芽吹きの乙女が見上げた空は
淡い色をした春の空に、火の粉が飛ぶ。
もはや抵抗する者もいない城の庭を、アランは仲間と共に駆けていた。
「間違いありません。恐らくこの塔の上に」
魔導師の言葉に、彼らを率いている王子、ブライデンはうなずいた。
「皆、聞け! 我が国を始めとする周辺諸国を苦しめてきた元凶が、ここにある。狼狽えず、しかし油断せずに私に続け!」
咆哮にも似た返事で忠義を示した近衛騎士達を連れ、ブライデン王子は塔へと向かった。
石造りの塔は蔦に覆われ、入口にあったらしい扉は既になく、ぽっかりと穴を開けていた。
騎士達は残党に警戒し、王子の周囲を守りつつも塔へと入っていく。アランも、ブライデン王子の数歩前でその身を盾にしながら続いた。
何もない、小さな塔だった。
中はからっぽで、ただ上へと続く石のらせん階段が壁に沿っているだけだ。長年誰も通っていないのか、石段は苔むしている。
「足元にお気を付けください」
アランが声をかけると、王子は一つうなずいた。
「しかし、なぜこんな場所に……」
不可解だ、というようにブライデン王子は眉根を寄せた。
それもそのはずだ。彼らの探しているものは、この国が栄華を極めるのに不可欠なものだったからだ。それなくしては、繁栄も、隣国への傍若無人な振る舞いも不可能だ。
それほど大切なものを、城の奥深くに抱え込むのではなく、こんな塔に捨て置くとは。
苔に足を取られないように注意しながら、あまり長くない階段を登り終える。
階段の先にあったのは、石で固められた天井だった。その上の部屋へ入るために通常設けられる扉の類はない。
王子の合図で、魔導師が杖を構えた。派手な音を立てて天井の一部が砕け散る。
開けた道を、騎士が先頭になり駆け上った。
塔の最上階。
その天井は、もうかなり昔に朽ちてしまったらしい。
春の空が頭上に広がり、柔らかな日の光が室内を満たしていた。
咎める者もおらず好き放題に伸びた蔦や苔がびっしりと床と壁を覆っている。
そして、そこにはたった一つだけ何かがあった。
「殿下、危険です。お下がりください」
誰かが、「それ」に近付こうとする王子を止めた。
それは、まるで春に取り残された雪のようだった。薄汚れ、半端に融けて固まった氷の塊のような。
汚れた長く白い髪が床に広がり、その中央に枯れ木のような骨と皮だけの体が横たわっている。
「お、おい……」
仲間の声に耳を貸さず、アランはふらふらと近寄り、それのそばに膝をついた。
上着を脱いでその裸体に被せてやる。
深い考えがあったわけではない。むしろ、浅慮だった。敵国の中心で、油断するなと言われたにもかかわらず、彼の心は無防備に悲しんでいた。
不憫ではないか。
どんな身分の者か、男か女かも分からないが、こんなところに打ち捨てられて。
肉が腐っていないのを見るに、ミイラというものだろうか。
衣服は着ていなかったのか、塵となってしまったのかは分からないが、人として生まれたのに、こうしてよその国の連中に裸を晒すなど――たとえ死んでいたとしても可哀想だ。
それは、よく見ると首輪をつけていた。中央に青い大きな宝玉がついている。磨かれもせず埃を被り、光を失ってしまっていた。首輪からは鎖が伸び、近くの壁の高いところに繋げられていた。
アランは剣を鞘から抜き、鎖の上に剣先を当てた。
「アラン」
ブライデン王子の声に、彼ははっとして顔を上げた。
自分が今どこにいて、何をしていたのかを思い出す。
ブライデン王子は困惑しているようにも見えた。だが、一言「気を付けろ」と、アランの背中を押した。
改めて向き直り、力を込め、鎖を切り裂く。脆くなっていた鎖は、ガシャリを音を立てて壊れた。
そして――そして、彼は見た。
骨と皮だけの、人だったと思っていたものは――まだ、人だった。
うっすらと目を開け、頭上に広がる春の青空をその濁った瞳に映したのだ。
それを見て、今の空と同じ色をしているアランの瞳から、一粒の雫が零れた。
◇◇◇◇
神聖エルテベザ帝国。
その国は、アランの故国であるアルティエラ王国を始めとする周辺諸国と、長きに渡り戦争を続けてきた。
弱い国は次々に取り込まれ、帝国はどんどん肥え太っていった。
アルティエラ王国も、辺境をいくつか奪い取られてしまった。
帝国の強さの源は魔力だ。
魔力とは限りのあるものだ。どんなに強い武人でも体力に限界があるのと同じで、魔導師が魔法を使うのにも限界がある。魔法道具も同じだ。
だが、帝国に限ってはそうではなかった。
まるで泉のように湧き出る魔力を用い、弱い魔法も強い魔法も無尽蔵に放ち続ける。攻め込もうにも守りの魔法も強く、攻め込まれれば勝ち目はなかった。
そんな帝国を襲ったのは流行り病だった。
治癒魔法に頼りきりだった帝国では、医術はほとんど発展していなかった。あっという間に取り返しのつかない規模にまで広がり、頼みの綱である魔導師も病に倒れていった。
いくら魔力があろうとも、魔導師がいなければ魔法は使えない。
まさかそんなことで――と、周辺諸国は驚いた。きっと、帝国の者達もそうだっただろう。
長年大陸を牛耳ってきた帝国の、あっけない最期だった。
「大変、申し訳ありません」
片膝をつき、アランは深く頭を垂れた。
「何を申し訳なく思う必要がある? 何もなかったではないか」
「ですが……ですが、ご命令もなく、殿下の御身をお守りするでもなく……非常に思慮に欠ける行動だったと」
話しにくいから顔を上げろと言われ、アランは前を向いた。
ブライデン王子と、その妹であるセレスティア王女が寛いだ様子で椅子に腰掛け、紅茶で喉を潤していた。
「結果としては何もなかったかもしれないけれど、近衛騎士としては失格ではなくて?」
「過程より結果が大切だと、お前も以前言っていたではないか」
「お兄様、それとこれとは少し話が違いましてよ」
兄と妹のやりとりを、アランは身を固くして聞いていた。
「そもそも……あの場へは、帝国の力そのものである魔力の源を探しにいったはず。不用意に近付いていいものではないわ」
姫巫女とも呼ばれるほど魔法に精通している王女の視線は痛いくらいだった。
吐き出される言葉に、アランは言い訳すら思い浮かばない。まったくもって彼女の言うとおりだった。
「そう厳しく言うな。あんなところに鎖で繋がれているのを見て、不憫に思ってしまったのだろう。アランのそういうところが私は好きだ。だから傍に置いているのだしな」
「アランもだけれど、お兄様も相当なお人好しね」
「聞いたか、アラン。珍しくセレスティアに褒められたぞ」
今のは絶対に褒められていない。姫君のじとっとした視線はそれを如実に表していたが、アランは口を引き結んだままでいることを選んだ。
王女は紅茶のカップを置くと、一つ溜息をついて姿勢を正した。
「とにかく、本題に入りましょう」
今のが本題だと思っていたアランは、目を丸くして二人を見つめた。
元々、呼び出された理由を聞いてはいなかったのだ。
「まず、アランが鎖から解き放ったあの人が誰かということだけれど――」
その人を、アランは――これはブライデン王子のれっきとした命令だが――抱きかかえ、故国のこの城へと運んできた。
その見た目どおり、驚くほど軽かった。少しの衝撃で折れてしまいそうなのを、慎重に慎重に運んできたのだ。
その人は、女性なのだという。
「帝国が長年に渡って魔力を無尽蔵に使用していたこと、そしてあの女性を見つけた時の状況から、恐らくは芽吹きの乙女だと考えられるわ」
芽吹きの乙女。
その言葉を、アランも耳にしたことはあった。だが、まさか存在するものだとは思っていなかった。てっきり神話の中だけのものだと考えていたのだ。
姫巫女の言葉でなければ、「そんな馬鹿な」と口走っていたかもしれない。
芽吹きの乙女とは、魔力の源泉とも呼ばれる女性のことだ。
その存在は、あらゆる生命を芽吹かせるのだと言われている。その者が歩けば眠っていた種は花を咲かせ、触れれば死の淵にある何者をも救い出す。
ただそこにいるだけで、周囲に魔力と繁栄をもたらす乙女。
「首輪をつけていたでしょう? あれは魔法道具の一種なの。彼女から湧き出ている魔力で、無理矢理彼女の命をこの世に縛り付け、不死の状態にしているわ。そして、帝国が都合良く魔力を使えるように制御している。外してしまえば数瞬ともたずに命の灯が消えてしまうから、今はまだ外せないわ」
まずは、失ってしまった血肉を取り戻すこと。
そして、芽吹きの乙女自身の言葉を聞きたいのだという。
生きたいにしろ、死にたいにしろ、本人の意思を知りたいのだと。
「そこで、アラン。お前のことだが」
ブライデン王子は椅子から立ち上がると、アランの目の前に膝をついた。
「近衛騎士の任を解く」
アランは、血の気が引く音を聞いた気がした。
そんなアランの肩を叩いて、だが、王子は真剣な眼差しで続けた。
「お前は私の元を離れ、森番になってもらう」
「森番……?」
その名のとおり、森林の管理者だ。
近衛騎士から森番など、大零落だ。確かに自身の行動はいただけなかったが、騎士ですらなくなるとは。
「場所は、王城の西に広がる森だ。たまに妖精の悪戯はあるが、逆に言えばそのくらいしかない平和な森だぞ。そこで、芽吹きの乙女を療養させようと考えている。お前はその護衛につけ」
