エピローグ 10分後の未来に
エピローグ
修司がキーダーとなり、ジャスティを空へ逃がしてから二週間が経った。あの日、横浜からアルガスへ戻った翌日は土曜で、次の登校まで譲からの連絡はなかった。
事件はニュースになっていたが、流石アルガスと言わんばかりの端折りっぷりで、修司は思わず朝のほうじ茶を食堂で豪快に吹き出してしまった。
避難の最中、スマホで状況を撮影していた一般人が写真や動画をネットにアップもしていたが、断片的に切り取られたシーンでは、この事件の核心を語ることはできなかった。
こうやって真実を隠蔽していくのかと思うと、事実を知る側の人間になれたことに責任感が沸いてくる。けれど、キーダーの生活に並行する学校生活は今までとあまり変わりはなかった。
譲は相変わらずアイドルの話題に一方的な花を咲かせている。事件後最初に会った時、開口一番に「ありがとう」と言っただけで、それ以上あの日の話題に触れることはなかったのだ。
そして、梅雨に入り掛けの湿度を鬱陶しく感じながらの衣替え。学校も然ることながら、アルガスの制服も紺色から一気に水色基調のさっぱりしたものになって、袖が裂けたまま数日過ごした修司もようやく落ち着くことが出来た次第だ。
しかし律との戦闘でできた傷は、自分が思った以上に深刻だった。縫合するほどの大きな傷はなかったものの、衝撃で腕の骨にヒビが入っていたらしい。
ぐるぐる巻きにされた包帯に、美弦が横から「まだ痛むの?」と不審そうな顔で聞いてくる。甲斐甲斐しくしていれば可愛さも増すのだろうが、これも彼女の気遣いだと思い、修司は「大したことないよ」と強がった。
美弦と基礎鍛錬という名の腹筋をしている最中に、京子から会議室へと呼び出された。
「アンタの伯父さん、骨も専門なの? 産婦人科医だったのよね?」
「いや。骨は応急処置程度だよ。ちゃんと病院行ってるだろ?」
階段を上りながら人差し指を顎に添えて、美弦は「そりゃそうよね」と納得する。
事件後、颯太が再びトールへ戻り銀環を外した。
どういう風の吹き回しかは分からないが、あんなに忌み嫌っていたアルガスで、住み込みを条件に医務室で働くことになったのだ。
医師免許は剥奪されたものの、アルガスは治外法権がまかり通る世界らしい。これまでの遍歴をものともせず、食堂のお姉さんを始め女性陣から歓迎を受けたのは言うまでもない。
本当、明日の未来がどうなるかなんて分からないものだ。
会議室を目前として、美弦が「修司?」と足を止めた。何か言いたげに口籠るも、はっきりそれを言わず、修司が「何だよ」と覗き込んで、ようやく美弦は観念した表情で口を開いた。
「アンタ知ってる? バスク上がりのキーダーはね、一年間能登の訓練施設に行かなきゃならないのよ」
「能登って……北陸の?」
他人事のように理解した頭が徐々にその意味を把握して、修司は慌てて聞き返してしまう。
キーダーを選んだ自分がこれからの生活に胸を躍らせていたのは、他でもなく美弦の側に居れると思ったからだ。しかしそれを全て否定するように、美弦が「うん」と頷いた。
「失礼します」と声を合わせ、美弦の後を追って会議室に入ると、ふわりとたちこめるコーヒーの香りが二人を迎えた。京子だけだと思っていたが本部のキーダーが集まっている。美弦の発言で重くなっていた足取りに姿勢を正し、修司は「お疲れ様です」と挨拶した。
「そんなに緊張するなよ。修司はブラックだったよな?」
部屋の隅に置かれた緑色のワゴンにはポットや急須諸々が並んでいて、桃也が慣れた手つきでお茶の準備をしてくれていた。時計は午後の三時を回った所で、確かにそんな時間だ。
「はい」と答えて頭を下げ、各々に寛ぐ面々を見渡して、修司はえっと目を疑った。
コの字に並べられた机の向こう側。京子の隣で湯呑を片手に佇む白髪交じりの男の姿に、急に涙が込み上げた。
「平野さん!」
