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婚約破棄された公爵令嬢の婿に選ばれた。ババ 引かされた? いえ、ハートのAです。

作者: 和泉 佐歩

20/7/1 日間恋愛 異世界転生/転移ランキング 1位を頂きました。読んで下さる皆様のおかげです。感謝いたします。

21/04/04 細部、修正。

21/06/29 花畑の表現の矛盾点、修正。

24/08/31 エイベルの心情(結婚観)追加。


 僕の婚約が決まったのは、十二歳の時だった。


「エイベル、お相手は本家のコンスタンスお嬢様だ。うちのような末端の分家から選んで下さるなんて、とっても名誉なことだ。お前は果報者だよ」


 そう言って、父、オルドリッチ男爵は僕の反応を待つこともなく、ダイニングから去っていった。今日は領地の視察日、夜まで帰ってくることはないだろう。


 僕の名前は、エイベル・ロチェスター。


 オルドリッチ男爵、ラファエル・ロチェスターの五男。魔力量は兄弟姉妹の中では多いほう。けれど、長兄が、とんでもない魔力量を持っているので、殆ど注目されたことがない。長兄に比べたら、僕達、他の兄弟姉妹は有象無象に過ぎない。


 そして、僕の母は第三夫人。貴族の最底辺、騎士爵家の出。つまり、父から見れば僕なんて、いてもいなくても変わらない存在。どうでも良い子供だ。


「何が果報者だよ。コンスタンス様なんて三歳も年上じゃないか、それに……」


 コンスタンス・アストガルト。十五歳。()()()()()()()()


 うちの遠い本家、オルブライト公爵家の長女。


 オルブライト公爵家が筆頭公爵家故、半年ほど前までは、彼女は、第二王子の婚約者だった。


 彼女を長年治療してきた治療魔術師が、以下のような最終診断を下したため、コンスタンス様と王子の婚約は王宮側から破棄の通告がなされた。


「コンスタンス様が、常人のような体力と健康を取り戻されることは、もはや無いでしょう。ましてや出産など、自殺行為に他なりません」


 コンスタンス様を日陰者にしたくなかった公爵様は(貴族令嬢にとって相手側からの婚約破棄は恥辱、大いなる醜聞)、公爵家が毎年行っている上納金の増額等、様々な譲歩を王宮側へ申し出たが無駄だった。


 こうしてコンスタンス様の婚約者の席は空席になった。そして、そこに座らされたのが僕。僕は後釜にされた。


 彼女と結婚しても彼女は病弱故、子供を産むことは出来ないし、貴族夫人としての務めも果たすことが出来ないだろう。だったら、第二夫人、第三夫人を貰えばよかろうと言う人も多いだろう。でも、それは難しい。オルブライト公爵はコンスタンス様を溺愛しているという、婿に入る形の僕にそんなことは許してくれないだろう。(そして僕自身も複数の夫人を持ちたいとは思わない。これまで母達、父の三人の妻達の確執を何度となく見て来た。彼女達が心から幸せだとは、僕には到底思えない)


 はっきり言って僕の人生は詰んだ。終わった。僕に待っているのは体の弱いコンスタンス様を介護し続けるだけの人生だ。


 もういいや、介護の傍ら趣味の魔術研究にでも勤しんで一生を過ごそう。もしかしたら新しい魔術の一つくらい作れるかもしれない。それならば、僕のろくでもないであろう人生にも少しは意味があると思えるだろう


 僕は早々に家を出され公爵家に移らされた。結婚は数年先だが早く行って、コンスタンス様のお相手をしろということだ。なんて身勝手なんだと父上を恨んだ。


 しかし、そんなチンケな恨みはコンスタンス様に初めてお会いした時に霧散した。


 寝台の上のコンスタンス様は、見たことがないほど美しい人だった。腰にまで流れる艶やかな銀の髪。すっきりと整った小顔は、ライトグリーンに澄んだ大きな瞳がとっても麗しい。陳腐な表現で申し訳ないが、天使が地上に舞い降りてきたのかと思ってしまった。これなら、公爵様が溺愛しているのも納得出来ようものだ。


「エイベル様。こんなことになってしまい誠に申し訳ございません。さぞ、お気を悪くされていることでしょう」


 声まで良い、なんて愛らしい声なんだ。


「いえ、そんなことは全くありません!」


 はっきりと否定した。


 先ほどまで、不平不満しか持っていなかったのに、我ながらなんて現金なんだと思ってしまう。でも、仕方ないだろう。僕は恋に落ちた。一目惚れなんて信じていなかったのに……。それほど彼女の美しさは衝撃的だった。


 しかし、コンスタンス様は僕の返事をちゃんと聞いていなかったようだ。


「少しの間、我慢して下さいませ。お父様にお願いして、この婚約を何としても解消して頂きます。私はエイベル様と結婚しても妻としての役目を果たすことが出来ません。元々、婚約する資格さえないのです。ですから」


「止めて下さい!」


 思わず大きな声を出してしまった。その声に驚いたコンスタンス様は大きな目をさらに、ぱちくりとさせた。


「自分に資格が無いなどと、二度と言わないで下さい。そんなことを言えば、僕だって資格はありません。コンスタンス様は筆頭公爵家の長女。僕は男爵家の五男。家格の釣り合いが取れないにもほどがあるのです」


