毒吐き姫と愛しか取り柄のない王子
竜と蜘蛛の伝説がある。
ずっと昔。言葉が生まれて間もないころ。人が精霊と誓いを結ぶよりも、ずうっと古くに生まれた物語。
地の底で生まれ、世界を破壊する蜘蛛がいた。
大地も、海も、木々も空も風も涙もそれを恐れた。もちろん、人も。戦い、傷つき、悲しみ、やがては諦め、足を止めた。
そのとき、真っ白な竜が一羽、星の果てから降り立った。
空を覆うほどの羽。海の彼方から響くような声。彼は、こう訊いた。
『この世界に、守る価値はあるか』
ひとりの女が、それに答えた。
「もちろん、ございます」
なぜか、と竜は訊ねた。
すると、女はこう答えた。
「この世界には、愛があるからです」
愛とは何か。
「それは、この世で一番美しいものです」
愛とはどこにあるのか。
「心のなかに。それから、心と心とのあいだに」
じっと、竜と女は見つめ合った。
それはたった一瞬のことにも思えたし、雨粒が大岩を溶かしきってしまうほどの、長い時間にも思われた。
やがて、竜はこう訊ねた。
『であれば、それは我が心のなかにもあるものか』
「もちろんです。私が、教えて差し上げましょう」
ここ、と女は傷ついた指で、竜の心に触れた。
これが、人がした、最初の誓い。
竜は、その大いなる力でもって蜘蛛を滅ぼした。
しかし、と彼は言う。
『かの蜘蛛は、滅びの定め。滅びそのものであるなら、ただ一度の死には決して屈しない。必ず、何度でも蘇るだろう』
ゆえに、と竜は女の胸の真ん中に、爪の先を押し込んで、
『我が力を、お前たちに授けよう。滅びの蜘蛛が蘇るとき、必ずお前たちのうちに、竜の力を持つものが生まれる。戦え。愛せ。そして、永遠に生きるがいい』
竜は去った。
そして、再び滅びの蜘蛛が現れたとき、竜の姫が生まれた。彼女は戦い、蜘蛛を退けた。
何度も、何度も何度も、何度も――。
そして、一番古い物語は、現在まで繋がっている。
@
「消えて」
というのが、ミュシャ=ノーリスの第一声だった。
婚約者と顔を合わせての、第一声が、これ。
かつて彼女が国の外れに与えられたのは、それなりの広さの邸宅である。
平民にしては破格。貴族にしては控えめ。これからの国の行く末を左右するミュシャがこの程度の屋敷に住んでいるのは、本人たっての希望だから。
曰く、余計なものはいらない、と。
そしてその邸宅の、ほとんど使われていなかった応接室で、ふたりの男が座らせてもらうことすらなく、入り口の扉のあたりに立ち尽くしている。
ひとりは、困ったような笑顔で。
もうひとりは、あからさまに怒りを抑え込んで引きつった顔で。
後者が先に動いた。
「あのですねえ、竜姫様。お言葉ですが――」
「国が決めた結婚だって言うんでしょ? そんなのは聞き飽きた。王子の護衛騎士っていうならもう少しまともなことは言えないの?」
「んな――」
「テオ。あんまりピリピリしないで」
テオと呼ばれた背の高い赤髪の男は、納得いかないそぶりを見せながらも、もうひとりの男の言葉に、素直に引き下がる。もうひとりの男は薄茶色の髪。ミュシャより少し背が高いが、赤髪の男よりは幾分低い。触れたら跡が残りそうな、繊細な輪郭。テオの年のころは青年と見えたが、もうひとりの方はいまだに少年の名残のある立ち姿だった。
彼は、春の花のような、毒気のない笑顔で言う。
「ミュシャさん」
「気安く呼ばないで」
「……失礼しました。騎士どころか王族である僕がこの程度のことしか言えずに申し訳ないんですが、決まったことです。竜の姫は、王族と結婚することになっている。そして婚約の相手に選ばれたのは僕、ユライア=ホートレイ。第四王子なんて余りもので恐縮ですが……」
「王子! 余りものなど――」
「余りものも何もない。いらないから帰って、と言ってるの」
その笑顔も、ミュシャには通じない。
取り付く島もない無表情で、彼女は話を遮ると、
「何度も言った。話を聞かない人は嫌い。私はこれまでの竜姫とは違う。近づかないで。結婚なんて死んでもしない。消えて。出てって。早く帰って」
「…………」
しばらくユライアと名乗る少年は黙ったまま立っていて、
「……行こう、テオ」
「んなっ! 王子!」
それでいいんですか、とテオが言うのに、ユライアはやわらかく笑って、
「仕方がない。これ以上話を聞かないで嫌われるのは嫌だからね」
「んなこと言ったって――」
「ミュシャさん」
もう一度、ユライアがミュシャに声をかける。今度はミュシャは、返事もしない。
「婚約のおつもりはないということ、よくよく承知しました。しかし、僕たちもそれで帰れる身ではないのです」
「――関係ない。私には」
「まったくもってそのとおりです。これは僕たちの事情ですから。けれど、もしお願いできるなら……しばらくここに置いてはくれませんか? たった一言いただいただけで諦めて帰ったなんてことになったら、父から何をされるかわからないのです」
ボコボコにされちゃうかも、なんて冗談めかしてユライアは言って、
「ご迷惑はおかけしません。ただ、少しのあいだだけ、この屋敷に滞在させてはいただけませんか?」
「……怒られるのが怖いなんて、子どもじゃないんだから」
「すみません」
「……好きにすれば。空き部屋ならあるから。でも、私の部屋には絶対に近寄らないで。特に寝てるとき。殺すから。あと、この屋敷には使用人とか、そういうのひとりもいないから。自分のことは自分でやって」
「――ありがとうございます!」
ユライアはぱあっ、と笑うと、頭を下げて、部屋を出ていく。
それを追いかけて、慌ててテオも一緒に部屋を出る。その直前、一瞬ぎろりとミュシャを睨んだ。
足跡が遠ざかっていく。一歩、二歩、五歩、十歩――
はあ、とミュシャは大きく溜息を吐いた。
『よかったのかい?』
ちろり、とその部屋の窓辺に、小さな白いトカゲが這い出した。
ミュシャはそれを知っている。もう、生まれたときからずっと傍にいるのだから。
『あんなやつら、力づくで追い返しちゃえばいいのに』
「……別に。どうせそのうち帰るっていうなら、好きにすればいい」
『絆されちゃったりして?』
「まさか」
ミュシャが、真っ白な手袋を外す。
目線の先は、たったいま、あの第四王子とやらが手土産に持ってきた、春の花束。
そっと指先で、ミュシャはそれに触れる。
「――生きてるものは、みんな嫌いよ」
見る間に花は枯れていく。
それも、ただの枯れ方ではない。毒水に浸したような、禍々しい様子で。
残ったのは、もはや原形も見て取れない、紫色の残骸だけ。
ぺたり、とその手を自分の顔に当てる。
ミュシャ自身にとっては、何の変哲もない手。
けれど。
「どうせすぐ、死んじゃうから」
@
「……怒ってる? テオ」
「とーぜんです!」
屋敷の廊下を、ふたりは歩いている。ひとりはズカズカと、もうひとりはトコトコと。
前を歩くのがテオで、後ろを歩くのがユライア。逆じゃないのか、と疑問を口にする人間は、この場にはいない。
「失礼にも程があるでしょう、あの女! 仮にも王族に対してあの態度……!」
「仮なんだ」
「あ、いや。そういう意味ではなくてですね……」
失言への指摘に急に意気が弱くなったテオを、ユライアは追い越しながら、
「気にすることはないさ。確かに彼女は王国内の身分としては王族より下だけれど、僕みたいな余りものの王子なんかより、よっぽどこの世界にとって重要な存在なんだから」
「だからその……」
余りものってのをやめてください、と言いながらもテオは、ユライアの言い分がわからないでもない。
「まあ、確かに……。『蜘蛛殺しの竜姫』なんつったら、そりゃ、多少偉ぶっても誰も咎めたりはしない立場でしょうけど……」
王国には、伝説がある。
竜と、蜘蛛の伝説。
そして、それは現代に至るまで続いている。
二百年に一度、滅びの蜘蛛は目覚める。
それを討つため、竜の力を備えた女がひとり、同じ時代に生まれてくる。
今回は、ミュシャ=ノーリス。彼女が選ばれた。
これから来る蜘蛛との決戦のための、なくてはならない主役。
いま、この世界で一番重要な人間。
「でも、王子と結婚するつもりがないってことは権力なんか興味がないってことでしょう。それでああいう態度ってのは……」
「権力に興味がないから、ああいう態度なんじゃないかな。昔の君だってそうだったと思うけど」
「…………」
「あ、何も言えなくなった」
「いやちょっと待ってください、まだ言えますよ」
えーとえーと、とテオは考え込むと、苦し紛れに、
「廊下が汚いです。絶対ガサツですよ、あの女」
「単にこっちの方は使ってなかったんじゃないかな。慎ましやかな人だね」
「あと、折角王子が持ってきた花束に目もくれませんでした。きっと心が冷たいんです」
「見てごらん、テオ。そこの窓から中庭が見える。普段からあんなに綺麗な景色を見ていたら、花束くらいじゃひょっとすると足りなかったのかもしれないね」
「……王子。もしかしてなんですけど」
ちらり、とテオはユライアの顔を覗きこんで、
「まだ、婚約する気でいます?」
「うん? もちろん」
「な、」
なんでですか、と口をあんぐり開けるテオに、ユライアは、
「なんでって、このまま帰れると思うかい?」
「いや、だって、断られて……。にべもなかったじゃないですか。俺はてっきり、王子も本気で諦めたものかと。いくらなんでも、これで帰ったらボコボコにされるなんてこと――」
「殺されるよ」
ぴたり、とテオの足が止まる。
「……え?」
「ボコボコなんてそんな甘いことにはならないよ。ダメでした、なんて帰ったら、王は僕を殺すだろうね」
「な――」
「処刑とか、そういうことじゃないと思うけどね。滅びの蜘蛛の目の前に放り込んで、殺して、戦意高揚を図るくらいのことはすると思う」
茫然と、テオは立ち尽くしている。
ユライアは、いつの間にか随分先に行っている自分に気付いて、ふっと振り返り。
それでも花のような笑顔で、言う。
「そんなに心配することはないよ。いざとなったら君ひとり逃がすくらいのことはできるし、結局はミュシャさんに婚約してもらえばいいだけの話なんだから」
「……王子、まさか、全部知ってて?」
「もちろん。自分のことは、自分で知っておかなくちゃね。
……さあ、テオ! あまりのんびりしてはいられないよ。まずはこの埃っぽい場所を掃除しよう。それから、料理も覚えなくちゃ。このちょっとの期間に、ミュシャさんに僕を気に入ってもらわなくちゃいけないからね」
へ、とテオは間抜けな声で。
「掃除? 料理? ……王子が?」
「そうだよ。やったことはないけど、君が教えてくれるだろ?」
「いやもちろん教えますけど……、それ、王子がやることじゃありませんよ!」
「いやいや。やれることはなんでもやらなきゃ」
だって、とユライアは言う。
「僕は、何の取り柄もないんだからね」
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自分では気付いていないけれど、ミュシャの一日は起きた瞬間の長い長い溜息から始まる。
はぁああああ、とたっぷり六秒。ほとんど深呼吸みたいな長さ。完全に反射。目覚めたことへの落胆。それが彼女の人生の苦しみを表しているというには、いささか軽すぎるけれど。
身体を起こす。寝ている間に凝った肩を背伸びしてほぐす。立ち上がる。立ち眩みがする。五秒待つ。それから動き出す。時計なんかはまるで見ない。どうせ、必要なときには誰かが呼びに来るだろうから。
手袋を嵌めて、部屋を出る。まっすぐ廊下を歩いて、突き当りで左に曲がる。そこからみっつめの扉にキッチンがあるのだけれど、今日は誰かの声がする。
なんで、と寝ぼけた頭で思った。ひとりで生きてるはずなのに、と。
いきなり訪れてきた彼らの存在は、残念ながらミュシャの頭の中にはひと眠りすれば消えてしまう程度の記憶しか残さなかった。この時点では。
とりあえず、開けた。
「ミュシャさん、おはようございます!」
「――――は?」
誰だ、こいつ。
そう思った瞬間に、急に頭が動き出して答えを出してくれる。ええと、そうだ。確か第四王子のユライアとかいうやつ。
そして同時に、お前顔も洗ってないぞ、ということも答えてくれた。
「――――っ!」
「朝ごはんを作ったんです。あ、もちろんミュシャさんの食糧は使ってないですよ。僕たちがここに来るために積んできた分が余っていたので、それを使ったんです。ミュシャさんもこれから朝ごはんですよね。三人分作ったので、よければ一緒に食べませんか?」