土に水が染みるように、ゆっくりとその言葉の意味がアランの頭に入ってきた。
騎士ではなくなるが、それは、王子に見捨てられたからではないのだ。
「彼女が芽吹きの乙女であることは、王と宰相と私達しか知らない。だが、保護した場所が場所だ。すぐに誰かが嗅ぎ付けるだろう。城内で保護することも考えたのだが、城の中の者も誰が敵に回るかわからん。情けないことに、今は城内が二つに割れているしな」
ブライデン王子は苦笑した。
第二王子である彼は、第一王子であるダミアンと対立している。
長子であるにもかかわらず次期国王の座が危ういダミアン王子にとって、芽吹きの乙女は喉から手が出るほど欲しいものだろう。
「お前だから任せるのだ。彼女に労りの心を見せたお前ならば、彼女の良いように動いてくれるだろう。それに、あの無断行動を解任の理由にすれば、誰も疑問を持たぬだろうしな」
アランは力強くうなずいた。
「今度こそ、殿下を失望させぬよう、誠心誠意尽くしてまいります」
「私は別に失望していないぞ」
二度、肩を叩かれる。優しく、けれど力強く。この任の重みを悟らせるように。
◇◇◇◇
森番として与えられた屋敷は、とても小さなものだった。
小高い丘の上に屋敷が立ち、その前方には湖が、後方には深い森が広がっている。
セレスティア王女の結界によって守られているそこには、アランの他に武術の覚えがある者はいない。人数を増やせば増やすだけ、情報が漏れる危険が増すからだ。
それに、療養する芽吹きの乙女のこともあった。幽閉されていた彼女は、体だけではなく心もひどく傷付いているだろう。武装している者が周囲をうろついては、安らげるものも安らげない。
(失敗は許されない。殿下のためにも、乙女のためにも)
「アラン様」
黄昏時。屋敷の前で湖の向こう側に見える王城を眺めていると、屋敷の中から声をかけられた。
振り返ると、出窓を開けて使用人のジゼルが顔を覗かせていた。
「お食事の支度ができましたので、あの方のお部屋に運んでくださいませ」
アランは「今行く」と答えて、屋敷の中へ入っていった。
長年勤めてくれている中年のジゼルは、アランの実家では、できないものはないほどの優秀な仕事ぶりだった。芽吹きの乙女のことは詳しく説明していないが、察してくれているのかあちらも詳しく尋ねてはこない。
厨房へ入り、ジゼルが用意してくれたスープを盆に載せる。湯気に混ざった魔法薬の独特の香りが鼻孔をくすぐった。
「すまないな、ジゼル。こんな辺鄙な場所で、不便も多いだろう」
その上、芽吹きの乙女の食事や世話は、普通の病人のそれよりも余程気を遣うものだ。実家で仕事をするのに比べて大変に違いない。アランはそう思ったのだが、ジゼルはその気の強さを表すように、眉の片方を吊り上げた。
「何をおっしゃいます。この程度で私が苦労するとでもお思いなのですか? 幼かった頃のアラン様のお世話に比べれば、何倍も何十倍も楽なものです」
「それは……その、頼りにしている」
少し恥ずかしくなってしまい、アランは頬をかいた。彼としては、そんなに手のかかる子供だったつもりはないのだが。
盆を手に、芽吹きの乙女の寝室へと向かう。
返事ができないのを分かっていつつも、彼は扉を叩き、一言断りを入れてから扉を開いた。
ふわりとカーテンが膨らみ、部屋の中に吹いていた夕暮れ時の風がアランの頬を撫でた。
くすくすと忍び笑いをする気配に、アランは眉尻を下げた。
「君達、そろそろ神樹へ帰ってもらえないか」
アランがそう言うと、芽吹きの乙女の周囲に漂っていた妖精達が抗議するように舞った。
『もう窓とカーテンを閉めてしまうの? 星空が見えないじゃない』
「夜風は人間の体にはよくないんだ」
『ずっと部屋に一人きりなんだもの。星空くらい眺めたいはずよ。ね?』
ベッドの上、敷き詰められたクッションを背もたれにして、乙女は上体を僅かに起こしていた。
魔法薬の効果もあってか、骨と皮の間に肉一枚は甦ったように見える。薄く開かれた瞼の間から、若葉色の瞳が妖精の動きを追っているのが見えた。
アラン達が暮らし始めてからまもなく、妖精達は興味津々で屋敷へとやってきた。
妖精は悪戯好きだ。今日も、アランの靴の紐を全部抜いてけらけらと笑っていた。
だが、弱っている者を痛めつけたりはしない。アランは何も言っていないが、芽吹きの乙女に優しく接してくれていた。
ジゼルはこの屋敷でたった一人の使用人で、家のことで朝から晩まで忙しく働いてくれている。アランもそのジゼルの手伝いをしたり、形だけではあるが森番の仕事もある。そのため、どうしても芽吹きの乙女は部屋で一人きりになってしまうことが多かった。その彼女のそばにいてくれる妖精達の存在はありがたい。ただ、乙女がそれを嬉しく思っているのか、それともうるさく思っているのかは分からなかった。
◇◇◇◇
アランと、ジゼルと、乙女と妖精達。変わり映えのない面子で、穏やかな日々が続いた。
幸いなことに、誰かが乙女を狙ってくる気配はなかった。
夏の始まりが見えた頃、乙女はうなずくことと首を振ることができるようになった。
夕暮れ時に秋の風が吹き始めた頃、液状でないものを食べられるようになった。
そうすると、咲き始めた花のように速かった。
芽吹きの乙女は、そもそも魔力の源泉のようなものだ。その魔力と魔法薬が上手く作用してくれたのだろう。
冬支度を始める頃には、話をし、壁にもたれながらであれば歩けるようにもなっていた。
(今年は寒そうだな)
貯蔵庫を出ると、重く垂れこめた灰色の雲から大粒の雪が落ちてきていた。例年に比べると早い雪だ。
アランは周囲に張り巡らせている魔法道具の調子を確かめ、不審な点がないか見て回ると、屋敷へと入っていった。
「クレア殿」
屋敷に入ってすぐ、アランは廊下に座り込んでいる少女の姿を見つけて駆け寄った。
「どうなさったのですか? どこか痛いところは?」
少女は首を振ると、その若葉色の瞳でアランを見上げた。
「自分の足につまずいてしまっただけなのです。折角きれいになったお洋服が……申し訳ありません」
見ると、確かに周りに服が散乱している。転んだ拍子に落としてしまったのだろう。
芽吹きの乙女は、クレアという名だった。
男か女か、生者か死者かすら分からなかった彼女は、今では十七か十八の少女の姿になっている。
薄汚れた雪のようだった髪は陽光のような金色に生え変わり、黒ずんでいた肌は白く、けれど血の通いを表すように明るい。暗く澱んでいた瞳は今では透き通っていた。
生きている。
彼女の姿を見るたびに、それを実感してアランの胸の内に喜びが広がった。
「これは私が運びますから、どうぞ休んでいてください」
アランが床の服を拾い上げようとすると、クレアは慌てたようにそれをかき集めた。ほんの少し前では考えられないほどの素早い動きに、アランは完全に出遅れ、驚いて口を開けてしまった。
「あ、あの、本当に大丈夫です」
まだ少しこけている頬が、慌てたためか上気している。
乱れた髪を耳にかけ、クレアは誤魔化すように笑みを浮かべた。
「まだ、この程度しかお役に立てないのですから……こんなことで、お手を煩わせるわけには」
「そんな……何もお気になさらず、お体を休めていただいていいのですよ。動けるようになったとはいえ、全快というわけではないのですから」
しかし、クレアは首を振った。
「ジゼルさんが、少しずつでも体を動かした方が良いとおっしゃるのです。いつまでも寝込んでいては、良くなるものも良くならないと。私も、そう思います」
彼女は壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
何かあればすぐに手を出せるようにと身構えていたが、幸いその必要もなかったようで、アランの口から安堵の息が漏れる。
それに気付いて、クレアは少し口角を上げた。心配しすぎだと思われたのかもしれない。
「あの……明日は、よろしくお願いします」
「え? あ、ああ……はい、こちらこそ……」
なんとも歯切れの悪い返事に、クレアは頭を下げた。
壁に手をついて、ゆっくりと廊下の先へと歩いていく。
それを見送りながら、アランは考えた。
(ジゼルも厳しいな。冬支度で忙しいとはいえ……)
クレアが話せるようになると、ジゼルはあれこれと用事を言いつけるようになった。
芽吹きの乙女であることは伏せているし、クレアの立ち居振る舞いからは、貴族らしさは微塵もない。だから、ジゼルにとっては自分とさほど変わらない身分の同居人といったところなのだろう。
ジゼルなら負担をかけるほどのことを押し付けたりはしないだろう。そう分かってはいるものの、アランの目には少し危なっかしく映った。
(何にせよ、まずは明日を迎えてからだな)
明日は、彼女を連れて登城しなければならない。
会話ができるようになり、少しならば立って歩けるようになったため、話し合いの場を設けることになったのだ。
ここは療養のための仮住まいだ。これからどうするのか、本人の意思を聞かねばならない。その結果によっては、ここを引き払う可能性もあった。
この暮らしが終わるかもしれない。
それを考えると、不意に物悲しさが胸に広がった。
近衛騎士だった以前の生活も、仮の森番である今の生活も、どちらもそれなりに幸福で、小さいけれど不便や不満がある。それなのに、近衛騎士に戻ることを考えて寂しくなるとは、不思議なものだ。