「家格なんて……」


「コンスタンス様はあまり外にお出にならないから、おわかりではないかもしれませんが、家格というものは圧倒的ですよ。貴族の人生の殆どがそれで決まってしまいます」


 家格が低いととても大変。例えば僕、男爵家の五男など貴族の底辺。他の高位貴族家が婿に迎え入れてくれるか、特別な才能でもない限り、立身出世など夢のまた夢だ。


「……そうですね。バカなことを申しました。許して下さいませ」


 コンスタンス様が、悲し気な顔になった。


 僕は自分に腹が立った。彼女が世間の常識に疎いのは彼女のせいではない。彼女は人生の殆どを寝台の上で過ごして来た。そのような人に言って良い台詞ではなかった。


「こちらこそ、コンスタンス様を悲しませる気など毛頭なかったのです。すみません」


「いえ、そんな……」


「とにかく、もう僕達の婚約は決まってしまったのです。この流れに乗ってみましょう。どこへ行きつくかわかりませんが、案外素晴らしいところに行けるかもしれませんよ」


 僕はコンスタンス様に、にっこりと微笑んだ。


 頼む、婚約を解消するなんて二度と言わないで……。


「……はい、わかりました。エイベル様がそう仰って下さるなら」


 ほっとした。会ってそうそう大声など出してしまったので、嫌われたかと思って冷や冷やしていたのだ。


「あの、エイベル様。一つお聞きしてよろしいでしょうか?」


 コンスタンス様がおずおずと聞いて来た。なんだか頬が上気しているような……。


「はい、何でございましょう」



「あの、エイベル様は年上……、年上の女性をお嫌いではないですよね?」


 

 彼女の顔は真っ赤になった。


 ダメだ、可愛過ぎる。なんだ、この可愛い生き物は……。耐えられない。


「どうかされましたか。失礼な質問だったでしょうか」


 僕が黙り込んでしまったので心配になったのだろう。コンスタンス様が覗き込むような感じで聞いて来た。いけない、彼女を一瞬たりとも不安に落としたりしてはいけない。


「年上の女性は好きですよ。コンスタンス様なら百歳上でも大丈夫です!」


「百歳上!」


 彼女がまた目をぱちくりした。ほんと大きな目だ。僕の倍くらいあるんじゃないか?


「もう! 冗談でも、私をそんなお婆さんにしないで下さいませ。エイベル様!」


 そう言って、コンスタンス様はとても嬉しそうに笑われた。


 今日初めて、彼女が心から笑うのを見た。こちらの心まで温かくなるような笑顔だ。この笑顔を見られるなら、これからのことも頑張っていけるのだろう。僕はそう思った。


 こうして僕は、公爵家のお屋敷でコンスタンス様と一緒に暮らすこととなった。僕の役目は、彼女の話し相手になることと、屋敷に通って来る家庭教師の下、彼女と一緒に勉強すること。彼女の世話、介助等は専属のメイドがやってくれる。でも、僕は将来彼女の夫となる身、ちゃんとやり方を覚えようと思ってメイドに、教えてくれと頼んでみた。しかし、帰って来た返事は微妙なもの、というか拒否だった。


「エイベル様。お嬢様をお助けしたいというお気持ちは、大変素晴らしいものだと思います。しかし、コンスタンスお嬢様はうら若き女性。殿方には、お頼みできないことが多々あります。学ばれるのは御結婚後でも遅くはございません。今は、私共にお任せ下さいませ」


 言われてみれば、確かにそうだ。僕の介助に対する考えが浅かった。介助は力のいることが多い。だから、力仕事なら男性だと簡単に考えてしまっていた。


 他に、コンスタンス様のために出来ることが何かないかと、色々と考えたが、全く何も浮かばなかった。こういう時は考え続けても大抵ダメだ。気分転換をしようと馬車を出してもらった。街中に出ても喧噪が煩いばかり、城郭の外(僕達が住んでいる王都は城郭都市)に出た。


 城郭の外に広がっているのは農地。そして、幾つかの草原。その草原の一つが素晴らしかった。一面のお花畑。花などに全く興味のない僕でさえ、その美しさに見入ってしまった。この素晴らしい景色を、コンスタンス様に見せてあげたいなーと思ってしまい、つい独り言が出た。


「写真が取れればなー」


 しゃしん? 何だそれ。自分で呟いておいてなんだが、聞いたこともない言葉だ。疲れているのかな? 今日はもう帰ろう。


 僕は花畑の花を数本摘み、馬車で屋敷へと戻った。そして、せっかく摘んだのだからと、小さな小瓶に挿し、彼女の下へ持っていった。コンスタンス様は、とても喜んでくれた。こんな野の花に、なんて大袈裟なと思ってしまうくらいに喜んだ。


「エイベル様、ありがとうございます。なんて奇麗な、なんて可憐な花なんでしょう! 嬉しい、ほんとに嬉しいです」


 そんな花より彼女の方がずっと可憐で奇麗だと思ったが、口には出来なかった。僕はまだ、十二歳。女性馴れなど全然していない。姉や妹達とだって、そんなに話しては来なかった。もしかしたら、僕が一番話をした女性は、今、一緒に住んでいるコンスタンス様かもしれない。


「それは良かった。その花を摘んだお花畑は本当に素晴らしかったですよ。このお屋敷の何倍もの広さがあって、一面に色々な花が咲き誇っているのです。観光地になっていないのが不思議なくらいな所です」


「そうですか。そのような素敵なお花畑、エイベル様と一緒に歩けたらどんなに素晴らしいことでしょう。どんなに……」


 コンスタンス様の言葉は続かない。無理だとわかっているのだ。彼女の筋力は本当に弱い。頑張れば、なんとか立てる、けれど歩くことは出来ない。筋肉が歩行時のバランスを維持出来ない。それほど彼女の筋肉は脆弱なのだ。


