なら、こいつとの契約なんて無視して戦えばいい。
たぶん。
「分かった。応じる」
「結構。賢明な判断だ。そう怖い顔をする必要はない。私はウソなどついてないのだから」
*
気がつくと、俺はベッドで寝ていた。
自分の部屋だ。
時刻はもうすぐ六時。
スッキリしない朝。
選択を、誤った気がする。
(続く)