2章 律-3 夜明けのコーヒーの相手は
最終電車に滑り込み、どうにかマンションへ帰ることができた。
エレベーターで急に睡魔が下りてきて、暗い部屋に着くとそのままリビングのソファへダイブして目を閉じた。
目を覚ますと部屋にはすっかり朝の光が差し込んでいて、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。
夜勤明けの颯太が「お帰り」と修司にカップを差し出した。彼が居るということは、もう七時過ぎだ。
掛けられていたタオルケットを剥いで、湯気の立つコーヒーを少しずつ口に入れると、強めの苦みにゆっくり頭が覚めてきて、昨夜のことが蘇ってきた。
「もう少しで炊けるから、そしたら飯にしようぜ」
込み上げてきた欠伸をゆったりと吐き出して、修司はカップ片手にベランダへ出た。
ゴールデンウィークには有り難い絶好の青空は、今の修司にはやたら眩しく感じられる。
古いアパートで過ごした、ほんの数時間の微睡んだ記憶は夢だったんじゃないかという錯覚。本当に自分はあそこに居たのだろうか。
律とのことが現実であった証拠と言えば、ポケットに押し込んだ一枚の紙だけだった。
けれど電話しようかと伸びた手は、ポケットの縁をかすめてそのまま下へ落ちた。確認することじゃない。あそこに居たのは現実だ。
「夜明けのコーヒーが彼女とじゃなくて残念だったな」
修司を追ってベランダに出た颯太が、横に並んでコーヒーをすする。
「何訳の分かんないこと言ってんだよ」
修司を覗き込んで、ニヤリと笑う颯太。
「いい匂いがすると思ってな。女の部屋にでも居たんだろ」
コーヒーを吹きそうになるのを堪えて、修司は胸元を拳でトントンと叩いた。
腕をそっと嗅いでみるが、自分では良く分からない。流石颯太だと感心さえしてしまう。
「わかりやすっ。まぁ、高三なんだからコソコソするもんでもねぇよ。けど、女は怖いからな? 責任取ってやれる相手だけにしとけよ?」
「責任、って。伯父さんこそ、若い頃はそういうことしてたんじゃないの?」
「俺はそんな華々しい学生生活送っちゃいねぇよ。婆さんの後継ぐのに必死で勉強してたしな」
颯太の過去を詳しく聞いたことはないが、どうせまた自分はそのつもりがないのに、実際はモテまくっていたというパターンなのだろう。
ふと脳裏に浮かんだ律の笑顔。
「修司くん」と呼ぶ甘い声を思い出すと、記憶を一気に彩るように、あのアパートが蘇ってくる。ビルに挟まれた窮屈な窓に、木の壁。六畳一間の小さな間取りに二人で居たのだ。
ここから見渡す風景は、そのどれもがあそことは掛け離れている。
「そこのマンションがずっと邪魔だなって思ってたけど、これは広い風景だったんだね」
道を挟んだ向かい側。ど真ん中に建つ存在感のありすぎるマンションが風景を阻んでいる。距離がある分窮屈さはそこまで感じなかったが、これがなければ向こうに臨むスカイツリーが見えるのにと思っていた。
けれど、世の中には窓の一メートル先に壁がある部屋もあるのだ。
「まぁまぁだろ? ここは」
疲れ顔の颯太に「うん」と頷いて、修司は「あのさ」と律の話を切り出した。
「昨日、町で偶然女の人に会ったんだけど、その人バスクだったんだよね」
「また? 前にもキーダーの女に会ったんだよな? 都会はやっぱり侮れねぇな」
美弦の時とは明らかに違う反応に、修司は「マズかったかな?」と首を傾げた。
「いや」と苦笑して、颯太は深く息を吐き出す。
「また女子とは華やかな話だけど、そろそろ真面目に身の振り方を考えておいた方がいいかもな。お前はこれからどうしたい? 決めてあるか?」
フェンスに掛けていた腕を離し、颯太は「分かってるだろ?」と修司に向き合った。
「俺はまだ、このままがいいよ。その人の所に、もう一人バスクがいるって言うんだ」
何もしない宙ぶらりん状態が二年も過ぎて、自分の気持ちは良く分かっていた。
バスクとして生きてきた今までを自ら覆してまで、キーダーとしての運命を選ぶ覚悟がないのだ。心のどこかで誰かが無理矢理にでもキーダーにしてくれたらと思っていた。
先に美弦や平野に声を掛けられていたら、迷わずキーダーを受け入れていただろう。それなのに、自分へ先に手を伸ばしてくれたのが律だったのだ。
「そうか」と俯いて、颯太は側のベンチに腰を下ろし、自分の横へ修司を呼んだ。
「ホルスって知ってるか?」