驚いて顔を手で押さえたミュシャの内心を知ってから知らずか、ユライアはにこにこと笑っている。
「た、頼んでない。余計なことしないで」
「いえ、ふたり分を作るのも、三人分を作るのも大して手間は変わりませんから」
「自分の分は自分で作る。要らない」
「あ……。そ、そうですか……」
あからさまにシュンとした顔を見せるユライアに、馬鹿らしい、とミュシャは思う。
魂胆はわかりきっていた。
どうせこいつは、機嫌取りに来ただけだ。王城に帰って怒られるのが怖いから、ここでどうにか話をまとめようとしてるだけ。くだらない。
だから、はっきり言ってやった。
「別に。心配しなくてもちゃんと戦うから。そんなに媚を売ったりしなくていい。私は私で、勝手に蜘蛛を倒すから。近づかないで」
「わかりました。サンドイッチの具は何が好みですか?」
「…………」
おい、という目でミュシャは見つめるけれど、ユライアはにこにこと笑うばかり。
「媚を売ってるわけじゃありませんから。ただ、ミュシャさんにご飯を食べてほしいなあっていう、純粋な気持ちがあるだけです」
「嘘を吐かないで」
「どうして嘘だと思うんです? この曇りのない目を見てください」
ほら、と無駄にキラキラした瞳を向けてくるユライア。
なんだこいつ、と思った。
こういうやつは、と完全に偏見で思う。愛されて生きてきたのだろう。人に囲まれて、頼りきりで、だからこんなに図々しく成長してきたのだ。無駄に可愛い顔もしてるし、どうせお城の中から一歩も出たことがありません、みたいな生活をしてきたに違いない。
ぶっ飛ばしてやりたくなった。
「これまではどうだったか知らないけど、ここではあなたの我侭は通用しないから。余計なことをしないで」
「わ、我侭……!」
「そう。我侭」
「……そうですね。ミュシャさんの気持ちも考えずに、出過ぎた真似をしました」
ユライアは、テーブルの上に並べられた料理を悲しそうな目で見ると、
「……テオ。君、ふたり分食べられるかい?」
「いやあ、実は俺、案外胃が小さい方で……。王子の御命令とあれば、はち切れてでも食いますが」
「そっか。はち切れさせるのも悪いよね。じゃあ、残念ながらこれはゴミ箱に」
「ま、」
思わず、声が出てしまった。
ユライアと、テオが同時に見ている。ま? ま、ってなんですか、という顔で。
ふざけるな、と思う。そんな風に簡単に食べ物を捨てて、恥ずかしくないのか。お前らみたいに苦労も知らずにのうのうと育ってきたやつらに限って、命の大切さをわかっていないのだ。そういう気持ちが溢れ出していて、だから思わず、その言葉は口から出ていた。
「待って。捨てるくらいなら、」
「ですよね!」
は、と息の抜ける音。
「な、」
「そうですよね。捨てるくらいなら食べてもらった方がいいですよね。ミュシャさんはどれが好みですか? もちろん、無理して食べてもらうわけですから、ミュシャさんから選んでもらっていいですよ」
テキパキとした動きで、テーブルの上に食べ物が置かれていく。パン、スープ、ベーコン、目玉焼き。最後にはユライアがミュシャの座る椅子を引いて、どうぞ、と満面の笑みで。
騙された、と気付いた。
「~~~~~どいてっ! 邪魔っ!」
はい、と怒鳴られてもユライアは平気な顔をして。
ミュシャが座る。フォークとナイフを手に取る。サンドイッチをそれで挟み込むようにして自分の皿に置いて、切り分けて、口の中へ。舌で味わうのはほんの一瞬で、ほとんど噛みもしないでごくん、と飲み込んで、
「……普通っ!」
「本当ですか? よかったあ。初めて作ったから、あんまり自信なかったんです」
ほら、と言いながら、ユライアは包帯を小さく巻いた指先を見せてきて、
「これからもっと美味しくなりますからね。楽しみにしておいてください」
「やらなくていいっ!」
もちろん、そんなことをユライアが聞くはずもなかったのだけれど。
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舐められている、と。
思いながら、ミュシャは廊下を歩いていた。
あれから数週間が過ぎた。過ぎたのに、あの馬鹿ふたりはまだ自分の家にいる。そのうえ、頼んでもないしやってほしくもないことばかりをやっている。食事の準備だとか、屋敷の掃除だとか、庭の掃除だとか、木々の剪定だとか。
そんなことくらいで気に入られると思ったら大間違いだ。
強い意志で以て、ミュシャは怒りを溜めている。
廊下を出歩く時間が増えた。これまでは部屋に閉じこもっている時間の方が、ずっとずっと多かったのに。どうしてかと言えば、こうして歩き回って自分の姿を見せて主が誰だか思い知らせてやらなかったら、そのうちこいつらはこの屋敷を自分のものだと勘違いし始めるに違いないと思っているから。
目が合ったら、グルル、と威嚇してやることにしている。
背の高い赤髪の方は可愛いものだ。図体ばっかりでかい割に、威嚇されればその都度びくっと怯えるし、目も逸らす。放っておいてもひとりだったら余計なことはしないし、自分に馴れ馴れしく話しかけたりもしてこない。
厄介なのは、あのミルク入りの紅茶みたいな髪色をした方。
ちょっと触れば砕けそうな華奢のくせに、やたらに明るいし、うるさいし。第四王子というからにはきっと相当な末っ子なのだろう。人から嫌われているかも、という可能性をまるで考慮できていない。こっちが威嚇してやっても、うれしそうに笑って手まで振ってくる有様だ。
今だって、ほら、こうやって。
「ミュシャさん! 奇遇ですね」
「…………」
何が奇遇だ、と思う。
この広さの家で歩き回っていたら、嫌でも顔を合わせるに決まっている。嫌そうな顔を見て、これは近付かない方がいいぞ、と正常な判断を下して逃げ出さない限りは。
「……今度は、何?」
「あ、気になりますか?」
「ならない」
「服です!」
じゃーん、と何が楽しいのか、ユライアはにこにこ笑って、背中に隠していたドレスを両手に、ひらりと見せつけて、
「……ああ、そう。似合うんじゃない。あなた、女の子みたいな顔してるから」
「ええっ、そうですか? ミュシャさんに似合うと思ったんですけど……。僕たち、顔が似てるんでしょうか」
「……そう。そうやってお金に物言わせてどこかで買ってきたっていうわけ。いいんじゃない。お金持ちの人はそのくらい気楽でいれば」
「あっ……。えっと、ごめんなさい。これは買ったわけじゃなくて、自分で作ったんです。王子のくせにケチ臭かったですよね……。あ、でも! 一から作ったので、きっと普通に買うよりずっとミュシャさんに似合うと思いますよ!」
「…………」
何を言っても裏目。
いつもこうだ。このユライアとかいうやつはいかにも人畜無害な子犬みたいな顔をして、想像を絶するほど口が上手いし、裏もかく。毎回毎回ひどいことを言って突き放してやろうとしているのに、その手をするっとかいくぐって、いつの間にか懐に入り込んでいる。
とんでもなく嫌な奴だ、と思うし。
いちばん嫌なのは、それを、
『それでいいの?』
ばっ、と振り向いた。
いつの間にか、廊下の、中庭に面する窓に、真っ白なトカゲが這っている。
『それでいいの? 君は、孤高の生き物なのに。たったひとりで生まれてきた、気高い生き物なのに』
「……ミュシャさん? どうかしました?」
「――――そうね、忘れてた」
ばしっ、と。
ミュシャは、ユライアが手に持つ服を払って、床に叩き落とした。
あ、とユライアが言うのにも構わない。思い切り音を立てて、靴の底で踏みにじってやる。
「――近付かないで。余計なことをしないで。いつまでここにいるつもり? さっさと出て行って」
爪先にひっかけて、思いきりユライアの顔めがけて放ってやる。
どんくさいやつ。受け取れもしないで、そのまま顔にドレスを引っ被って、
それから、ゆっくりとその布を外して、
「――ごめんなさい。気に入らなかったですよね」
まだ、困ったような笑顔を浮かべたままで。
「な――そういう話じゃ、」
「大丈夫です! 次はもっと上手く作りますから。ごめんなさい。こんなに不完全なものを見せてしまって。初めて作ったから、舞い上がっちゃったんです。今度作るのは今よりも、」
「そういう話をしてるんじゃない!!」
しん、と静寂。
自分でも予想していなかった大声に、ミュシャは一瞬、自分でも驚いて、
「……何なの、あなた。気持ち悪い。どうしてこんなにされて、へらへら笑っていられるの」
その言葉にも、ユライアは表情を崩さないまま、
「……それはもちろん、ミュシャさんに気に入られたいからです。婚約してもらえないにしても、ここにいられないと、僕たち、大目玉ですから」
「それだけ?」
冗談だろう、とミュシャは思う。たかが叱られるのが怖いくらいで、こんな仕打ちを受けて黙っているはずがない。まして王族だ。自分が竜の姫とはいえ、身分は向こうの方が上。本来だったらこんな言葉遣いで話されるのだって、嫌でたまらないはずだろうに。
何か理由があるはずだ。
そして、そんなのなんだっていい。
窓に拳を叩きつけた。
パリン、と甲高い音を立てて硝子が砕ける。床に散らばったそれの、一際大きいのを選び取って、ミュシャはユライアに突きつけた。
「――私、あなたの顔が嫌いなの」
直接的な罵倒は、さすがに効果があったらしい。
これまで崩れなかったユライアの顔が、さすがに一瞬、瞳を大きく開いて強張った。
「気に入られたいっていうなら、まずはその顔、グシャグシャにしてくれる?」
できるはずがない。
この顔に、この性格だ。ちやほやされて育ったに違いない。いくら理由があったって、これからの一生に関わるような部分を台無しにするようなことは、絶対にできないに決まっている。
硝子を受け取れもせず、足でも震わせて。
ようやく正しく、自分を恐れるようになる。
そう、思ったのに。
「わかりました」
ユライアは、まるで何の躊躇いもないように、硝子を手に取った。
一瞬、茫然とする。あるはずがない。そんなこと。けれど、ユライアの顔と硝子は見る間に近付いて――、
「――ミュシャさん?」
その手を、ミュシャが止めていた。
意識して、そうしようと思ったわけじゃない。ただ、反射的に。
「――――もういい」
誰かが傷つきそうになったから。
硝子を奪って、床に投げ捨てる。からん、と乾いた音がして、顔は伏せたまま。
「あなたがおかしいことはよくわかったから。もう好きにしたらいい」
「それって、」
「勘違いしないで。婚約するとか、そういうわけじゃない。叱られるのが怖いなら、いくらでもここにいたらいい。屋敷にあるものも、好きにしたらいい。どうだっていい。何をしたっていい」
でも、と。
小さく、それでもはっきりした声で、
「私には、近づかないで。――私が、近づきたくないの。誰にも」
それでいい、とトカゲが囁く声を、ミュシャははっきりと聞いた。
そして、この言葉の本当の意味をユライアが知るのは、季節が過ぎてからのことになる。
夏。
第一次、抗滅戦争。
バケモノだった、と居合わせた者たちは語った。
@
毒竜姫、とテオは言う。
「間近で見てきましたがね。ありゃ、ちょっとヤバすぎます。これまでの竜姫と違って、こんな国の外れに置かれてるのも納得だ」
夏の夜。
その国の外れにある屋敷で。
抗滅戦争から多少のかすり傷程度で無事に帰ってきたテオは、自分の主に、目にしてきたものをできるだけ詳しく伝えようとしていた。
「滅びの蜘蛛の眷属がですね、まあざっくり小型、中型、大型っているわけですが……。ああ、って言っても、普通の蜘蛛のサイズじゃあないですよ。小型でも犬くらい。中型なら人の頭を越すくらい。大型になると家を越えます」
「テオも大変だったね。ご苦労様」
「ま、王子が直接行くよりはマシでしょう。んなことになったら、俺の心臓が心配でぶっ潰れますからね」
最初に言い出したときはどうなることかと思いましたよ、と。
テオは思い出している。戦争の知らせを屋敷で聞いた初夏。出立の準備を始めたミュシャを見てユライアが、こんなことを言い出した日のことを。
「僕もついていく」
必死になって止めた。どういうわけかミュシャまで珍しく自分からユライアのところにやってきて「来るな」と言ってくれたから、なんとか自分が代理で行くということで話は決着したけれど。
正直なところ、蜘蛛を相手にしていたときより、あの時の方がよっぽど肝が冷えた。
