家族
うとうとしているうちに、砂浜へ迷い込んでいた。
巨大な岩石にしか見えない月。
寂しくさざめく波の音。
岩の上には年老いた錬金術師。
呼び合った、ということか……。
彼は遠くを見つめながら、しわがれた声でつぶやいた。
「なにか用があるのか?」
しかし俺の来訪を拒絶している様子ではない。
話がしたいのは老人も一緒だろう。
「ソフィアのことで」
「多くは望まぬ。俺はアレを呪縛から解き放ちたいだけだ。俺のついたウソを信じて、救いようのない行為に手を染めているからな」
聞き捨てならない言葉が出た。
ウソだと?
俺が顔をしかめていると、老人は自嘲気味に笑った。
「何百年もむかしの話だ。あのころの人間は、休むことなく戦争を繰り返していた。軍隊は村を焼き、食料を奪い、女子供を蹂躙して回った。アレも戦災で親を失っていてな」
「拾って育てたと?」
俺の問いに、彼はしわだらけの顔をしかめた。
「善意ではない。俺は錬金術師だ。実験のため、人さらいから金で買ったのだ。だがメシをくれているうち、妙になついてきてな……」
いい理由ではなかった。
だが、責めることはできない。
どんな理由であれ、彼はソフィアに食事を与えていたのだ。俺は他者に対して、そんなことをしたことがない。それどころか、親に養われている身だ。
老人は静かにこう続けた。
「ある日、俺は異世界へ通じる秘術を見つけた。というより、誘い込まれたといったほうが正確かもしれない。そこは清浄な世界だったよ。少なくとも戦争のない世界だった。俺はソフィアを連れてきて、生命の樹を育て始めた」
生命の樹――。
それはすべての元凶だ。
老人はかぶりを振った。
「アレの願いは、神でもなければ叶えられないようなものだった。だから俺は、神になる方法を教えてやったよ。もちろん、その場ででっちあげただけのウソに過ぎぬがな。ウソでもいいから、希望を与えてやりたかったのだ」
「彼女の願い、というのは?」
「この世から争いをなくすことだ」
俺は言葉を失った。
最初は、そんな純粋な願いだったのだ。
なのにいま、それとは真逆のことをしている……。
老人は盛大な溜め息をついた。
「それは他者の命を奪ってまで成し遂げるようなことではない。そもそも、あの方法では神になれぬ。ただ命を奪い、かき集めるだけの虐殺だ。だが、その事実を伝える前に俺の命は尽きた。そして異界文書だけが効果を発揮してしまった」
彼には彼の後悔があるようだ。
「俺が止めます」
「簡単に言うな」
「なぜ? 勝算はあります」
「お前にはまだ見えていないものがある」
「それは?」
俺が尋ねると、老人は悔しそうに目をつむった。
「答えられぬ」
「また因果律ですか?」
「そうだ。だが、多くを望むな。お前は生き延びて、次の参加者に未来を託せ。お前の手に負える相手じゃない」
なにが因果律だよ。
こっちはそいつをぶっ壊すために戦ってるんだ。
俺は老人の前に立った。
「教えてください! 勝ちたいんです! ソフィアも救いたい!」
「余計なことはするな。生命の樹を刺激すれば、きっとよからぬことが起こる。お前だって、邪悪な存在に食い殺されてしまうぞ」
「邪悪な存在とは?」
すると老人は、ぐっとうめいて頭を抱えた。
因果律に触れたか……。
老人は鋭い眼光でこちらを見た。
「なぜ『悪魔』の象徴が石板なのか、考えてみろ。アルケイナ界は、悪しきものとの契約でできている。人間ごときが勝てる相手ではない」
老人は鼻血を流し始めた。のみならず、目からも血液が溢れ出した。
このままでは死んでしまうかもしれない。
「分かりました! もうじゅうぶんです!」
