夏
フォルトゥナが協力してくれる限り、チーム・ブラックとチーム・ホワイトが争う必要はない。
しかしソフィアは、俺たちの命を奪いたいから、精霊や自動機械を投入してくるだろう。これを撃退していれば、設定上、いずれ領域の解放となる。
最後のエリアに行けば生命の樹もある。
その命を使えば、異界文書の契約さえ終了させられる。
順調だ。
問題さえ起こらなければ……。
*
その日、帰宅したのは俺が最初だった。
洗面所でざぶざぶと顔を洗い、リビングでスポーツドリンクを一気飲みした。
すっかり夏だ。
部屋は暑いから、俺はエアコンの効いたリビングでテレビを見ることにした。といっても、あまり興味を引くものはないが……。
やがて琥珀が汗だくで帰ってきた。
「ただいまぁ。涼しい!」
「お帰り」
琥珀は洗面所で顔を洗うと、まずは部屋で私服に着替え、またリビングに戻ってきた。半袖と短パン。小学生みたいな格好だ。
「お兄ちゃんも麦茶飲む?」
「いや、いいよ」
「えー」
なぜ「えー」なのだ。
もしかして、俺と一緒に飲みたかったのだろうか。だとしたら悪いことをしたかもしれない。
琥珀はひとりで麦茶を飲み、隣に腰をおろした。なにか面白いことでもあったのか、にこにこしている。
「ね、お兄ちゃん。なぞなぞ出していい?」
「なぞなぞ? まあいいけど……」
この妹はしばしば俺を罠にハメようとする。
今回もきっとそうなんだろう。
「はい、じゃあ一問目。ででん。体の中で、興奮するとおっきくなるのはどーこだ?」
「は?」
ま、まさかこいつ……兄にセクハラを?
いや待て。
琥珀、それは……。
俺が困惑するのも構わず、琥珀は足をバタバタさせて笑いをこらえている。
「分かんないの? あと十秒ね。じゅーう、きゅーう……」
「お前、それさ……」
「はーち、なーな、ろーく、ごーお……」
「待て待て」
「タイムはナシだよ。よーん、さーん、にーい……」
「分からん! 降参だ!」
言うわけにはいかない。
いや言ってもいいが、琥珀の前では言いたくなかった。
「えーっ! じゃあ減点ね。答えは『瞳孔』だよ! 目の中のやつ!」
「はい?」
「じゃあつぎぃ。Hになればなるほどカタくなるもの、なーんだ?」
誰だ、琥珀にこんなこと教えたヤツは!
クラスの男子じゃないだろうな?
もしそうならお兄ちゃん許さんぞ。
「じゅーう、きゅーう、はーち……」
無慈悲なカウントダウンが始まった。
なんとなくだが、以前、誰かに同じようなネタをカマされた記憶があるのだが……。答えが思い出せない。
「なーな、ろーく、ごーお、よーん……」
「えーと、アレだ、アレ!」
「さーん、にーい、いーち、ぜーろ! はい、ぶぶー。答えは『鉛筆』でした!」
「そうだよ、鉛筆だよ」
出てこなかった。知ってたはずなのに。
ここんとこずっとシャーペンだったからな。
俺は思わず盛大な溜め息をついた。
「お前なぁ、急になんなんだよ……」
「くららちゃんに教えてもらったの。面白かった?」
あいつが犯人か!?
いったい俺の妹をどうするつもりなんだよ。
「それさ、あんまり人にやるなよ? びっくりするからさ」
「うん、お兄ちゃんだけにしとくね」
「うむ」
俺にもやらないでくれ。
すると琥珀は、少しだけ椅子を近づけてきた。
「ね、お兄ちゃん、こないだね」
「ん?」
「アルケイナで……。あっちの人たちに謝りに行ったでしょ? あれって、私のせいだよね?」
そう。
予定では俺たちが負けるはずだったのに、つい向こうのメンバーを倒してしまった。
「まあ、きっかけは琥珀だったかもしれんが……。でも許してもらえたよ」
「ごめんなさい。私、お兄ちゃんのこと守りたくて……」
「分かってる。気持ちは分かる。でも、もう解決したからさ。お前は気にしなくていいぞ」
「うん……」
しょぼくれた顔。
もしかして、こっちが本題だったか。
この話をするのが怖かったから、先になぞなぞをやって、場を和ませたのかもしれない。
「お兄ちゃん、耳かきしてあげる」
「は?」
「私、迷惑かけてばっかりだから、なにかお返ししたくて……」
耳かき、だと?