「そうかな。結構僕って、度胸はある方だと思うんだけど」
「度胸だけはあるから余計に怖いんですよ。……で、話の続きです。俺ら一般兵が相手にできるのは、精々中型までです。大型は魔術師が二十人揃って集中砲火して、ようやく一体倒せるかどうか」
それを、と。
自分だっていまだに信じられない、という声音で、テオは、
「あの竜姫は一撃です。というか、攻撃ですらない。ちょっと触っただけですよ。それだけで大型が煙を立ててグズグズだ。挙句の果てにはひとりで前線のさらに向こうにずんずん歩いていって、紫色のガスだかなんだかを撒き散らして皆殺しにしちまった。たった一日ですよ? こっちの死者はゼロで、負傷者すら数えるほどです」
そりゃ、竜姫としてはこれ以上ないほど頼りになると思いますがね、と首を振りながら、
「ありゃ、怖すぎる。なんでも俺と同じ部隊にいたやつらの話じゃ、これまでの一次戦争は最短でも一月はかかったそうじゃないですか。口を揃えて言ってましたよ。あの女の近くに行きたくない。あの女が授かったのは竜の牙でも爪でもなく、竜の毒だって。そんで付いたあだ名が毒竜姫。初めはわーわー言ってたやつらも、帰るころには静かなもんですよ。王都に一緒に戻るわけじゃないってわかったときの歓声と言ったら、下手すりゃ戦争に勝ったときよりも嬉しそうでした」
俺が見てきたのはこんなところですかね、と話を終えたテオに、ありがとう、とユライアは頷いて、
「可哀想に。傷ついただろうな、ミュシャさん」
「…………は?」
あんぐりと、テオは口を開けた。
な、とその口のまま、声が洩れ出して、
「何を言ってんですか、王子。俺の話、ちゃんと聞いてました?」
「失礼な。ちゃんと聞いてたよ」
「じゃあどこをどー聞けば可哀想なんて感想に、」
そこまで言ってから、テオも気付いた。
そして、自分の心のこともわかった。
「……確かに、そうかもしれないですけど」
「そうさ。人を助けて、それで疎まれて、そんなの傷つかないわけないだろう」
考えてみれば当たり前のこと。
それが見えなくなっていたのは、きっと。
「でもそりゃ、王子があの竜姫のやることを見てないから言えることです。目の前で見りゃ、そんな感想は出てこない」
「目の前で見てないからいいじゃないか」
今度は、その言葉に驚く暇もない。
「目の前で見た人たちがみんな怖がるっていうんだったら、目の前で見てない僕がなおさら味方にならなくちゃいけないだろう。人を助けて、それで嫌われるなんてやりきれない」
「いや、まあ、そりゃあ、そうなんですが……」
本当にそうなのか?と疑問に思いながら、テオは頷く。昔から、この王子には口で勝てたためしがない。儚げな顔をして、言葉だけは人よりずっと巧みに使う人なのだ。
「じゃあ、僕はちょっと、ミュシャさんと話してくるよ」
「なっ、ちょっと!」
「心配するなよ。大丈夫。優しい人だからね」
眠かったらそのまま寝てくれて構わないよ、とユライアが出て行く。止めるものも止めきれず、テオが伸ばそうとした手は中途半端なまま、下げられた。
思うことは、色々あるけれど。
いちばんに、思うのは。
「……情けねえ、俺」
自分は怖がっていた、ということ。
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今日だけは、と中庭に出ていた。
あれからずっと――、ユライアに硝子を突きつけた日からずっと、部屋の中に閉じこもっていたけれど。今日だけは、戦争から帰ってきた今日だけは、こうしていないとダメになってしまいそうだから。
夏の花が咲いている。月の明かりが、真っ白な階段のように夜の闇の中を降りてくる。星は海のように広がって、瞼を閉じても幾千万の色がちかちかと滲み輝く。夏虫が、静かに響き渡る。
風が吹いて、前髪が揺れて、背中で草の踏む音がした。
「近づかない方がいい」
ぴたり、と足音が止まる。
「あなたも、死ぬから」
「……死にませんよ」
よくもまあ、と思う。
中庭に出たことなんて数えるほどもないのに、ここにいるのがわかったな、と。
「ううん。あなたも、死ぬ」
「僕は、」
「お母さんも、死んだもの」
ふっと、息を呑む声が聞こえた。
どんな顔をしてるんだろう。少しだけ興味はあったけれど、でも、この話をするときは、そんなに余裕でいられないから。
顔も見ないままで、続きを口に。
「生まれつきだから。私の肌に触れた生き物は、全部死んでしまう。それは、お母さんもそう。私が生まれたとき、私を生んだお母さんは、その毒で死んだ。原形も残らないくらい。ただの紫色の、ドロドロの液体になるまで溶かされて。……お墓の下に、埋める骨もなかったの」
だから、とミュシャは、
「近付かないで。死にたくないなら。私は、あなたたちとは違う。竜姫なんかでもない。竜、そのもの。たったひとりで生まれた、気高い生き物。誰にも触れられない、たったひとりの生き物だから」
だから、触れないで。
それだけ言えば、夏の闇。
遥か彼方の、触れられない星ばかりが美しい、水底の夜。
「僕の母も、僕のせいで死にました」
その星と星が引き合うみたいに、振り向いた。
ユライアは、変わらない笑顔を浮かべていて。
ただ、今は。ミュシャがそれを見る目だけが、唯一違う。
「あなたが本当の言葉を伝えてくれたから、僕も本当のことを言います。僕は、王が平民とのあいだにつくった子です」
「平民……」
「ええ。何の変哲もない、ただの花屋だったそうです」
声は、あくまで穏やかで。
夜は、淡い夢のように広がっていく。
「王には、正室も、側室もいました。その上で、彼は母と恋に落ちました。ただそれだけのことなら見逃されていたのに、よりにもよって僕が現れた。平民とのあいだに生まれた、男です」
ミュシャは、今までの人生をほとんどひとりで過ごしてきた。
だから、貴族の社会に詳しくはない。
けれど、それが危ういことだということは、簡単に想像できた。
「側近たちは慌てました。ただの戯れだと思ったのに、大事になってしまった。まして抗滅戦争の時期も近い。もし僕より継承権が上の面々に何かあれば、平民の子が王座に就いてしまうかもしれない。――だから、母は殺されました」
声が、出なかった。
だって、そんなわけないと思うから。
だって、それなら、どうしてこの人は。
こんなに。
「僕はきっと、あなたと婚約できなければ、殺されるでしょう」
「――――!」
優しい笑顔の、後ろ側。
春のベールは、いま、夏が消し去って。
「僕は今、名目上は側室の子ということになっています。もしものためのスペアとして保管されているんです。……でも、王は僕を嫌っています。彼の愛する恋人を奪ったのは、僕だから」
「そんなの――っ!」
「勝手な話ですよね。でも、彼の世界ではそうなんです。……僕は母似らしくて、だから、八歳を過ぎてからは、王の前では顔も上げさせてもらえなくなった」
ミュシャが思い出すのは、硝子を突きつけたあの瞬間。
顔が嫌い、と言ったときの、ユライアの表情。
傷つけるというのは、身体だけの話じゃない。
そんな、ずっとひとりでいたから忘れていた、当たり前のこと。
「何か理由があれば、僕は殺されるでしょう。母を殺した、生まれてきてはいけない生き物だから」
「違うっ!! だってあなたは、生まれてきただけ――」
そこまで言って。
ミュシャも、気付いた。
ユライアは、静かに笑っている。
「もしも僕がそうなら――あなたも、きっとそうだ」
歩く。
まるで躊躇いのない歩調で。たった今、母殺しの罪を告白した少女に、母殺しの罪を背負う少年が。
「あなたが僕に、生まれてきたことは罪じゃないと言ってくれるなら――僕だって、あなたにそう言って返したい。あなたが生まれてきたことは間違いじゃないって、伝えてあげたい」
ただ、自分に向けられた言葉ならいくらだって否定できたのに。
今は、ひとりじゃないから。
「ちが、でも、わたしは、今でも――」
「確かに、あなたは今でも、生き物を殺す毒を持っているのかもしれない」
それでも、と。
ユライアは、ミュシャの目の前で立ち止まって。
その手を、取った。
「……ずっと、不思議だったんです。どうして手袋をずっと付けているのか。でも今日、やっとわかった」
両手で、包み込むように。
慈しむように。
怖いことなんて、何もないように。
彼は。
「あなたが誰かを殺してしまう力を持っていることよりも――こんな風に、誰も傷つけないようにする優しさの方が、ずっと大切なことだって、僕は思います」
誰かに。
誰かに、ずっと。
生まれてからずっとずっとずっと。
ミュシャは、誰かに、わかってほしかった。
自分が苦しんでいることを。
自分が悲しんでいることを。
そして優しく――手を引いてもらいたかった。
「わ、私は……」
震える舌で、それでも、懸命に。
「こんな風に、手袋がないと、手も繋げない」
「素敵じゃないですか。優しさと一緒に握っているみたいで」
「普通の恋人みたいに、抱き合ったりもできない」
「大事なのは抱き合うことじゃなく、抱き合いたくなるような気持ちです」
「がさつだし、冷たいし、あなただってこんなことにならなければ――」
「いいえ」
ユライアが、おかしそうに笑えば。
もう、期待なんて、いつの間にか溢れ出していて。
「誰から何を言われなくても、僕は優しくて、温かいあなたを選びます。あなたがいいんだ」
そのとき、あたりが一斉に、ぱあっと明るくなった。
夜明けにはまだ早すぎる時間。
光の名前を、ミュシャは小さく呟いた。
「ほたる……」
金色の光が、中庭の花々を照らし出す。夏の星が、そのまま地上に降りてきたみたいに。宇宙の軌道だって知らないまま、思う限りに遊び回る。そのときふと、ミュシャは気付いた。この庭を、自分が見ていない間もずっと誰かが、手入れしていたことに。
綺麗で。
天国みたいで。
だから、天国にいるんだと、ミュシャは思った。
「おいで」
ユライアが右手の人差し指を小さく曲げて、空に掲げる。不思議なことに、吸い寄せられるようにして一匹のホタルがその指に止まった。私みたいだ、とミュシャは柄にもないことを思う。
「ミュシャさん」
彼はその指にホタルを留めたまま、再びミュシャの目をまっすぐに見つめた。
「あなたのしたいことを、たくさんやりましょう。あなたが諦めてきたことがあれば、僕が代わりに手になります。指になります。つかみたいもの、触りたいもの、優しくなぞりたいものがあるなら、僕がすべて手伝います」
だから、とは、ユライアは決して言わなかった。
けれど彼は静かに、ホタルを彼女の手に移し替えた。
左手の、薬指。
答えなんて、決まっていた。
それからずっと、ふたりは瞳と瞳を見つめ合っていた。
星がゆっくりと、夜空を流れていくのがわかるような、長い時間。
朝が地の果てから歩いてくるまでの、短い時間。
ひとつも、言葉はなかったけれど。
幾十億の言葉よりも大切なことを、ふたりは話し合っていた。
@
そして、幸福とは、別離までの僅かな時間のことである。
@
「生憎の雨だね……」
曇り窓を覗きこみながらユライアが心配そうに言う。しとしと降り注ぐ冬の雨。もう一週間も続いているから半ば予想していたことではあったけれど。
「あんまり心配しないの」
「そうですよ、王子。どうせ俺たちは迎えの馬車に乗っていくだけなんですから。雨だろうがなんだろうが変わりゃしません」
きゅ、とユライアがハンカチでその窓を拭くと、せっせと旅支度を整えるふたりの姿が、反射して目に入る。ミュシャと、テオ。外は昼間だというのに夜のように暗いから、なおさらはっきりと。
「でもほら、雷が落ちたりしたら危ないし」
すたすたと、ブーツを履いたミュシャが歩いてくるのが見える。ユライアの頭上に手を掲げると、ぽん、とそのまま垂直に落とした。
「それで日をずらして二次抗滅に間に合わなかったら仕方ないでしょ。それに、迎えの人たちにだって都合があるんだから」
ううん、と唸るユライアに、テオが念押しするように、
「どうせちょっと行って帰ってくるだけです。二次抗滅で滅びの蜘蛛の本体が出てきたって記録はありませんから。一次抗滅と大した違いもないですって」
「そ。だからまたすぐに帰ってくるよ」
代わる代わるに諫められ、ようやくユライアは振り向いて、なお不安そうな顔をしながらも、
「……まあ、そうだね。あんまり心配してもふたりに失礼か」
そのとき、あ、とテオが声を上げた。
窓の外に、迎えの馬車が見える。
