想い
ほかに客はほとんどいない。
ガランとした空間。
そこに椅子とテーブルだけがやたら並んでいる。
「昨日のアイツが関係してるの?」
俺が尋ねると、彼女はびくっと身をすくませた。
「べ、べつに……」
「なんか言われた?」
「言われてない、けど……」
けど?
彼女の話には、続きがある、というわけだ。
「事情を知りたいんだ。知れば力になれるかもしれない。俺ごときじゃ、たいしたことはできないかもしれないけどさ。でも、みんなで知恵を出し合えば、少しは前進すると思うんだ」
「みんなには言わないで」
名言を吐いたつもりだったが、やや配慮に欠けていたか。
「分かった。みんなには言わない。でも俺には教えて欲しい。いきなり家出だなんて、心配するし。もしなにかあったらイヤだからさ」
「うん……」
*
彼女の話はこうだ。
大会の数日前、祖父が亡くなった。
厳しい人で、向井六花に剣道を叩き込んだ人だった。男女の交際は禁止。なぜなら相手は自分が決めるから。
俺からすると、横暴としか思えないのだが。
だが、祖父が亡くなったことで、彼女は急に目的を見失ったのだという。
祖父は絶対的な指導者だった。
向井六花はどうしていいか分からなくなった。肝心の試合にも負けてしまった。
ご両親は、もう古い習慣に縛られず、自由に生きていいと言ってくれているらしい。
だから、婚約を破棄したければ、してもいいのだと。
とはいえ、それらは生前の祖父が決めたことだった。
向井家も、相手の家も、道場を経営している。結婚すれば道場が増える。それは家業を守ることにもつながる。
向井六花は決断できなくなっていた。
幼いころから、ずっとそうすると思い込んで生きてきたからだ。
アルケイナ界で鏡へ突入したときも、この件でかなり傷を負ったらしい。ただ、必死で手を伸ばしたら上島明菜に届いたから、二人でなんとか耐え忍んだのだとか。
そこへ来て、追い打ちをかけるように昨日の一件だ。
帰宅後いろいろ考えていたら、すべてがイヤになった。
それで家出を決意したのだという。
*
俺は「分かった」とうなずいた。
「家に行こう」
「えっ?」
「いまから君の家に行くんだ。で、思ってること全部言う。たぶん、親だって、君の気持ち知らなかったら、どうにもできないよ」
「待ってよ。それをしたくないから家出するのに」
怒ると少し怖い。
だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「じゃあいいよ。仮に家出したとしよう。でも問題は解決しないよ。問題を先延ばしにするだけで。いずれ決断のときが来る」
「簡単に言わないで」
「外野は簡単に言うもんだ。でも、それがいま君に必要なことだと思う。まず聞きたい。君はどうしたい? 矛盾しててもいいから、希望だけ言ってみてよ」
無茶を言っている。
こんなこと、俺が他人から言われたらうるさいだけだ。
だけど、誰も彼女の話を聞いたことがなかったんだろう。彼女だって話す機会がなかった。こんなので結論が出るわけじゃないけど。少なくとも「なにか」にはなる。
向井六花はあきらめたように溜め息をついた。
「そんなにムキにならないでよ」
「大事なことだから」
「うん。ありがとう。私の希望はね、道場は大きくしたいんだ。ずっと剣道ばっかりやってきた家だから。でも、結婚相手は自分で選びたい。ワガママなの。だから悩んでて」
いい。
人間はワガママだから、すべてを手に入れたいから、悩むものだ。
俺だって、自分だけは生き延びたのに、それで納得できなくて、フォルトゥナの力を借りた。みんなに生きていて欲しかったから。
「道場は家のため、で、結婚相手は君自身のため、ってことだ」
「そういう言い方されると、なんか……」
