2章 律-1 彼女の部屋はオレンジ色で
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大型連休の酒場はどこも盛況で、今はちょうど一次会を終えた集団がぞろぞろと店から出て来る時間だった。
足首まである長いスカートをものともしない足取りで、沸いた人々の間を颯爽とすり抜けていく彼女は、走り出してすぐに自分の名前は『律』だと教えてくれた。
やっと彼女に追いついたところで修司が来た方角を一瞥すると、美弦たちの姿は見えなくなっていた。
「そろそろ大丈夫だと思うけど。でも、もう少し走りましょう」
後ろを何度も振り向く修司の手を握り、律は「頑張って」と微笑んだ。
「このまま前だけ見て走って。人が多いから、見つかっても戦闘にはならない筈だから」
握りしめた手を強く引いて、律が強引に先導する。修司の優柔不断な気持ちが彼女には筒抜けだ。
律の細い手首に銀環はなかったが、美弦の時と同じだった。「貴女はバスクなんですか」と聞かなくても、その答えを感じ取ることができる。
繁華街を抜けて、派手なトーテムポールが看板の居酒屋の並びを路地へと入った所で、律がホッとした表情を見せ、繋がれた手を解いた。
「ここよ」と足が止まり、唐突に告げられた目的地に修司は「えっ」と足をすくませる。
狭い路地の奥にある、古いアパートだった。コンクリートの低いビルに両脇をピタリと挟まれた木造二階建ては、息が詰まりそうな程窮屈に見える。
正面の共同玄関を照らす蛍光灯の明かりが、現役感を精一杯アピールしていた。
「私の家なの」と、ボロアパートには縁のなさそうな艶のある笑顔を向けられて、修司は困惑してしまった。
更に『初対面の女性の部屋に入るのか?』と要らぬ興奮が湧いてきて、躊躇いがちにアパートを見上げていると、突然バタリと玄関の扉が開き、中から大学生風の男が出てきた。
派手な絵がプリントされた黒いTシャツにジャージをはいた、コンビニにでも行くような格好だ。
律を見つけて「こんばんは」と頭を下げる彼に、『もしや仲間か?』という予感が修司の脳裏を駆け抜けていったが、
「こんばんは、隆くん」
にっこりと挨拶を返した律に、彼は照れた表情を浮かべてそのまま行ってしまった。
「隣の部屋なの」と説明する律。どうやら深い関係ではないようだ。
ここもただのアパートに過ぎない。中から流行りのアイドルの曲が聞こえて来る。
静かに流れる日常の空気に気が抜けて、修司は「どうぞ」と促されるままアパートの中へと足を踏み入れた。
外観からの想像を裏切らない、木が剝き出しの古い内装。横には八つの錆びた郵便受けが二段に並んでいて、律は上段の『安藤』の扉を開けるが、中は空だった。
オレンジ色の温かい照明に照らされる廊下。
ギシギシと軋む黒光りした階段を上って、一番奥が彼女の部屋だった。
各部屋の扉には花模様の白い擦りガラスがついていて、手前二つからは中の明かりが漏れている。
律はポケットから取り出した小さな鍵で扉の上に付いた錠前を外すと、部屋の奥へと修司を迎え入れた。
彼女と同じ甘い匂いが漂う、細い板の間が付いた六畳の和室。
キッチンと押し入れがあるだけで、風呂やトイレは見当たらない。部屋の明かりは吊り下げタイプの白い蛍光灯だが、キッチンの上にぶら下がるのは電球剥き出しのオレンジ色をした白熱球だ。
押し入れから取り出した生成りの座布団をガラステーブルの横に並べると、律は繁華街を駆け抜けた記憶をかき消してしまいそうな穏やかな笑顔で「どうぞ」と勧めてくれた。
「はい」と返事しつつ、修司は時間の流れを止めたようなその空間に立ち尽くしてしまう。
「これでも雨漏りしないだけマシなのよ。ちょっと前まで居たトコは酷かったんだから」
律は楽しそうに微笑んで、赤いやかんに火をかけた。
片手には先程地面を滑ったスマートフォン。手慣れた指使いで文字を打ち込み、「よし」と区切りをつけて冷蔵庫の上へと乗せる。
少し涼しいと感じた部屋の温度も次第に上がり、ようやく腰を下ろした修司の前にペーパーフィルターでろ過したコーヒーが置かれた。
ふわりと漂う苦い香りは保科家の朝と一緒だ。元々颯太の習慣だが、東京に引っ越してきてから修司もようやく飲めるようになった。
「修司くんブラックでいい? お砂糖もミルクも置いてないのよ。ごめんね」
初めて修司の名前を呼んで、律はテーブルの向かい側に座った。
まどろんだ彼女の視線から逃れるように、修司はもう一度部屋を見渡す。よほど抑えているのか力の気配は薄い。感じ取ろうとこちらから働かなければ逃してしまいそうな程だ。
古い家だが汚い印象はなかった。真新しい緑色のカーテンに同色の丸いセンターラグ。小さな木の棚には化粧品らしき瓶が数本と、猫のシルエットを模した時計が並んでいる。
部屋と中身の時代がちぐはぐに見えてしまうのは、コンセントに繋がったまま床に置かれたノートパソコンのせいだろうか。
壁に後付けされた棚には、フレームに入った一枚の写真が飾られていた。
今より髪が短く幼い印象の彼女と、少し年上に見える男性。照れが滲んだ満面の笑みは、二人の関係を知らない修司にさえ幸せだなと思わせる。
お兄さんと言えばそう見えるし、恋人だと言われても納得できる。けれど、明らかに過去の写真だ。