「っと、早いな……。まだちょっと間に合ってないぞ」
「私も、あと着替えを詰めないと……」
「それじゃあ、僕が迎えに出てくるよ」
「えっ、ちょっ、王子」
「大丈夫。どうせ入れ替わりで僕の護衛を頼む人たちもいるんだしね」
言うや否や、ユライアは部屋を飛び出していく。
ちょっと、と止めようとしたテオも、履きかけのブーツの紐を踏んで諦めて、
「…………」
「…………」
はあ、とミュシャと目を合わせて、溜息を吐いた。
「あの人、あんな心配性だった?」
「まあ、ついていくって言い出さなくなっただけ安心してもらえると……」
あの夏の夜から、もう半年が経つ。
第一次抗滅戦争から、半年のスパン。この周期で、第二次抗滅戦争がやってくる。
三人は、それまでのあいだをずっと、この屋敷で過ごしてきた。
だから、ミュシャとユライアに限らず、このふたりだって、それなりに打ち解けてはきている。
ふたり残された部屋だって、緊迫した空気ではなかった。
「でも、なんか不安になるんだよな……」
「え。そっちまで何?」
「いや、なんか王子って、そういう……予知ってわけじゃないけど、変な直感じみたところがあるから。心配されるなら、心配されるだけの理由がありそうっていうか……」
「やめてよ。縁起でもない」
「いやだって、竜姫様。王子が『明日雨降りそう』って言って外したことあります?」
考える。
一秒。二秒。三秒。
「……この雨合羽って、雷通っちゃうかな」
「いや、馬車に雷避けをつけさせてもらいましょう。確か、このへんに鉄の棒が……」
わちゃわちゃと部屋をひっくり返し始めて、それほど間を待たなかった。
勢いよく、扉の開く音。
玄関で。
「なに、いまの」
こういうときは、流石にテオの方が数倍速い。ミュシャが呟いたときにはすでに剣を片手に駆けだしているから、つられてミュシャも、荷物をその場に置いて走り出す。
着いたときには、もう一触即発だった。
「その汚え手を王子からどけろ……ぶっ殺すぞ、クソチンピラ!」
テオが全身から怒りを放出しながら、もう剣に手をかけている。抜き放たないのは、地面に押さえつけられたユライアが「落ち着け」と呼び掛けているから。
何が起こっているのか、ミュシャにはわからない。
ユライアを押さえつけているのは、正規の軍服を着た、王国兵だった。
「……その人を放して」
わからないなりに、ミュシャは。
自分の精一杯を、しようとして。
「その人は、私の婚約者です」
「存じています」
ひとりの男が、歩み出た。年は壮年。眼鏡をかけた、いかにも研究者めいた理知的な顔立ちの男。
男が、懐に手を入れる。刃物でも出してくるかと思ったけれど、全然違う。
「だから、拘束したんです。ミュシャ=ノーリス。あなたには――」
身分証だった。
王国憲兵の。
「――滅びの蜘蛛の眷属の疑いがかけられています」
@
王がいて、大貴族もほとんど揃っていた。
それをミュシャがわかったのは、一度は顔を合わせたことがあるから。そしてこの場所が謁見の間だとわかるのも、一度来たことがあるから。
そのときは、竜の姫として。
今は、滅びの蜘蛛の、眷属と疑われて。
「動くなよ。魔術師百人が編んだ毒封じだ。いくらお前でも抜け出せないし、抜けようとすれば自動術式が作動してお前の首を飛ばす」
囁くのは、研究者然とした、あの男。
いま、ミュシャの手には包帯のようなものがぐるぐると巻き付けられている。ほどけないように、手錠のようにして。そしてその包帯の表面には、ミュシャには読めない文様がつらつらと、隙間ないほど細かな字で並べられている。それだけではない。左右に座る貴族たちを守るようにして、宮廷魔術師たちが所狭しと並べられている。見覚えがある。第一次抗滅のときに、大型眷属に当たっていた精鋭たちだ。
こんなところで毒を使うつもりはないから、そんなのあったってなくたって、同じと言えば同じなのだけれど。
立ち止まれば、左前の向こうにユライアが座っているのが、その傍にテオが立っているのが見えた。
心配しないで、とは自分で言った。
何かの間違いだと思うから、と。だって、心当たりなんてない。陰謀か何かだとしても、滅びの蜘蛛の本体を倒していない今の時点で自分をどうこうしたりしないだろうという確信がある。だって、そんなことをしたら人類はきっと滅ぶだろうから。
言ったおかげで、ユライアは無理に自分を解放させようとはしなくなったけれど、結局は心配そうな顔をしている。
大丈夫だから、と小さく微笑みかけた。
「跪け」
男が言うのに、素直にミュシャは膝を折った。理由はわかっていた。
護衛とともに、静かに、彼は現れた。
四人の子がいるとは思えない、若々しい姿。もう五十も近くなるだろうというのに、まだ四十そこらにしか見えない。そのくせ威厳だけはたっぷりの、この国の王。抗滅戦争の指揮を執る、武に長けた王。
ユライア=ホートレイとは似ても似つかない、実の父親。
「よい。話せ」
玉座に腰を下ろすと、王は背もたれに深くもたれこんで、ミュシャの背後に立つ男に促した。
男が答える。
「はっ! 宮廷魔術団副長兼、憲兵隊魔術対策外部顧問が申し上げます。この者、ミュシャ=ノーリスはその特異な体質を以て竜の姫として認められ、我が国に迎えられたところですが――」
「前置きはいい。さっさと言え」
「はっ! 失礼いたしました! 宮廷魔術団において第一次抗滅戦争時に得られた蜘蛛毒を解析したところ、このミュシャ=ノーリスの使用する毒と全く同じであるということが発覚いたしました!」
長い。
長い、空白があった。
「――――え?」
数十秒かかって、それを言うのが精一杯。
ミュシャだけではない。左右に並ぶ、大貴族たちも、軒並みそう。言葉を失って、何も言えなくなっている。
だって、そんなことが。
本当だったとしたら。
「つまり俺たちは、怨敵である蜘蛛の眷属を姫として招き入れていたと。そういうことか?」
「――待ってください!!」
立ち上がったのは、ユライアだった。
「違います、そんな……たとえ、そうだったとしても!」
「――そうだったとして、なんだ?」
空気が、落ちてきた。
そう思わないではいられないような、重圧だった。特別、怒りを表すような声でもない。ただ、低い声で訊ねただけ。それだけで、あちらこちらから小さな悲鳴が上がるような声を、王は発した。
けれどユライアは、怯えなかった。
この場所にいる人間の中で、下から数えた方がずっと早い華奢のくせに。
拳をぎゅっと握って、瞬きだってしないで、こう言った。
「そうだったとしても――彼女は、僕たちの味方です」
ただ王は、じっとユライアを見つめた。獣も気を失うような、長すぎる三秒間を、ずっと。
果たしてユライアは、意志の力だけでそれを、耐え切った。
「近う寄れ」
王が手招きをする。それで空気が弛緩して、少しだけ謁見の間に明るい空気が満ちる。
これから起こることがわかっているのは真実、王と、ユライアだけだったけれど。
ユライアはそれでも、震えたりしなかった。
ユライアが、王の目の前に立つ。
王はそれを、思いきり殴り飛ばした。
「ユライア!!」
ひぃ、きゃあ、何を。
そんな声が響き渡る中で、ユライアは殴られたまま、天を向いてぐったりと倒れている。王と、ミュシャの間。真っ白なタイルの上に赤い斑点を散らして、その鼻からはだくだくと血を流しながら。
ユライア、ともう一度、ミュシャは名前を呼んだ。ぴくり、と身体は動く。けれど、立ち上がることはできない。
「ぬ、くな……」
小さな呟きに、はっとミュシャは見る。ついさっきまでユライアがいた場所。テオが、剣を握る手を怒りに震わせて、やがて腰に提げたそれから手を離すのを。
王が立ち上がる。
コツコツと、靴音を響かせながら、ユライアに近づいていく。
「いつから、俺に意見できるようになった?」
前髪を、五本の指で思い切り掴んで、引き上げる。体勢の変わった拍子に、ぴしゃ、と水音を立ててユライアの顔から血が垂れ落ちた。
「いつ俺が、お前に、顔を上げていいと言った……?」
「もう、しわけ、」
もう一発。
今度は、床に叩きつけるように。
やめて、と叫ぶ声も、まるで響かない。
勇敢な王の豹変に、謁見の間は凍り付いたように静まり返っていた。王の護衛ですら、いきなりの事態にどうすればいいかわからず、傍らにおろおろと張り付いている始末だった。
今度はうつ伏せに。何とか立ち上がろうとして床に肘をつくユライアを、また王は髪を掴んで、無理矢理振り向かせた。
「……相変わらず、忌々しい男だ」
王は、吐き捨てるように。
「大体が、あの女はお前の婚約者だろう。共にいて、まさか気付かなかったのか?」
「そんな、ことは、」
「黙れ、聞き苦しい」
血が喉まで流れて濁ったユライアの声を、王は途中で切り捨てる。拳はまだ、握ったまま。
そのとき、ミュシャは思い出した。
「まさかとは思うが、お前――」
――何か理由があれば、僕は殺されるでしょう。
――母を殺した、生まれてきてはいけない生き物だから。
「蜘蛛の眷属と、内通していたのか?」
「やめて!!」
悲劇の原因は、いくつかあった。
ひとつはもちろん、ミュシャが不安のあまりユライアに駆け寄ろうとしてしまったこと。そしてユライアも、テオを諫めたのと同じタイミングでミュシャに釘を刺さなかったこと。
ふたつ目は、護衛の騎士たちが思わぬ事態に混乱していたこと。まして第一次抗滅戦争に従軍していた者たちだっただけに、ミュシャの力を正確に把握し、その人格を過剰に恐れていたこと。
みっつ目は、魔術師団の編んだ毒封じの包帯が、ミュシャから飛び散る血までは抑えきれなかったこと。
「蜘蛛が、王に近寄るな!!」
ひとりの騎士が、飛び出した。
やめろ、とテオが大きく叫んだ。その言葉に委縮したわけでもないだろうが、幸いその剣はミュシャの胸元を刺し貫くことなく空を切る。
そして、払いの太刀が、ミュシャの肩を掠めた。
「あ――――」
その血の軌跡が、ミュシャにははっきりと見えた。
真っ赤な血が、空気に触れて僅かに黒ずむのまで、はっきりと。
剣の先から迸った血液のほとんどは床に。触れた瞬間、肌よりもずっと強い毒に負けて紫煙を音立てて上げるのみで。
王の元へとまっすぐ向かっていったのは、たったの二滴だけだった。
だから、かえって誰にも見えなかった。
動けたのは、ひとりだけ。
「――――父さん!!」
はっきりと。
ミュシャは、自分の血が。
ユライアの顔と、手に。
触れるのを。
はっきりと。
はっきりと、見た。
「うぁあああああああアアアぁあ゛ああああああっ!!!!!」
だって、
そんなつもりじゃ、なかったのに。
「邪魔だ、どけ!!」
テオが飛び出した。
立ち尽くす護衛騎士を押しのけて、のたうち回るユライアの傍に駆け寄る。肩を掴んで、引き寄せる。
「王子!! しっかりしてください!!」
その顔を見て、テオの表情が凍り付く。
それでも、一秒も待たない間に、
「大丈夫、何とかなります! 気をしっかり! おい、水を持ってこい!! ぐずぐずしてんな、早く!! 医者もだ!!」
それから、テオは。
一瞬だけ。
誰にもバレないように。
「直接の介抱は俺がやる! ぼさっと突っ立ってんな! 早く動け!!」
迷って。
その次の瞬間には、もう視線を外していて。
「動けっつってんだ!! さっさと行けェ!!」
走り出した。
声が上がる。
竜の姫が逃げたぞ。いや竜の姫じゃない、今は蜘蛛だ。誰か捕まえろ。
誰も、捕まえない。
怖いから。近付きたくないから。いまだに肩から血を流しているミュシャに触れたら、ユライアのようになってしまうに決まっているから。
走った。
誰も追わない、逃亡犯。
何もかも失くして。
あてもないまま。
ただ泣きながら、彼女はすべてに背を向けて、逃げ出した。
背後ではただ茫然と、王がユライアを見下ろしている。
@
テオには、名字がない。
貧民街で生まれた。
物心ついたときにはもう、どうやって生まれたのか、どうやって生きてきたのかわからない。ひょっとすると犬の乳でも吸って生き延びていたのかもしれない、と思う程度には何も記憶に残っていない。
力が全てだった。
当時のテオは、今よりずっと、それこそ子どもの中でも小さかったけれど、それでも強かった。
強く、なろうとした。
それが全てだと、初めから知っていたから。
欲しいものは奪った。
生きていくために必要なものを、掴み取った。
誇りと言えるほど大したものではないけれど、それが道理だと思い込むだけの積み重ねがあった。