 僕は彼女の治療を行っている治癒魔術師の診断書を読んでみた。彼女の体は全体的に弱かった。心肺機能も弱いし、循環器系も弱い。そして、なにより一番問題なのは、筋力が非常に弱いこと。このせいで、コンスタンス様は、日常生活さえ、メイド達の介助なしではやって行けない。


 この観点から、治癒魔術師に疑問をぶつけてみた。

 

「治癒魔術で、彼女の筋力を強化できないのですか? 筋力さえなんとかなれば、普通の人並みの運動は無理でも、自分一人で歩くぐらいは出来るようになるのではないですか?」


 しかし、その答えは残酷なモノだった。


「無理ですよ。治癒魔術は、元の状態にしか戻せません。コンスタンス様の筋肉は、生まれた時点から、元から、脆弱なのです。私も筋力強化魔術は散々施しましたし、負荷をかけた運動も出来る限りやらせてみました。ですが、あれが限界なのです。彼女の筋肉にあれ以上の力を求めることは出来ません」

 

 情けなかった。乾いた笑いしか出なかった。


 こんなこと、わざわざ尋ねるまでもなかった。専門家の術師が、素人の僕が気づくようなことを気づかない訳がない。とんだ狂言回しだ。なんて情けない……。


 ダイニングのソファーで一人落ち込んでいると。通りかかったコンスタンス様のお父上、公爵様が声をかけて来た。


「どうした、エイベル。何か悩み事があるのか?」


「公爵様。悩みというか……、僕には何の力もないなと思いまして」


「当たり前であろう、そなたはまだ十二歳。成人もしておらん。力などあろう筈もない。そのようなこと悩んでも仕方がない」


「それはそうなのですが、昨日、気晴らしに城郭の外に出たのです。そこで偶然見つけた花畑の花を摘んで、コンスタンス様に差し上げたところ、大変喜んで頂けました」


「そうか、コンスタンスが。礼を言おう。しかし、それのどこが問題なんだ、話が見えんよ」


「喜んでもらえたのは嬉しいのですが、彼女が、二人でその花畑を()()()()、どんなに素晴らしいでしょう、と仰られたんです。馬車や何人かの従者を使えば、なんとか、お見せすることは出来ましょう。でも、一緒に歩くとなると……。どんなに考えても方法が思いつかないのです。コンスタンス様の筋力を強化できないかと、治癒魔術師にも尋ねたのですが、あっさり無理だと言われました」


「エイベル、そなた……」


「公爵様に婚約者に選んでいただいたのに、何の力にもなれず、申し訳ない限りです」


 項垂れ続ける僕の肩をポンと公爵様は叩いてくれた。コンスタンス様の婚約者として、このお屋敷に来て以来、公爵様からこのような親愛の情を示してもらったのは初めてだった。


「コンスタンスは婚約を破棄されて良かったようだ。殿下は、コンスタンスの容姿に惚れては下さったが、真にあの子のことを思っては下さらなかった。その点、そなたは違うようだ。安心したよ」


 容姿に惚れたか……。それは僕も同じだ。でも、彼女と暮らすうちに容姿以外の部分も好きになって行った。コンスタンス様は本当に可愛い女の子だ。


 彼女は、本を沢山読んで物知りな割に、誰だって知っている常識が抜け落ちていたり、とっても奇麗な字が書けるのに、絵を描くと幼児レベルだったり。食べたものは全て日記に記録して、感想を書いていたりと、愛すべき点が沢山ある。


 僕が一番に挙げたいのは、先端恐怖症なのに、刺繍が趣味なところ。いつも顔をひくつかせながら、針をチクチクチクチクやっている。どうしてそこまでして刺繍をしたいのか皆目わからないが、僕はそんな彼女が愛おしくてたまらない。


「エイベル。そなたとコンスタンスは夫婦になるのだ。時間はたっぷりある、コンスタンスのことは、ゆっくりで良い。その代わり、じっくりと向かい合ってやってくれ。頼む」


 そう言って公爵様は部屋を出て行かれた。


 ゆっくりで良いか……。嫌だ。僕は今直ぐにでも、彼女が喜ぶ顔を見たいのだ。善は急げという言葉もある。彼女が喜べば、僕も嬉しい、いや、彼女の倍嬉しい。


 この後も、僕はコンスタンス様が歩ける方法を考え続けた。色々な本を調べたり、他の治癒魔術師を訪ねたりもした。でも、結局は無駄骨だった。何の方法も思いつかない、見つからない。