平野芳高だった。まだ仙台に住んでいた十歳の修司が出会い、バスクの同志として五年を共に過ごした彼は、二年半前キーダーを選んで突然姿を消したのだ。
そして突然訪れた再会。感慨深い思いに浸る余裕もなく、美弦が「平野さんだぁ!」と彼にぴょんぴょん駆け寄っていく。
「ほら修司、来なさいよ。平野さんよ! やっと会えたんじゃない」
きゃあきゃあと普段以上にテンションを上げる美弦。けれど色々な思いが募って、修司は素直にこの状況を受け入れることが出来なかった。
それでも、キーダー姿の平野に会えたことは嬉しいと思える。
「美弦ちゃんはまだまだ子供だね」
彰人が小さく笑いながらコーヒーのカップを燻らせた。
「よぉ」と細めた平野の目の縁に、記憶のままの細かい皴が刻まれる。
そこから返す言葉を探して沈黙が起きた。何も言わずに消えた平野を非難するつもりはないが、取り繕ったような不自然な言葉しか思い当たらず、修司は「えっと」と口籠ってしまう。
「何緊張してんのよ。会いたかったんでしょ?」
にやりと口角を上げた美弦に背中を叩かれる。会いたかったのは事実だが、二年半の開きがそれまでの関係をリセットしてしまう気がして、以前の調子で話す事に躊躇してしまう。
そして、助け船を出してくれたのは京子だった。
「平野さんは修司に何も言わないでこっち来たんだもん、そりゃ話し辛いよ。けど修司、もう仲間なんだから遠慮なんかしなくていいんだよ? 今日は仕事で来てもらってたから、ちょっとだけでも集まろうってね、時間空けてもらったの」
「私もびっくりしました」と美弦はガラスポットから注がれたお湯にティーバックを浸しながら、太いスティックシュガーを二本とミルクがたっぷり入った紅茶を幸せそうに飲んでいる。
修司は桃也からコーヒーを受け取ると、平野へ向けて顔を上げた。ちらりと覗いたつもりがじっと凝視してしまい、平野と目が合う。
「お前といる時は、キーダーになる気なんて全然なかったんだ。姉ちゃんにもキーダーの訓練はきついから、トールになれって年寄り扱いされたしな」
「ちょっと平野さん、いきなり人聞きの悪いこと言わないで下さいよ」
整った眉をハの字に曲げて取り乱す京子に、綾斗が「それは言ってましたよね」と平野の言葉を肯定する。
京子は「そんなストレートに言ってないわよ」と訴えるが、確かに基礎鍛錬や修司の一番恐れているヘリコプターからの降下は還暦過ぎの身体にはハードなのかもしれない。
「腹筋やらは免除してもらってるから文句は言わねぇけどよ。今じゃキーダーとして英雄の爺さんよりは働いてるぜ」
平野は改まった表情で立ち上がると、修司の前にやってきて美弦と逆隣りの椅子を引いた。「悪かったな」と腰を下ろす彼に「い、いいえ」と答えると、平野は苦笑してテーブルの上で手を組み合わせた。
「薄情かもしれねぇが、俺は結局この強さを捨てることが出来なかったんだ。それまで偉そうにバスクを語ってた俺には、お前に同じ道を強要はできねぇよ。お前が自分でここに来たいと思ったんなら何も言わねぇが、後悔したと思うなら速攻辞めていいんだからな?」
「うん……色々あったけど、後悔はしてないよ」
「辛いと思うのは、きっとこれからかもしれないね」
しんみりと呟いた京子に、桃也が「不安にさせるなよ」と注意する。綾斗も「全く」と柔らかく咎めるが、本人は気にしていないようだ。
「確かに、あの時は何でって思ったけど、伯父さんの事も含めて、これで良かったのかなって」
「保科さんに関しては、アルガスで仮病を使う女性が増えたっていう問題もありますけどね」
彰人の言葉に全員が無言で頷いた。平野は「なら良かったぜ」と笑んでお茶をすすった。
「あっちでの生活も慣れてきたから、そろそろあの店を再開させようと思ってる。酒が飲めるようになったら、嬢ちゃんと一緒に来いよ」
「わぁ、行きます!」と美弦が飛びつく。五年通った平野の店『プラトー』は、上京したあの朝に訪れて以来だ。固く閉ざされた黒い扉がまた開くのは願ってもないことである。