その道理と、無知が、両手を合わせて引き金を引いた。
王というものがいるらしいと聞いた。
金持ちで、力があって、全て満たされている、そんな存在。
奪ってやろうと、そう思った。
その頃には、自分の倍ほどの背丈がある大人にも勝てるようになっていたから。王だってどうせ大したものじゃない。
場所がわかっているのは、たったひとり。
その頃は、城という場所が何なのか、わかっていなかったから。
王都の外れ。貧民街の程近くに居を構えていたのは、王族のうちたったひとり。
母の死後、王から城を出されていた、ユライア=ホートレイ。
驚いたことに、護衛はたったひとりしかいなかった。
その護衛も、ほんの少しだけ気をつけてやれば簡単に出し抜けてしまう程度。
やっぱり、大したことがない。
家の奥にいたのは、自分よりどう見たって年下の、背のずっと小さい、男とも女ともつかない子どもだった。
まずは一発、ぶん殴ってやった。
それから、テオはこう言った。
「食いもんよこせ」
その子どもは、言われたとおりに食べ物を差し出した。
それからは、簡単だった。
苦労する必要はない。腹が減ったらそこに行けば、その子どもの食料を簡単に奪える。大して美味くもないというのは不満と言えば不満だったけれど、王だのなんだの言ったってあんなに弱いのだ。多少の期待外れには目を瞑れる。
何度も行った。何度も、何度も、何度も。こんなに簡単なこと、やらないやつは馬鹿だ、とさえ思った。
そしてある日、テオは自分に恨みを持つ人間に囲まれて、袋にされた。
腕の骨が折れていた。目の奥の骨も折れていて、放っておけば失明だってしかねなかった。その状態で取れる食糧なんて、貧民街にはない。食べられるもので、誰かと争わなくても得られるものなんて、どこにもない。
だから、またそこに行ってやろうと思った。
自分よりずっと背の小さい、反撃だって一度もしてきたことのないあの子どもなら、なんとかできるかもしれないと、そう思ったから。
死に物狂いで護衛の目をかいくぐって、その子どもの前に、テオは立った。
やってやる、と砕けた拳を握った。今はこんな子どもにすら負けてしまうかもしれないけれど。それでも。
力こそ全てだ、と思っていたから。
「あげる」
その言葉が、理解できなかった。
戸惑うテオに、その子どもは、言葉を続けた。
「僕は、君が怖いからパンをあげてたんじゃないよ」
じゃあ何のために、と。
その日初めて、答えを期待して、テオは言葉を話した。
そして、彼は答える。
「君に、優しくしたいと思うから」
口の中を傷だらけにしたテオのために、彼は、パンを小さく千切って、水でふやかして、ゆっくりと舌の上まで運ぶことすらした。
パンを二個。
ベーコンを一枚。
お医者さんを呼んであげる、と言ったときには、もうテオの心は決まっていた。
あらゆる力を使って、ここまで上り詰めた。
王子の、横。あるいは、すぐ後ろ。
そのはずなのに。
今は、後悔ばかりをしている。
憲兵が来たときでもいい。
王が殴りつけてきたときでもいい。
あのとき、剣を抜いていたら。
この優しい人を、守ることができたのに。
そんなことばかりを、彼が眠るベッドのすぐ横で、考え続けている。
@
思いのほか、いつものように目が覚めた。
真っ白な天井。消毒液の臭い。それだけで、病室だとわかる。ちらりと左を見ると、腕を組んだままテオが寝苦しそうに座っていた。
「寝かせてやってください」
知らない声。
そう一瞬思ったけれど、記憶を探れば、案外と心当たりもあった。
確かこの声は、宮廷魔術師団の、
「副長さん、でしたっけ」
「覚えていただいて光栄です。トリス、と申します」
すっと左側から眼鏡の男が姿を現す。白衣姿で、医者のようにも見えた。
「もう五日五晩です。そのあいだ、ずっとその騎士は寝ずに番をしていました。ようやく少し、意識が沈み始めたところです。あなたが起きたとわかってはまた寝るどころではなくなってしまうでしょうから、少し放っておいてあげてください」
「そうですか。ありがとうございます」
無茶するやつだな、と苦笑しようとして。
顔に、強い違和感。
思い出した。
「顔の傷はそこまで深刻ではありません。右の皮膚こそ損傷していますが、骨まで届くほどではない。ただ、眼球は摘出させてもらいました。残念ながら、粘膜を通して深部に到達する可能性がありましたので。現在は義眼を入れています。視力が戻るわけではありませんが、片側に眼球がないと形が崩れますので」
「……そうですか」
ユライアはそれを確かめようとして。
もうひとつ、違和感。
「代わりに重傷だったのは右腕です。咄嗟に手のひらで受けられたのは素晴らしいとしか言いようがありませんが、顔に飛んだ飛沫よりも遥かに量が多かった。……切断です。もしもそちらの騎士の判断があと一秒でも遅れていたら、脊髄まで冒されて死んでいたかもしれない。立派な、誇り高い騎士をお持ちです」
身体を、起こすことができない。
二の腕から先の右腕の感覚が、まったくない。
それを認めて、ユライアは。
ふ、とひとつ。息を吐いた。
「……でしょう。自慢の友達なんです」
「――――――」
言葉を失ったのは、トリスの方。眼鏡を、僅かに押し上げて、
「……失礼ながら、もっとショックを受けられるものかと思っていました」
「いかにも弱そうに見えるからですか?」
直接的な言葉に、トリスはやや動揺して、
「いえ、そんなことは――」
「逆ですよ。弱いから、こういう風に振る舞うんです。……あの、ひとつ訊いてもいいですか?」
「ええ、なんなりと」
「どうして自分の娘を、あんなに恨んでるんですか?」
カラン、と。
何かが落ちる音がした。
ベッドに横たわったままのユライアには、それがなんだかわからなかったけれど。
「……知っていたのですか」
「いいえ。ただ、そんな気がしたんです。合っていたみたいで、よかった」
ぎしり、と音がする。
これはきっと、トリスが椅子に座った音。
「……あれは、呪われた子です。私から、妻を奪った」
「だから捨てたんですか?」
「そういうわけではありません。私が何かを決めるよりも、竜の姫として国に迎えられる方がずっと早かった。……捨てるにしても、抱えるにしても、」
殺すにしても、と。
トリスは言う。
「恨みと言えば、確かに恨みです」
「だから、彼女の毒を研究していたんですか?」
「……お見通しか。底知れない方ですね、王子は」
「浅そうに見えるからです。水溜まりで足が少しでも沈んだら、誰だってちょっとは驚くでしょう?」
そのうえ口も上手いと来た、とトリスは苦笑するように、
「しかし、あのとき私が言ったことは、すべて事実です。嘘偽りなど、まったくない。あの子の毒は、濃度が高いだけの、蜘蛛の毒です。眷属を殺すほどの力を持つ、過剰な蜘蛛の毒です。あれは竜の姫なんかじゃありません。蜘蛛の姫、とでも言えばいいのか。……王子に置かれましては、あの呪い子の生みの親として、どう謝罪すればいいか、申し上げようもありません」
「謝罪は結構です。気にしてませんから」
「――――な、」
「それより、よければもう少し教えていただけませんか? 父が子に向ける、憎しみについて」
ぎっ、とまた椅子の軋む音がする。
動揺の音。
「それは、どういう……」
「僕も、父に恨まれています。母を殺したから。……宮廷魔術団副長ともなれば、噂くらいはご存じなのでは」
は、と息を呑む音。
「……では、あの話は、」
「秘密にしてください。あなただから、話すんです」
「それは、もちろん」
教えてください、とユライアは、
「どうして、あなたは子どもを恨むんですか?」
「……先ほど、申し上げたとおりです」
「愛する人を、奪われたから?」
「それ以外に、何があるというんです?」
声音に、僅かな昂ぶり。
「私だって、子を愛したかった。だというのに、現れたのはあの呪い子です。妻が生きていられたのは、あの子を出産してからほんの数秒だけのことでした。肌に触れたものは毒死する。呪い以外の、何だというんです?」
「だから、彼女が蜘蛛の眷属だと明かすことで、その罪を裁きたかった。……本当に、それだけですか」
「…………あなたは、どこまで、知っておいでで?」
「何も。ただ、期待しているだけです」
ふ、と。
自嘲のような溜息を、トリスは吐いた。
「きっと、王子が期待するようなことは、何も。……妻は、他の誰も、あの呪い子に殺されないように覆い被さって死にました。ひょっとすると、そのまま窒息死させるつもりだったのかもしれない。ドロドロに溶けて、それは叶いませんでしたが……」
その言葉を、ユライアは静かに聞いている。
「私も、その遺志を継ぎたかった。彼女の力を封じこめて、誰も害さないよう、殺す。それが私の役目だと、そう思ったのです。……王子。私からも、ひとつ質問をよろしいですか?」
「ええ、どうぞ。僕に答えられることなら」
「あの、謁見の間で、」
短く、トリスは息をして、
「どうして、王のことを父と……庇ったりしたのですか」
その言葉に、ユライアはきっぱりと、こう答えた。
「愛を、信じているからです」
それは、とトリスは何かを恐れるようにして、
「王から、あなたへの、ということですか」
「いいえ。……トリスさんも、なかなか鋭いんですね」
ユライアが少しだけ身じろぎしたのは、動かないままいて、頭の座りが悪くなったから。
それすらも、上手くできなかったけれど。
「父と母は、愛し合っていました。……本当のところ、僕が生きていていい理由なんて、それしかないんです」
「それは、どういう」
「トリスさんだって、思ったんでしょう。ミュシャさんのことを、生まれてこなければ、と」
トリスが、息を詰める。
それはきっと、その言葉がユライアまで届いてしまうから。
「僕の生まれた理由なんて、結局のところそれだけです。父と母が、愛し合ったから。……その他は、生まれてくるべきではなかったとしか、言いようがない。母を殺し、父に憎まれ……。だったら、その愛こそが何より大切なものだと、僕は信じるしかありませんでした。……彼を庇ったのは、母が愛した人だからです」
「あなたのお母さまは、あなたのことを、」
「愛していたか、そんなことすら知りません。なにせ、顔もろくに覚えられないうちに、母は死んでしまいましたからね」
でも、とユライアは言う。
「本当に何も感じていなかったとしたら、僕を殺して、何食わぬ顔で暮らす道だってあったはずです。……それはただ、人を殺すのが怖かったからかもしれないけれど。どうせわからないなら、僕は信じたいんです。母は、僕を愛していたと。愛は存在すると。そしてそれは、何より大切なものなんだと」
トリスは、ただ言葉を失っていた。
だって、目の前にいるのはまるで。
娘の。
「馬鹿げた話かもしれないんですが……さっきの、ミュシャさんのお母さんの話。あの話を聞いてすら、僕はもう、こう思ってしまうんです。その人は、ミュシャさんを殺すつもりなんかひとつもなくて、死ぬ前に一度でも抱きしめてあげたかっただけなんじゃないかって」
がたん、と。
トリスが、大きく椅子から立ち上がる音がした。
「ごめんなさい。不快にさせてしまいましたか?」
「……いえ。興味深いお話でした。しかし、何しろその状態です。麻酔で誤魔化してはいますが、危険な状態を脱したばかり。もう少し、お休みなされた方がよろしいかと」
「ああ、そうですね。長々と、トリスさんもお疲れのところ失礼しました」
「いいえ。……では、ゆっくりお休みください。護衛の者は、そちらの騎士の方以外にも部屋の外に何人かおりますので」
はい、と頷く。
実際のところ、大量に血も、肉も失ったユライアの疲労は生半可なものではない。こうしてただ喋っていることだって、信じられないような重労働だった。
だから、素直に目を閉じて。
去り際の、トリスの言葉を、夢うつつで聞いていた。
「しかし……あの子があなたの隣にいた理由が、少しわかった気がします」
@
いつまでも、冬の雨が降っている。
もうどこにいるのかもわからなくなって、濡れたまま、泥だらけでミュシャは目覚めた。眠ってしまったということは、少しだけでも脳が休んでしまったということで、明瞭になった思考には、一番考えなくちゃいけないことが浮かぶ。
「う、うぅううううううう」
吐いちゃいけない、と思う。
