遅刻のいいわけ
俺の名前は、鈴木純一。中堅サラリーマン、気楽な独身の三十代。
これから、ある夏の日に俺が味わった恐怖体験の話をしよう。
その日は、重要な会議があり、遠くの支社への出張だった。直通で現地集合。駅に、先方の会社の人が迎えに来てくれる約束になっていた。
新幹線で約二時間。
ちょっとした小旅行の雰囲気で、最初の十分ほどは手近なコンビニで買った漫画雑誌を読んでいた。お気に入りの作品を読みながら、ご機嫌。これから仕事じゃなかったらなーと頭の片隅で考えつつ、
「ん?」
唐突に、違和感に気が付いた。
窓の外の光景が、それまでの街並みから忽然と変わっていたのだ。鬱蒼とした森みたいな、いや――青っぽい靄のような感じ。それが、ずっと一面だった。
雰囲気が一変している。
それから、気が付く。それまで、ちらほらあったはずの乗客の姿が見えない。
そして、何だか寒かった。
冷房が効きすぎている――とか、そういうのではなくて、
背筋がぞくりとした。
悪寒と言うやつだ。
嫌な汗が流れてくる。
スーツの内ポケットから、スマートフォンを取り出した。位置確認のアプリを起動しようとしたのだが、電源が入らない。おかしい、充電は十分にしているはずだった。
ついこの前、ネットで見かけた異次元に続く電車の話が、脳裏によぎった。
確か、その駅についてしまうと、パラレルワールドに放り出されてしまうという。
「……いやいや、マジかよ」
俺は半信半疑で、立ち上がる。
他の車両に行ってみることにした。誰かいないか。もしかしたら、ヒトじゃない何かがいたとしたらどうしようと思ったけれども――
「……思ったけれども?」
目的の駅。
無事に着いた。
ただし、時間は予定の一時間ほど遅れていた。
目の前で、頬をひくつかせる上司を前に――それ以上、俺は話を続けられなかった。
単純に、その先の展開を思い浮かべられなかったのである。
でも、ほとんど咄嗟にここまで話せた自分を褒めてほしい。
いや、冷静に考えると無理だわな。
「いえ、そのですね」
冷や汗をだらだらかく俺。ますます不機嫌になっていく上司。
「つまり、あれか? その怪談だか都市伝説だかの電車に乗ってしまったせいで、到着が遅くなった――と、そう言いたいわけか? ん、鈴木君は?」
笑顔が、怖い。
「……はい、そーです」
「それが、遅刻した理由か? 大事な会議に。これから、怒って帰ってしまった先方に、そう説明をして納得していただけるといいよなあ?」
「……う、ううー!」
俺は、それ以上のプレッシャーに耐えられなかった。
「すいません! 本当は、寝坊して新幹線に乗り遅れました」
もう仕方ないので、土下座する。
「メールとかラインしようにも、スマホの電源切れてまして、充電器も忘れてまして!」
「とりあえず、冬のボーナスは覚悟しておけよ?」
「…………はい」
冷たい上司の言葉を受けながら、俺はとぼとぼとその背中についていく。
いかにもそれっぽい話をでっちあげて、うやむやにしようかと思ったけれども、無理だった。
冷静に考えて、そんな作り話が通用するわけなかったのだ。
その後は、ふたりして先方に頭を下げて何とか許してもらった。
俺の作り話が、呆れ半分に受け入れられて、うやむやになってくれて助かった。商談はどうにかなったけれども――まあ、うちの上司の機嫌が直ってくれるかは別問題。
帰りは、途中の駅まで一緒だったから針のむしろだった。
あれだよな。
色々話しかけるんだけれども、ことごとくスルーなんだもん。
もう心が、折れそうだった。
(あー、やっぱ前日にネットゲーでイベントに参加してたのがまずったよなあ)
上司と別れてから。
そんな後悔をしながら、俺はうとうとする。
意識の片隅で、妙にさびれた駅を通り過ぎた気がするけれども――まあ、気のせいだろう。
「……ん?」
スマホの振動音で、俺は目を覚ます。
確認すると、嫁からラインが来ていた。内容は、大したことない。
『お疲れ、出張はどうだった?』
俺は、特に疑問を持たずに、メッセージを返すのだった。
……主人公、確か独身だったはずですよね?