「美佐子もお前に会いたがってるぜ」
「絶対行く! 俺も美佐子さんに会いたい!」
美佐子はプラトーの隣にある小料理屋の女将だ。たまに顔を見せるようにと言われて別れたのに、口約束のままになってしまっているのは心苦しい。
「楽しみだな」と美弦を振り返るが、彼女の笑顔に先程の言葉が蘇り、修司は急に不安を募らせた。
「あの、それで……話は変わるんだけど。平野さんもキーダーになってから、訓練施設ってのに行ったの? バスクがキーダーになると一年行かなきゃならないって聞いて」
思い切って尋ねると、美弦を一瞥した綾斗が「そうだね」と先に応えた。その後ろで申し訳なさそうに俯くのは京子だ。
「行った行った。北陸は酒と刺身が美味いぞ。カニもな。あぁ、姉ちゃんは桃也と離れるのが嫌だってわんわん泣いてたっけな」
平野は相変わらずだ。はっはと笑う声に「泣いてません!」と言いつつ苦虫を噛んだような顔をして、京子は平野と交代に修司の前に立った。
「ごめんね、修司。いつ言おうかと思ってたんだけど。こればっかりは規則だから」
彼女は同じ思いをしたんだなと実感すると、何も言えなくなってしまう。
「大学はあっちを受けて戻った時に編入するか、一年置いてこっちを受験してもいいし。成績見せてもらったけど、欲張らなきゃ問題ないでしょ。どっちにせよ向こうには三月に高校卒業してから行けばいいよ」
綾斗に突然進路の話をされて、やたら現実味が増してくる。
「終わったらあっという間だけど。長いよ、一年は」
しみじみと語る京子の言葉を重く受け止めて、修司は美弦に視線を向けたが、そっぽを向いたまま目を合わせてはくれなかった。
「僕は楽しかったよ。ご飯は美味しいし、空気も綺麗だし。もうここは頭を切り替えて、その土地でしかできないことをエンジョイしてくることが大事だよ。それより――」
彰人が左手首に嵌めた時計仕様の銀環で時間を確認し、「ごちそうさま」とカップを置いた。
「桃也、修司くんの事借りて行ってもいい?」
「え? あぁ。別に構わないけど。寝るまでに基礎はやっとけよ」
「はい」と桃也に返事して、修司は流れのままに立ち上がった。
「じゃあ、行こっか」と扉に向かう彰人を追って、修司は平野を振り返る。
「平野さん、また来てね」
そう伝えると、「分かった」と平野が右手を上げた。
二年前に尋ねた質問を、彼は覚えているだろうか。
『銀環を逃れて生きることは、本当に自由なのかな――?』
銀環をはめた平野は前よりも表情が明るくなった気がする。だからその答えを聞かなくても、彼の言葉は何となく想像することができた。
☆
四階の会議室から二階まで階段を降りたところで、「ちょっと座ろうか」と食堂側の廊下に折れて、かつて京子が泥酔して倒れていたソファへ修司は彰人と並んで座った。
夕飯にはまだ早く人気はなかったが、空腹を掻き立てる匂いが漂っている。
「好きな女の子にあんな顔見せるもんじゃないよ」
瞳がなくなる程に笑んで、彰人はそんなことを言った。
「そ、そんな変な顔してましたか?」
「うん。まぁ一年離れるのは寂しいけど、彼女は修司くんの事ちゃんと待ってると思うよ」
まさかの恋愛話に戸惑うが、彰人は至って真面目に話している。
「だってさ、美弦ちゃんは二年間、君の事待ってたんでしょ?」
そんな事を美弦本人からも言われたことを思い出して、修司は手で自分の口を押さえた。
「修司くんは相変わらず分かりやすいね。遠距離も楽しいかもだよ? 君は僕みたいにひねくれない様、普通に恋愛した方がいいよ。律みたいのに惑わされないでさ」
「ま、惑わされてなんか――」
反抗する言葉が声になる手前で掻き消えてしまう。
負傷した彼女を残してあの場から立ち去って以来、律には会っていない。どこかの医療機関に収容されているという話だが、詳しくは聞いていなかった。