 彼女が歩ける方法はこの世に存在しないのでないかと、絶望しかけていた頃。僕は一つの夢を見た。


 その夢の中で、僕は、異国の少年と仲良くなった。その少年は名前を名乗ったが、異国の名前なので、今一つはっきりわからなかった。たしか、けいいち……だったかな。


「エイベル、君はどうして気づかない。この世界には魔術があるじゃないか。それでどうとでもなるだろう」


「バカ言っちゃいけない。その魔術の専門家、治癒魔術師が、魔術では彼女の筋肉強化は無理っていってるんだ」


()()()()()、だろ。筋肉を強化できないなら、弱いままの筋肉で動けるようにすれば良い。彼女の体重を軽くしろ、重力を減らすんだ」


「重力を減らす! そうかその手があったか!」


「そうだ。この世界は僕の世界と違って、科学の代わりに魔術が発展している。きっとその手の魔術がある筈だ。調べろ、隅から隅まで調べるんだ。絶対ある、必ずある」


「けいいち、ありがとう、なんて御礼を言ってよいかわからないよ。本当にありがとう!」


「礼なんていらないよ。君は僕。僕は君だからね」


「ん? 言ってる意味がよくわからない」


「わからなくていいよ、わからなくて。僕はもういない、いないものの言ってることなんて、わからなくていい」


 夢はそこで終わっている。変な夢だった。でも、その夢は僕に天啓を与えてくれた。


 重力を操る魔術を見つけ、彼女の体にかかる重力を減らせば、彼女の体重は軽くなる。軽くなれば、彼女の脆弱な筋肉でも歩くことは可能だ。最初は感覚の補正で苦労するだろうが、そんなのは、ある程度の時間がたてば慣れる。慣れればなんの問題も無い。その魔術がかかり続ける限り、コンスタンス様は普通に歩け、動けるだろう。


 嬉しくて仕方がない。さあ、今日から頑張って、重力魔術を探そう。


 僕は見たい、コンスタンス様が歩く様を、喜ぶ様を、早くみたい、一日でも早く見たいのだ。



  +++++++++++++++++++++++++++++++



 私は読んでいた本をパタンと閉じました。そろそろ彼が、エイベル様が来てくれる時間です。私が一番楽しみにしている時間なのです。


 扉が、ガチャリと開きました。彼が来てくれた! と思ったのですが、扉を開けたのは私の専属メイドのアイリスでした。


「お嬢様。エイベル様は、どうしても外せない用事で、今日は来られないそうです。大変申し訳ないと、お嬢様にお伝え下さいとのことでした」


 少し、ショックであり、悲しくもありました。エイベル様は出かけることはあっても、私が身体を休める午後になってからでした。私との時間がある午前中に出かけられたことはございませんでした。


「そうですか、わかりました。残念ですが仕方ありませんね」


 私は自分に言い聞かせました。コンスタンス、エイベル様だって時には、羽を伸ばしたいでしょう。明日はちゃんと来てくれるわ、ちゃんと来てくれるから、我慢するのよ、我慢するの。


 彼は次の日も来てくれませんでした。その次の日も。



  +++++++++++++++++++++++++++++++



 彼女の部屋を訪れたのは、あの夢を見た日から三日後だった。


 扉を開けて入った時、コンスタンス様の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。彼女は目にゴミが入ったのだと誤魔化していたけれど、嘘なのは丸わかりだった。彼女の部屋は、毎日メイド達によって徹底的に掃除されている。埃など舞っていよう筈がない。


 僕は反省した。重力魔術に関する資料を探すために必要な時間だったとはいえ、こんなに彼女を悲しませているとは思っても見なかった。(ちなみに、重力魔術について記された資料を昨日、王立中央図書館で発見した)


 いくら、彼女を歩けるようにするためとはいえ、彼女を悲しませては本末転倒だ。これからは、こういうことは絶対に無いようにしよう。


「申し訳ありませんでした。もう用事は済みました。これからは、いつも通りです」


「本当ですか?」


「本当ですよ。僕が信じられませんか?」


「そういう訳では……。信じております」


「そうですか、では、そういうことで」


「えぃ!」 ポカッ!


 コンスタンス様に頭を叩かれた、全然痛くない。撫でられたのかと思った。


「何をするんですか」


「なんだか腹が立ったのです、腹が。プンプンです!」


「プンプンって……」


 彼女と過ごす時間が本当に好きだ。なんて楽しい時間なんだろう。第二王子、コンスタンス様を捨てた貴方はバカだと思う。でも、貴方が婚約破棄をしてくれたから、僕は彼女の婚約者になれた。ある意味、恩人です。感謝します、第二王子。貴方の女性の見る目の無さに感謝です。


 王立図書館で見つけた重力魔術の資料は百年以上前のものだった。港での荷物の積み下ろしに使われており、積み荷の重さを四分の一にまで出来たようだ。ただ、術式があまりに複雑だったため、高位の魔術師を雇わなければならず、彼らへの報酬の問題で、次第に使われなくなり、忘れ去られた。


 その資料に記されていた術式を見てみると、確かに複雑な式だった。殆どの魔術師はその変動値の多さに嫌気がさして使おうと思わないだろう。いや、使えないと思う。今日の魔術師のレベルは落ちている。今のトップレベルの魔術師でも、百年前なら中級だろう。


 でも、僕の趣味は魔術研究。術式が複雑であれば、複雑であるほど燃えるタイプ。何度も何度も術式を見返し、その術式構造を理解した。そして完全に暗記し、愛用の椅子で重力魔術を試してみた。結果は成功だった。椅子にかかる重力が減り、その軽いこと軽いこと。片手で簡単に振り回せる。


 でも、これはただの出発点に過ぎない。資料にあったのは積み荷、つまり物にかけるための術式。生き物、人に使うためには術式の大幅な改変が必要だ。頭が知恵熱にならないことを祈ろう。



