幸運の女神
放課後、帰ろうとしていた俺は、黒塗りの高級車に出くわした。
もちろん榎本将記だ。
他のヤツだったら怖すぎる。
俺は車に乗り込むなり、深く頭をさげた。
「榎本さん、約束を破ったこと、まずはお詫びします。すみませんでした。もちろんこんなことで足りるとは思ってませんし、今度、アルケイナでも……」
すると、クーラーが効いているとはいえ、律儀に赤いジャケットを着ている榎本将記が「黙れ」と静かにつぶやいた。
もちろん黙る。
俺はこの人に頭があがらない。
彼は怒りをしずめるように一度呼吸をし、こう続けた。
「まず、敬語をやめろ。俺たちの立場は対等だ。それと、謝罪は一度でいい。そう何度も頭をさげられると、居心地が悪い」
事前にメールで謝罪はしたが……。
あまりに器がデカすぎる。
なぜこの男が敵なのだろうか。
俺も同じチームになりたかった。
いや、せっかく対等だと言ってくれたのだ。こんなことを言ったら、それこそ侮辱にあたる。
「じゃ、じゃあ……。今日はどんな用で……」
「新たな資料を作った。新バージョンだ。いくらかデータを補足し、誤字脱字を修正してある」
「はぁ」
仕事が細かい。
将来、高級官僚にでもなるのではなかろうか。
心の大統領とか言ってる自分が恥ずかしい。いや恥ずかしくない。俺は俺で立派だ。しかしこの男は、俺の百倍くらい立派だ。
「じつは昨夜、フォルトゥナとも接触した」
「えっ?」
俺が錬金術師と会っている裏で、二人で逢引きとは……。
「お前、異界文書を書き換えたそうだな」
「なぜそれを……」
「使った寿命は三十年。つまり、うちのメンバーが前回失ったのと同じだけ、お前は寿命を消費したというわけだ」
「そ、そうなりま……なるね……」
つい敬語が出てしまう。
榎本将記は白い歯でフッと笑った。
「礼を言うべきだな。だが、あえて言わん。その代わり、お前も前回のことは悔やむな。これで痛み分けだ」
「それでいいなら……」
「だが、フォルトゥナのほうは、思ったより厄介だな。あの女、神界と対立してまで俺たちを助けているようだ」
「ええっ?」
「アルケイナ界の因果律をさだめたのは神々だ。そこへ介入することは、神々への反逆に等しい。だからフォルトゥナも、あまり派手に動けない」
「……」
どうりで動きが鈍かったわけだ。
となると、琥珀が命と引き換えにすべてを書き換えるのが、もっともシンプルな解決策に思えてくる。
絶対にイヤだけど。
「フォルトゥナもそうだが、あの世界の神々は、どうやら全知全能ではないようだな。それぞれが断片的な力しか有していない。一神教の世界観ではなく、多神教の世界観だ。さらに高次な存在もいるのかもしれないが。それは、いまはいい」
「はい」
いつだったかフォルトゥナも言っていた。「私も万能ではない」と。
なのに俺は、なにもできないのかと叱責してしまった。あとで謝らねばならない。
彼はふむとうなって、言葉を続けた。
「ひとつ、いいニュースがある。どうやら今回は、過去のループと少し流れが違っているようだ」
「えっ!?」
飛び上がりそうになった。
いったいどこで変わった?
最後のループだからと、フォルトゥナが歴史を見せてくれたときか?
あるいはさらに別の?
「具体的な転換点は分からない。原因はひとつではなく、多数の細かい要因によるものかもしれない。ともかく、いつもと違うと言っていた。だが、過去と違うからといって、うまくいくとは限らんぞ。新たなバッドエンドを迎える可能性もある。気を抜くべきではない」
「はい」
「敬語はよせ」
「は……うむ……」
残念だが、この畏敬の念は、そうそう簡単には捨てられない。
「俺たちがすべきは、まずは生き延びること。そしてフォルトゥナを説得すること」
「彼女は、動いてくれるかな?」
「難しいだろうな。正攻法では。ただ、俺はひとつ、重大な事実に気がついた」
「それは?」
「この件は、彼女が善意だけで、無償で動いているということだ」
「……」
考えたこともなかった。
神なんだから、人を助けるのは当たり前、くらいに思っていた。
だが、人を助けたところで彼女にメリットはなく、むしろ仲間と対立するデメリットしかないという。
榎本将記はうなずいた。
「俺たちも、彼女のためになにかすべきだと考える」
「もちろん! 俺もなにかしたい!」
「問題は、なにをすべきか、だ。金でなんとかなるなら、俺が動いてもいい。だが、こちらのモノは、向こうには持ち込めない」
「彼女の欲しいものは?」
「分からん。俺たちは、あの女についてあまりに知らなすぎる」
「たしかに」
そうだ。
ハッキリ言って、名前しか知らない。
榎本将記は資料をめくった。
「いちおう、フォルトゥナに関する情報も集たが……。ウィキペディアで十分だった」
ローマ神話に出てくる幸運の女神、とある。
もちろん趣味や年齢などは書かれていない。