「全身打撲に内臓破裂。桃也が居なかったら死んでたよ」
ホッとする気持ちを隠しつつ、修司は「そうですね」と答えた。
「これから律のトコ行ってくるね」
「え? 今からですか? 俺も連れてって下さい!」
「ごめんね。僕一人で行かせてくれる? ケジメをつけないといけないから」
衝動的な申し出は、彰人のはにかんだ笑顔でやんわりと断られてしまう。
「この間の戦闘で捕まえたホルスは三人ともトールにして警察に引き渡すって聞いたんですけど、律さんもそうなるんですか?」
「そうだよ。律は能力者には向いてない。あんなことを二回もしたんじゃ、本人にも納得してもらわないと。ホルスだった人間をキーダーにはできないからね」
修司は何度か律にキーダーを勧めた。もちろん断られてしまったが、無駄な話だったようだ。
「律なら力なんかなくたってやっていけるよ。野生児だからね」
確かにバイタリティのある女性だ。けれど彰人は彼女を一人で突き放してしまうのだろうか。
「彰人さんは、追い掛けないんですか?」
「そんなのは僕の柄じゃないよ」
「そんなこと、ないと思います」
一人で律の所に行く彰人が、そのまま帰ってこないような予感がした。けれど、
「僕は、ここに居るって決めてるから」
彼らしいと思ってしまう。
「最初、あの慰霊塔で会った時には想像もできなかったけど。俺、彰人さんとここで一緒に仕事できるの光栄です」
「それはどうも。あ、それより今度ジャスティの野外ライブ、修司くんにも手伝ってもらうからね」
突然手をポンと鳴らして、彰人がそんな話を始めた。
「野外ライブ? またホルスが動いたんですか?」
「そんな物騒なのじゃないよ」
じゃあ警備か何かだろうかと察したところで、彰人は破顔して予想の斜め上をいく発言をしたのだ。
「チャリティライブだよ。この間、近藤に話してたでしょ? 半分冗談だったんだけど、あのおじさん本気にしちゃって。でも楽しそうだから受けちゃったんだよね」
「ええっ? それって近藤自身が嫌がってたやつじゃないですか。チャリティなんか、って」
キーダーの力を見世物にするという近藤の発言に、金儲け抜きのチャリティなら受けると提案した彰人の言葉は覚えているが、金の亡者がこんな短期間で改心したとは思えない。
「修司くんに助けられて、面白そうだと思ったんだって。美弦ちゃんと二人のご指名だよ。それに、うちの上官達にも企画書通っちゃったんだよね。でも大したことじゃないよ。会場の上からパラシュート付けてヘリから降りるだけだから」
「ええええっ? ぱ、パラシュート?」
春を待たずに速攻北陸に行きたくなってしまう衝撃に、修司の声は廊下の隅まで響き渡った。
「そんなのしたことないですよ。俺、う、腕もヒビ入ってるし、しばらくは……」
「夏休みだから、それまでには治るよ。嫌だって言ったって、どうせそのうち訓練もするんだから」
腕の怪我をアピールするも、彰人は「大丈夫だよ」の一点張りだ。夏までに心も体も準備できるとは思えない。「駄目です」と手を振るが、有無を言わせない彰人の笑顔に恐縮して、「は、はい」と掠れ声で返事した。
「彰人さんも一緒に飛び降りるんですか?」
「僕は航空ショーとか柄じゃないから。君と美弦ちゃんと、トレーナーの二人で十分だよ」
「いやいやいや」と修司は思わず否定の言葉を強めた。柄とか関係ないだろう。大体近藤への協力は彰人が言い出したことなのだ。
「キーダーにはパラシュート降下なんて基本だよ。何かあったら僕が下で受け止めてあげるから。その為の念動力だよ? 大船に乗ったつもりで飛べばいいからね。それじゃ、僕はそろそろ」
早口にまとめて立ち上がる彰人に、修司は呆然とソファに預けていた体を起こした。
「お別れしてくるから」と物悲し気に微笑んだ彰人の背中を見送る。もう律には会えないのだと理解して、消えゆく彰人の背中に彼女への「さよなら」を送った。