ここはどこだろう。野山? 森の中? どこだって大した変わりはないけれど、ここに胃液なんて溢したら、生き物がまた死んでしまうだろうから。涙だってダメなはずなのに。とめどなく溢れてしまって、心底情けない気分になってしまって。
死にたい、と。
そう、思った。
今頃、ユライアはどうしているだろう。
あの、自分と似ているのに、自分に似ていない人。優しくて、初めて恋をした人。
好きな人は、今。
私に殺されているのだろうか。
大丈夫だと信じたい。でも、愛する人を殺すのはこれが初めてじゃない。テオがあれだけ言ったんだからきっと平気だ。気休めに決まってる。たとえどんなに危なくたって王族なんだからきっとみんなが必死に治す。王に嫌われてるから治療だって受けられない。また嫌われた。嫌われたくない。こんなこと考えたくない。ユライアが死にそうなときに自分のことばっかりばっかりばっかりばっかり嫌になる嫌になる嫌になる、
生まれてこなければ、よかった。
『そんなことないさ』
ちろり、と。
地面に伏せた手のひらの間から、白いトカゲが這い出してた。
『君を人間の尺度で測ることが間違いなんだよ』
『ほら、思い出して』
『君は間違ってない』
『君は気高い生き物だ』
『母すら必要としないまま、たったひとりで生まれた孤高の生き物だ』
ちがう、と泣きじゃくりながら、ミュシャは、
「私は、竜の姫でも……竜でもなかった。ただの、蜘蛛……」
『それが何だって言うんだ? なんだっていいじゃないか。竜だって、蜘蛛だって。そんなの大して変わらない』
「違う、そんなの、全然!!」
『いいや、何も変わらない。ほら、大切なことはなんだか、言ってみて』
トカゲは、ちろちろと目玉を動かしながら、ミュシャを見る。
『ずっとそうやって僕らやってきただろう?』
『少しの間だけ、おかしくなっていただけさ』
『また、前みたいに戻ろうよ』
『ほら、言ってみて』
『言うんだ』
『言え』
『私はひとりで平気です』
『近付かないで』
「私だって、ひとりはいや!!!」
叫んだ。
大声で。
誰かに見つかるかもしれないなんて、欠片も考えたりせずに。
赤ん坊が泣くみたいに、すべての力を振り絞って彼女は叫んだ。
「誰かと話せないのはいや! 誰かに触れないのはいや! 誰かと手を繋げないのはいや!」
「誰かを愛せないのは、一番いや!!」
「誰かと話したい! 誰かとご飯が食べたい! 誰かとお花が見たい! 誰かと服を選びたい!」
「誰かと……」
不意に、涙が溢れて、話し切れなくなって。
もう、喋ることはないトカゲを、ミュシャは見下ろした。
「ひとりでも平気なんだったら……、あなたみたいな幻、見たり、しない……」
触れようとすれば、それは冬の幻のように、消えてしまう。
雨が、雪に変わり始めている。
助けを求めるべき人は、自分で、失くしてしまった。
広い広い世界に、彼女はひとりぼっちで座っている。
好きな人の顔を思い出した。
名前を、思い出した。
声を、思い出した。
体温を、思い出せなくて。
世界を救ってから死のうと、そう思った。
@
「おはよう、よく眠れた?」
その言葉で、テオは雷に打たれたように目が覚めた。
「――王子!! 目が――!」
「うん、おかげさまでね」
ありがとう、と言うユライアの顔を。
姿を。
テオは、まともに、見てしまった。
「お、れは――」
抉られた瞳。
包帯の下に隠された、爛れた皮膚。
自分の剣で切り落とした、短い右腕。
「なんと、詫びればいいのか――」
「いいよ、そんなの。おかげで助かった」
にこ、と片側の皮膚だけで不格好に笑うユライアは、決して慰めでそういうことを言っているわけではなさそうで。
怖い、と。
テオは思った。
この話はこれで終わり、とでも言うようにユライアは視線を少しずらす。
口を、開き始める。
開かせてはダメだ、と思った。
「テオ。今から、」
「やめてください」
自分で思っていたよりも、ずっと冷たい声が出た。
「やめてください――俺は、その頼みを聞きたくない」
「……困ったな。君にしか頼めないことなんだけど」
「もういいだろ!!」
はっ、と口を押さえる。
こんな、大きな声を出すつもりはなかった。脅しつけるような、怯えさせるようなつもりは、本当は。
けれど、ユライアは優しく微笑んで。
「大丈夫だよ、テオ。僕は、君を怖がらない」
たったそれだけのことで。
どうしようもなく、泣きそうになる。
「もう、いいでしょう。もう十分、王子は傷ついた。目も、腕も失って……。これ以上、どうして苦しむ必要があるんです。もう、いいじゃないですか。これ以上失ったら、あなたは本当に死んでしまう……」
「でもまだ、僕には命がある」
「だったら――!!」
椅子を蹴って、テオは立ちあがる。
それから床に両手足と、額をつけた。
「――伏して願います。王子。竜の姫を捨てて、お逃げください」
裏切りだと、わかっていた。
半年の間、絆を深めたのはユライアとミュシャだけではない。同じ家で、同じ食事を摂って、同じ時間を共にして――テオだって、ミュシャには情がある。少なくとも、あの場所で綱渡りをして「逃げろ」だなんて叫べるくらいには。
でも。
それでも。
「顔を上げて。テオ、ここからじゃ、君の顔が見えないんだ」
「上げません!! 王子が頷いてくれるまで、俺は、決して――!」
本当はこんなことに意味なんてないって。
わかっていても。
「今なら、王だって王子を処断したりしないはずです。婚約者だったといっても、身を挺して王を庇ったんだ。大貴族の前であれほどの傷を負った王子を、これ以上邪険にできるはずがない。……たとえ、それすら無理だとしても、王子が内通者の咎を背負わされたとしても、それだって構いません。なんだって構いやしない。どんな無理でも、俺が通してやる。俺があんたを連れて逃げる。誰が相手だって関係ない。一生、不自由はさせません。俺があんたを守る。世界の果てまでだって逃がしてやる。だから――」
生まれて初めて、テオは神に祈った。
どうか、どうか。
この人の、心を。
今だけで、構わないから。
もう、美しくなくたって、何も構わないから。
「どうか――逃げてください」
お願いします。
神様。
歪めて。
「俺は、ミュシャよりあんたが大事なんだ」
「僕は、あの子が好きなんだ」
本当は、わかっていた。
ずっと、傍にいたから、わかっていた。
「初めは、同情だったのかもしれない。だけど、」
そんなこと、誰に言われなくたって。
ちゃんと、わかっていたのだ。
「ずっと彼女と一緒にいるうちに、わかったんだ」
優しさだけで生きているような人だから。
愛だけが、取り柄のような人だから。
「同じ傷に触れた。彼女に優しくすると、特別心が温かくなる。あの子が笑うと、僕も笑いたくなる。泣いてほしくないと思う。傍にいてあげたいと思う。あの子が助けを呼んでいるなら――」
本当に、ミュシャを好きになっていることだって、最初から、わかっていたのだ。
「僕は、あの子のところに駆けつけてあげたい。
――まだ、間に合うはずだ。連れて行ってくれ。テオ。君にしか、頼めない」
この人に死なないでほしい、と。
テオは、強く思った。
それでもどこかに浚ったりできないのは。
きっと、優しい人が好きだから。
「仰せのままに――――我が敬愛する、たった一人の、主」
もう、自分ではどうにもできないくらい、大好きだから。
@
「右翼、半壊です! このままだと突破されます!」
「何をしている!! 魔術団を回せ!!」
「しかし、予備戦力を回しては継戦力が――」
「陣形に穴が開いたら継戦どころの話ではないだろう!! そんなこともわからんのか!!」
第二次抗滅戦争。
前線では、異常な事態が発生していた。
「どうなっている、参謀長!」
「は、それが――。大型の投入数が、史書にあるそれを遥かに上回っています。この数は下手すると七次クラス――最終戦争の数すら超えているかと」
「馬鹿な! まさかこの時点で、滅びの蜘蛛の本体が出てくるとでも言うつもりか!?」
「史書にはない。しかし、蜘蛛の姫の存在を考えると、あながち……」
「クソッ!! 神は俺たちを殺すつもりか!?」
鎧を着た将軍が、ガリガリと血の滲むほど頭を掻く。
戦況の不利は、火を見るより明らかだった。
油断はなかった、と言える。
抗滅戦争はただの一度の敗北も許されない、世界のための闘争。人も、物資も、二百年の蓄えを決して惜しまない。七度の戦いを控えていたとしても、その初めの剣を合わせたときから、人類にとっては崖際の攻防なのだから。
確かに、一度目はあの蜘蛛の姫がいた。
今度は、いない。
けれど、ただそれだけのことでは、ここまでにならない。
「二百年だぞ!? 最後の戦いから二百年……、人類だって、進化してきた!! まだ俺たちは、竜の姫なしでは滅びに勝てないとでも言うつもりか!!」
「将軍、冷静に、」
げほ、と参謀が口を押さえて咳をした。
手のひらを離して見ると、血がべったりとついている。
指揮官の集うこの陣の奥ですら、蜘蛛毒に冒され始めていた。
漂う瘴気。気化した毒が、前線からここまで風に流れてきている。
「ま、幕を張れ! 瘴気を遮断しろ!!」
「魔術団から解毒薬を――」
「黙れ」
静かな声だった。
たったその一言で、その場の全員を黙らせられるのは、ただひとり。
王が、剣を手に立ちあがっている。
「この場面で将が姿を消してどうする。前線の兵の士気を削ぐ気か」
「し、しかし――」
「貴様もいい加減にうろたえるのをやめろ。それでも俺が軍を預けた男か」
ぐ、と将軍すらも言葉に詰まる。
王は、ほとんど目にも見えないような速度で、剣を抜いた。
「右翼には、俺が出る。武功を上げたいやつはついてこい」
「な――、おやめください!」
血を拭いながら、参謀長が、
「いくら王といえど――」
「王だからだ。――俺を、誰だと思っている」
その場に居合わせた誰もが、知っていた。
抗滅戦争を生き抜くために、気の遠くなるような遥か昔から人類が蓄積した武の極致。
あらゆる武術を使い、あらゆる魔術を使う。鋼鉄を砕いて造り上げられた完全なる黄金。
ただの人間でありながら歴代の竜の姫にすら匹敵する武力の持ち主。
抗滅戦争のための、人間兵器。
それが、目の前にいる王の正体であると。
その足を止められるのは、たったひとつの伝令しかなかった。
「だ、第四王子です!!」
駆け込んできた男の言うことを、誰も理解できなかった。
誰かが訊き返す。第四王子が何だと言うんだ。伝令は息を切らして、わかり切ったことを訊くな、という口調で答える。
「第四王子が、ご到着されました!!」
まだ、誰も理解できない。
理解の、しようがない。
誰だって知っているから。あの謁見の間で、毒を浴びて、右の眼と手を欠いた王子のことを。あれからたったの数日しか経っていないその青年が、ここに来るわけがないと思っているから。
だから、王子を背負った赤髪の青年を目にした瞬間が、本当の意味で、その伝令を理解した瞬間になった。
「あれは……」
「ユライア様?」
「おお、なんとお労しい……」
「蜘蛛の毒に、あんな……」
精悍な赤髪の青年は、それでも疲れを隠せていなかった。目は落ち窪み、汗と土煙の跡が顔を流れている。寝ずにここまで馬を走らせてきたかのような、満身創痍だった。
そしてそれに背負われた薄茶色の髪の青年は、もっとひどい。包帯は薄汚れ、血の滲むのが隠せていない。顔にはおよそ色というものがなく、薄く開いた目すら、夢でも見ているように朦朧としている。ほとんど死体と言ってもわからないような姿だった。
テオと、ユライアだ。
「何をしにきた?」
訊いたのは、王だった。
「ユライア=ホートレイが騎士、テオ。我が主を婚約者、ミュシャ=ノーリスに再び会わせるために、ここまで参上した」
「蜘蛛の姫に、か」
「違う。あの女は、ただのユライア様の婚約者だ」
何が違う、と王は嘲笑った。
「つまりお前たちは蜘蛛の姫と真に内通していたと、そういうことだな?」
「違う」
「王、今はそのようなことをなさっている場合では、」
「黙れ!!」
忠言を試みた参謀が、王のたった一言の恫喝で縮み上がる。彼だって、素人ではない。戦士となるための教練をこれでもかというほど叩きこまれてこの地位まで上った男が、それでもたったの一言で委縮した。
それほどの、怒りの凄まじさ。
王が、剣をテオとユライアへ向ける。
周囲が震えあがるような、大蜘蛛すらも上回るような、怖気の走る強烈な殺気を、突き刺すように飛びつけて、
「裏切り者が……。もはや生かしておく理由もない。ここで死ぬがいい」
