夏服
また目覚ましより先に起きた。
せっかくなので、榎本将記に報告のメールを打っておこう。
フォルトゥナの力で世界がループしていること。
このままじゃ俺たちはソフィアに勝てないこと。
だが、書けたのはそこまでだった。俺だけが生き延びることや、その他のメンバーが死ぬことは書けなかった。もしかすると、この選択で未来が変わるかもしれないのに……。
朝食のとき、家族に心配されるほど顔色がよくなかった。
琥珀が「お兄ちゃん、大丈夫?」と声をかけてきたが、その顔を見ることさえできなかった。
俺のせいで死んでしまうかもしれない妹。
絶対に守ると決めたのに……。
俺は、親の制止を振り切って登校した。
授業なんて頭に入らないだろう。
でも、家にはいたくなかった。
昼休み、また向井六花が迎えに来た。
だが、俺は「一人にしてくれ」と誘いを断り、教室に残った。一人で弁当を食うのはなれている。クラスメイトの視線にさらされていたが、どうでもよかった。
ずっと琥珀のことだけを考えている。
あいつは、本来なら双子として生まれてくるはずだった。
当時、俺はまだ三歳だったが、細部まで記憶に残っている。母の腹が大きくなり、妹がふたりも増えると言われ、無邪気に興奮していた。
だけどある日、父親がビールを飲みながら泣いているのを見てしまった。
戻ってきた母親は、赤ん坊を一人しか連れてこなかった。
「お星さまになったの」
そう説明されたが、そもそも子供が星になるという現象を理解できず、俺は余計に混乱した。どこかに隠してるんじゃないかとさえ疑った。
成長するにつれ、死んだことが分かった。
俺は瑠璃と相談して、琥珀のことだけは絶対に守ろうと約束した。
ケンカしたことがないわけじゃない。
だけど、泣き顔を見ると急に胸が苦しくなった。
俺が守らなくちゃいけない。
そのためには強くないと。
一番強いヤツは誰なんだ?
そう考えた俺がなんとか見つけたのが「大統領」だった。
もちろん近所のガキどもにはバカにされた。大人にさえ笑われた。だけど構わなかった。俺は可能な限り強くなって、琥珀と、そして瑠璃を守るのだ。
もっとも、いまはまだ何者にもなれていないどころか、ほとんど孤立してるザマだけど。
それでも心は……心だけは腐らせてはいけない。
*
放課後、黒塗りの高級車に出くわした。
榎本将記が対話に来たのだ。
俺は躊躇なく車に乗り込んだ。
「メールを見た。にわかには信じがたい内容だったが……」
彼は困惑気味にオールバックの髪をなでつけた。
世界はループしている。
ただし、それも無限ではない。フォルトゥナの打ち込んだ「楔」が壊れたら、もう戻れなくなる。
「榎本さん、俺、状況を変えたいんだ。なにかできることがあれば教えて欲しい」
「フォルトゥナは協力してくれそうなのか?」
「希望を失ってる様子だった。アテにならないかもしれない」
「粘り強く交渉しろ。ほかに手はない」
俺は唖然とした。
この男には、自分たちでどうにかしようという考えはないのだろうか。
「なんでそう断言できるんだ? あの女に頼らない方法があるはずだ」
俺がそう反論すると、榎本将記は不快そうに片眉をつりあげた。
「ではその方法とやらを聞こうか」
「それは……」
「俺は可能な限りの情報を集め、それらを精査した上で、フォルトゥナの力が必要だと結論した。だがお前はどうだ? ただの被害妄想だ。感情論を喚き散らすだけなら、俺の提案を受け入れたらどうだ?」
「……」
心底ムカつくが、これが論破というやつだ。
俺の発言には、根拠がひとつもない。
彼の発言には、いちおうある。
「けど……これまでも、きっとフォルトゥナに頼って失敗したんだ……」
「なら、あの女が俺たちに協力した上で、さらに別のなにかが必要ということだ」