 僕は全身全霊をかけて術式の改変に取り組んだ。改変には約一カ月かかった。眠る時間を半分にしたため、常に目の下にクマが出来ていた。


 ともあれ、なんとか生き物用、人用の重力魔術の術式は完成した。あとは人体実験をして安全性を確かめるだけだ。


「エイベル様。もしかしてお体の調子が悪いのではありませんか? 目にクマがありますし、お顔の色も……」


「大丈夫ですよ。僕は今とても気分が良いのです。全然問題ありません」


「そうですか、それなら良いのですけれど……」



 今日、人体実験を行った。被験者は勿論自分。こんな新開発と言っても良いレベルで改変した魔術を他人に使うなんてこと、恐ろしくて出来ない。自分にかけるしかない。


 実験は成功だった。体重は体感で四分の一以下。試しにジャンプしてみると、僕が当てがわれている部屋の天井は結構高いのに、頭をぶつけてしまった。


 ただ、この実験でこの魔術の問題点が発覚した。その問題点とは、魔力の消費がとても激しいこと。効率が悪過ぎる。僕の持つ全魔力量の三分の一を使っても、一時間くらいしか持たない。これは術式が複雑過ぎるせいだろう、物と人とでは考慮する要因の数が、あまりにも違い過ぎる。でも、僕の今の術式構築力ではこれ以上はどうしようもない。これは今後の検討課題としておこう。


 己への人体実験で安全性を確認した僕は、翌朝、コンスタンス様に重力魔術を施した。


「大地よ、我らは貴女から生まれ、貴女に帰る。我らは皆、貴女の子供。母よ。しばし、その大いなる力、引き寄せる力を控えたまえ、しばしの夢を与えたまえ。夢見る者の名はコンスタンス。貴女を愛す、貴女の愛し子なり!」


 この魔術の素晴らしいところは本人を目の前にしてなくても良いところ。術を施したい相手を思い浮かべ、術を発動するだけで良い。


 僕は彼女の部屋へ向かった。扉の前まで来ると、中からコンスタンス様と彼女の専属メイド、アイリスの声が聞こえて来た。


「お嬢様、どうして……」


「わからない、わからないの……」


 僕は扉を開けた。そこには寝台から下り、立っているコンスタンス様がいた。


「エイベル様、私、歩けるのです! 見てて下さいませ、歩ける、歩けます!」


 彼女はそう言って、手を広げバランスをとりながら、僕に向かって歩き出した。足元を確かめつつ、ゆっくり、ゆっくりと。


 はっきり言って覚束ない歩行だ。でも、彼女の顔のなんと嬉しそうなこと。僕は胸がいっぱいになってしまった。


「素晴らしい、素晴らしいです。コンスタンス様。ちゃんと歩けてます。ちゃんと!」


「エイベル様!」


 彼女が僕に身体を預けて来た。コンスタンス様を胸に抱いたのはこれが初めてだったと思う。


「先ほどから、急に体が軽く感じられるようになったのです。翼が生えたかのように体が軽いんです。どうしてでしょう。どうして……。でも嬉しい、ほんとに嬉しい」


 僕は、喜び涙ぐむ彼女の背中を撫でた。本当は頭を撫でて上げたかったけれど、彼女の方が年上であるし、身長もある。様にならないような気がして止めておいた。


「良かったですね。コンスタンス様、本当に良かった」


 この後、公爵様や公爵夫人の目の前で、彼女は歩いて見せた。お二人は、最初信じられないものを見たように呆然とされていたが、本当にコンスタンス様が歩いているのだと分かると歓喜した。公爵様の喜びようも凄かったが、公爵夫人の喜びようは本当に凄かった。まさに号泣。貴族の夫人がこれほどまでに感情を露わにするのを僕は初めて見た。


 彼女が歩ける時間は、一時間半ほど続いた。これは使った魔力量から予想していた継続時間に、ほぼピッタリだった。


 急に体が重くなって来たという彼女に僕は告げた。


「沢山お歩きになったので疲れたのですよ。無理はいけません、寝台に戻りましょう、さあ、手をとって下さい」


 この日から、彼女の部屋へ向かう前に重力魔術をかけるのが、僕の日課になった。


 彼女の歩行は日に日に、良くなって行った。初日には両手でバランスを取りながら、おっかなびっくりの歩きだったものが、十日たった今では。見ため的には殆ど普通の人と変わらない。勿論、走ったりなどは無理だが、二階までなら、階段の上り下りも出来るようになった。


 これは僕の予想を超える進歩だ。僕は、コンスタンス様が重力魔術がかかった状態、体重が四分の一になる状態に慣れるのにもっと時間がかかると思っていた。彼女の体勢感覚は素晴らしい。これは誤算、嬉しい誤算だった。



 よし、これくらい歩ければ大丈夫だろう。


 僕は彼女に提案した。


「ねえ、コンスタンス様。明日、皆で僕が花を摘んできたお花畑へ行ってみませんか? まだこの時期なら花は十分あると思いますよ」


 昨日、下僕の一人に馬を飛ばして確認してもらった。以前とは違う花だが、ちゃんと咲いている。


「行きます、行きたいです!」


 彼女は目を喜色に輝かせた。しかし、直ぐに陰って行く。


「でも、何故だかわかりませんが、私の体の調子が良い状態は一時間半ほどしか続かないのです。たった一時間半で、行って帰って来るのは難しいかもしれません」


「多分、大丈夫ですよ。花畑への行き帰りは、馬車の中で座っているだけです、そんなに疲れません。行けますよ」


 コンスタンス様の不安をウソで誤魔化した。


 馬車は揺れる、乗っているだけでもかなり疲れる。魔術がかかっていない状態では厳しいだろう。


「そうですね。いけますよね。ああ、夢みたいです、無理だと諦めていたことが実現出来る日が来るなんて。話で聞くだけだった、あのお花畑を、エイベル様と二人で歩けるなんて……」


 健康な者ならば簡単に出来るようなことを、夢といってしまう彼女が悲しかった。でも、悲嘆にくれるのはよそう。重力魔術があれば彼女でも、なんとか普通の生活を送れそうだ。ならば、なんとしても、あの魔術をもっと効率よく、そして、もっと簡単な術式に……。


 今の複雑過ぎる術式では、殆どの魔術師は使うことが出来ないだろう。何せ、開発した僕でさえ、全神経を集中しないと、わからなくなってしまう複雑さだ。あのような術式では、他人は使えない。僕しか使えないようなものではダメだ。


 今後、僕に何かあったら、彼女は歩けなくなってしまう。一生を寝台の上で過ごすしかなくなってしまう。彼女をそんな可哀想な目に会わせたくない。だから、あのカオスのような術式をなんとかしなければ……なんとか。


 クラッ!