『自覚がないなんて、びっくりするほど幼い男』
突然耳元で声がして、アランはぎょっとした。妖精は、小さな体で大きな溜息をついた。
「わ、私はこれでも二十――痛っ」
『馬鹿ね』
『阿呆だ』
後頭部を蹴り飛ばされた痛みに呻くアランをよそに、妖精達はけらけらと笑いながらクレアの後を追っていった。
◇◇◇◇
久しぶりに正装したアランは、城から用意された馬車の前でクレアを待っていた。
女性は身支度に時間がかかるものだ。特に、彼女はまだ思いどおりに体を動かせないのだから、なおさらだ。
「クレアさん、足元に気を付けて」
「は、はい……」
ジゼルに手を引かれながら、一歩一歩、慎重にクレアは屋敷から出てきた。
普段と違う装いをするのは分かっていたはずなのに、その姿にアランは思わず目を見張った。
冬の訪れに色褪せた芝の上で、まるで春が訪れたようだった。
淡いミントグリーンのドレスに身を包んだクレアは、丁寧に編み込まれた髪と化粧の効果もあってか、見違えるようだった。決して豪奢ではないが、上品なドレスの裾が歩くたびに揺れる。
若葉色の瞳に見上げられて、アランの心臓が跳ねた。
「お待たせして、申し訳ありません」
「え……あ、問題ありません」
万全の状態でないことは、アランも、迎えにきた城の者達も分かっている。だからそう言ったのだが、クレアのそばにいるジゼルの目は据わっていた。
「アラン様……一言くらい、何かないのですか?」
「ひ、一言?」
今の一言では不足だったのだろうか。
「あの、いくらでも待ちますから。本当に、大丈夫ですよ。まだ朝ですし、いくらでも時間はあります」
そう言うと、ジゼルは鼻から大きく息を吐いた。どうやら不合格らしい。が、正解が何かはアランには分からなかった。
白いレースの手袋をはめた手を取り、馬車に乗り込むのを助ける。
慣れないドレスで裾を踏んでしまわないかとそわそわしたが、幸いそのようなこともなく、無事に座席に腰を落ち着かせることができた。
二人が乗り込むと馬車が動き出す。
王城への道はそう長くはない。屋敷と王城の間にあるのは湖くらいのもので、街中を走るのとは違い、人目もなくのどかだ。
昨日は雪が舞ったにもかかわらず、今朝は日差しが暖かかった。揺れで酔わないようにと少しだけ開けた窓から、冷たくも爽やかな空気が入り込んでくる。
「緊張しておられるのですか?」
膝の上で固く握られた拳を見て、アランは向かい合って座っているクレアの顔を見た。もしかしたら青い顔をしているのかもしれないが、化粧のせいでよく分からない。
「はい……今からお会いする王女様に、何か失礼なことをしてしまわないかと……あまり礼儀作法などに明るくないもので」
「ご心配なさらず、どうぞ気楽に。非公式の場ですし、セレスティア様も作法については重要視なさいません。クレア殿が帝国でどのような状況におられたかは、ご存じですから」
クレアは何か言いたげに薄く口を開き、また閉じた。
少しうつむいた彼女を黙って見守っていると、ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにアランを見つめた。
「あの……あの時は、ありがとうございました」
あの時が一体いつのことか分からず、アランは目をしばたいた。
再び視線を落とした彼女の視線の先を追う。ミントグリーンの上で、レースに包まれた指が絡まったり解かれたりを繰り返している。
「上着を、きっと汚してしまったと……それに、私のような者をこの国まで運んでくださって、本当にありがとうございます。お礼を申し上げるのが遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いえ、そんな」
帝国の塔でのことを言っているのだと分かり、何と返せばいいのかとアランは慌てた。
まさか、あの状態で人の顔を識別し、その上覚えているとは思わなかったのだ。
「ジゼルさんに教えていただいたのです。アラン様は今のお屋敷に住まわれる前は、近衛騎士をしていらしたと。突然森番になってしまわれたと……もしかして、私のせいではないですか?」
「ち、違います。それは、私の行動が近衛騎士としては相応しくないと判断されてですね」
まさか、ジゼルがそんな話をクレアにしていたとは思ってもみなかった。
森番になったのは確かにクレアの存在が理由ではあるが、間違っても「クレアのせい」ではない。言い渡された直後はショックを受けたし、知人には鼻で笑われることもあるが、アランは今の任務に不満を抱えているわけではなかった。何だかんだで、少し楽しんでもいるのだ。
クレアの目が潤んでいるように見えて、アランは慌てて言葉を探した。
「本当です! それに、あの場所は療養にはいい環境ですが、ひと気がないので賊に襲われた時危険なので、一応腕に覚えのある私がいた方が安全ということでですね……それに、クレア殿が元気になるためのお手伝いができて、嬉しいと思っているのです」
改めて、目の前に座る人の姿を見つめる。
まだ全快ではなく儚さが漂っているものの、そこにいるのは紛れもなく年若い女性だ。枯れ木のようだった頃とは見違える姿だ。
アランには――そして、恐らくは大多数の人間が――想像もできないほど辛い日々だっただろう。死ぬことすら許されずに搾取され続けた長い年月は、絶望と表すのも恐らくは生易しい。
だから、大小問わず、楽しみや幸福を感じてほしかった。地獄の先も地獄だったとは思ってほしくなかった。
彼女が笑みを浮かべると、アランはたまらなく嬉しかった。大した力にはなれなくとも、砂粒一つくらいでも幸福を感じてもらえたなら、それはアランにとっても幸福だった。
「まだご不便はあるでしょうが……そうだ、雪が積もったら雪だるまを作りましょう。それに、次の春には一緒に森を散策しませんか? 春の恵みを摘んでいただくのでも、花を愛でるのでも。それに、その内城下町もご案内します。楽しいことは探せばいくらでもあります。折角ですからそういったことを考えましょう」
矢継ぎ早なのが面白かったのか、彼女は笑みを零した。
「雪が積もれば……雪合戦も、ご一緒していただけますか?」
「雪合戦ですか? もちろんです!」
「手加減なさらないでくださいね」
口元を手で隠して笑っている姿は上品に見えたが、生来は活発な人なのかもしれない。笑顔の中に悪戯っぽさが見え隠れしている。
ジゼルも誘ってみようなどと話している内に、馬車は目的地へと辿り着いた。
車内で柔らかくなった表情は、馬車を降りる時にはやはり固くなってしまっていた。彼女にとっては、屋敷以外の場所は未知の世界に違いないので、それも当然だ。
クレアは、表向きはアランの実家の遠縁の者ということになっている。体は弱いが、魔導師としての才をセレスティア王女に見出され、この度非公式だが謁見の場が設けられた、と。
実際、セレスティア王女は今までにも何人もの魔導師を育て上げてきたので、周囲がその建前に疑問を持っている様子はなかった。
二人は、セレスティア王女が待つ居室へと赴いた。
取次ぎがなされ、あまり多くない人数の者達が控えている中へと入っていく。
クレアは、ジゼルに教えられたであろうとおりに膝を折り、御辞儀をした。アランも彼女より下がった位置で膝をつき、頭を下げる。
「クレア様」
王女はさっとクレアに近付くと、その手を取った。
「お体が万全でないことは聞き及んでいます。どうぞご無理をなさらないで。ここには、事情を知る者しかおりません」
クレアの春色のドレスとは対照的なウィンターブルーのドレスを翻し、王女は布張りのソファへとクレアを誘った。
二人が腰掛けたのを合図に、テーブルの上に茶器や菓子の類が並べられていく。紅茶の香りが鼻孔をくすぐった。
「アルティエラ王国の第一王女、セレスティアです。御意思を確認せずにこの国へとお連れしたことを、まずはお詫びいたします」
「クレアと申します。私は、殿下にそのような御言葉をかけていただけるような人間ではないのです。恥ずかしながら己の出自もよく理解しておりませんが、恐らくは平民として生まれましたので」
「王女としても、魔導師の一人としても、敬意を払いたいお方であることに変わりはありません。そして、微力ながらも手助けをさせていただきたいのです。過ぎ去ったことを、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
セレスティア王女は、一つ一つ、ゆっくりと質問を重ねた。
クレアもそれに対して、言葉を選んで返していく。
「私は、深い森の中の屋敷で育ちました。母と、時折物資を運んできてくれる者。それだけの暮らしでした」
「お母上は、クレア様が芽吹きの乙女だと知っておられたのですか?」
クレアはかぶりを振った。
「分かりません。申し訳ありませんが、その『芽吹きの乙女』という言葉を、今日まで耳にしたことがなかったのです。何か特別な力があると聞かされたこともありません」
だが、人目を避けて暮らしていたことを考えると、きっとクレアの母は娘の力に気付いていたのだろう。
「あまり人との交流がなかったとのことですが、いつ頃のお生まれかはご存じですか? その時の皇帝の名前などは」
ぎくりと、クレアは目に見えて狼狽えた。
