オーバーライト
その夜――。
巨大な月ののぼる青白い砂浜へ、俺は呼び出されていた。
小さな岩に腰かけた老人もいる。
「ついに知ったのだな……」
男はそうつぶやいた。
ついに、ということは、過去の俺は知らぬままだった、ということだ。
「全部じゃありませんが、概要くらいは。あらためて、あなたの目的を教えてもらえませんか?」
俺はもう遠慮もなく尋ねた。
こざかしいやり取りをしたところで、時間をムダにするだけだ。
老人はかすかに息を吐いた。
「アルケイナから、ソフィアを解き放って欲しい」
「なら方針は一緒だ。けど、そのためには神々と対話する必要があります」
「だがお前では、神々と対話することはできない。できるとすればフォルトゥナだが、あの女はそれをしない」
なら手詰まりではないか。
俺が唖然としていると、彼はこう続けた。
「じつをいうとな、お前にはさほど期待しておらぬのだ。早くループが終わって、別の誰かが来てくれればと思っている」
本人を前にして、堂々とナメたことを言う。
だが、いちいちムカついている場合じゃない。俺は余計な感情を捨て去り、こう応じた。
「俺のなにが問題なんです?」
「妹だ」
「琥珀?」
「大事なのは、あの娘の象徴、石板だ。お前には、あれがなんなのか分かるか?」
「やけに強い武器、としか……」
自分でも、回答が低レベルなのは分かっているが。本当にそうとしか思えないのだから仕方がない。
老人は小馬鹿にしたように目を細めた。
「まあいい。タブラ・ラサとは、磨かれたままの板を意味する。つまり、なにも表記されていない石板だ。言い換えれば、無限の可能性を秘めている。ゆえに異界文書としても機能する」
「は?」
「アルケイナ界の因果律に直接干渉できる。もちろん枷鎖はかけられているが」
「じゃあ、琥珀ならゲームを終わらせることができるっていうんですか?」
「ああ。命と引換えにな」
「……」
このことか、フォルトゥナが言っていたのは。
彼女は以前、琥珀の命が鍵だと教えてくれた。
老人は疲れ切ったように溜め息をついた。
「どう誘導しても、過去のお前はそれをしようとはしなかった。きっと今回もそうだろう。やろうがやるまいが、あの娘は命を落とすというのに……」
「……」
いや、ダメだ。
絶対にダメだ。
琥珀の命だけは、なにがどうあっても守るのだ。
こんな方法は受け入れられない。
俺は頭をフル回転させた。
ほかに手があるはずだ。
「そもそも、なぜ俺に声をかけたんです? 琥珀ではなく、俺に接触を試みたってことは、別の可能性を探ってたってことでしょ?」
すると老人は、片眉をつりあげた。
「よく気がつくな。お前の虚無は、あらゆるものに姿を変える。その気になれば、異界文書にもな」
「え、じゃあ……」
「だが所詮は贋作。完全には機能しない」
「でも、少しは機能する……」
「そうだ。一部の記述を書き換えるくらいはな。いまやってみろ。枷鎖のない状態なら、それなりに似せることができる」
俺は琥珀の石板を意識しながら、虚無を変形させた。
できあがったのは黒い石板。
老人は目を細め、しげしげとそれを眺めた。
「まあいいだろう。おそらく機能する」
「で、どうすれば?」
「言葉で語る必要はない。イメージでアクセスしろ。それで読める。だが、手をつける前に忠告しておくぞ。これは因果律に関わることだ。交わりが深ければ深いほど、お前の命はすり減ってゆく」
「えっ?」
嫌な予感がした。
琥珀はこれを使って戦っている。
しかも力を使ったあと、必ずフラフラになっている。
「読むだけならいい。だが書き換えるとき、相応のエネルギーが必要となる」
「琥珀は? あいつ、これを使って戦ってるんです! 平気なんですか?」
「無害とは言い切れぬが、書き換えるのとはわけが違う。あの娘は、あくまで記述内容を『引用』しているだけだ。倒れるまで使っても、寿命は一年も減るまい」
寿命なら三百年ある。
一年や二年なら、なんとか許容範囲か……。
俺は深呼吸を繰り返した。
「で、どこをどう書き換えたら……」
「まずは『審判』の使用権を、ソフィアから隔離しろ。そうすれば、今後もお前たちが独占的に使用することができる。現状のままでは、ソフィアの使用中は、フォルトゥナは使用できない」