 一瞬、立ち眩みが起こった。僕はこの十日間。大量の魔力を使い続けて来た。僕は男爵家出身としては魔力容量が多い方なので大丈夫だと思ってはいたが、そろそろ限界が近いようだ。


 なんとか、後、一日持たせよう。明日は彼女の夢が、()()()()叶う日だ。なんとしても持たせねば。休むのはその後で良い。


 翌日、僕とコンスタンス様は、公爵様、公爵夫人と共に、城郭外の花畑に向かって、馬車で出発した。


「お母様、あの美しい建物はなんですか? あのような建物は以前からありましたか?」


「あれは新しく出来た教会ですよ。コンスタンス、そんなにはしゃいではなりません。花畑に着くまでに体力を失くしてしまいますよ」


「わかっております。わかっておりますが、でも!」


 殆ど外出したことのないコンスタンス様の、はしゃぎぶりは、微笑ましいが、夫人が言われるように、少し控えた方が良いと思う。僕からも注意しようと思うのだが、上手く言葉が出て来ない。原因はわかっている。魔力の使い過ぎだ。


 今日は遠出。コンスタンス様にかけている重力魔術の継続時間は、最低、三時間はいる。普段は、僕の魔力量の半分弱を使って一時間半持たせている。つまり、今日はその倍。魔力量の殆どを使わなければいけない。


 当然、僕は使った。魔力なんて時間がたてば回復する。ただ、殆どの魔力を放出したため、体に力が入りにくい。それに、眠い、なんて眠いんだ。


「エイベル、そなた、とても疲れているようだが、大丈夫か」


 公爵様が気遣ってくれた。お優しい御方だ。


「お気遣いありがとうございます。昨晩どうしても眠れなかっただけなんです。大丈夫です」


「そうか。それなら良いのだが……」


 公爵様は、僕が適当についた嘘に今一つ納得されていないようだった。


 馬車は目的地の花畑に到着した。かかった時間は、きっちり一時間。花畑への滞在時間を一時間、帰りに一時間、計、三時間。


 いける、コンスタンス様にかけた重力魔術は十分持つ。


 彼女は、花畑を存分に楽しめる!



「なんて素敵なんでしょう! こんなに沢山の花々が一面に咲いているなんて、初めて見ました。本当に奇麗で、素敵です。エイベル様が仰られた通りの場所です!」


 コンスタンス様は胸元で両手を組み合わせ、感嘆した。


「エイベル様、連れて来て下さって、ありがとうございます」


「いえ、僕はついて来ただけです。何もお礼をいわれるようなことは……」


「そんなことはありません。今、私がここに立っていることが奇跡です。エイベル様が、お花を摘んできて下さったから、私に夢が出来、この奇跡が起こったのです。エイベル様の御蔭です」


 彼女の言葉に胸が熱くなる。あの時、二人で一緒に花畑を歩きたいとコンスタンス様が仰って下さったから僕は頑張れた。あんな魔術の専門家でも匙を投げたくなるような術式に取り組むことが出来た。


 みんな、貴女が望んでくれたから、出来たことなんです。コンスタンス様。


「コンスタンス、お前は気が早過ぎる。まだ、奇跡はともかく、夢はまだ叶っておらんだろう」


「そうですよ、さあ、若い二人で、めいっぱい楽しんでいらっしゃい。()()()()()()()()()()()()()()んでしょ」


 公爵様と夫人が、コンスタンス様に仰られた。二人とも笑顔、そして、コンスタンス様は顔を真っ赤にされている。微笑ましい。


「エイベル様! お父様とお母様に、お話されたのですね、恥ずかしいではありませんか!」


「いえ、あのその、話の流れで。すみません」


 いまいち何故、僕が謝らなければいけないのかよくわからなかったが、一応謝っておいた。


「さあ、時間がもったいないわ。楽しんでいらっしゃい。私達はここで休んでいるから」


 夫人の言葉で、僕達は送り出された。



 僕とコンスタンス様は、花畑の中へ並んで入っていった。前に来た時には、色々な花が咲き誇っていたが、今、咲いているのは一種類の花。鮮やかな黄色い花が草原を埋め尽くしている。まるで黄金の海のようだ。


 彼女が呟いた。


「夢の世界にいるみたい」


 本当にそう思う。もし夢なら醒めないで欲しい。二人でもっとここに居たい。


 今日、彼女が纏っているのは、シンプルな白のワンピース。そして、日除けのための白いハット。彼女の白銀の髪と相まって、彼女が光り輝く清浄な存在、この世の男が手を出していけない存在のように思える。


