2章 律-2 彼女の場所と俺の場所
炊き立ての甘いご飯の匂いが広がって、律は「ちょっと暑いね」と十センチ程窓を開けた。
カーテンの切れ目から覗く外の風景は暗くて全然見えなかったが、隣のビルの壁があるのだろうと思うと無性に息苦しさを感じてしまう。それでも吹き込んで来た少し寒いくらいの風は、修司のもやもやとした気持ちをスッキリとリセットしてくれた。
律は「もう、お腹ペコペコ」と横で洗ったカップに作り置きの麦茶を注ぎ、二人がテーブルに着いたタイミングで、「いただきます」とおにぎりへ手を伸ばした。
「美味しい。男の子なのに凄いね、修司くん」
「一緒に住んでる伯父が忙しい人なんで、家事は一通りやりますよ」
「偉い!」と褒めて、律はあっという間に一つ目を完食し、二つ目を食べ始めた。
「でも誰かの為に作って喜んで食べてもらえるのは、作り甲斐がありますね」
家事をすることは苦ではなかった。体の弱かった母親が、小さい頃から家の仕事を一通り教えてくれて、颯太と住み始めた時には「彼女と同棲してるみたいだな」と喜ばれたものだ。
「律さんは一人でここに居るんですか?」
「そうよ。でも、少し前に会ったバスクの人がたまに来てくれるの」
「えっ! 他にもバスクがいるんですか?」
窓の外を警戒して、しかし精一杯の声で修司は声を上げた。
東京に来て二年間何の出会いもなく、ようやく今日律と知り合えたところで、更にもう一人いるというのか。
「仲間じゃなくて、同志って言うのかな。ここに来れば、そのうち会えると思うわ」
「バスクって、結構いるものなんですか?」
「そんなことはないと思うよ? 国が管理してるキーダーより全然少ないと思うし。日本全国でその位なんだから、出会えるのは運命みたいなものじゃない?」
今の日本で、アルガスの管理下にあるキーダーは二十人程だという。
「修司くんとあそこで会えたのは本当に偶然。でも力を隠すのは苦手? 隙ありすぎよ」
平野と居た五年間で習ったことは三つだ。撃つ事、操る事、そして消す事。
「まぁ基本だな」と平野は得意気に言っていたものだが、その中でも重要な『気配を消すこと』が修司はあまり得意ではなかった。さっき彼女とぶつかった時のように、ふとした弾みで抑えていたものが緩んでしまう。これで良く今まで捕まらなかったと自分でも不思議なくらいだ。
「律さんはどうして追われているんですか?」
「そりゃバスクだからね。捕まえるのが仕事のキーダーに顔が割れちゃってるから」
「それでも、捕まらないのは凄いですね。戦うこともあるんですか?」
「ううん、脚には自信があるのよ。逃げてばっかりいるから、まだちゃんと戦ったことはないの」
言われてみれば、と修司は玄関に目をやった。フワフワのロングスカートにはサンダルやヒールでも合わせそうなものだが、彼女が履いていたものは白色のスニーカーだ。
「いい? 修司くん。どっちが先に敵に気付けるかで勝敗が決まる。バスクで居たいと思うなら、どんな手段を使っても逃げなきゃ。もし戦闘になったとして、修司くんは戦う事ができる?」
「そんなに」と言葉を濁して修司は首を横に傾けた。一通りの基本は平野に習ったつもりだが、動力系の力が覚醒して間もない修司には、ほぼ座学のようなものだったのだ。
「そっか。使う必要がないのが理想だけど、戦えるようにしておいた方がいいかもね。ある程度まで高めておけば、銀環付きのキーダーに負けることはないと思う――でもさっきみたいな一般人が多い場所は駄目よ? 関係ない人を巻き込んじゃダメ」
フワリとしたイメージを逆らって、律は強い目を見せる。
膨大な力を恐れた国が、銀環でキーダーの力を半減させているという。けれど、颯太はキーダーを相手に戦う事を否定した。
「国やアルガスは、向こうが善でこっちが悪だと思ってる。それって、自分の都合に合わせて動く駒がいいって言ってるだけでしょ? 銀環を付けると力が半分になるっていうしね。枷を付けて縛ろうなんて奴隷になれってことじゃない? 私はそんなのに屈するのは絶対に嫌」
厳しい表情で言い切って、律はまだ手を付けていなかった麦茶を一気にごくごくと飲み干す。
彼女の意見は、颯太や平野から聞かされていたバスクそのものだった。バスクがキーダーになるのを嫌がる最大の理由が『銀環を付ける』ということらしい。
「ここにはまたいつでも来ていいからね」
平野の所に居たように、今度はここが自分の場所なのかなと漠然と思った。
一人でバスクとして生きるには、まだ足りないものが多すぎる。母親が家事を教え込んでくれたように、一人で生きる力を付けなければならない。
そして彼女と居ればまた美弦に会えるだろうか。捕まりたいわけではないが、チャンスがあれば話がしたいと淡い期待を抱いてしまう。
美弦の事を考えていると、律が突然「あっ」と声を上げた。何事だろうと彼女の見上げた先へ顔を向けると、時計の針が十二時を回っていた。恐らく終電ギリギリだ。
「ごめん、こんなに遅くさせちゃって。良かったら泊まってく?」
そう言われて少しだけ考えてしまった。けれど、首を縦に振ることはできなかった。彼女にしてみれば深い意味などないのだろうが、この初めての空間で平常心を保っていられる感じがしなかったのと、自分一人がそんなことを考えてしまうことが恥ずかしくてたまらなかった。
「片付けられなくてすみません、帰ります」
慌てて立ち上がる修司に、律は棚から小さなノートを取り出して、急いでペンを滑らせた。
「これ、私の番号だから。いつでも連絡して」
ビリっと破られた紙に書かれていたのは、携帯電話の番号だった。差し出された紙をポケットの奥に突っ込んで、修司は靴を履きつつ頭を下げた。
「ごちそうさま」と片手を小さく振った彼女の笑顔に後ろ髪をひかれつつ、修司は駅までの数百メートルを全力でダッシュした。