強張った顔から血の気が引いていく。
すると、その編み込んだ髪の間からするりと何かが飛び出した。妖精だ。
屋敷からついてきたのだろう。
アランのいる場所からは聞こえない大きさの声で王女と言葉を交わしている。
短い会話の後に、セレスティア王女はアランへと目を向けた。
「アラン、下がりなさい」
深く頭を下げ、アランは素早く居室を出た。
(まぁ、女性同士でなければ話しにくいこともあるだろう)
分かってはいるのだが、何となく寂しく感じるのが我ながら困ったものだ。
「やぁ、森番殿」
片手を上げて近付いてくるその姿に、アランは眉根を寄せた。
「久しぶりの登城はどうだ? 緊張しているんじゃないか?」
相変わらずの嫌味っぷりだと、あまり見たくもない従兄の顔を直視する。
「第一王子様の近衛騎士殿は、どうやら暇を持て余しておいでのようですね。平和で何よりです」
相手の頬の筋肉がひくひくと動いた。
従兄のローガンとは、昔から仲が悪い。剣を学び、騎士への道を志しながらも根っこが違うことは互いによく分かっていた。
そして、ローガンが第一王子のダミアンに、アランが第二王子のブライデンに仕え始めたことで、埋まらない溝は底なしの谷のように深くなってしまった。
「森番の仕事はさぞ忙しいのだろうな。獣を追いかけ回し、入り込んだ猟師を追い払うのだろう? 後は何だ? 私には想像もつかないな」
ローガンの視線が、時折アランの背後へと移る。
何を聞いて、何が目的でここに来たのかとアランはいぶかしんだ。
単にアランを笑いに来たというのであれば、腹は立つが問題はない。だが、クレアのことを探りに来たというのであれば話は別だ。
何しろ、ローガンはダミアン王子派の人間なのだ。もしもクレアが芽吹きの乙女であることを知ったならば、確実に狙ってくるだろう。
「それで? 今日は一体どうして城に?」
「騎士殿には想像もつかないような、森番の仕事で」
ローガンの眉が苛立ちに吊り上った。
アランを睨み付けながらも、やはり部屋の中が気になるのか、時折視線が泳ぐ。
だが、それ以上詮索してはこなかった。「せいぜい頑張ることだ」と捨て台詞を吐いて、元来た道を帰っていく。
(中にいるのが、芽吹きの乙女だと知っているのだろうか。そうでなければいいが……)
従兄の背中が曲がり角の向こうへと消えてから、ようやくアランは小さな溜息をついた。
予想していたことだが、クレアと王女の話は長かった。
ローガンがやってきた時は売り言葉に買い言葉で長々と喋ってしまったが、部屋の前で騒げばやはり迷惑だろう。扉の前に控えている騎士達に倣って、アランも黙ってその場で待った。
立ったままで居眠りができそうだと限界を感じ始めた頃、ようやく、アランは居室に入るよう命じられた。
中に入ると、居室でソファに腰掛けているのは、セレスティア王女だけだった。
「彼女には、今は奥の部屋で休んでもらっているわ。だいぶ疲れさせてしまったようだから」
そう言う彼女の顔にも、少し疲労の色があった。
楽しい話題ではないのだ。聞くだけ、想像するだけでも疲弊してしまったのだろう。
「……先程の話の内容だけれど、簡単にあなたにも説明しておきます。彼女にも了承してもらっているわ」
一緒に暮らし、長い時間を共にする中で、彼女の心の傷を抉らないようにしてほしいのだという。そのためには、知っておかなければならない、と。
「まず、彼女はエドガー皇帝の時代の人間だということ」
アランは思わず驚きの声を上げてしまった。
神聖エルテベザ帝国のエドガー皇帝といえば、三百年は前の人間だ。クレアがそんな昔の人だとは思わなかった。
「正確には、エドガー皇帝がまだ皇太子だった頃、帝国に捕らわれて幽閉されたそうよ。帝国が力を持ち始めた時期とも一致するから、まず間違いないでしょう」
クレアの話では、彼女が十七歳の頃、母親が突然行方不明になったのだという。
深い森の中に一人きりだ。さぞ心細かっただろう。
そんな時、エドガー皇太子がクレアの前に現れた。エドガー皇太子は愛を囁き、妃になってほしいと彼女を森から連れ出した。
愚かだったと、クレアはセレスティアに語りながら泣いた。
今ではクレアも分かっているのだ。
母親の姿がなくなってから皇太子が現れるなど、タイミングが良すぎる。母親の失踪も、恐らくは帝国が仕組んだことだったのだろう。
城のあの塔に連れていかれたクレアは、妃になる儀式を行い、その時にあの首輪を付けられた。そして――それからずっと、アラン達が連れ出すまであそこにいた。
「その儀式というのが、首輪を用いて魔力を思い通りに引き出すためのものだったのでしょう。今は魔力が流れ出ている気配がないところをみても、呪文か何かが必要なのだと思うわ」
神聖エルテベザ帝国は、流行り病で国力が著しく低下したところを周辺諸国に叩かれた。
いくら流行が速いとは言っても、芽吹きの乙女の魔力を使えば病を振り払うのは難しいことではない。考えられるのは、クレアの魔力を引き出せる魔導師がごく少数だった――敵対勢力に利用される恐れがあるため、そうせざるを得なかっただろう――こと、そして不運なことに、その少数の魔導師から病に倒れた、ということだろう。
クレアを騙し、その力を独占していたことが裏目に出たのだ。
「現状のままであれば、普通の人間と変わりないということですか?」
「そういうわけではないわ。あの首輪を付けた時の姿のままで、彼女の時は止まっている。不死であることを本人が望んでいない以上、いつかはあれを外さなくては。そうでなくても、あれを見れば皇太子に騙されたことを思い出してしまうでしょうし」
外すこと自体は、大して難しくない。ただ、今すぐには外せない。彼女はより健康になる必要があった。
首輪を外した途端、魔力は常に溢れ出る状態となる。そうなれば、国内外を問わず、魔導師にはその存在が知れることとなってしまう。アルティエラ王国がその身を保護するにしても、本人にも身を守る術を学んでもらう必要があるのだ。
「私の元で学び、魔導師としての力をつけてもらうことが必要だわ。本人は、そもそも普通の人になりたいようだけれど……」
最後は歯切れが悪かった。
その方法が分からないのだということは、容易に察せられた。
そもそも、同じような能力を持った者が、歴史を遡ってみてもほんの一握りなのだ。突然変異のように現れるその者達のことは、知らないことの方が多い。
「私がなぜこの話をあなたに伝えたのか。分かっているのでしょうね?」
その視線は少々きついものだった。
心の傷を抉らないようにというのならば、エドガー皇帝の名は出さないように注意しなければならない。自分を騙した人間のことなど思い出したくないだろう。
アランに思いつくのは、それくらいだった。
『言葉で注意したところで無駄だよ。こういうのは仕種一つ一つに表れる』
どこからか現れた妖精が、王女の肩に留まった。
『この男に期待するだけ無駄さ。既に歯車は回り始めている。上手く噛み合うことを祈るしかない』
妖精の言葉に、王女が溜息を漏らす。
アランにはいまいち意味が分からなかった。だが、セレスティア王女は説明してはくれないだろう。何せ、言うだけ無駄なのだから。
「……お兄様が信じた男なのだから、私も今は信じましょう。アラン、彼女をお願い」
今までより、これからの方がより困難だろう。
秘密を抱える時間が長くなればなるほど、暴かれる機会は増えるものだ。
クレアは生きている。宝石のように箱にしまっておくわけにはいかない。屋敷に閉じ込めておくことは、塔に幽閉するのと変わりなかった。
危険に晒さぬよう、心と体を癒し、身を守るための力をつける。それがこれからの課題だった。
◇◇◇◇
「ジゼル、これでどうだ?」
「まぁ、ありがとうございます。十分でございますよ」
建付けが悪くなっていた食器棚の具合を確かめながら、ジゼルは何度もうなずいた。
「これでようやく紅茶を淹れられます。こんなに寒いのですから、体の中から温めなければ」
「そうだな。さすがに、こう連日連夜降り続くと」
年に何度かは雪が積もる地域ではあるが、ここ数日は積もった雪が融ける間もなく新しい雪が積もり続けている。
積もった初日は気分が高揚して雪を楽しんだが、さすがにもう飽きてしまった。
「服を乾かすのにも難儀するのですから、もう雪遊びはご遠慮くださいね」
「分かっているよ。今年はジゼルとクレアの勝ち逃げだな」
そう言うと、ジゼルは誇らしげに口の端を上げた。
二対一だったとはいえ、雪合戦はアランの惨敗だった。クレアの回復はアランの予想以上で、持久力はなくとも、走ったり跳んだりと随分身軽だった。その上ジゼルまで「もういい歳ですからと」参加に渋っていた割にはとても元気で、数えきれないくらいの雪玉を顔面に食らってしまった。もっとも、次の日は体の節々が痛いと泣き言が絶えなかったが。
「アラン様、クレアさんに紅茶を届けてくださいな」
「ああ、部屋へ戻るついでに――ジゼル、これは」
盆の上にティーカップが二客あるのを指差すと、ジゼルは、今度は含みのある笑みを浮かべた。
「いや、ジゼル。あの――」
「アラン様のお心くらい、幼い頃からお世話をさせていただいてきたジゼルは心得ております」
「いや、いや、待ってくれ」
「思い違いをしていないことを証明するため、声に出した方がよろしいですか?」