 僕は自分に言い聞かせた。バカを言うな。コンスタンス様は、天使でも精霊でもない。ごく普通の人だ、ごく普通の女の子だ。


 勇気を出して彼女の手をとった。当然、嫌がられたらどうしようとも思ったが、その時はその時だと覚悟を決めた。


 コンスタンス様は、僕の手を握り返してくれた。


 よし! 手を握っても嫌がらないくらいには、思って下さっているんだと喜び、彼女の方へ顔を向けた。


 喜びに溢れた笑顔があるだろうと勝手に思っていた。しかし、実際、そこにあったのは、泣き顔だった。彼女は真っ直ぐに僕を見て、語りかけて来た。


「エイベル様。本当に私などで良いのですか。私が婚約解消を申し出た時、断って下さったこと、とても嬉しゅうございました。でも、一緒に過ごさせてもらってるうちに、心が苦しくなる時が多くなってまいりました。私なんかエイベル様と一緒になる資格が無い。一緒になれば、エイベル様の人生をダメにしてしまう。そう思うと辛くてたまらなくなるのです。エイベル様、本当に、本当に、私などで良いのですか」


「コンスタンス様。僕は貴方を好きですが、嫌いなところが一つあります」


「えっ」 


「その嫌いなところというのは、人の話をちゃんと聞かないところです。僕は、初めてお会いした時、コンスタンス様に、



 『自分に資格が無いなどと、()()()言わないで下さい』



 と言いましたよね。あの時、僕は貴女と人生を共に歩むことを決めたのです。なのに、貴女は、今になってさえ、心を決めて下さってないのですね。悲しいです、そんなに僕との人生は、魅力がありませんか?」


「そんなことありません!私はエイベル様をお慕いしております、共に人生を歩みたいと思っております。それは、嘘偽りない気持ちです。信じて下さいませ!」


「だったら、笑ってください。今日は貴女の夢が、僕達の夢が叶った日です、奇跡が起こった日なんです。笑顔で楽しみましょう」


「はい、エイベル様」


 彼女の涙は止まっていた。すっきりとした顔をされている。でも、涙の跡はしっかりと残っていた。ハンカチを渡すと、礼を言って彼女はしっかりと跡を拭き取った。


「では、コンスタンス様。参りましょう。あちらの方が、沢山咲いてますよ」


「エイベル様……」


「何でしょう?」何をもじもじされているのですか?


「そろそろ、コンスタンスと呼び捨てにして頂けませんか。私の方が年上故、言いづらいかもわかりませんが、私は、そうしてもらいたいのです。これは、私のもう一つの夢なのです。叶えて頂けませんか? お願いです。エイベル様」


 呼び捨てが夢……。もうダメだ。可愛過ぎて死にそうだ。この人は本当に年上なのか? もしかしたら年齢詐欺してないか? まあ、冗談はさておき、箱入り純粋培養にも程がある。程がありますよ、公爵、公爵夫人。


「わかりました。貴女の願いなら、そういたしましょう」


「はい、お願いします」


 コンスタンス様は、顔をこわばらせ、なで肩の肩まで、しゃちほこばらせている。名前を呼ばれるだけのことに、大変な緊張だ。


 緊張は伝わる、こちらまで緊張してきた。だから、自分に言い聞かせた。



 ただ、名前を呼ぶだけ、呼ぶだけだ。


(名前を呼ぶだけでいいのか? この際、ちゃんと意志表示しろよ)


 してるだろ。


(してないよ、エイベルはいつも搦め手ばかりだ)


 わかったよ、けいいち、もう黙っててくれ。



 僕は、彼女の方にしっかりと顔を向けた。


 大きな声で言おう、公爵様達に聞こえたって構わない。




「コンスタンス! 愛してる、絶対離したりするものか!」




 彼女の顔が、歓喜に染まったのを覚えている。



 でもその後は覚えていない。



 僕の意識は途絶えた。ブラックアウトした。



  +++++++++++++++++++++++++++++++


 私は自分の部屋の寝台に戻っています。意識を失い、眠っているエイベル様のお傍についていてあげたいけれど、ろくに立てもしない私がいても何の役にもたてません。


 ガチャリ。


 お父様が部屋に入ってきました。


「お父様、エイベル様は如何ですか? 大丈夫なのですよね?」


「大丈夫だよ。術師が言ってたように、あれは魔力切れだ。数日安静にすれば回復する。命の危険など全くない、心配はいらんよ」


「良かった、本当に良かったです。でも、エイベル様はどうして魔力切れなんか……。魔術なんて滅多に使っておられなかったですよね」


「原因はこれだ」


 お父様は左手に持っておられた紙束を私の前に、置かれました。


「お父様これは……」


「エイベルが開発した人用の重力魔術の術式だよ。悪いと思ったが部屋を調べさせてもらった」


「人、人用の重力魔術……」


 声が震えました。なんてこと、なんてことなの。


 私は術式が記された紙束を握り締めました。愛おしい。


「そうだ、その魔術によってお前の体は軽くなった。だから歩けたんだよ。長年、いろんな治療を受け続けて来てもダメだったお前が、急に歩けるようになった。神が与えてくれた奇跡か、とも思ったが、そんなことはありえないと思う気持ちもあったんだ。やはり、奇跡じゃなかったよ。エイベルの御蔭だった。あやつの魔術の御蔭だったんだ」


 お父様は、ドサッと私の寝台の横にある椅子に腰を降ろされました。その椅子はいつもエイベル様が座っておられる椅子です。


「いえ、これは奇跡です。この複雑極まりない術式を見て下さいませ。このような術式、普通、エイベル様の年齢で作成出来るものではありません。王宮魔術師レベルで、やっとのものです。それを、そんな難しい術式を私のために作って下さった。そして、魔力切れを起こすまで、私のために使って下さった。これを奇跡と言う以外なんと言って良いでしょう。私のために、私なんかのために……」