「分かりました」
これは重要だ。
試合を無効にできなければ、俺たちは戦わざるをえなくなる。
俺は石板に意識を集中し、イメージで語りかけた。どこにその記述があるかは、石板自体が教えてくれた。俺は言われた通りのイメージで、記述を上書きする。
「はぁっ」
ふっと意識が飛びそうになり、俺はその場に座り込んだ。
書き換えた直後、体の内側からエネルギーを吸い出されるような感覚に襲われた。
「俺、いまどのくらい吸われたんです?」
「約十五年といったところだ。俺が代わってやりたいところだが、あいにく、すでに命と呼べるものを有しておらんのでな。ここにいるのも残像に過ぎん。過去の契約を駆使して、なんとか存在しているように見せかけている」
「大丈夫。自分でやりますよ」
思ったより減ってしまったが。
残り八十年だった寿命は、これで六十五年。いまの年齢を足してみると、それでも八十二までは生きる計算だ。まあ悪くない。
俺はふと疑問に思い、こう尋ねた。
「ところで、俺は過去にもこれを?」
「ああ、やった」
やったということは、その上でうまく行かなかったということだ。
この老人が俺に期待しないのもムリはない。
「次はどこを書き換えれば?」
「山ほどあるが、お前の寿命を使い切るわけにもいかんからな。最低限必要なところだけにしよう。次は自動機械の強さだ」
「自動機械? あんなのどれだけいても平気ですよ」
これまで死者など出なかった。
寿命を使って調整する必要性を感じない。
老人はふんと鼻を鳴らした。
「ソフィアが手加減していただけだ。本気になれば、とてつもない殺戮兵器となる。お前たちが戦闘を放棄したいま、ソフィアはアレを投入する可能性がある。書き換えるかどうかはお前の判断でいいが、読むだけ読んでおけ」
「はぁ」
石板に意識を集中。
該当する記述を読み取った。
これは老人の言う通りだった。
最初のエリアに出てきた自動機械は、本当に、お遊び程度の動きしかしていなかった。その気になれば、全固体が一斉にビームを放つことだってできた。そしたら俺たちは一瞬で蜂の巣だ。
ここで命を惜しんだら、本当に妹を救えなくなる。
いや、琥珀だけじゃない。仲間たちだって同じだ。俺は誰にも傷ついて欲しくない。それなら寿命の十年や二十年……。惜しいことは惜しいが、すべてを失うよりはマシだ。
ふとした拍子に、記憶の中の自分が、青白い顔で懐古することがある。
あのときああしていれば、と。
その「あのとき」が「いま」なのだ。
俺はやる。
自動機械の戦闘能力を、最小限まで引き下げてやる。
「うっ……。吐きそう……」
命を吸い取られたせいか、吐くものもないのに、吐き気だけがする。
老人は神妙な顔で空を見上げた。
「また十五年……。もう十分だ」
「けど、これでゲームが終わるとは思えません」
「もちろん終わらんさ。だが、これ以上はお前の命がもたん。それに、重要なのは、お前たちが戦場で殺されぬようにすることだ。さすればフォルトゥナの負担も減る」
「……」
俺は呼吸を繰り返した。
内臓にかなりの負担がかかっている。
実生活にも影響が出るだろう。
「けど、フォルトゥナはいったいなにを考えてるんです? 俺たちを助けてくれる気はあるみたいですけど、一向に動きが見えません」
すると老人は、哀しげに目を細めた。
「あの女は、神の一族だ。お前たちのような若者を救うため、何度も壁を超えて世界を行き来している。簡単なことではない」
「神? だったら、契約について見直してくれても……」
「それは本人に直接聞くがいい。俺が喋れば、因果律に影響する」
「なんなんですか因果律って」
ルールなのは分かる。
壊せば予測不能なことが起こるということも。
だが、具体的にどういうルールかが分からない。
老人は肩をすくめた。
「俺にも分からん。だが、言うべきでないという感覚が強く働く。もし言えば、おそらくその直前に、なんらかの摂理で俺の存在は消滅する。おそらくループの影響だろう。未来というものは、容易に変わらんようになっておるのだ。それでも未来を変えたくば、お前自身が神にでもなるしかない。皮肉な話だが」