「いやいやいや、頼む、やめてくれ」
耳が熱くなる。ジゼルもそれに気付いたようで、笑みがさらに深くなった。
「何を躊躇う必要があるのですか。年若い男女が一緒に暮らしているのですから――」
「違う、違うぞ。少し情がうつっただけで……」
「燃え上がるものだけが恋ではありません。穏やかに育む方がアラン様には似合っておられますよ」
これは困ったと、アランは襟足を撫でた。
アランとて子供ではない。自分がクレアに感じている感情の名前を彼は知っていた。
そして、妖精と王女の会話の意味をようやく思い知ったのだ。
好いているのだと、クレアに知られるわけにはいかない。
彼女は、愛を囁かれてそれを信じた結果、長年に渡り幽閉されることになった。恋愛というものに疑心暗鬼になっていることは想像に難くない。
今のクレアはアランに気を許してくれている様子だが、それはアランがただの同居人だからだ。
本音を言えば、想いを告げたかった。
今はアランとジゼルにのみ向けているあの笑顔が、他の男にとられると思うと心臓が捩れるようだった。
だが、少なくとも今は駄目だ。
今の彼女は、自分で自由に選択し、自由に動き回れる立場ではない。
この屋敷の中におさまる範囲ならばともかく、それ以上のことはアランと、その背後にいる王族に伺いを立てねばならなかった。その身を狙われる危険があり、この時代のこの国で、自由に動く知識も金もないのだから。
「ジゼル、気持ちは嬉しいのだが……色々と事情があるんだ。だから、その、内緒にしてもらえないだろうか」
「それは……アラン様がそうおっしゃるなら、そうさせていただきますが……」
珍しく、ジゼルの眉尻が下がった。
芽吹きの乙女の件をジゼルには説明していないので、それも当然だろう。
躊躇う理由さえなければ、彼女の心遣いはアランとて嬉しかったはずだ。
「それでは、皆でいただきましょうか。呼んできていただけますか?」
「分かった」
それくらいならば、尻込みする理由もない。同居人の範疇だ。
アランは台所を出て、クレアの私室へと向かった。三人で住むには十分だが、狭い屋敷だ。その部屋まではそう時間はかからなかった。
ジゼルとの会話で熱くなってしまった顔を落ち着かせるため、何度か深呼吸してから、アランは扉を叩いた。
「クレア、私だ。ジゼルが紅茶を淹れてくれているのだが――」
最後まで言い終わるより先に、扉が開いた。
現れたクレアは頬を上気させていて、その表情に不覚にもどきりとする。
「アラン様! ちょうど見ていただきたいものがあるのです!」
袖を控えめに引かれて、アランは室内へと導かれるままに足を踏み入れた。まさか、振り払えるわけもない。
クレアが歩けるようになってからは入っていなかった部屋は、以前より物が増えているようだった。
春からセレスティア王女の元で魔法を学び始めるため、事前にと読んでいる専門書が積まれている。そして、机の上には水晶玉が載っていた。
「姫君に教えていただいたことを練習していたのです」
水晶玉の前に立つと、その中に何かが映っているのが見えた。
この部屋の窓から見える光景だ。
少し霞がかったような水色の空を背景に、まだ柔らかそうな木々の葉が揺れている。現実とは違い、水晶玉の中は春だった。
「水晶玉に思い描いたものを映すのは、魔法の初歩なのだそうです。何度も練習していたのですが、今初めてできて……」
元々魔力には恵まれているが、彼女は魔法の心得は全くなかったはずだ。
以前セレスティア王女に謁見した時に軽い手ほどきを受けたとはいえ、後は書物のみでこれを成し遂げるのは凄いことだろう。
「とても美しい光景ですね。春が待ち遠しいです」
ふと、水晶玉の隣に置かれているものが目に留まった。折りたたまれている衣服だ。
「これは……」
「あ! えっと、これはですね」
クレアは慌てた様子で衣服を取り上げ、それを持ったままなぜか一回りした。迷った末にアランへと差し出される。
改めて見ると、やはりその服はアランのものだった。
「ジゼルさんに裁縫を習っているのです。それで、つくろいを……一応、上手にできたと思っているのですが」
「それは、どうもありがとうございます」
受け取りながら、果たしてどのくらい笑っていいのだろうと困惑した。同居人らしくと言い聞かせた結果、少し引きつるような笑顔になってしまった気がする。
しかし、運がいいことに、クレアは髪を耳にかけながらどこか斜め下を見つめていた。
「魔法について学ぶ予定ではありますが、自分が魔導師になれる気がしないのです。ですから、ジゼルさんのように使用人を務められるようにと……母と一緒だった頃、最低限のことは仕込まれましたし」
セレスティア王女の言葉を思い出した。
クレアは、芽吹きの乙女ではなく、ただの人として生きたいと考えていると。
「魔法は、あくまでクレア殿が自分の身を守れるようにするためのものですから。どのような職に就くかはクレア殿の自由です。しかし、どこをつくろっていただいたのか分からないほどの出来ですね。本当にありがとうございます」
お世辞ではない。ジゼルに習っているというが、長年使用人をしているジゼルよりも上手いのではと思えた。間違っても、ジゼルには言えないが。
はにかみながら自分を見上げてきたクレアの瞳に、アランの心臓はまた跳ねた。
「水晶玉に映し出した時に思ったのです。アラン様の瞳は、春の空のような色をしていらっしゃるのですね。お優しいのがよく表れていると思います」
「それは……どう、なんでしょうね。自分ではよく分からなくて」
誤魔化すように笑って襟足を撫でながら、買いかぶり過ぎだと考えた。
自分は、きっと彼女が思うほど優しい人間ではない。
任務を放棄し、相手の心の内も確認せずに、この腕で抱き締められたらどれほど幸せか――そんな身勝手なことを考えてしまっているのだから。
◇◇◇◇
雪が融け、この国は木の芽時を迎えていた。
故国から連れられてきて一年かと、クレアは懐かしく感じていた。
昔のことを思い出すと胸がしくしくと痛んだが、辛くて枕を濡らす日々かというとそうでもなく、悪夢にうなされることもなかった。
それもきっと、アランとジゼルのおかげだ。
ジゼルは愛情深く厳しい人だ。クレアが動けるようになると、ジゼルは暇を作るまいとするようにあれこれと雑用を言い渡した。それはクレアにとってありがたいことだった。やることがあると無駄なことを考えずに済む上、同居人として認めてもらえているようで嬉しかったからだ。使用人としてどこかに勤めたいという話をすると、彼女は自分の知恵を惜しむことなく分け与えてくれた。
アランは――アランのことを考えると、彼女の胸に心地よい痛みが走った。
そっと、未だ居座っている首輪に手を触れる。
アランが自分を鎖から解き放ってくれた時のことは、きっと一生忘れないだろうと思う。
春の空と同じ淡い瞳から零れた涙は、干からびていた彼女の心に温かく染み渡った。自分を人として扱ってくれるのだと、泣きたくなるほど嬉しかった。あれほどまでに枯れていなければ、きっと泣いていたことだろう。
彼の優しさはあの時から変わらない。クレアの外見が変わろうが、その出自を知ろうが変わらなかった。使用人であるジゼルにも同じように接しているところを見るに、きっと誰にでも優しい人なのだろう。
自分だけに向けられる特別なものではない。それは分かっているのだが……。
(私、惚れやすい人間なのかな……)
そもそも、彼女は人と接した経験が極端に少なかった。アランに感じているのが本当に恋であるのか、彼女にはよく分からなかった。
エドガー皇太子のことも、あの時、本当に惚れてしまったのかどうかは分からない。偽りの愛の言葉に舞い上がってしまったことは確かだが。
ただ、一つだけ確かなことがある。この気持ちを表に出さない方が、双方が幸せでいられるということだ。
芽吹きの乙女である限り、この身から溢れる魔力は常に狙われ続けるだろう。
アランやセレスティア王女は親切だが、他の王族や貴族が何を考えているのかは分からない。
クレアの存在は、第二の神聖エルテベザ帝国を作り出す可能性が大いにあった。この国をそうしようとする者、他国がそうならないように阻止しようと思う者。色んな思惑があるだろう。
自分の気持ちを周囲に知られれば、アランを巻き込むことになる。魔力があるとはいえ、彼女にはそれを使いこなす能力がなかった。何があっても彼を守り抜ける力があるならともかく、そうでないのに、迷惑をかけるような真似はしたくない。
窓の外に彼の瞳と同じ色を求めてカーテンを開けると、見慣れぬものが視界に入ってきた。
屋敷からは遠いが、歩いている人の姿が見える。
何となく不穏な空気を感じて、クレアは厨房へと向かった。
厨房では、ジゼルが一人、鍋をかき回していた。
「ジゼルさん、アラン様はどちらに?」
「森の様子を見に行くと出て行かれましたよ。何か急ぎの用ですか?」
「いえ、外に人がいるのが気になっただけで……」
ジゼルは何かを察したように、エプロンで手を拭いて窓の一つを覗き込んだ。クレアも一緒に覗き込む。クレアの部屋の窓から見たのと同じように、外で一人の男性が歩いていた。
この屋敷は、小高い丘の上に立っている。なだらかな坂の先は湖へと続いているが、男性はその湖のほとりにいた。