誰も、止める者はいない。
止められない。心も、力も、王には誰もその大きさが及ばないから。
けれど、テオだけは。
その剣先をじっと見つめて、言った。
「お前は、滑稽だ」
「……何だと?」
「お前は滑稽だ、と言ったんだ」
心臓に剣を向けられているというのに、それを全く気にしていないような声で。
テオは、言った。
「それだけの力があるのに、奪うことにしか使えない」
「黙れ」
「そんなやつは、どれだけ強くたって俺は怖くない」
「何を言っている!」
「俺が本当に怖いのは、優しい人だけだ」
「貴様ァ!!」
王が剣を、振りかぶった。
けれど、それでも。
「その剣を振り下ろしたいなら、そうすればいい」
テオは、動かない。
「でも、そんな剣じゃ何も奪えない。お前のような人間が、俺から何かを奪えるものか」
瞳を、まるで逸らさない。
剣すら抜かないまま、テオは、王の時間を止めていた。
「お前なんか、俺はひとつも怖くない。
――優しさを持たない人間なんかに震える心は、俺にはひとつもないんだ」
誰も、気付かなかったかもしれないけれど。
それは確かに、王が生まれて初めて、対峙した相手に敗北した瞬間だった。
「で、伝令、伝令ーっ!!」
凍り固まった陣中に、ひとりの男が駆け込んでくる。ついさっき来たのとは違う、いかにも健脚然とした痩せ型の兵士。鎧さえ脱ぎ捨てているのを見れば、どれほどの言葉を背負ってきたのかもわかる。
「右翼、持ち直しました! ――加勢です! 蜘蛛の姫が、我が軍に味方を!!」
その情報の価値を誰もが決めあぐねている中、静かに、テオは言った。
「馬を借りるぞ。だいぶ無理させたから、交代させてやりたくてな」
そして、背中のユライアを抱え直して、小さく囁く。
ユライア様。
「もうすぐ、会えますよ」
小さく、ユライアが頷いたようにも見えた。
@
もうずっと、寝ていない。寝ずに、ずっと歩き通して、おかげでなんとか間に合った。
素肌で、ぺたり、と蜘蛛に触れる。殴ったり、蹴ったりするわけじゃない。ただのそれだけ。
それだけで、彼らは腐って、死んでいく。
「く、蜘蛛姫……?」
死にかけていた人がいたから、割って入った。人と同じくらいの大きさの蜘蛛の前。たった今、その人を助けて、もうミュシャは。
近付かないで、なんて言う必要もない。
「う、うわぁあああああああ!!!」
叫んで、逃げ出して。
当たり前だ、と思う。だって、強いものは怖いから。
自分を傷つけるものは、怖いから。
ここじゃダメだ、とミュシャは思う。ここにいたら、他の人たちが自分を怖がって、戦えなくなってしまうから。
「もっと、奥に……」
歩く。
もう感覚もない足で。靴だって破れて、足裏の皮の剥がれたところから肉が見えて、血を流しながら。
一歩一歩が、大地に毒を残していく。
呪われた足跡。
自分の人生、そのものみたいに。
蜘蛛の毒は、ひとつも効かなかった。自分の毒だって効かずに生きてられるんだから当たり前のことだけれど、こんな薄い毒では肌にひとつだって跡を残さない。
ユライアと違って。
代わりに身体を傷つけるのは、流れ矢だった。蜘蛛を殺すための鉄の矢が、蜘蛛に紛れたミュシャのところにも飛び交って、たびたびそれは、血を撒き散らす。
その血に蜘蛛が死んでいくのを見ながら、ミュシャは思う。
流れ矢なんかじゃなく、本当に、自分を狙う矢なのかもしれない。いつか、それは自分の心臓を貫くのかもしれない。
それでもいい、と思う。
生まれてきたことが罪なら、罰があるべきだから。
罰があって、ほしいから。
でも、今だけは。
誰かが死んで、しまわないように。
ミュシャは戦った。僅かな命の炎を燃やすように。人も、蜘蛛も倒れていく中で――彼女は最後までその二本の足で立って、戦った。たったひとりでも。誰も、守ってくれなくても。
孤高の生き物のように。
たったひとりで生まれてきた生き物のように。
毒を散らして、戦った。
だから、滅びの蜘蛛が生まれた。
「な、なんだあれは!!」
「馬鹿、あれは――、」
「本体だ! 本体が出るぞ!!」
気化した毒が、戦場の上空で大きな雷雲のように黒く、固まっていく。それは膨れ上がり、形を変え、やがて――。
天を衝くような巨体。
これまでの眷属とは比べ物にならない。現代にまで語り継がれる、唯一の神話。
滅びの蜘蛛が、大きな地響きを立てて現れた。
兵士たちは逃げ惑う。勝てっこない。史書でだってあの滅びの蜘蛛に、人は歯が立たなかった。竜の姫がたったひとりで倒していたはずだ。恐怖に駆られ走り出す彼らに、竜の姫の不在は頭を過らなかった。
不思議と、滅びの蜘蛛はまっすぐにミュシャを見た。八つの目のひとつひとつが、ミュシャの姿を映している。ミュシャも、ほとんどぼやけ始めた視界の中で、それを捉えた。
雪の降るような声で鳴くと、蜘蛛は、その口を開けて毒を吐き出した。
二度の戦いの中で、ミュシャもとうとう、毒の使い方を学んでいた。手のひらを翳して、同じように、毒を吐き出す。
そのたった一度で、すべてがわかった。
「…………うそ」
勝てない。
毒の濃度が、向こうの方がずっと濃い。
滅びの蜘蛛の吐いた黒い毒に、ミュシャの毒が飲み込まれていく。後方に逃げ出した兵士たちはもちろん、ミュシャにまで、その毒が浸透していく。
今までは、かけらだって効かなかったのに。
膝を折る。
身体が痺れて、動けない。皮膚にぷつぷつと水泡ができて、ぱちりと割れるとそこから血が流れ出す。
滅びの蜘蛛が、ミュシャを見ている。
じっと。
じっと。
じっとじっとじっとじっと。
八つの、真っ黒な目で。
ミュシャのことを、見ている。
「――――あ」
そして、八つ足のひとつが、ミュシャの胸を刺し貫いた。
@
先頭のひとりが、泡を噴いて倒れた。
「ひいっ!」
「毒だ! 毒がある! この先には進めない!」
「魔術団を出せ! 風で飛ばすんだ!!」
それを見るや、テオは馬からユライアを抱えて降りた。怯える馬の鼻先をやわらかく撫でる。
「ここまででいいよ。怖かっただろ。ありがとな」
小さく馬が、いいや、と言うように首を振った。
さて、とテオは背中のユライアを少し揺さぶって、
「ユライア様。ここからはもう徒歩です。また乗り心地が悪くなると思いますが、ちょっと我慢してくださいね」
「――いや、ここまででいいよ」
思いのほか、はっきりした声だった。いつの間にか、ユライアは目を覚ましていた。
その背中から下りようとするユライアに、テオは慌てた声で、
「大丈夫ですよ。このくらいの毒、俺だってなんとでも――」
「ううん。ここまでで、大丈夫なんだ」
見つめる目は、遠い。
その瞳で、テオはすべてを察した。
「……正直言うと、最後までついていきたかったですけど。でも、俺が行っても足手まといみたいだ」
「そんなことないよ。ただ、お兄ちゃんがデートについてきたりしたら、ちょっと恥ずかしいだろう?」
ふっ、とテオは笑って、
「それだけ軽口が効けるなら大丈夫そうですね。……鎮痛剤は、切れてませんか?」
「うん」
「足は動きます?」
「なんとか」
「少しだけ、抱きしめても?」
ん、とユライアが両手を差し出す。それをテオは、深く、強く抱きしめた。
数えて三秒。その間に、涙一滴。それでもう、全てを流し切った。
あとはもう、背中を押すだけ。
「いってこい、ユライア」
「いってきます、テオ」
隊列の後方から、第四王子が歩いてくる。
そのことに、すれ違う兵たちは誰もが振り向いて驚いた。
どうして。なぜ。この先には毒があって、誰も進めないというのに。何か秘策があるのか。いや、あの王子は剣も魔法も使えないはずだ。じゃあどうして? 蜘蛛の姫と内通しているんだろう。寝返るつもりなのかもしれない。馬鹿、あの傷を見ろ、あれは蜘蛛の姫にやられて――
遅々とした足取りだったけれど、確かに、最前列へ。
そこには、王もいて、ユライアを見ていた。
ここから先が毒の場所なんですか、とユライアは近くにいた兵士に訊く。
そうです、と恐縮してその兵士が答える。
その壁の向こうには、滅びの蜘蛛が見える。
ユライアは、少しだけ目を瞑った。
「やっぱりそうだ。君は――」
呟いて、ユライアの右足が上がる。
ひっ、と声が上がった。
お待ちください、と誰かが呼び止めた。
ユライア、と、
王が、声を上げた。
たった一瞬。
無数の声の中で、そのたった一瞬だけをユライアは決して逃さずに、少しだけ振り向く。
「行ってきます――父さん」
子が父に笑いかけるような顔で、そう言った。
右足が、地面を踏む。
そこからは、誰も動けなかった。
誰が見たって、それは戦士ではなかった。華奢な体格。魔力だって感じない。これまで虫の一匹だって殺したことのなさそうな、弱々しい背中。それを、誰もが目を逸らせず、一言も発せず、じっと、見つめていた。
何の迷いも、打算もない。
この場にいる誰よりも力のない男が、まっすぐ、世界を滅ぼす蜘蛛へ歩いていく。
決して、立派な姿ではなかった。
片腕を失って、身体はぐらぐらと揺れている。大量に失っただろう血液は、彼の身体からあらゆる陽気を奪い、いまその顔貌は白く、蝋のように冷えている。包帯だってほつれて、汚れて、とても貴い身分の者とは思われない。
それでも、その姿は。
途方もなく、美しかった。
ただ、歩いているだけ。ほんの小さな子どもがするように、不格好に。
けれど。
愛へ向かって歩く姿は、どこまでも祈りに似ていた。
「ミュシャさん」
小さく、ユライアは呼び掛ける。げほ、と拍子に血を吐いて。
ミュシャは、倒れていた。胸を刺し貫かれて、血を流して、地面の上に。
可哀想に。血まみれの彼女を助けることは、この世の誰にもできはしない。その血に触れれば、身体は溶けてしまうから。それは目の前の、ユライアだって同じことで。
だから、言葉で呼びかけた。
「ミュシャ、さん」
「ゆら、いあ……?」
果たして、彼女にまだ息はあった。けれど、瞳の焦点が合っていない。目の前にいる人間が誰なのかも、本当はよくわかっていない。
それでもユライアの名前を呼んだのは、そこに一番、いてほしい人だったから。
「そっか。また、幻……。でも、幸せな幻なら、いい……」
可哀想に。彼女はそれを、幻だと思い込んでいる。生まれてからずっと、寂しさに幻を見てきた彼女だから、なおさら、強く。
「生きてて、よかった……。あのね、ずっと、謝ろうと思ってたの……。顔が嫌いって、言ったこと……。気に、してたよね。ごめん、ごめんね……。嘘だよ、あんなの……。好き、あなたの、ぜんぶ……」
「いいんです。全然、気にしてませんでしたよ」
「……幻のなかでも、優しいんだ……」
可哀想に。彼は彼女に、自分は幻ではないと伝える手段がない。手を繋ぐことだって、できないのだから。
「いっぱい、傷つけて、ごめんね。いっしょに、いてくれて、うれしかったのに……」
「僕だってそうです」
「ごめんね……。私、竜の姫じゃ、ないから、誰のことも……助けられなかった……」
「ミュシャ」
静かに、ユライアは呼び掛ける。
可哀想だと思ったわけじゃなくて、
ただ、愛しいと思ったから。
「怖かったね――もう、大丈夫」
あ、と。
その言葉に、ミュシャはすべての隙間を埋められたように。
声を上げて、泣きだした。
それをユライアは、慈しむように見ていた。
「、来たのか」
ふと視界の翳りにユライアが顔を上げると、いつの間にか、滅びの蜘蛛は目の前にいた。
八つの瞳で、ふたりを見つめていた。
瞳と瞳で、ユライアは、蜘蛛と語り合う。
もう、すべてがわかっていた。
愛が美しいだけではないこと。それが何かを傷つけることもあること。優しいだけのものでは、決してないこと。
「君は愛の悲しみ――。愛の生み出した、憎しみそのものだ」
その八つの瞳の中に、ユライアは見た。
自分の両親と、ミュシャの両親。四人の両目を、そこに見た。
「だったら、そこで見ているといい」
ユライアは、蜘蛛から視線を切って、再び、ミュシャに向き直る。泣きじゃくる彼女に聞こえるように、顔を近づけて。
「たくさん、言いたいことがあるんだ。でも……いざ目の前にしたら言葉が溢れてしまって、上手く話せそうにもない」
だから、と。
ユライアは。
「いちばん大切なことだけ言うから、よく聞いて」
ミュシャの瞳から、大粒の涙が落ちた。
それを最後に、ミュシャは声を上げるのをやめて、それでも涙は堪えきれないというようにぼろぼろと流しながら、耳を傾けて。
とうとう、彼は言った。