初めて聞く単語ではなかった。昔読んだ漫画のキャラクターにそんなのが居たのだが、きっと関係はないのだろうと思いながら「神様の名前?」と、キャラクターの出所が神話だったことを思い出して呟くと、颯太は「そうだそうだ」と同意してくれた。
「大層な名前だよな。いいか、今から言うホルスは、まぁ簡単に言っちまえばアルガスの敵だ」
「アルガスの敵? ってことはバスク……とは違うの?」
「単体じゃなくて、組織の名前。情報が少なすぎてハッキリとは分からないんだが、仕切ってるのはノーマルらしい。厄介なことになった後じゃ遅いからな。一応覚えとけ」
能力を国に管理されているのがキーダー。キーダーになることをやめて能力を放棄した人はトール。能力があるのに、国の管理を逃れて秘密裏に生きているのがバスクだ。
そして、そのどれにも当てはまらない大多数――能力を持たない一般人の事を『ノーマル』と呼ぶ。
「隕石事件で英雄視されたキーダーは、今のこの国じゃ花形だ。努力で掴み取った力でもなく、宝くじみたいにランダムときちゃあ妬むやつも多いだろう?」
颯太の話に、「ふざけるな」と怒鳴った美弦の言葉が重く感じられた。
「そのホルスの連中が、バスクの力を狙ってるって話よ」
「バスクを戦力にしたいって事? それじゃ国とキーダーの関係と変わらないじゃないか」
「そういう事だ。だから、すんなりバスクが集まるとも思えないんだけどな」
国に縛られるのが嫌でバスクを選んだ人間が、ホルスなんて訳の分からない奴等のために力を使うのだろうか。
「大晦日の白雪や、二年前のアルガス襲撃もバスクじゃなくてホルスなのかな?」
「俺はその可能性もあると思ってる。国がどう事後報告した所で、真実を知るのは中の奴等だけだからな。お前も怪しい輩には気をつけろよ?」
命を懸ける覚悟ができずキーダーになることを遠ざけていたが、バスクだから平和で居られるわけでもないようだ。
「伯父さんはどう思う? 俺はキーダーになった方がいいのかな?」
「いずれホルスみたいのが出て来るんだろうとは思ってたけど、このタイミングで知ることになるなんてな。お前の力は国を乗っ取ろうなんて勢力に加担するためのものじゃない。ホルスなんかになるくらいなら、キーダーやトールの方がって思っちまうよな」
「でもトールになったら、もう戻れないんだよね。少し考えてもいい?」
ここに来て素直にトールになることを選べない自分がいる。トールになって力を消せば、誰かの為に戦ったり命を狙われる心配などはない。それを一番望んでいるはずなのに、今まで隠してきたことが全て無駄になってしまう気がして、力を惜しいとさえ思ってしまうのだ。
「もちろんだ。それと修司、昨夜の女性はどうだった? 変な勧誘されなかったか?」
「女性、って律さん? 彼女はそんなんじゃないよ」
「律って言うのか。疑ってるわけじゃないが、そういう事もあり得るってことだ」
彼女が国を相手に戦おうだなんて想像すらできない。彼女はキーダーに狙われていたのだ。そんな機関の人間なら、キーダーも簡単に取り逃がしたりはしないのではないか。
彼女を疑われたことに苛立って修司が膨れっ面を向けると、颯太は「悪い悪い」と手を合わせた。
頭上にプロペラ音が鳴った。
仰いだ空の眩しさに右手をかざすと、銀色の機体が海の方角へと横切っていく。
「ねぇ伯父さん、昔のアルガス解放の時、アルガスを恨んでトールになったキーダーがたくさんいたって話だろ? そういう人たちもそのホルスに係わってるのかな」
小さくなっていく機影に、見たことのない隕石の軌道を重ねる。
颯太は両手で日差しを遮りながら「ありゃあ、アルガスのヘリだな」と呟いた。各施設に一機ずつあるというヘリコプターを目撃することは、珍しい事ではなかった。初めこそ『バスクだってバレたらどうしよう』と警戒したものだが、どうやらこの距離では感じ取ることはできないようだ。
「恨むって言ってもそいつらに力はないし、三十年以上も前の話だからな。みんなもうオッサンだぜ? ちょっと物事を始めるには遅いんじゃねぇのか?」
アルガス解放なんて言葉はたまに耳にするが、修司にとっては生まれる前の事など大昔の話だった。
解放前の日本で力を持って生まれた人間は、十五歳でアルガスに入ったまま世間から隔離されていたのだ。力を持って生まれたこと自体が禁忌と恐れられ、トールへの変換も許されなかった時代、キーダーは死ぬまでそこで暮らすことを余儀なくされていた。
しかしそんな状況を覆したのが、今では英雄と呼ばれる大舎卿だ。
隕石から人々を救った大きな功績をきっかけに、キーダーには『国の盾』として日本を守る役割が与えられたのだ。