「あれは……ローガン様ですね」
「ローガン様?」
「アラン様の父方の従兄で、今は近衛騎士をしていらっしゃいます」
「では、アラン様を訪ねて?」
この屋敷には、セレスティア王女の結界が張られている。訪ねてきたものの、近寄れず困っているのかもしれない。クレアはそう考えたのだが、ジゼルは眉間に皺を寄せていた。
「お二人はあまり仲が良くないのです。わざわざ会いにいらっしゃるとは考えづらいですが……」
ジゼルは、用件を尋ねに行こうとはしなかった。
ここは王家の所有する森だ。何かあるならば事前にアランに連絡が来るはずで、ローガンの目的が何にしろ、下手に手を出さない方がいいと判断したようだ。
「アラン様が戻られたら、お伝えしましょう。クレアさんも、今日は窓には近づかないように」
「はい。では、部屋の掃除をしてきますね」
ジゼルと分担して家事を行いながら、クレアはそわそわと落ち着かなかった。
今まで、誰かがこの辺りを訪れる時は、事前にアランが教えてくれていた。それはクレアが怯えなくて済むようにという心遣いであり、屋敷の中に身を潜め、なるべく接触しないようにという忠告でもあった。
それがなぜ、今回に限ってないのか。
考えても分かることではないので手を動かすことに集中しようとするが、どうしても目が時折窓の方へと向いた。
昼食の時間が近付いても、アランはまだ帰っていなかった。
昼を過ぎることも珍しいことではないが、今日に限って遅いことに、どうやらジゼルも気を揉んでいるようだ。窓の外を何度も窺っている。今は、外には誰の姿もなかった。
「クレアさん、私は貯蔵庫へ行ってきますから」
貯蔵庫へ行くには、一度屋敷から出なければならない。ジゼルとしても迷った結果なのだろう。アランの帰りを待っていては、昼食の支度が終わらないのだ。
裏口から、フライパンを片手に恐る恐るといった感じでジゼルは出ていった。
(私が行けたらいいのに)
すぐそばの貯蔵庫へ行くのでさえ、クレアにはできなかった。絶対にというわけではないが、それをすると迷惑になるのも分かっている。
建物の外に出るのは、アランがいる時だけ。それが暗黙の了解だった。
食器の用意をして、ジゼルの帰りを待つ。
若干手持ち無沙汰でいたところ、湖の方から女性の悲鳴が聞こえて、クレアの心臓がどくりと脈打った。
窓辺に行き、外の様子を窺う。ジゼルが倒れている人に向かって駆け寄る姿が見えた。
その倒れている人が誰か気付いて、クレアの顔から血の気が引いた。
「クレアさん! 治療箱を!」
ジゼルの呼びかけに、クレアは慌てて戸棚を開けた。落ち着きなく震えている手で治療道具の入った箱を掴む。
クレアは屋敷から飛び出した。もつれそうになる足を懸命に前に出し、転げ落ちそうになりながら丘を下る。
「アラン様!」
仰向けに倒れているアランは目を閉じていた。以前つくろった服は所々破れ、血が滲んでいる。
「一体何があったのですか!?」
アランからは返事がなく、ジゼルも首を振るだけだ。
獣に襲われたのか、人に襲われたのか、何かの事故なのか。それすら分からないのでは、どう治療していいものかとクレアは迷った。
混乱する頭で必死に考え、乱暴に治療箱を開けると聖水瓶を取り出した。
何が原因か分からないのだから、一先ずは毒や魔法の影響を考えたのだ。傷口を塞いでも、毒や魔法が体を蝕んでしまっては手遅れになる。
震える手で慌てて蓋を取ろうとした結果、手元が狂った。
「あっ」
手から飛び出していく瓶を掴み直そうとするものの上手くいかず、その中身はクレアの膝とアランの上にぶちまけられる。
今度こそはと二つ目の瓶に手を伸ばそうとして、クレアは動きを止めた。
「アラン……様……?」
聖水がかかったアランの衣服が変わっている。泉にインクを垂らしたように、じわじわと見慣れた服から知らぬものへと変化していった。
背筋に冷たいものが走り抜け、クレアは立ち上がろうとして尻もちをついた。その手を捻り上げられ、痛みに呻く。
振り返ると、先程までジゼルがいたところに知らない男がいた。
何が起こったのか、クレアは直感的に理解した。また、騙されたのだ。
先程まで魔法でアランに成りすましていた男は、ローガンという男の姿にすっかり変わっていた。
何事もないように起き上がり、クレアの手を掴んでいる男と目配せをする。
「クレアさん!?」
丘の上に、ジゼルの姿が現れた。こちらへ来ようとしているのを見て、クレアは慌てて叫ぶ。
「来ては駄目です!」
彼らの目的が何か、考えずとも明白だった。彼らが欲しているのはクレアの魔力だ。ジゼルを巻き込むわけにはいかない。
どこに身を潜めていたのか、男が四人ほど現れた。
「行くぞ!」
「おい、歩け!」
どこへ向おうというのか。
両手を後ろ手に拘束しながら、男はクレアを引っ張った。足を踏ん張って抵抗する彼女を、半ば引きずるようにして進もうとする。
「アラン様! アラン様!」
アランを呼ぶジゼルに、男の一人が弓を向けた。
躊躇なく矢を放つ。
自分に向けられた矢にジゼルは悲鳴を上げたが、矢は見えない結界に阻まれて砕け散った。
ジゼルの無事にほっとしたのもつかの間、再び手を引っ張られた。
「やめて!」
聞き届けられるとは思わずに、それでも叫んだ言葉に、突然拘束が解かれた。
よろめきながら振り返ると、クレアを捕らえていた男に妖精が群がっていた。森の方からやってくる数多の妖精達が、他の男達にも集まっていく。そして、その妖精達と共に、先程は幻と消えてしまった彼の姿が現れた。
アランは腰に括り付けていた袋をちぎり取り、クレアから少し離れたところにいる男達に向かって投げつけた。小さな爆発音と共に煙が立ち込める。そして自分とクレアの間にいた男に向かって剣で斬り付けた。横から向かってきた男を剣で煙の中へと押し返し、クレアの元へと走り寄る。
「屋敷の――」
アランが言い終わる前に、屋敷に向かって一筋の閃光が走った。あっと思う間もなく、ガラスが割れるような音と突風が襲ってくる。アランに強く押し倒され、地面に背中を打ったクレアにアランが覆い被さった。
地を揺るがすような爆音と熱風に、クレアは思わず目を閉じた。アランの体に遮られていないスカートの裾が強くはためく。周囲に大小様々な破片が転がった。
アランは身を起こし、クレアを見た。空色の瞳が、いつになく緊張と焦りに染まっている。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です」
安堵の色が浮かんだが、それも一瞬だった。アランは引っ張り上げるようにしてクレアを立たせ、その背中を押す。
「森へ! 走って!」
「は、はい!」
有無を言わさぬ気迫に、クレアは懸命に走り出した。背後で剣を交える音が聞こえる。振り向きたい欲望を押し留めて、クレアは全速力で駆けた。
自分が荒く息を吐く音、屋敷が燃える音、草を踏む音、斬撃の音。心臓は休む間もなく、頭は次々起こる出来事を処理できずに考えることを放棄している。
森の入口に辿り着いたクレアは、振り向き、後からやってくるアランの姿を見た。抜き身の剣を手に走ってくる。
「もっと奥へ!」
アランの言葉に従おうとし――クレアは、彼の背後で動くものに気付いた。
矢がアランの背を狙っている。
「アラン様! 後ろに!」
彼が振り向く。
腰に下げた、先程投げたものと同じ袋を手にする。だが、弓弦が鳴る方が速かった。
外れるようにと祈ったが、クレアの耳に、矢が刺さる嫌な音が届いた。アランの体から一瞬、力が抜ける。矢より遅れて投げられた袋は、射手を含めて周囲を煙で包み込んだ。
クレアは、自分の喉から絞り出される悲鳴に気付かなかった。がくがくと膝が笑う。
そんなクレアに向き直ったアランの瞳は、彼女のものよりひどく冷静だった。
「早く!」
正気に戻ったクレアは再び走り出したが、先程と比べてあまり速くはなかった。森の中では木の根や丈の長い草に足を取られる上、どうしても後ろが気になるのだ。自分と同じようにアランが草を掻き分ける音を聞き逃すまいとしながら、クレアはとにかく前へ前へと進んだ。目的地など分からないが、妖精が淡い光を放ちながら暗い森の中を先導してくれる。
日常生活が送れるようになったものの、クレアの体は回復してからまだ間もない。すぐに脇腹が痛みだした。もつれそうになる足を精一杯前に出し続ける。
終わりの見えない苦痛に耐えて進んでいると、後方で重いものが地に落ちる音がした。
前を向けと注意されるのを承知で、クレアは振り返った。
「アラン様!」
堪え切れず、クレアは来た道を戻り、倒れ込んでいるアランに駆け寄った。彼のそばに膝をつく。
うつ伏せに倒れていたアランは、手をついて立ち上がろうとする。だが、力が入らないのか途中でくずおれた。次は起き上がることを放棄したようで、彼は仰向けにどさりと転がった。
右脇腹から下半身にかけて、衣服が赤く染まっていた。それとは反対に、顔は血の気がなく真っ青だ。
刺さった矢は既に抜いたらしく、そこから血が流れ続けていた。
(矢を一本受けただけには見えない)
直感的なその考えは当たっていたようで、肩に止まった妖精が傷口を覗き込むようにして言った。
『魔法の矢か。この深さまで入り込んでいると……ご愁傷様』
「そ、そんなの、まだ……っ」