「コンスタンス、エイベルに感謝するのだぞ」


「はい、お父様」


 そして、エイベル様を私の婚約者に選んでくれたこと、お父様にも感謝します。お父様は、私の殿下との婚約が破談になった後、私の新たなる婚約者を一生懸命探してくれました、貴族としての地位よりも人となりを重視して……。


 お父様は、エイベル様の重力魔術が記された紙束を見ながら、呟くように言われました。


「コンスタンス、お前ほどの幸せ者はいないな。生まれて来てよかったな」


「はい、私は()に生まれて来て良かったです。エイベル様に巡り合えてよかったです。私ほど、幸せな女性はおりません」


 今まで、体が弱いことを何度も嘆きましたが、もう、そんなことはいたしません。


「そうか、それならお前がすべきことは分かっているな。お前は公爵家の娘。エイベルより遥かに多くの魔力を持っている。未来の夫にこれ以上、負担をかけるな。自分のことは自分でやれ、コンスタンス」


「わかりました、お父様」


 お父様は椅子から立ち上がると部屋を出て行かれました。私はエイベル様の重力魔術の術式が書かれた紙束を手に取りました。一枚目を見ただけで、そのあまりの複雑さに眩暈を覚えます。でも、そんなことで怯んではなりません。彼はこの複雑極まりない術式を開発して下さったのです。その苦労に比べれば、術式を理解し、覚えるくらい……。


 で、でも、何なのですか、この術式は! まるで、カオス。混沌です。数行で訳がわからなくなります。


 ま、負けませんよ。私はエイベル様の妻になるのです。こんなことで泣き言を言ってはおられません。


 くわっ! この係数の数! 何々、関節屈伸時における重力配分の調整、及び微調整。X軸に……。


 あー、貴方は変態です、エイベル様! こんな、複雑怪奇なのは変態の領域です!


 うう、エイベル様が変態なら、私も変態になりましょう。


 絶対、理解してみせます! 覚えてみせます!


 

 私はアイリスに寝台用の机を設置してもらい、一生懸命ペンを走らせます。彼の術式の難しさに、つい愚痴を言いたくなりますが、楽しい時間でもあります。だって、この術式は、彼が私にくれた愛なのです。


 見ただけで泣きたくなるような愛なのです。


 どうです? 見てみますか?



 眩暈がしますよ。



  +++++++++++++++++++++++++++++++


 わたしの名前は、マリエル・アストガルト。八才。


 お父様の名前は、エイベル。お母様の名前は、コンスタンス。


 この前、お祖父様から、お母様はとっても体が弱かった。歩くことも出来ないくらいだったと聞きました。それじゃ、どうして私を産むことができたのでしょう? 出産は普通の元気な女性でさえ大変なものだと聞きます。今でも、体がたいしてお強くないお母様が、お産みになれたとは思えません。


 はっ、もしかして、わたしはお母様の本当の子供じゃないのかも!


 なんて全然思いません。お母様と、わたしの顔はそっくりです。これで、親子じゃなかったら凄いです。他人の空似、No.1です。


 考えていても答えは出ません。お母様に聞いてみます。


「お母様、体が弱かったって聞いたけど、どうして、わたしを産むことができたの?」


「奇跡よ、奇跡が起こったから貴女(マリエル)を産めたのよ」


 バカにされた気分です。これなら、コウノトリさんが運んで来てくれた、とかの方が、まだマシです。お母様を諦め、お父様がいる書斎に向かいました。


「お父様。お母様が、わたしを産めたのは奇跡が起こったからなんて言うのよ。ほんとなの?」


「本当だよ、でも。ちょっと違うかな。奇跡は起こったんじゃない。起こしたんだ」


 お父様は座っていた椅子から立ち上がると書棚から、分厚い一冊のノートを取り出し、わたしに手渡してくれました。


「なに? これ」


「私とコンスタンスが必死に考えた、出産の負荷を減らすための術式さ。これの御蔭で、私達は最初は諦めていた子供を、お前を授かることが出来たんだ」


「へー、これのおかげなの」


 ノートをパラパラめくりました。術式とかいわれている、謎の文字や謎の数字がびっしりと並んでいます。はっきり言って、何が何やら。


 別にいいやと思いました。こんなの理解できなくても、何の問題もありません。今、わたしは、大好きなお父様、お母様、お祖父様、お祖母様と一緒に暮らしています、とても幸せです。幸せな生活なのです。


 でも、時には波乱もあります。


 先日、王宮からわたしへ、婚約打診の使者がやって来たのですが、お祖父様が叩き返し……もとい、丁重に断っていました。


『あちらには記憶力というものが無いのか! 二度と門をくぐらせるな!』


 門をくぐらせるなって、相手は王家ですよ。それは無理というものです、お祖父様。


 婚約が打診された、お相手は第二王子のご長男、メレディス王子でした。わたしは何度かお会いしたことがあります。とても優しい方ですし、お顔もハンサムです。わたしは結構好きです。


 別に結婚なんて、まだまだ遠い話なので気にしませんが、


 少々、もったいない気もしました。



 相手は王子様ですよ、王子様。



 もったいないよねえ?


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― 新着の感想 ―
[一言] なんか最後の落ちで笑ってしまったw でもそれも含めて、読んでて胸が温かくなった 面白かったです
[一言] 心がほわッとして、とても幸せになれる、幸せを感じるのに涙が、そんな素敵な物語でした。 大好きなパッヘルベルのカノン、それを最初に聞いた時の感動みたいな、そんな優しくて幸せな物語です。
[一言] 面白かったです。
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