「大事なことだよ」
道場の件は、他人の資産をアテにしているということだから、あまりいい印象を抱けないけれど。
でも、そのことで向井六花を責めてはいけない気がする。
彼女にはずっと選択肢がなかった。そして急に選択肢が与えられたかと思えば、このザマだ。道場と結婚が天秤にかけられるのは、ムリもない話だった。
俺は失礼を承知で、こう切り出した。
「あくまで一般論だけど、普通、好きじゃない人間とは結婚しないと思う」
「分かってる」
「しかも、そんな方法で道場なんて増やさない」
「分かってるから。なんか私が、相手の道場目当てで言ってる人みたいじゃない」
「そこは責めてないけど。あくまで一般論として」
まあ一般論の皮をかぶった俺の意見でもあるけれど。
彼女は窓の外を向いてしまったが、俺は構わず言葉を続けた。
「向井さん、もったいないよ。あんな男と結婚すんの。アイツ、君のよさをちっとも分かってないし」
「な、なに急に……」
「ずいぶん悪く言われてたからさ。性格だって悪くないよ。まあたしかに、ちょっと誤解されやすいかもしれないけど」
「誤解って……」
言葉を間違えたか。
でも誤解は誤解だ。
俺も最初、かなりイヤなヤツだと思ったし。
「とにかく、君は自分で相手を見つけたほうがいい。親だって親の都合で生きてんだからさ、君も君の都合で生きなよ。すごい才能あるのに、もったいないよ」
「でもこの才能は、祖父から授かったものだし」
「まあね。けどそれは、君の一生を支配するほどのことじゃない」
「えっ?」
「お爺さんだって、きっとよかれと思ってやったんだ。君の人生が、よりよくなるために。だから君も、自分の人生をよくするための選択をしないといけない」
まあ「いけない」というのは押し付けがましいが。
向井六花は怪訝そうに目を細め、こちらを見た。
「なんか、言ってることが高校生っぽくない気がする」
「何度もループしてたせいで、中身が少し年をとったのかも」
このジョークに、彼女は笑みを浮かべてくれた。
「あーもー、分かった。八十村くんがうるさいから、家出はやめる。帰ったら父と母にも相談してみるから」
「よかった」
言葉に出して俺に相談したことで、両親へのハードルもさがったのかもしれない。言ってみたら、意外と受け入れてくれることもあるものだ。
向井六花はオレンジジュースを飲み干した。
「でも、まだ帰るには早いと思うの」
「えっ?」
「どこか連れてってよ。いつも、どんなことして遊ぶの?」
「いつも……」
友達が一人しかいないので、いつもまっすぐ帰っているとは言い出せない雰囲気だな。
とはいえ、ゲームセンターには行くかな。本屋も回るし、公園で休憩もする。そして一緒にメシを食ったりもする。それだけでも楽しいものだ。
「じゃ、街に行ってみようか」
「うん」
「荷物はコインロッカーにあずければいいから」
「うん。楽しみ」
元気になってくれた。
もしかすると彼女は、そもそも家出なんてしたくなかったのかもしれない。
*
その後、俺たちは街を散策した。
ゲームセンターへ行き、本屋へ行き、公園へ行き、屋台のクレープを食べて、空が赤くなったころ、ようやく駅へ戻ってきた。
「いっぱい遊んじゃった」
向井六花はすっかり元気になって、コインロッカーからキャリーケースを取り出した。
きっと日焼けしてしまうけど。
「俺も楽しかったよ」
「私、クレーンゲームやったの初めて」
「惜しかったね」
「そう? もっと強くつかんでくれればいいのに」
「そしたらみんな取っちゃうから」
「まあね」
デートというよりは、気晴らしに友人と遊んだみたいな感覚だった。
あとは改札を抜けて電車に乗るだけ。
なのだが、俺たちはなんとなく立ち話を続けた。
「今度はさ、みんなで集まろうよ」