もし神になるなら、生命の樹を育て、その実を食わねばならない。
俺がソフィアの代わりをやる、ということだ。
このゲームを壊したいヤツが、このゲームに依存するハメになるのだ。
皮肉なんてもんじゃない。
「ともあれ、お前は十分に命を使った。それだけの効果は得られるだろう」
「はい」
過去にもやったことだ。
未来は変わらない。
それでも、やらなければ、過去よりひどい結果になる。
やるべきだったのだ。
*
翌日、俺はフラフラしたまま高校へ向かった。
授業中はずっとへばっていた。
教師も顔色を心配して、突っ伏している俺を叱らなかった。ただ、どうしてもダメなときは保健室へ行くよう進められた。
昼、向井六花と食事。
試合についてフォローしてやりたかったが、むしろこっちが顔色を心配されてしまった。
「無理しないで早退したほうがいいと思う」
自分だって傷ついているはずなのに、俺のことを気にしてくれるなんて。
「いや、大丈夫。寝て治るたぐいのものじゃないし。そのうちおさまると思う」
「夢の中でなにかあったの?」
「いや、まあ……たいしたことじゃないよ」
本当のことも言えず、かといってウソも言えず、俺は曖昧な返事をしてしまった。
みんなのために寿命を三十年使ったと伝えれば、きっと気にするはずだ。これはあくまで俺が俺のためにしたこと。教える必要はない。
「ところで、さ……」
向井六花は、箸を持つ手を止めた。
視線を弁当に向けたまま、言いづらそうにしている。
きっと試合のことだ。
「試合、見てたよ」
「三位決定戦も、負けちゃって……」
「うん。それも見てた」
言葉が思い浮かばない。
ただ、絶対に卑下だけはして欲しくなかった。
試合が始まってしまえば、互いの事情など関係ない。試合は、あくまで試合内容のみで決まる。誰もが全力で戦った。俺は凄い試合だと思って見てた。みんな胸を張っていい。
「俺、剣道やったことないから分からないけどさ。むかし、ちょっと忍術の道場に通ってて……。でも試合なんてなかったし……。忍術も教えてもらえなかった」
「えっ?」
なに言ってんだこいつ、という顔。
俺も妙な流れを作ってしまったとは思ったが、言葉を続けた。
「真剣に、人と戦ったことなかったんだ」
「忍術?」
「いや、いちおうは実践的な……。ほとんどスポーツジムというか……」
「手裏剣投げるの?」
「投げたけど……」
予想外に食いついてきた。
興味津々、というよりは、ちょっと小馬鹿にした感じだ。
いや、いい。
それで元気が出るなら。
「座学もあったよ。敵とは戦わず逃げるべし。どうしても戦うなら卑怯な手を使えってね。正面からぶつかり合う剣道とは真逆で」
「忍者っぽいね」
「人を傷つける技もあったけど、あんまりヘビーなのは教えてくれなかった。その代わり、安全に転ぶための受け身の練習とか、人が傷ついたときの応急処置とか、そんなのばっか。勝つことよりも、生き延びることのほうがメインだったから」
「そうなんだ」
なぜか、彼女は急に笑顔になった。
かと思うと、そのまま急にぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「あ、ごめん。泣くつもりじゃ……」
そう言って慌ててハンカチで涙をぬぐい始めた。
緊張の糸が切れたのかもしれない。
俺のくだらない話で、抑え込んでいたものが溢れてきたのだろう。
「いいよ。俺もこないだ泣いたしね。妹まで一緒にさ」
「うん……ごめんね……すぐ泣きやむから……」
「大丈夫。時間はあるし。その間、弁当食べてるよ。俺も栄養つけないと」
「うん……」
嫌な時間じゃなかった。
彼女は、ずっと笑顔のまま泣いていた。
きっと吹っ切れたのだ。
ひとしきり泣いてから、彼女はこうつぶやいた。
「私、剣道やめようと思ってる」
「えっ」
「もっと大事なこと、見つけたから」
「大事なことって……」
「アルケイナの戦いに集中する。八十村くんも手伝って。卑怯な戦い方、知りたいの」
いい笑顔だ。
だが、いいのだろうか?
剣道、あんなに頑張ってたじゃないか……。
(続く)