「……」
涙が出そうになった。
この男に論破されたからじゃない。彼の言う「別のなにか」の答えが、琥珀の命だからだ。言えるわけがない。
榎本将記は溜め息とともに、窓の外へ視線をやった。
「失望だな。俺の行く手をはばもうとする敵が、この程度とは……」
「どういう……」
「いいか? どんな英雄でも、この世界全体を救済したことはない。誰かを救済した場合には、必ず誰かを犠牲にしている。すべてを救おうなどと考えるな。ベストな結果を得られないなら、モアベターで妥協することを覚えろ。二兎を追えば、最終的にすべてを失うぞ」
ご立派だな。
だが、きっと一理ある。
過去の俺は、すべてを救おうとして、その結果、俺以外の全員を死なせている。妥協が必要なのだ。
つまり琥珀の命を捧げて、琥珀以外のみんなを救うという選択。
だが納得できない。
いったい、なぜ琥珀の命が犠牲にならねばならんのだ。
あのとき感情的になって、フォルトゥナに確認するのを忘れてしまった。次はもっと冷静に話し合わなくては……。冷静に……。
駅の駐車場に入ったところで、いきなりドアがノックされた。
違法駐車ではないはずだが……。
「開けて! 開けなさい!」
女の声だ。
見ると、向井六花が車のドアを乱暴にガチャガチャやっていた。
いったいなぜ……。
榎本将記が運転席に「開けてくれ」と告げると、ロックが外れた。
途端、ドアががばと勢いよく開いた。
「まったく……二人だけで……」
かなり息を切らせていた。
もしかすると学校からここまで、自転車で追ってきたのかもしれない。
「八十村くん、詰めて」
「ん、ああ……」
言われて、俺は榎本将記のほうへ詰めた。
向井六花も乗り込んできて、せっかくゆったりした高級車が、寿司詰め状態になってしまった。
榎本将記も苦い笑みだ。
「いったいなんの用だ?」
「私も話に混ぜてください」
「あいにく、これはリーダー同士のミーティングでな。慌てずとも、メンバーへはのちほど通達される予定だ」
「そうですか。じゃあ私のことは気にせず、勝手に続けてください。はいどうぞ」
かなり怒っている。
律儀に赤い上着を着ている榎本将記はともかく、俺も向井六花ももう夏服だ。
外はやや暑い。自転車を飛ばせば、それだけで汗をかく。
向井六花は怒りもあいまって、かなり興奮気味に呼吸を繰り返していた。怖くてミーティングどころではない。
榎本将記は肩をすくめた。
「それで? なにか発言は? なければ、もうこの話は終わりだ。俺の提案を受け入れてもらう」
これには俺が返事をせねば。
「もっといい方法があるはず」
「ふん。そんな時間があるとは思えんがな。俺たちの直接対決までもうすぐだ。もしお前が、俺の想像よりも愚かな男なら、次が最後の機会となるだろう」
「俺は、諦めるつもりはない。全員救ってみせる」
「もう行っていいぞ。対話は終わりだ」
*
俺たちが降りると、車はターンして行ってしまった。
残された俺たちは、しばらくその姿を見送った。
日本の青い空。
スズメたちが追いかけっこをして遊んでいる。
隣から、盛大な溜め息が聞こえてきた。
「はぁー。八十村くん、いくらなんでも自分勝手だよ」
「あいつのほうから来たんだ」
「そういうことじゃないでしょ!? ずっと一人でふさぎ込んで! 私たち、仲間なんだから! 困ったことがあったら言ってよ!」
こんな暑苦しいセリフを、通行人がぎょっとするような声で言う。おかげで他校の生徒が「なにあれ?」と笑っていた。
ま、それくらいまっすぐな人、ということだ。
「ごめん。君の言う通りだ。謝るよ」
「八十村くんのせいで部活もサボっちゃった……」