「戦うな。多くを望むな。お前は、ただ自分が生き乗ることだけを考えろ。戦士は、決してお前だけではないのだ。次はもっと強い戦士が現れるかもしれぬ。さいわい、俺にはまだ時間がある」
彼の言う通りだ。
この戦いは、過去に幾度も繰り返されている。この先もそうだろう。
すると俺より強い戦士が現れる。
そいつがすべてを救うかもしれない。
俺は英雄じゃない。
英雄的行為は、英雄に任せたほうがいい。
*
夢からさめると、ちょうどドアがノックされた。
いや、ドアのノックで目をさましたかもしれない。
「博士! 起きなさい! ご飯!」
「あーい」
母だ。
いつの間にか夕飯の時間だ。ずいぶん寝ていたらしい。
リビングに入ると、みんな揃っていた。
父、母、瑠璃、琥珀、そして俺。
家族で食事。
今日はソーメンだ。
「お父さん、くさいから近寄らないで」
「なんだよくさいって……」
「お酒!」
「ちょっとくらいいいだろ」
瑠璃と父が言い合っている。
だが、これも見慣れた光景だ。
こうしてつまらない理由でケンカできるのも、きっと平和だからなのだ。
「博士、なに突っ立ってんの? 早く座りなさい。体調よくないの?」
母が不安そうに尋ねてきた。
「いや、なんでもない。座るよ」
琥珀は大皿からソーメンをとって、ちょっとずつ食べていた。
もし俺が判断を誤れば、この席から琥珀は姿を消す。
それだけはなんとしても回避しなければいけない。
俺は、缶ビールから手を離さぬ父に尋ねた。
「ビールってそんなにうまいの?」
「いや、うまいとかうまくないとかじゃなくてな……」
「じゃあなんで飲むの?」
「うるせぇな。お前も大人になったら分かるよ。いいから早く食え。なくなるぞ」
「んー」
すると父はよかれと思ったのか、勝手に琥珀のつゆへ「食べろ」と薬味を入れて、「お父さん、箸ぃ……」とイヤそうな顔をされた。
この父は、まったく学習しない。
*
シャワーを浴びて部屋へ戻った。
じつに暑い。
部屋にクーラーを設置してくれないのは虐待ではなかろうか。もっとも、親にかけあっても「景気がよくなったらな」の一点張りなのだが。
三人もの子供を養うのは、けっこう大変なのかもしれない。四人ならもっと大変だったはず。それでも、俺は四人がよかった。
もし生きていたら、なんて名前だったんだろう……。
急に感傷的な気分になってきた。
寂しくなってスマホでチャットを覗いたが、特に会話はなかった。いや、俺の仲間は彼女たちだけじゃない。
隣のクラスの友人に、『いまなにしてる?』と送った。
返事はすぐに来た。
『ゲームしてる』
俺が『なんの?』と尋ねると、以前から流行っているゲームの名前が返ってきた。
俺も勧められてプレイしたことがあったが、あまり続かなかった。それでも彼はまだ続けているようだ。
俺が次の言葉を打つ前に、さらに返事が来た。
『ところでよー』
『ぴろし、最近向井さんと仲いいみたいじゃん?』
『付き合ってんの?』
『ん?』
『どうなん?』
そういえばまったく事情を説明してなかったな。
俺は『違うよ』『妹のことでちょっと』などと適当に応じた。
彼の返信はこうだ。
『ふーん』
『そっか』
『ま、こっちは最近暇だからさ』
『またどっか遊び行こうぜ』
少しヘコんでいたけれど、一気に救われた気分になった。
持つべきものは友だな。
もちろん遊びに行きたい。
*
その後はアルケイナ界に呼ばれることもなく、俺たちは現実世界で期末テストを終えた。
成績はよろしくなかったが、赤点はない。まあセーフだろう。あとは母の説教さえ聞き流せば、めでたく夏休みだ。
プールでの特訓も始める。
わりと大きめの市民プールがある。そこに集合して、みんなでトレーニングをする。地元じゃないから、中学の知り合いに出くわすことはないだろう。