かなり小さいころ、母親にしてもらった記憶はあるが……。
「いや、いいよ」
「なんで?」
「なんか怖いだろ、人にやってもらうの」
「怖くないよ。私、たぶん上手だし。くららちゃんも、とってもいいって言ってくれたよ?」
「そうか。だが俺は遠慮しとく」
内藤くららの感想はアテにならない。琥珀のこととなると、無条件に高評価をつけるはずだからな。俺は自分の身を危険にさらすつもりはない。
「えー、なんで? ちゃんと優しくするから!」
「気持ちだけ受け取っておくよ」
「お兄ちゃん、私のこと信用してないんだ……」
「いや、そうじゃなくてな? 耳はあんまり掃除しないほうがいいって、ネットでも見たしさ。やめておこうぜ」
「いいよ。分かったから」
琥珀はぷいとむくれて、リビングを出ていってしまった。
なにも怒らんでもいいだろうに。
しばらくテレビを眺めていると、瑠璃が帰ってきた。
「やば、涼しい。あ、兄貴、いたの? 琥珀は?」
「部屋にいるよ」
「そ」
いつも通りのそっけない態度。
だが水分を補給し、顔を洗い、部屋で着替えを済ませたかと思うと、大股でリビングに乗り込んできた。
「ちょっと兄貴!」
「なんだ?」
「琥珀のこといじめたでしょ?」
「バカ言うな」
「すっごい落ち込んでるよ!」
怒るのはいいが、なにが原因なのか先に確認してからにして欲しいもんだな。
俺は軽く溜め息をついた。
「あいつ、耳かきしたいとか言い出してな。断ったんだ。そしたら怒っちゃってさ」
「はい? そんだけ? ていうか、いつもの?」
「そうだよ。いつものだよ。だからほっといていいぞ」
「くっだらな……」
瑠璃は部屋に帰るのかと思ったが、なぜか隣の椅子へ腰をおろした。
「でもさ、兄貴、そんなに耳かき嫌いだっけ?」
「恥ずかしいだろ、妹にされんの」
「あー、まあ、ね……」
言いたいことはそれだけだろうか?
俺はリモコンを差し出した。
「好きなの観ていいぞ」
「え、部屋行くの?」
「行かないよ。暑いし。俺、観たいのないからさ」
「兄貴ってそういうとこあるよね」
「なにが?」
「人に譲ってばっか」
「悪いか?」
「べつに。こっちは楽だからいいけど」
俺だってワガママだった時期はある。だけど長男の俺がワガママを言うと、必ず俺が勝ってしまう。すると妹たちを泣かせてしまう。そんなことを繰り返しているうちに、なんだか虚しくなってしまったのだ。
人に親切にしていたほうが、穏やかな気持ちでいられる。
誰も泣かない。
「兄貴、ホントに怒ってないの?」
「どの件だよ?」
「あたしと交代したじゃん……」
まだ気にしてたのか。
俺はふんと鼻で笑った。
「そのことなら、もう済んだろ。俺がなんとかするよ」
だが瑠璃は、なんとも言えない表情でじっとこちらを見つめてきた。
「兄貴、寿命あとどんだけ残ってんの?」
「お前が心配することじゃない」
「こっちは心配して聞いてんの! あたしのせいで兄貴がどうにかなったら、ヤなんだから……」
もし逆の立場なら、自分を許せなくなるかもな。
だが、勝算はある。
「大丈夫だよ。いま順調にいってる。このままいけば、犠牲を出さずにぜんぶ丸く収まる」
「ホント?」
「ホントだよ。俺を誰だと思ってんだ? 未来の大統領だぞ?」
「分かってるけど……。それ、あんま外で言わないほうがいいよ」
「うむ」
言わないようにしてるよ!
つい言ってしまうこともあるが……。
「ところでさ、兄貴、首のとこ……」
「ああ、これか? たぶんプールの授業でぶつけたんだと思う」
「キスマークじゃないよね?」
「はぁ?」
不審そうな目でこちらを見ている。
いや待て。
そもそも、俺にキスするような相手がいるとでも?