すると彼女は、ややいたずらっぽい表情を浮かべた。
「みんな? 誰のこと?」
「上島さんとか、内藤さんとか……。もし妹たちも連れてきていいなら連れてくるし」
「いいよ。みんな仲間だもん。プールも楽しかった。結局、あのときも遊んじゃったね」
「楽しかったよ。俺、夏休みって、ずっと暇なイメージしかなかったけど。今年は楽しくてびっくりしてる」
「私も」
無邪気な笑顔。
初めて会ったときは、表情も険しかったし、返事さえしてくれなかったのに。
*
帰宅した俺は、まっすぐ部屋に入った。
リビングのエアコンのおかげで外よりは涼しいけれど、皮膚がずっと熱かった。
なにも考えずに歩き回ってしまった。
楽しかった。
向井六花は、きっとご両親と話をつけるだろう。
そうしない限り、前には進めないのだから。
全部うまくいって欲しい。
俺だってワガママだ。
みんなに幸せになって欲しい。
それがムリだとしても、せめて、ひどい目にはあって欲しくない。
*
大の字でぼうっとしていたら、俺は夢の世界に呼び出されていた。
青白い砂浜。
夜の世界。
錬金術師が岩に腰をおろしていた。
「お前にとって、これが最後のループだそうだな」
「はい」
嫌な予感がした。
予感、というよりは、老人の表情が、いつもと違った。
なぜだか弱々しく、そのくせ眼光だけは鋭かった。
「以前、俺はお前に期待していないと言ったな?」
「おぼえてます」
「その言葉、撤回する」
「……」
言葉を続けないで欲しかった。
この老人は、因果律に触れようとしている。
おそらく未来のことを俺に教えて、そのまま消滅するつもりなのだ。
「愚者よ。俺の悲願をお前に託す。お前にとっては迷惑かもしれないが……」
「いいんですか?」
「ああ、いいとも。チーム・ブラック、そしてチーム・ホワイト、チーム・スペクトラム、これに精霊どものチーム・プシュケを合わせて二十枠。これにフォルトゥナとソフィアを加えて二十二枠。これが参加者のすべてだ」
「ソフィアも?」
つまり彼女は黒幕ではなく、参加者の一人だったというわけだ。
老人は静かにうなずいた。
「役割は『世界』。問題はその象徴だ」
「象徴? それはいったい……」
「生命の樹、ということになっている。だが、あれは本物ではない」
やはりそうなのか。
老人の目は血走り、鼻からは赤い血が流れ出した。
「ぐぅ……。俺の書いた異界文書を承諾したのは、神ではなく、悪魔だ。ソフィアは悪魔にたぶらかされ、邪龍を復活させようとしている」
「邪龍?」
「かつて英雄に封じられた怪物……。世界を喰らうもの……」
彼は苦しそうに、ぐっと目をつむった。
血液があふれだして、もう前が見えないようだった。
俺は言葉を待った。
おそらく、もう止めることはできない。
「愚者よ、ソフィアを止めてくれ……。邪龍が復活する前に……。それ以上は望まない……」
「はい」
それ以上、か……。それを達成したら、もうじゅうぶん過ぎる偉業のような気もするが。
ソフィアを救えるかどうかは、現時点ではなんとも言えない。
だが、生命の樹だけはなんとかするつもりでいる。あそこから命を取り出して、異界文書を書き換えるのだ。
それさえムリなら、俺たちだけでも生き延びて、次世代に任せるしかないが。
やれるところまでは、やってやる。
老人は動かなくなった。
かと思うと、いつの間にか赤い炎に包まれてしまった。
パチパチと焼ける音。
舞い上がった灰は、書物の切れ端のようにも見えた。
錬金術師の存在が記述された文書だろうか。
おそらくだが、命を失った彼は、その文書によって存在を保っていたのだろう。
だが、もう、それさえ燃え尽きる。
浜辺には俺しかいなくなった。
夜空には青白い月が、ぽつんと浮かんでいる。
(続く)