いや、会ってもいいのだが、妹をふたりも連れているところを見られたくない。なんとなく恥ずかしいというか。
ある日、部屋でぐだぐだしていると、いきなりドアがノックされた。
「兄貴! ちょっと来て!」
「なんだ?」
「いいから!」
またクソみたいな裁判でもする気じゃないだろうな。
リビングに入ると、テーブルの上に、ボウルたっぷりのアイスが用意されていた。
この姉妹、プリンだけでなく、アイスまで作るのか……。
なのだが、瑠璃も、琥珀も、表情がカタい。
「兄貴、これ食べて」
「ずいぶん大量だな」
椅子へ腰をおろし、俺は特にためらいもなくスプーンを入れた。その瞬間、なんだかイヤな手応えがあった。
アイスだというのに、クリーミーではなく、ザクッとした感覚。よく見ると表面が結晶化している。
ひとくちパクリ。
いや、マズい。
牛乳を凍らせただけのシャーベット。しかも味が薄い。ほぼ氷だ。においだけが乳臭い。
「な、なあ……。これ、ちゃんと成功したのか……」
「はい?」
瑠璃は邪悪な顔をしている。
「だってこれ、アイスっていうより、カキ氷だぜ?」
「兄貴さぁ、そんなこと言って、琥珀がどんだけ頑張って作ったか分かってんの?」
「ぐっ……」
琥珀は申し訳なさそうな顔でこっちを見つめている。拾われたばかりの子犬みたいだ。
俺には責めることができない……。
「えーと、まあ、こういうのもアリっちゃアリかもしれないけどさ……。もうちょっとこう……」
「ならジャムでも乗せる?」
「いや待て。これ以上いじりたくない」
「バターもあるけど」
「待て。早まるな。俺の気持ちも大事にしてくれ」
「捨てるのもったいないしさぁ」
「分かってる」
分かっちゃいるが、食が進まない。
牛乳のにおいのする氷を、ボウルいっぱい食わされるほうの身にもなって欲しい。まあそこまでマズくはないが。いやマズいっちゃマズいが。
「お兄ちゃん、頑張って」
琥珀が握りこぶしを作って応援してくれている。
まあそれはいいんだけど、自分は食わないのか?
お兄ちゃんは残飯の処理係じゃないんだぞ。
その後、頑張って半分ほど食ったが、ついに限界を迎えた。
ただの氷だってこんなに食えない。
しかも時間をかけたせいで、大部分が溶けてしまい、牛乳と水の分離したスープになっている。
テレビを見ていた瑠璃が、こちらへ向き直った。
「あ、終わった?」
「いやムリだろこれ。なんの拷問だよ」
「だって兄貴なら頼りになると思って」
「もったいないけど、こっそり捨てようぜ? な? これ残しておいても誰のためにもならないからさ」
「うん……」
牛には申し訳ないが、失敗は失敗として認めるべきだ。
体温の低下に耐えられない。
すると、途中でどこかへ出掛けた琥珀が戻ってきた。
「ただいまぁ」
小走りでこちらに駆けてくる。
「お兄ちゃん、ごめんね。ちゃんとしたアイスあげるから許して」
「ア、アイス……か……。おう、ありがとな。あとで食べるよ」
「一緒に食べないの?」
「いまはちょっと厳しい……」
いくらしょんぼりした顔を見せられても、さすがに応じることはできない。体の芯が冷えて震え出しそうだ。
あの失敗作、おそらく五人分はあったろう。俺はそれを半分も食ったのだ。敢闘したと言える。
神は俺の献身を称えてもいい。
瑠璃が「え、あたしのぶんは?」と言い出し、琥珀が「ないよ」と応じたところから、だんだん騒がしくなってきたので、俺はすっとリビングを抜け出した。
あの二人、仲がいいんだか悪いんだか。
さて、体調が落ち着いたら、今後の方針を見直すとしよう。
ムリをすべきではない。
俺が生き延びて、琥珀が生き延びて、仲間たちが生き延びることだけを考えよう。
ソフィアのことは、いずれ現れるであろう英雄に任せてもいい。
(続く)