チェンジリング
昼、またしても向井六花に呼び出された。
ふたりきり。
たまに廊下から中を覗いてくるヤツもいるが、すぐにどこかへ行ってしまう。
「八十村くんに聞きたいことが」
「うん」
デジャヴだな。
前にも同じような会話をした。
「あの……。八十村くん、あのフォルトゥナって人と知り合いなの?」
「分からない」
「えっ!?」
少し強めの、問い詰めるような口調。
普段はおとなしくしているが、ときおり武闘派の側面を見せてくる。
「いや、だから、あっちでも言ったけど、記憶が曖昧でさ……。なぜか顔と名前だけ知ってる状態で。きっとどこかで見たんだとは思うけど。でもあの感じ、君も見たでしょ? 取り付く島もないっていうかさ……」
率直に言って、哀しかった。
なにを聞いても答えてくれない。あきらめきったような目でこちらを凝視するだけ。俺がなにかしたというのか。
彼女は「忘れて」などと言うが、そもそも俺が記憶を取り戻さなければ、なにが問題なのかさえ分からない。
向井六花は心配そうに顔を覗き込んできた。
「本当なの?」
「本当だよ。いったいなにが起きてるのか、俺が知りたいくらいだし」
「そう……。追い詰めるようなこと言っちゃってごめん。今日もお弁当作ってきたから、よかったら食べて?」
「ありがと……」
自分で作ってるんだろうか?
またしても小分けのパックに大量のおかずが詰められている。前回もらったのは、どれもうまかった。
だが、量が多すぎる。また分量を間違えたのか? それともやはり、俺に食わせるために……。
俺の弁当、そんなに貧相に見えるのかな?
運動部の彼女からすれば、心配になる量なのかもしれないけど。
食事をしていると、向井六花は祖母のようにあれこれすすめてくる。「これも食べて」「これも食べて」「味はどう?」などなど……。
ふと、コンコンとドアがノックされた。
食事中だというのに。
これまでも野次馬はいたが、乗り込んでくるような輩はいなかった。だが、ついに一線を超える不届き者が現れたようだ。
俺が立ち上がろうとすると、向井六花は「待って」と制した。
「私が行く。ここ、剣道部の部室だし」
「分かった」
まあ、それもそうだ。部室に用があるということは、部の関係者だろう。
だが彼女がドアへ行く前に、客人のほうからドアを開いた。
「失礼します」
女子生徒だ。
それも、俺のよく知る顔。
八十村瑠璃。
そしてなにより驚いたのは、向井六花の反応だ。
「瑠璃さん、なぜここに……」
なぜ名前を知っている?
知り合いだったのか?
いや、接点なんてないはず。かたや剣道部のエース。かたやバレーボール部員の補欠。学年だって違う。
瑠璃はまっすぐ俺のところへ来た。
「兄貴、なにやってんの?」
「は?」
「こんなことしてる場合じゃないでしょ?」
怒られている理由がまったく分からない。
「なんだよ? じゃあ、なにをしてる場合なんだ? 昼休みにメシ食わないで、なにしろっつーんだよ?」
「それは……だけど……」
急にしゅんとしてしまった。
俺は妹が弱った顔をしていると、反射的に許してしまう。たぶんよくない癖だと思うのだが。
「な、なんだよ。事情があるならちゃんと説明してくれよ。聞くからさ」
「だから……兄貴、いろいろ大変な時期だし……」
「ん?」
「女の子と仲良くしてる場合じゃないっていうか……」
いろいろ大変な時期?
もちろんそうだ。
問題は、なぜこいつが俺の事情を知っているのか、ということだ。
向井六花はドアを閉めると、自分の席に腰をおろした。
「椅子、あるわよ。あなたも座ったら?」
「大丈夫です。すぐ帰りますから」
「ずいぶん怒ってるみたいだけど、あなたにその権利があるの? 事情、まだ話してないんでしょ?」
「先輩はちょっと黙っててください」
怖いもの知らずというかなんというか。
そもそもこの二人は、いったいどんな関係なんだろう。
事情とやらも気になる。
俺はしかしこういうとき、焦らない。
「瑠璃、話は帰ってから聞くよ。理由があるなら怒ってもいい。もし悪いことしてるなら、俺も謝る。だけど、いきなり乗り込んできて一方的にあれこれ言うのは、ちょっとどうかと思うぞ?」
「兄貴……」
泣きそうな顔になっている。
俺も泣きそうになるからやめて欲しい。
最後に瑠璃を泣かせたのはいつだったか。
俺だって完璧な人間じゃないから、気に食わないことがあれば、たびたび妹を泣かせてきた。けれども、そのたび心が痛くなった。どうしようもなく苦しくなる。
俺は男だし、兄なのだから、もっと優しくするべきなんだとは思う。親はあまり、そういうことを言わないようにしているみたいだが。
もし……もし誰かがこの世を去ってしまうなんてことになったとき、最後にケンカしていたら、絶対につらい。それは瑠璃だって分かっているはず。
「瑠璃、言いにくかったら、ちょっとずつでもいいぞ。とにかく、せめて考えるヒントくらいくれな? こっちだって、いきなり言われたら困るから」
「うん……。ごめんね、兄貴……」
「おう」
なんだか大袈裟な気もするが。
すると、ずず、と、鼻をすする音が聞こえてきた。
瑠璃じゃない。
なぜか向井六花が泣いていた。
「ええっ? なんで急に……」
すると瑠璃まで泣き出した。
いったいなんなのだこの二人は。
なにか深刻な裏事情でもあるというのか……。
「言えないよ! あたし、兄貴にひどいことしたもん!」
「……」
まさか、俺のデスクの引き出しを勝手に開けて、黒歴史ノートを見たんじゃないだろうな? いや、そんな泣き方じゃない。瑠璃はそんなことで泣いたりしない。むしろニヤニヤしながらノートを見せつけてくるはずだ。
それに、もしそうなら向井六花だって泣くわけがない。
えーとあとは……。
俺が中学のとき、告白してもいないクラスメイトにフラれたこととか……。遠足のときにトイレを我慢しすぎて、みんなの前で巨大なガス音を放ってしまったことか……。
ああ、忘れたい!