「代わりと言っちゃなんだけど、向井さん、ちょっと俺のことひっぱたいてくれないか? それで目がさめると思う」
パァン、と、凄まじい音がした。
返事より先に手が出たな。そもそも、最初からひっぱたきたかったのかもしれない。
「どう? まだ足りない?」
「いや、じゅうぶんだよ」
想定の十倍は痛い。
妹たちの攻撃にはなれていたつもりだったが、あんなのとは比較にならない破壊力だ。剣道部のエースをナメていた。だが、おかげで、完全に目がさめた。
「公園」
向井六花が、いきなりそんなことを言い出した。
「なに? お説教?」
「違う。お昼のお弁当、あまってるから食べて。私もおなか空いちゃったし」
「そうしよう」
駅の近くに小さな公園がある。
幸いなことに、ヤンキーが溜まっているということはない。なにせ主婦たちが小さな子供を遊ばせており、警察官も巡回している。
俺たちはベンチに並んで座った。
「まだ痛む?」
全力でカマした自覚があるのかもしれない。もしくは赤くはれているのかも。
向井六花は、心配そうに顔を覗き込んできた。体をかたむけるたび、ポニーテールの揺れるのが可愛らしい。
「大丈夫。ちょっとジンジンするけど」
「もう少し手加減しようと思ったんだけど、つい力が入っちゃった。でもスッキリした!」
「それはよかったよ……」
それから、静かにおかずをつまんだ。
ピクニックでもしているみたいだ。
子供たちが「あー、デートしてるー」などとからかってきたが、俺たちは無視した。デートではない。ただあまったおかずを食べているだけだ。
だが、向井六花が、急にそわそわし始めた。
「あの、八十村くん、さ……。ひとつ質問なんだけど……」
「えっ?」
「もしかして、なんだけど……その……」
「うん……」
なんだ?
まさか?
来るのか……。
い、いや、いまはそんなことをしている場合では……。
ヘタすると妹たちにも知られる可能性があるし。
向井六花は小さく呼吸をし、それからこう続けた。
「榎本さんと……えっと、つまり男の人同士で……そういう関係だったり……」
「違うよ」
おい!
なんだこの女は。
付き合ってるわけないだろ。空気読めよ。ブレねぇな。
「でも、意外とそういうのも、あるのかなーって……」
「ない! 俺はいま妹をどうするかで手一杯なの」
「あ、じゃあ妹さんと……」
「違うよ。いったい君はなにを想像してるんだ? どうせ普段からそんなことばっかり考えてるんだろ……」
「はい? それ以外のことも考えてるよ! バカにしないで!」
まあそうだな。
それ以外のことを考えていなかったら、まともに生きていけないだろう。
俺はつい口を滑らせた。
「つーかさ、そういう自分はどうなのよ? 誰か好きな人いないの?」
「えっ……」
目を丸くしてしまった。
予想外みたいな顔。
人のことはさんざんいじっておいて。
「君は美人なんだし、いろいろ言ってくるヤツいるだろ」
「い、いる……けど……」
「けど?」
すると彼女は、みるみる暗い表情になってしまった。
というか、瞳をうるませて、泣きそうな顔だ。
「私……私の相手は……親が決めるから……」
「えっ?」
「だから、いいの。私のことは」
「そんな……」
「もう片付けるね」
まだ少し残っていたが、向井六花はおかずの入っていたパックを片付けてしまった。
俺は、その姿を眺めることしかできなかった。
もしかすると彼女は、自分が恋を楽しめないから、やむをえず他人のことをあれこれ想像して楽しんでいたのかもしれない。
胸が痛い。
なんで……なんでこんなに理不尽なことばかりなんだ、この世界は……。
のどかな空、電車の走る音、子供たちのはしゃぐ声――。
とても平和な時間が流れているはずなのに。
世界は、一人の少女を苦しめている。
(続く)