不吉な言葉を振り払おうと首を振る。肩にいた妖精が逃げるように宙に浮かんだ。
「と、とにかく止血を――」
そのために服を裂こうとしたクレアの手に、アランの手が重ねられた。見逃してしまいそうなほど僅かに首を振っている。
アランは空いた方の手でベルトのバックルを外し、ベルトを抜こうとした。
「……剣を」
荒い呼吸の間の、掠れた声だった。その言葉に従い、鞘に納まっている剣を引っ張る。妖精が手伝ってくれたこともあり、剣はベルトごとアランから外れた。
「その……宝玉が」
「これですか?」
剣の柄頭にある白濁した宝玉を指差すと、アランは小さくうなずいた。
「水晶玉の、ように、魔力を……王女に、場所が……」
「王女様に、この場所が伝わるのですね?」
早速魔力を込めようとしたところ、アランの手が剣の柄を押した。まるで、クレアにそれを押し付けるようだった。
「もっと、遠くに、離れてから……」
「なぜです!? アラン様の怪我を考えれば、一刻も早く――」
「魔法の矢の、痕跡から、追跡されます」
彼は、クレアに一人で行けと言っているのだ。
ここに彼一人で留まって、生き延びられる可能性など無に等しい。たとえ僅かだとしても、クレアがここにいた方がまだ可能性がある。だが、二人揃って死ぬか、クレアが捕まる可能性も大きくなる。
アランは自身の可能性を捨てて、クレアを逃がそうとしている。
可能性の大きさを秤にかけた結果かもしれない。彼に与えられた任務だからかもしれない。そもそも優しい人だからかもしれない。
妖精もアランの選択に賛成しているようで、クレアを動かそうと髪や服を引っ張っていた。
芽吹きの乙女とは、まるで死神のようだ。
こんな娘を産んだせいで、恐らく母は殺された。
一時の繁栄と引き換えに、帝国は凄惨な滅びの道を歩んだ。
アランやジゼルも、クレア一人いなければ、こんなことに巻き込まれずに済んだのだ。
クレアの瞳から、涙が零れた。
「私一人、逃げたって……誰も、幸せには」
生き延びた先にあるのは、魔力を求めての争いだけだ。
彼を見捨ててそれを選ぶなんて、クレアは絶対にしたくなかった。己が確実に生き残る道よりも、どんなに望みがなくとも、彼が生きるためにできる限りのことをする道を選びたい。
クレアは剣の柄を握り直した。あの時、自分を鎖から解き放ってくれたものだ。
その刃で、今度は自分のスカートの裾を切り裂いた。破れたところに手をかけ、裂け目を大きくしていく。涙のせいか、先程零した聖水のせいか、スカートは少し湿っていた。
「何、を」
涙が止まらない。泣き叫びたいのを堪えるかわりに、嗚咽が漏れた。
裂き終えたスカートを傷口にあて、体重をかけて押さえつける。痛みにアランが呻いた。
こんな処置でいいのかと不安に怯えながらも、無我夢中だった。
「やめ――」
「嫌です! 私が生きて、アラン様が死ぬなんて、間違ってます! アラン様を、お慕いしている人は、きっと、たくさん――」
喉の奥がぎゅっと詰まり、涙が勢いを増した。視界が悪い。
傷口からは、クレアに抵抗するように血が溢れ続けていた。これが魔法の力なのだろう。
魔力があっても、クレアは魔法が全く使えない。目の前の、彼を蝕んでいる魔法に歯が立たない。そんな自分に嫌気がさした。
「我儘、ですが」
アランの手が、クレアの手首を掴んで傷口から遠ざけようとした。冷たく、ぶるぶると震え、あまり力が入っていなかった。
「愛した人には、生きて、幸せになって、ほしいのです」
風の音で吹き飛ばされそうな声だった。
大粒の涙が零れていって、幾分くっきりした視界に彼の顔が映る。血の通わなくなった冷めた色の中で、瞳だけがきらきらと輝いていた。
「どうして」
頭も心も、処理しきれずにぐちゃぐちゃだった。
きっとひどいことになっているクレアの顔を、アランは微笑んで見つめ返していた。
妖精達がずっと、服や髪を引っ張っている。
どこかで、男達の声がする。
がさがさと草を踏み分ける音がする。
クレアの手首から、彼の手がずるりと落ちた。
瞼がゆっくりと下りていく。
「ま、待って――」
それが我儘だというのなら、クレアの我儘こそ聞いてほしかった。
「アラン様こそ、生きてください! 私だって、愛した人に幸せになってほしい……私の、魔力も、命も、全て差し上げますから――!」
突然手首を引かれ、クレアは言葉を飲み込んだ。
一体どこに残っていたのかと思うほど強い力で引かれ、アランと位置が入れ替わる。
上体を起こしたアランは、落ちていた剣を拾い上げ、そのままクレアの背後に迫っていた男を薙ぎ払った。
だが、さすがに致命傷には程遠かった。
相手は次の動作に移れないアランに向かって、剣を振り下ろした。
まだ体内に残っていた彼の血が飛沫になってクレアにかかる。
アランの体が、力なく地に落ちた。
茫然とするクレアをよそに、二人ほど男が合流し、三人で暢気に喋り出した。
「どうだ?」
「女はどうする?」
「可能であれば連れてこいという話だが……」
三人の内の一人が近付いてくる気配に、クレアは茫然としたまま顔を上げた。
アランの従兄であるローガンだった。クレアとの間に横たわるアランの体を足で小突く。
クレア一人ではろくに抵抗できないと思ってか――実際、そのとおりなのだが――すっかり気の抜けた表情で、座り込む彼女を見下ろした。
「芽吹きの乙女とやら。我々の主は、あなたを厚遇するとおっしゃっている。大人しくしていただこう」
「嫌です」
その言葉の、一体どこを信じろと言うのだろう。
いくらクレアが騙されやすい人間とはいえ、さすがに、欠片も信用できなかった。
「人の体を蹴るような者の言葉など、私は信じません」
「人? これが? これは骸と言うのですよ」
鼻で笑ったローガンは、先程より強くアランを蹴り飛ばした。
「やめて!」
たまらず、されるがままになっているその体に覆いかぶさる。
先程まで荒い息を吐き上下していた胸が静まり返っているその体に触れて、止まっていた涙が再び溢れ出した。
本当に骸なのだろうか。
今朝は、いつものように挨拶を交わしたのに。
雪遊びに熱中した日々も、馬車に乗るのに差し出してくれた手も、打ち捨てられた自分を見下ろして涙を零したあの空色の瞳も、もう望めないのだろうか。
男達は何やら相談していたが、クレアにはどうでもいいことだった。今の彼女の望みなど、たった一つしかない。
『何を望んでいるの?』
幻聴だろうか。
耳元で囁かれた声は、クレアの心情にも、この場にもそぐわない無邪気な声色だった。
「……どこでもいいの。アラン様と、一緒にいたい」
ここに未練などない。彼が死者の国へ旅立ったというのであれば、自分もついていきたかった。
それがたとえ、彼の望みではなかったとしても。
パシン、と何かが割れる音を聞いた。
その音に顔を上げようとしたところ、強い風に吹かれて目を閉じる。森の中だというのに、身動き一つとれないほどの強風だった。うねるように、渦を巻くように荒れ狂っているのを肌に感じる。木々のしなる音で満たされた中に、僅かに男達の声が混じっていたが、何を言っているかまでは聞き取れなかった。
不思議なことに、風の影響を受けないはずの自分が踏みしめている草までもがうねうねと動いている。
クレアは、アランの体にしがみつくようにしてひたすら耐えた。
だが、その内しがみつくのも困難になった。
全身が風に包まれ、宙に浮く。片手だけでもと必死で彼の服を掴む。
耳元で――風の音より近いところで、悪戯っぽく笑う妖精の声を聞いた。
やがて風は鋭さをなくし、絹のように滑らかで柔らかなものに変わっていった。
ふわふわと飛んでいるようだった体が降りてきて、草にしてはごつごつとした、木の根ででこぼこした地面にしては柔らかで温かいものの上に降りた。
「クレア殿」
心地良いその声に、クレアは恐る恐る瞼を上げた。
目の前に、服を固く握りしめている自身の手があった。
ゆっくりと視線を上げていく。
見上げた先にあったのは、穏やかな光をたたえた空色の瞳だった。
「……死者の国に、着いたのですか?」
アランは可笑しそうに目を細めた。
「ここが死者の国なら、随分と居心地が良さそうだ」
アランの手が、彼の服を掴んだままだったクレアの手を優しく外す。そうされてようやく、クレアは自分がどこにいるのか気が付いた。
座っている彼の膝の上にいたのだ。
驚きすぎて声も出せないまま、クレアは慌てて膝から降りた。顔から火が出そうだ。
「私も事態を把握していないのです。正直、自分の生は終わったものだとばかり……ですが、今感じた重みは生きた者のそれだと思うのです――あ、重かったというわけではなく」
アランが周囲を見回したので、クレアもつられて周りを見た。
木の枝のようなものと、小さな水色の花を咲かせた蔓草で球状に覆われており、隙間から光が差し込んでいた。
アランが立ち上がる。彼が立って、ぎりぎり頭が届かない程度の高さだった。
「ア、アラン様、動かれては傷が――」
慌てた様子のクレアを見て、アランは目を丸くした後、朗らかに笑った。もう一度見たいと思っていたその笑みに、胸が締め付けられる。
「不思議なことに、傷跡すらないのです。流したはずの血も見当たりませんし」
彼の言うとおり、血に染まったはずの服は洗い立てのようだった。
クレアは立ち上がり、彼へと近付いていった。