こんなどうでもいいことは覚えているのに、肝心なことはなにも覚えていない。
向井六花は涙をぬぐいながら、ようやく口を開いた。
「瑠璃さん、もう言ったほうが……」
「ムリですよ……」
「でもこのままじゃ、誰も救われないわ。本当のことを言ったほうがいい」
「だって……そしたらもう……あたし……」
「ダメよ。じゃあ私が言う。八十村くんだって、知る権利があるでしょ?」
「……」
観念したのか、瑠璃は消え入りそうな声で「はい」とつぶやいたきり、うつむいてしまった。
「八十村くん、よく聞いて。アルケイナ界の話よ」
「えっ?」
あの話に、瑠璃が関係しているのか?
うつむいているから、瑠璃の顔は見えない。
向井六花は沈痛な表情で、いちど呼吸をした。
「八十村くん、みんなより少し遅れてきたでしょ? ホントはね、瑠璃さんの代わりなの」
「はっ?」
代わり?
意味が分からない……。
「瑠璃さんね、ソフィアに頼んであなたに仕事を交代してもらったの。だから本当は、戦士に選ばれたのは彼女。あなたはその代理というわけ」
頭が真っ白になった。
瑠璃は、俺を売ったのか?
まだうつむいている。
しゃくりあげながら。
小さな肩が震えている。
幼いころを思い出す。
ちょっといじめてしまうと、瑠璃はすぐに泣いた。
そのたびに俺も傷ついた。
自分で妹を傷つけておきながら、勝手に傷ついていたのだ。
俺は泣いている妹に弱い。
それ以上でもそれ以下でもない。
結論はすぐに出た。
「上等じゃねぇか。いい判断だぞ、瑠璃」
「えっ」
「いいか? 俺はな、お前の兄なんだよ。この程度のことでゴチャゴチャ言わねぇよ。だから泣くな。俺は、お前が危険な目にあってるほうが許せん。だからこれでいい」
すると瑠璃は、何度かしゃくりあげたかと思うと、大きな声でわんわん泣き始めてしまった。
泣かせるために言ったんじゃないのに……。
なんだかこっちまで鼻水が出てきた。ポケットティッシュでチーンとかんで、小さくまるめた。
「えーと、じゃあ、さっき言ってた大変な時期ってのは、アルケイナのこと言ってたんだよな? けど安心しろよ。俺と向井さんはただのチームメイトだ。別にイチャついてたわけじゃない」
だいたい、俺と向井六花じゃ釣り合わない。
友達が一人しかいない地味な俺と、みんなから羨望の眼差しを向けられている高値の花。住む世界からして違う。
ま、大統領夫人となるにふさわしい女ではあると思うが。
そう考えると、逆に釣り合う気もするな。もし俺が本当に大統領の器なら、だけど。
いや、クソみたいな冗談を言ってる場合じゃない。
俺は瑠璃の背中をぽんぽんと叩いた。
「ま、そういうわけだ。というわけで、この話はおしまい。なあ、この煮物うまいぞ。お前も食ってけよ」
人様の弁当を勝手にすすめるのもなんだけど。
瑠璃は俺のティッシュを勝手にとって、チーンとかんだ。
「あたし、教室で友達と食べるから」
「間に合うのか?」
「分かんない」
「そうか。でもひとつくらい食ってけよ、マジでうまいから」
すると瑠璃は、少し強めに俺の肩を叩いてきた。
「これ、向井先輩が兄貴のために作ってきたものでしょ! なんであたしに食べさせようとすんの!? バカじゃないの!」
「えっ」
すると向井六花が、跳ねるように立ち上がった。
「ち、違うから! いや違わないけど! でも違うから! 作りすぎたの! 瑠璃さんも食べて!」
「いやです」
「なぜ? 私の手料理が食べられないというの?」
「あとで友達と食べるので」
「一口くらい、いいじゃない」
「遠慮します」
瑠璃も立ち上がった。
俺のティッシュで顔を拭きまくって。
おかげでティッシュがなくなってしまった。今日はもう鼻をかめない。
「兄貴! とにかくごめん! あとでまたちゃんと謝るから!」
「いやいいよ……」
「あたしにできることがあったら、なんでも言って。できる範囲で協力するから」
「お、おう」
なら琥珀のことでも頼もうかな。あいつ、俺たちの訓練についてきそうだし。足止めしてもらわないと。
「じゃ、あたしこれで」
赤い目のまま、瑠璃は勢いよく教室を飛び出してしまった。
あれじゃ泣いたことが友達にバレそうだ。廊下の野次馬にも見られただろうし。妙な噂にならなければいいが。
さて、しかしひとつ収穫があったな。
ソフィアのヤツ、メンバーの変更に応じる気はあるようだ。もしかすると仲間の寿命が尽きる前に、メンバーを変えることも可能かもしれない。
誰も死なせない。
俺も死なない。
そのためにできることなら、なんでもする。
(続く)