「君の毒に溶かされてわかった。――傷つけられたくらいじゃ、どうにもならないんだ。そのくらいのことじゃ、何も消えてなくなったりしない」
ユライアの手が、血まみれのミュシャの身体を掴んだ。
一瞬。それが身体を溶かし切る前に、最後の力で、ユライアは彼女を引き寄せた。
「君を愛してる」
そして、死んでしまうくらいの口づけ。
身体は崩れて、もたれかかって、それでも腕は、もう何の意志だって関係ないようにミュシャの背中に回されて。
最後には、彼は彼女を抱きしめた。
@
ミュシャは、思い出していた。
もうほとんど、視界のない中で。全身から力が抜けて、痛みだって感じなくなって、現実と、幻の区別もつかなくなる中で。
昔、こんな風に。
誰かに抱きしめられたことがあるはずだ、と。
ありえないことを、思い出して。
それで、目が覚めた。
「――――え」
最後の灯火だったのだと思う。
胸に穴は開いたまま。それほどしないうちに自分は死ぬはずで、どうしてこんなに意識がはっきりしているのかと考えれば、やっぱり死ぬ間際に、急に痛みがなくなるようなものなのだろう。そう思う。
そしてその目で、はっきり見た。
もうそこに、滅びの蜘蛛はいなかった。
どうしてだろう、と思う。
だって、自分では勝てなかった。王様が何とかしたのか。そう考えて首を巡らすと、随分距離の開いたところに彼らは陣取っていた。
そして、茫然とこっちを見ている。
せっかく勝ったのに。
それとも、本当はまだ勝っていないのか。
そんなことを思いながら、ぴちゃり、と。
指先が、それに触れた。
「――ユライア」
誰に言われずとも、たったそれだけでわかった。
夢ではなかった。幻ではなかった。
駆けつけてくれたユライアは。自分が傷つけたあの優しい人は。死の淵に立った自分の心を慰めてくれたあの人は。
自分にキスをして、抱きしめて、その感触だけを教えて、死んでしまった。
毒と血の中に、手を入れた。指先だけでも残っていないかと思って。
何も。
何も、残っていなかった。
そこには、何も、残っていなかった。
もう何もわからないまま、ミュシャはその水を手に掬い取った。どうしてそうするのかはわからなかったけれど、きっと、そのままにしていたら、地面にすべて吸い込まれて、死んでしまうような気がしたから。
どうすることもできなくなって、彼女は。
その水に静かに、口づけをした。
ミュシャは、奇跡を信じていない。
だって、そんなものがあったらこんなことにはなっていないから。だから、どうしようもない状況でも何かに祈ったりはしない。どうしようもないことは、どうしようもないままに流れていくことを、受け入れている。それはきっと、この場にいる兵士たちの、全員がそう。テオだって、決して例外ではない。
だから、そのとき真っ白な竜が空から一羽、降りてきたことを。
誰も、現実のこととは信じられなかった。
『それが、お前の愛する者か』
星の果てから現れた生き物を、見上げながら。
もうミュシャは、ただ心のままにしか答えられなかった。
「はい、そうです」
『この世界に、守る価値はあるか』
「わかりません。けど、」
ミュシャは、彼の体温を思い出しながら、
「好きな人が、この世界でしか生きられないなら。この世界には、在り続けてほしい」
『愛とは、何か』
「わかりません。美しくもあるし、こんな風に、悲しくもある。でも、私が一番、欲しかったものです」
静かだった。
世界に、ミュシャと、竜の他に、いないかのように。
『愛とは、どこにあるのか』
「わかりません。それは、目に見えないものだから」
『それは我にもあるものか』
「わかりません。私には、あなたの心はわからないから」
『で、あれば』
最後の、質問を。
竜は、唱えた。
『どうしてお前は、愛を信じられるのか』
「愛してほしいから。――――愛して、いたいから」
風が吹いた。
冬の、世界の果てから果てへ渡っていくような、途方もない風が。
確かに、竜の羽を揺らした。
『お前たちは、最初から間違えていた』
竜は、言った。
『この世に、確かなものなど何ひとつとしてない。すべては不確かで、移ろいやすい。それをお前たちは、心でさえも初めから、確かなものだと決めてかかった。それが歪みを生み、蜘蛛を育て、竜の姫にすらその毒を残すことを許した。――初めの誓いが、すでに禁忌だったのだ。さあ、我が力の欠片を抱く娘よ』
竜は、爪の先をミュシャに向ける。
蜘蛛をも超えるその存在は、海のような声でこう言った。
『お前の恋人は真実に辿り着き、それをお前が言葉にした。――さあ、新しい誓いを立てよう。お前は、何を誓う?』
「私は――」
それでも。
ミュシャは、迷わなかった。
「心の在処なんて、わからない。愛が何なのかも知らない。永遠になんて生きられないし、いつか終わりが、別れが来ることも知ってる。――――だけど!」
ユライアの、体温を思い出しながら。
生まれて初めて、胸を張って、こう言えた。
「――それまでの短い時間、私はこの人を愛していたい!」
竜は、その言葉を。
不思議と、凪いだ目つきで聞きながら。
『――――ふ』
少しだけ、笑った。
『それは誓いではない。だが――』
竜が羽ばたく。冬雲を飛ばすような勢いで。
その羽から生まれた風が、大地から毒を清めていく様を。
傷ついた人々を癒していく様を。
誰もが、その目で見た。
『素敵な願いで――約束だ』
竜が飛び立つ。
空を覆う羽で、また星の彼方へと去っていく。
最後に、こんな言葉を言い残して。
『我が力を、探し求めよ。決して、自ら生きることを怠るな。それぞれの滅びと向き合え。人よ。慈しめ。愛せ。そして――生きられる限りを、幸福に生きるがいい』
歓声が、鳴り響く。
祝福が、世界を満たしていく。
こんなの嘘みたいな話だけれど。
奇跡なんて、きっと誰も信じていなかったけれど。
でも、確かに。
愛は、奇跡と手を繋いでいた。
「――ユライア!」
彼女の手が、彼に触れる。
今度は、傷つけることなしに。
「――ミュシャ」
古い古い、伝説の終わり。
そして一番新しい、約束の始まり。
春の光が降り注ぐ。
途方もない暖かさで。
そうしてふたりは、世界でいちばん、幸せになった。
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もしも少しだけそのあとのことを語るなら。
たぶん、こんなこと。
ひとりの老婆が、王都を歩いていた。あちこちをきょろきょろと見回しながら。
王都はもうずっと祝祭が続いている。二百年に一度。街に不案内な老婆がひとりでふらふらと歩いていても誰にも騙されたりしない程度には、誰もが幸せな気持ちになっていた。
手に地図を持ちながら、老婆はしきりに何かを探している。やがて諦めたのか、彼女は小さな溜息を吐く。そして、街角に立つ、ひとりの赤髪の青年に、声をかけた。
「もしもし、そこのお兄さん」
「ん?」
身長の高い、美青年と言ってもいい顔立ちの男だった。ネクタイを緩めた礼服を着込んでいて、何やら口を尖らせてぶつぶつとメモを読みながら呟いていたところを、呼び掛けられて顔を上げる。
「あら、お邪魔しちゃったかしら」
「いや、全然。むしろ気付かなくて悪かったね。何か用かい?」
青年が存外気さくに答えてくれるのに老婆は安心して、こう続ける。
「今日、竜の姫様の結婚式があるでしょう? 実はあたし、それを見に田舎から出てきたんだけど……」
「へえ! 熱心だなあ。きっと竜姫様も喜ぶぜ」
「いやね。こんなババひとり来たって竜の姫様は喜びゃしないわよ」
「ところがどっこい、あれで寂しがりで……、と。で、それでどうしたんだ?」
「それがね、結婚式の場所がわかんないのよ」
ほら、ここなんだけど、と老婆が手に持った地図を見せる。青年は大きく屈みながら、老婆の顔の横からそれを覗きこんで、
「あ、この場所は身内だけでやるところだから外部の人は入れないぜ」
「やだ、そうなの? さっき門の人に訊いたらそう言われたんだけど」
「いや、申し訳ない! どいつもこいつも抗滅が終わって浮かれてるから……。あとでよく言っとくよ」
「あら、お兄さん、兵隊さん?」
「んにゃ。これでも騎士でね。ただまあ、門にいるのはたぶん知り合いだから、個人的に話しとくよ。仕事しろーっ、てな」
はあ、と老婆は青年を頭から爪先までじっと見つめて、
「かっこいい騎士さんもいるもんねえ。やっぱり、あれ? 小説みたいに、素敵なお嬢さんを守ってたりするの?」
「……ま、最近はそっちも少々」
あらあらあら、と嬉しそうにする老婆に、青年は苦笑して、
「一般向けには結婚式のあとのパレードがある。大体大通りならどこでも見られるけど、個人的なおすすめはそこの緑の看板の喫茶店だね。そこで『黒パンやわらかめで』って注文してみな。二階に入れてもらえるから、そこからならふたりの顔が通りがかりによく見えるはずだ」
場所はわかるかい?と青年は聞く。老婆も少し目を細めればそこに看板があることがわかって、こんなに親切にどうもありがとう、と深々頭を下げた。
「ところでお兄さん。お返しと言っちゃなんだけど、さっきから何か困ってるのかしら?」
「あー……」
ぴら、と青年は、ついさっきまでにらめっこしていた紙を指に挟んで、
「実は、友人の結婚式で役を頼まれちゃってね」
「竜の姫様と同じ日にやるの? それは縁起がいいわね」
「……ん、まあね」
それで?と老婆は、
「何の役を頼まれたの?」
「司会進行、仲人、新郎側家族挨拶、新婦側家族挨拶、新郎側友人挨拶、新婦側友人挨拶……」
老婆は、小さな口をあんぐり開けて、
「……ひとり芝居?」
「言わないでくれ! 俺だってそう思う……」
気が重い、と胃のあたりをさする青年に、老婆は慰めるように、
「でもいいじゃない。それなら、ほとんど身内だけの式なんでしょう。新郎新婦と親しいなら、ことさら気負うこともないだろうし」
「いやそれが……」
「何に悩んでるの?」
新婦側の挨拶、と青年は言う。
「もちろん親しいは親しいんだけど……、新郎側との付き合いの方が長くてさ。一度、はっきりそういうことを言っちゃったこともあるし」
「あら、よくないわねえ」
「俺もそう思うよ。だから、こういう場では差がつかないようにみっちり練習してるんだけど、どうもしっくりこないっつーか……。大体俺、こういうの苦手だし」
うーん、と頭を抱えて座り込んでしまった青年に、老婆はくすりと笑う。
「大丈夫よ。きっと、そういうことをわかって、新婦さんもあなたに頼んでるんだから」
「……そりゃ、そうかもしれないけど」
「ちょっとは寂しいかもしれないけどね。でも、愛する人を愛してくれてる人がいるって、そんなに悪い気持ちがするものじゃないわ」
おばあちゃんの言うことを信じなさい、と。
老婆は、青年の頭を、ゆっくりと撫でた。
「……うん。ま、そうか。あんまりくよくよ悩んでも仕方ないしな。一昨日から夜通し、やれるだけのことはやったし。精一杯を見せるしかないか!」
ありがとな、と言って、青年は立ち上がる。
「――あれ?」
そこに、もう老婆の姿はなかった。
雑踏の中を探してみても、見当たらない。
「なんだ、もう行っちまったのか。結構せっかちだな。あそこの喫茶店のオススメ、教えてやろうと思ったのに……」
ひょい、と背伸びをしたとき、かさ、とポケットで音がして、それで気付いた。
何かが、入っている。
「――なんか、入れたっけ」
取り出すと、それはさっき、老婆が持っていた地図だった。
しまったな、と思う。追いかけて返してやろうか。それとも、あそこの喫茶店で気付いたら、店主が親切なやつだから新しいやつをくれるだろうか。あるいは、もう場所さえわかったから要らないものになってしまっただろうか。
そんなことを考えながら見ていると、ふと、その地図の隅に落書きがあるのを見つけた。
小さく、綺麗な字で、こう書いてある。
『新しい約束をありがとう。新婦さんと、新郎さんによろしく。お幸せに』
青年は、首を捻って。
気付けば、こんな時間。
「――やっべ! 遅刻する!!」
ひとまずはこの地図のことは後回しだ。青年はポケットにそれを入れ直して、ネクタイを締める。遅れるわけにはいかない。最近ふたりとも遠慮をなくしてきてるから、こんなに大事な場面で遅れたら一生ねちねち言われる羽目になる。
行こう。
華やいだ街の中を、真っ赤な髪の青年は、走り出す。
愛し合うふたりが待つ、幸福な場所へ。
新しい、幸福を届けに。