彼の服は、矢や剣で切り裂かれたのはそのままになっている。開いたところから、傷のないきれいな肌が覗いていた。
思わず手を伸ばし、触れそうになったところで慌てて手を引っ込めた。いくらなんでも、断りもなく触れるのは失礼だ。
「クレア殿こそ、どこか痛むところはありませんか?」
「私はどこも……アラン様、あの……申し訳ありません。私のせいで痛い思いを……」
「自分で選んだ結果です。それに、実力があれば防げたことですし……こちらこそ、ご心配をおかけして」
クレアは首を振った。
考えても、彼に非など見当たらなかった。クレアがもっと早く逃げていれば。矢に気付けば。結界から出なければ――どこまでさかのぼっても、クレア自身の浅慮が引き起こしたとしか考えられなかった。
泣いて許してもらおうなどとは考えていないのに、勝手に涙が溢れてきた。
慌ててアランに背を向ける。
気持ちを静めようと、クレアは自分達を包み込んでいる木の枝と枝の間を覗き見、そして目を見張った。
彼女の隣にやってきたアランも、同じように外を見遣る。
「これは……壮観ですね」
どうやら、二人は少し高いところにいるらしい。
森の木々の頂のすぐ上にいるようで、新緑が大地のように広がっている。そして森が終わったところから遠くに見える王城とその先まで、一面に水色の花が咲き乱れ、その花弁を風に舞わせていた。
まるで、大地に春の空が映っているかのようだ。
「綺麗……」
「本当ですね。一体何が起こったのかは想像もつきませんが……クレア殿?」
「はい」
「首輪は……?」
その時はじめて、クレアは自分の胸元にあったものがなくなっているのに気付いた。
長い年月そこに居座っていた重みが消えたことに、不思議な感情がじわじわと湧き上がってくる。
首輪は、帝国が自由に魔力を使用できるよう、普段は魔力を押し留めていた。それがないということは、今、クレアの魔力は何にせき止められることもなく溢れている。そしてその魔力が、アランを救ったのだ。
クレアは、喜びで頬が上気するのが分かった。
「それでは、私の傷を癒してくださったのも、クレア殿なのですね」
何もなくなった首元から顔を上げると、彼女と同じように喜びを滲ませているアランと目が合った。
「私……初めて、この力を授かって良かったと思いました」
そもそも争いの火種である力だが、一つでも、人の役に立てたのだ。誰かを苦しめるためではない使い方ができた。
「もしかして、あの花畑もクレア殿の力でしょうか」
「そう……だと、思います」
「水色がお好きなのですか?」
自分の力で花が咲いたのならば、なぜ水色ばかりなのか。クレアにはその心当たりがあった。
言葉を濁そうかどうかと逡巡する。だが、先程伝えたばかりだったのを思い出し、彼女は素直になる決意をした。
「アラン様の、瞳の色……アラン様が、好きなのです」
彼の優しさが滲む、その瞳が好きなのだ。
喜びではないもので、頬が紅潮するのを感じる。
「あの……あの時の言葉は、信じても……?」
勇気が足りず、思わず声が小さくなってしまった。
彼が嘘をつくとは考えていないが、状況が状況だっただけに、普通に受け止めてもよいものか分からないのだ。
ただ、クレアの方も勢いに任せて口走ってしまったため、真っ直ぐに彼の目を見るのが恐かった。
「あ、あれはですね……もちろん嘘ではありませんが、その」
恐る恐る、クレアは彼の顔へと視線を向けた。その耳が赤くなっているのに気付き、頬にさらに熱が集まる。
「お伝えして果たして良かったのかという懸念はあるのですが……まぁ、口から出てしまったものは取り消せませんし、真実を否定するわけにもいきませんし……あの、私は正直、上手いことは言えないのですが」
見上げた先にある空色の瞳は、緊張と熱を孕んでいるように見えた。
「あなたに、触れてもいいでしょうか」
視線で熱がうつるはずはないのに、クレアは頬が限界まで熱くなっているように感じた。絞り出した返事は、小さすぎて自分でもよく聞こえない。
だが、どうやら彼には届いたようだ。
髪を耳にかけようとしたクレアの手を、アランの手がそっと攫っていく。
その体温にどきりとしている内に、一歩距離を詰められた。
心臓が早鐘のようだ。ほんの少し先の未来が、待ち遠しいような、少し恐いような心持ちで、緊張するのに心地良くもある。
精一杯の意思表示として、自ら顎を上げた。
頭上に来たアランの頭で差し込む光が遮られ、視界が暗くなる。それにつられるように目を閉じた。
そっと、優しく微かに触れ合った唇から、全身へと幸福感が広がっていく。
心に残っていた無力感や悲しみが、溶け合って混ざり合い、分からなくなっていく。
もっと考えなければならないことがあるはずなのに、全て押し流されてしまいそうだった。
どれほどの時間が経っただろうか。一瞬だったようにも思う。
触れる時と同じように優しく離れていった唇を追うように、クレアは目を開けた。
目の前にある照れ臭そうな顔に、クレアもつられて笑みを零した。
◇◇◇◇
今日の仕事を終えたアランは、セレスティア王女の居室へ向け、一人城の中を歩いていた。
襲撃の後、セレスティア王女は幾度となくクレアを診ていた。
あの時――クレアの首輪が外れた時――驚いたことに、彼女の内にあった魔力の全てが流れ出てしまったらしい。アランを癒し、周囲を空色の花で埋め尽くしたのと引き換えに、クレアの中にあった魔力の泉は枯れてしまったのだ。
異変がないかと念のために診てくれているが、幸いにも、魔力が復活する気配はなかった。
なぜクレアの首輪が外れたのか、はっきりした原因は分かっていない。ただ、クレアが聞いたという幻聴から、セレスティア王女は妖精の仕業ではないかと推測していた。
幻聴以外にも、それを疑う理由はある。クレアを攫おうとしたローガン達は命に別状はなかったが、何かしらの傷を負ってしまったからだ。ローガンは両足が動かなくなり、他の者も、目が見えなくなった者、手が動かなくなった者など、症状は様々だが無傷ではない。芽吹きの乙女の魔力は、その名のとおり生命を育むものなので、外からの働きかけがなければそのようなことにはならないらしい。
妖精達は、森で暮らし始めた当初からクレアを好いていた。その上、ローガン達が屋敷に放った火が森の一部を焼いてしまったため、妖精の怒りに触れたのでは、と考えられていた。
ローガンはもちろん、捕らえられた他の者達も、皆ダミアン王子の近衛騎士だ。騎士としての力を実質失った上、命は残ってしまったので厳しい取り調べを受けた。彼らにとっては屈辱だろう。
ダミアン王子は、芽吹きの乙女の誘拐を、それが不可能ならば抹殺をと命じていたらしい。本人は認めていないが、王座が遠のいたことは間違いない。
部屋の前で待っていると、用事を済ませたクレアが出てきた。
はにかんだ彼女につられて、アランも笑みを浮かべる。
「良い天気ですし、庭を通っていきましょうか」
アランの誘いにうなずいた彼女の手を取り、二人は庭へと足を踏み入れた。
紅葉の美しい景色が広がっている。クレアが咲かせた水色の花々は、既にその花弁を散らし終わっていた。
「いかがでしたか?」
「セレスティア様のお話では、今後、魔力が甦ることはないだろうと。これで、心置きなくジゼルさんの指導を受けられます」
クレアは悪戯っぽく笑った。
ジゼルは幸いなことに掠り傷一つなく、アランの実家に戻ってその腕を振るっている。
クレアも魔力の件が片付けば、同じ屋敷で住むことになっていた。知り合いであるジゼルがいるのは心強いことだろう。
ただ、使用人としてではない。伴侶としてだ。
アランは一つ深呼吸して、ポケットに入れていた小箱を取り出した。
「あの……先日選んでもらった宝石で、指輪ができたのですが」
慎重に小箱の蓋を開くと、小さな宝石がはまった指輪が中に納まっていた。
婚姻を結ぶにあたって贈るにしては、いささか慎ましいものだ。「身一つで嫁ぐのですから」とクレアは主張したが、淡い色であることも相まって煌びやかさからは程遠かった。
「とても綺麗……本当に、ありがとうございます」
頬を染めてはにかむ彼女の手を取り、細い指に指輪を通す。ただそれだけのことなのに、とても満ち足りた気分だった。
彼女が、自分にとって特別な人なのだという証だ。透き通った水色の煌めきは主張こそ大人しいが、確かにそこに存在している。
「アラン様の瞳が恋しくなった時は、これでどうにか乗り越えられそうです」
「指輪が必要ないほどに、傍にいたいものです」
「それでは、お勤めに支障が出てしまいます」
「……森番だった頃が、少し恋しいですね」
「でも、近衛騎士をしていらっしゃるアラン様も、とても素敵だと思います」
アランを見上げて微笑んだクレアの若葉色の瞳は、生き生きと輝いていた。
不意に、初めて彼女と出会った時の光景が脳裏を掠め、アランは胸が締め付けられるように感じた。
一緒に幸せになりたい。そのための道に立てたという喜びと共に、微かな重圧もある。だが、この場所から降りる気も、誰かに譲る気も欠片もなかった。
芽吹いた気持ちは、溢れるばかりで枯れる気配は一向になかったのだから。
「ずっと。どうか、私の隣にいてください」
指輪のはまった手に口付ける。
そうして顔を上げて、鮮やかに染まった彼女の顔に、笑みを返した。