「学校でそんなことしてたら、いつかバチが当たるからね」
「違うって言ってんだろ」
*
リビングを出た俺は、洗面所であらためてアザを確認した。
ほぼ円形。こびりついた虚無のように見えないこともない。
話によれば、象徴は、神の変形した姿なのだという。もとは虚無もなんらかの神だったのであろう。
まさか俺の体を乗っ取る気ではないと思うが……。
*
休日、俺たちは集まって訓練をした。
ターゲットをランダムに配置して、フォーメーションを意識しながら、どう攻略するかを決めてゆく。決まったら反復練習。
なのだが、日差しがキツ過ぎる。
俺たちは少し試してはすぐに木陰で休憩した。
体育館でも借りたほうがいいかもしれない。
汗だくでレジャーシートに座り込み、俺は水筒の麦茶を飲み干した。
琥珀が後ろから寄りかかってくる。
「暑いよぉ。お兄ちゃん、なんとかしてぇ」
「くっつくと余計に暑いだろ」
「うん……」
さすがに離れてくれた。
内藤くららが凝視していたせいもあるかもしれない。
まさか琥珀のやつ、わざと友人を挑発してるんじゃなかろうな。
俺はひと息ついて、仲間たちにこう提案した。
「あのさ、一回プールでやってみないか?」
「……」
返事はない。
最初にこれを提案した向井六花さえ、なぜか無言。
瑠璃がジト目を向けてきた。
「兄貴、えっちなこと考えてんじゃないよね?」
「ふざけんな。お前は来なくていいぞ」
「はぁ?」
「こう暑くちゃ、訓練どころじゃないだろ。実際、今日だって休憩時間のほうが長い。まあムリしても体によくないけど。そこで、プールだ。体温もあがりすぎないし、水圧もあるから、きっといいトレーニングになる」
すると上島明菜が愛らしい笑顔で反応した。
「あたし、行きたい。新しい水着買ったし」
見なさい、これがリア充のコミュニケーション能力だ。
瑠璃も少しは見習うように。だいたい、口を開けば俺を攻撃してばっかりなんだから。少しはお兄ちゃんに優しくしたまえよ。
すると向井六花も、なぜか渋々といった様子で応じた。
「私も参加するわ。八十村くんの提案にも一理あるしね」
提案したのは君だろう!
ま、素直にプールに行きたいと言い出せないのは、かわいいところかもしれない。でも俺を犠牲にするのはやめよう。
内藤くららは警戒している。
「ボクは……琥珀ちゃんが来るなら行く……かな……」
すると琥珀は、彼女にしがみついた。
「もちろん行くよ。くららちゃん、どんな水着でくるの?」
「え、普通のだけど……」
「去年と同じの?」
「そうだけど……」
「ふーん」
つまり去年から成長していないということか……。いや、言ったら確実に怒られるな。口は災いのもとだ。
俺はうなずいた。
「じゃあ決まり。スケジュールはあとでスマホに送っておくよ。今日はこれで終わり。ムリはよくない」
実際、みんなくたくたに疲れ切っていた。例外なく汗でびっしょりだ。
瑠璃が肩口に弱パンチしてきた。しょぼくれた顔をしている。
「あたしは?」
「別に来ていいよ」
「さっき来るなって言った」
「冗談だから気にするな」
こいつもたまにめんどくさくなる。
とはいえ、いろいろ準備を手伝ってくれるので助かってはいるのだ。今日だって水筒に麦茶を準備してくれた。塩分補給用のキャンディーも用意してくれたし。琥珀がわがままを言い出したときも、まっさきに対応してくれる。
俺だって、そんな妹を仲間ハズレにするほど鬼ではない。
*
帰宅した俺は、下着を変えてベッドに仰向けになった。
暑さだけで体力を消耗する。
首のアザは消えていないが、大きくなったりもしていない。あまり気にする必要はないかもしれない。
俺は深呼吸とも溜め息ともつかない息を吐いた。
こちらが勝利するための方法は、だいたい分かった。
なのだが、ソフィアを救う方法が分かっていない。俺たちが全領域をクリアしたあと、どうするべきか。
人間界に戻すべきだろうか。
それともフォルトゥナに託すべきか……。
誰かが彼女の死を望んだとき、俺は止められるだろうか。
あの錬金術師はどう思うだろう。
考えていると、頭の中がぐるぐるする。
(続く)