今彼女がその写真を飾る理由を考えて、修司は再び部屋へと視線を返した。
「そんなにこの部屋が珍しい? こんなに古いのはなかなかないもんね」
慌ててカップを手に取り、修司は「すみません」とコーヒーを熱いまま口に含んだ。
「いいのよ別に。でも不自由はしてないのよ? トイレもあるし、銭湯もすぐそこなんだから」
共同トイレに銭湯通いもプラスに変えてしまうポジティブさは尊敬に値する。雨漏りしていたという前の家はどんなだったんだろうと想像して、自分は無理かもしれないと目を閉じた。
「何でこんなトコに住んでまでバスクでいるのかって思ってる? キーダーになって国に保護してもらった方が良い生活できるんじゃないか、って」
律は苦笑して、細い肩をすくめて見せた。彼女の言葉の意味は良く分かっているつもりだが、「それは、違うと思います」と修司はあえて首を横に振った。キーダーを選ぶという選択が一概に望ましいことではないということを今の修司は知っている。
キーダーは国のものだ。故に大きな金が動くと、よく平野は言っていた。
能力を持つ赤子が生まれた時点で、その子にはキーダーの証である銀環が結ばれ、養育費から生活費までありとあらゆる支援を受けることができるらしい。
自由が制限されるとはいえ、小学生の修司には隣の芝生のように青く見えたこともあった。
――「ふざけるな」
けれど修司が軽口したキーダーへの偏見に、美弦はあの時激怒した。少なくともキーダーになるということは、ただ優雅にヒーローでいられるわけではないということだ。
自分の力を強めたいといった美弦と、ここに居るバスクの律。そして修司もそれぞれに想いはあって、自分の選んだ道を進んでいる。
「修司くんはどうしてバスクでいるの?」
「俺は、生まれる少し前に父親が事故で死んだんです。それで、助産師だった祖母がキーダーを良く思っていなくて隠したって聞いてます。それで、そのまま……」
「へぇ。私はね、海外で生まれたのよ。向こうにもアルガスみたいな施設はあったけど、国籍が違うからなのかな、日本より検査が緩くてすり抜けちゃったみたい。自分がそうだってことに気付いたのも、力の兆候が出てようやく。日本に来たのはその後よ」
厳しいと言われるキーダーの出生検査も、色々な理由で回避できるものだ。
「律さんは、キーダーになろうとは思わないんですか?」
「そうねぇ。半分意地みたいなのもあるけど。頑固なのよ、生まれつき」
それにね、と律は両手で包んでいたカップをテーブルに置いて、不満そうに口をすぼめた。
「キーダーの制服って、ダサいと思わない?」
全く気にしたことがなく、「そうですか?」と修司は頭を捻る。颯太から見せられているキーダー三人の写真が制服姿だった気がするが、無難な制服であまり印象には残っていない。
「そうよぉ。あんな堅苦しいのを毎日着なきゃならないなんて、私には耐えられないわ」
不満顔の律を改めて眺め、修司は息を呑みこんだ。
キャミソールの上に羽織った藍色の薄いニットが、凹凸のくっきりした彼女の身体を包んでいる。ふわりと突き出た胸の前で留められた小さなボタンがやたら窮屈そうに見えるのは、高校生には刺激が強すぎた。
「た、確かに制服は堅苦しいですよね」
自分でも良く分からないままに同意すると、律は「でしょ」と笑い、ふと我に返ったように「おなか減ったなぁ」と自分の胃をそっと押さえた。
「さっきスーパーに行く途中だったのに、あのメガネ男子のせいで何もできなかったのよ」
メガネ男子というのは、キーダーの木崎綾斗のことだろう。しかし律の口調はクラスメイトにでも会ったかのように危機感が薄い。
「時間ありますか? その炊飯器使えるなら、俺、おにぎりでも作ります」
「えっ? いいの? 時間って、修司くんこそ平気?」
遠慮しつつも、律の顔にははっきり『大歓迎』と書いてある。ぱっと花が咲いたような笑顔を素直に可愛いと思った。
猫の時計はちょうど十時を示している。言われてみると、修司も夕方にハンバーガーをかじった程度だ。
「連休中ですよ。明日も学校休みだし、終電に間に合えば平気です」
「あぁ、そうか。学校って大学? それとも専門学校か何か?」
「いえ、高三で……」
「えええっ?」と律の悲鳴が、修司の言葉を遮る。
「こっ、高校生だったの? 大学生かと思ってた。ごめんね、いきなりこんなトコ連れてきて」
大人っぽく見られたと解釈すれば心の痛みは軽減するのだろうか。颯太にもよく『若さがないな』と言われて聞き流していたが、身内以外の女性の意見とくれば心に突き刺さる。
「き、気にしないで下さい。とりあえず、家にメールしときます」
「わかった」と、こくこく頷く律を横目に終電になりそうだと颯太へメールすると、一分も経たないうちに返事が来た。
『女の子となら泊まってきてもいいよ(はぁと)俺も今日は当直だ』
ふと律と目が合って、かあっと全身が火照った。どうもこの部屋は冷静さをかき乱してくれる。
律から隠れるように深呼吸して、修司はスマホをポケットに突っ込みながら心の中で「何言ってんだよ」と伯父へツッコミを入れた。
プレイボーイだとか言われながらも、颯太は一緒に住んでから一度だって仕事以外で朝帰りなんてしたことないくせに――と。