幸運の女神なのだから、欲しいものはいくらでも手に入りそうなものだが。いや、あるいは他人に幸運をもたらすことはできるが、自分のことはそうでもないのかもしれない。
なにも思いつかない。
だが、そういうときはどうすればいいか、俺は知っている。
「みんなとも相談してみるよ」
「お前のチームは女ばかりだったな。いいだろう。任せる」
*
帰りの電車、俺はチャットツールでみんなに投げかけた。
『フォルトゥナをねぎらいたい』
すると最近グループに参加した瑠璃が、こう返してきた。
『兄貴さぁ……』
むやみに冷たい。
内藤くららからは、謎の魚スタンプが一回。イミフと言いたいのだろう。
俺はこう補足した。
『彼女は自己を犠牲にして俺たちに力を貸しているんだ』
『神界と対立するリスクをおかしてな』
『なにか返してやりたい』
内藤くららが、珍しく文字で返事をよこした。
『先輩がデートでもしてあげたら?』
こいつ……。
即座に反応したのは琥珀だ。
『くららちゃん、あとでちょっとお話ししようね?』
一瞬で空気がピリついた。
琥珀はたまに怖いときがある。いや最近ずっと怖い。
内藤くららも謎の魚スタンプを送ったきり、無言になってしまった。
こういうとき雰囲気をよくしてくれるのは上島明菜だ。
『だったらさ、今度みんなでお喋りしない?』
『そしたらフォルトゥナさんの好きなこととか分かるかも』
『ね?』
かわいい。
向井六花は部活中だろう。剣道部をやめるとは言ったが、まだ実行していないはず。さすがに俺も止めたし。
『分かった』
『今度みんなで会ったら』
『そうしよう』
*
帰宅すると、猛ダッシュで琥珀が駆け寄ってきた。
まだ制服姿だ。
「お兄ちゃん! デートなんてダメだからね!」
「分かってるよ」
「くららちゃん、ひどいよ! 変なことばっかり言って! お兄ちゃんは誰のものでもないんだから!」
「うむ……」
小さな子供みたいに、跳ねながら怒っている。
かわいい妹だ。
だが、そのうち成長したら、しれっと彼氏でも作るんだろう。
そうなれば俺の子守も終了というわけだ。
なんだか寂しいけれど……。
「ね、お兄ちゃん。そこのスーパーでチョコ買ってきちゃった。食べよ?」
「おお、いっぱいあるな」
テーブルにはいろんな種類の十円チョコがぶちまけられていた。
「はいどうぞ。これお兄ちゃんが好きなやつ」
「サンキュー」
正確には俺が好きなヤツじゃなくて、琥珀があんまり好きじゃないヤツなのだが。まあよかろう。こうして兄をたくみに利用するのも、妹の特権というヤツだ。
かわいいから許すぞ。
「お兄ちゃん、観たいテレビある?」
「いや、お前が観たいのでいいよ」
「じゃあニュースね。お兄ちゃん、大統領になるんだから、ニュースみないとダメだよ」
「おう」
「コーヒー飲む? 紅茶?」
「自分でやるよ」
「えーっ!」
琥珀にやらせると、瑠璃がうるさいからな。
俺は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。
ニュースは相変わらずロクでもないものばかり。
政治家の不正疑惑。
なのに、まともな答弁もない。
それでも、なんとなく社会は回っているように見える。
よく分からない。
ネットを見ても対立ばかり。
なにが正しいのか、俺の頭じゃ分からない。ある情報を見てはうっかり納得し、逆の情報を見てはうっかり納得してしまう。俺はなにも判断しないほうがいいのかもしれない。
大人になれば分かるようになるのだろうか。
だが、その大人が毎日のようにケンカしている。
「琥珀、政治に興味あるのか?」
「んー。ないけど……。でもお勉強しないとだから……」
「偉いな」
「お兄ちゃんも勉強しよ? 大統領になるんでしょ?」
「俺は心の大統領なんだよ」
「えぅー?」
意味は分からないが、質問するのも気が引ける、といった態度だ。
すまんな、琥珀。
俺にもよく分からんのだ……。
*
少し早めにシャワーを浴びて、俺は部屋に戻った。
新たな事実をノートに書き記すのだ。新資料ももらったし。内容はほとんど前回と同じだけど。
作業をしていると、スマホが鳴った。
向井六花からだ。
『剣道部、もう少し続けてみる』
簡潔な内容だったが、俺は嬉しくなった。
ちゃんと自分で決めて、それを報告してくれたのだ。
『それがいいよ!』
『応援してる!』
自分のことみたいに嬉しい。
彼女はまだ二年生だ。大会なら来年もある。大学生や社会人になってから続けてもいい。諦めるのは早すぎる。
『ありがとう』
『自分に自信が持てそう』
『八十村くんに相談してよかった』
『アルケイナのことは心配しないでいい』
『そっちは俺が全力でなんとかする』
『無理しないで』
『困ったら私に相談すること』
『オーケー』
最初は会話さえしてくれなかったのに、友達みたいにチャットしている。
戦場でも頼りになる。
彼女と同じチームでよかった。
案外、これも幸運の女神のお導きかもしれない。
素直に感謝しないとな。
(続く)