☆
お盆を過ぎた八月の晴天。雲の欠片が散らばった青空が山の稜線まで広がっている。
野外ステージの後方で、ヘリに搭乗してのスタンバイ。操縦席に背を向けて座るトレーナーの二人は余裕の表情で、ステージから流れてくるジャスティの歌と歓声に耳を傾けていた。エンジンは掛かっているがプロペラはまだ動いていない。パイロットのコージが外で京子や彰人と綿密な打ち合わせをしているところだ。
「ちょっと落ち着きなさいよ」
時計を何度も確認する修司を、美弦が横から睨んだ。彼女にも緊張した様子はない。エアコンのかかった機内で汗ダラダラの修司とは対照的だ。
腕の怪我が治り、本番前に飛んだのはたった一回のタンデム飛行だった。
数時間の座学講習と、ホールでの模擬訓練を経てあっという間にヘリに乗せられた。横浜まで初めて移動した時にはタンデムすら怖いと思ったが、桃也が背中に居るだけで遊園地のアトラクションのような感覚だった。それなのに、今日桃也は目の前で別のパラシュートを付けている。
「落ち着けるかよ。あぁ……やっぱり桃也さん、今日もタンデムして下さい」
「今日は新人キーダーが初めて降下するって彰人のヤロウが銘打っちまったんだ。前も言ったけど、着地失敗しそうになったら地面に向かって力を撃てば直撃はしないし、下で外の二人が支えてくれるから大丈夫だよ」
自分の力なんて全く信用できないし、空中で冷静にその判断ができるとは到底思えなかった。外の二人を信用していないわけではないが、どうしても大船に乗った気分にはなれない。
絶望感が下りてきて、彰人の悪戯な笑顔が浮かんでくる。窓の外の本人へ視線を送ると、ふんわりと楽しそうな表情で手を振ってきて、何故か美弦が両手を振り返した。
「大分楽しそうだけど、お前は怖くないのかよ」
美弦は面倒そうに顔をしかめ、「何で怖いのよ」と意味不明な返しをしてきた。
「美弦は最初から平気だったからね」
綾斗の言葉に「余裕です」と美弦は胸を張った。彼女とはどうやら住む次元が違うらしい。
こっそり調べた情報では自衛隊ですら特殊部隊の仕事だというのに、ろくな講習もないまま単独で空に放り出すなんて、やはりアルガスにとってキーダーは駒なのかと実感してしまう。大舎卿が映ったビールのポスターも、きっとこんな理不尽な仕事だったのだろう。
「でも、最初なんだから緊張するのは仕方ないわ。頑張りなさいよ」
突然美弦が優しい言葉を掛けてくれた時が、まさに定刻だった。バタリと扉が閉まる音に顔を上げると、操縦席に乗り込んだコージが綾斗とサインを送り合っている。
遠くに聞こえていた軽快な音楽が、回転を始めたプロペラの音に消え、全身に伝わる振動とエンジン音からの閉塞感に、全身が殺気立った。
窓の外で手を振る京子と彰人。今からでも交代して欲しいと念を送るが届く気配は勿論ない。
清々しい顔で「テイクオフ」の合図をする綾斗の声を待って、機体が揺らりと地面を離れた。
シートベルトとパラシュートをぎっちりと握っていると、視界の隅で何かが動く。
即席のヘリポートをぐるりと巡らせたバリケードテープぎりぎりの位置で、譲が大きく手を振っていた。その姿はあっという間に小さくなり、地上が遠のいていく。
高度五百メートルの空はいつものフライトより少し低く、富士山をバックにした壮観な風景が広がっていた。
こんな場所でヘリの扉を開こうだなんて馬鹿げているとしか思えない。
もう全てをネガティブに捉えることしかできず、顔面蒼白状態だったのだろう。「大丈夫?」と流石の美弦も心配そうに修司を覗き込んできた。
起動音の大きさに顔を近付けてようやく届く声。精一杯に見栄を張って首を横に傾けると、
「スカイダイビングみたいに高くないから、一瞬で終わるわよ」
スカイダイビングとは違うが、一瞬でないことは実証済みだ。今から全てが終わるまで、十分は掛かるだろうか。ここから逃避したいと思うが、逃げ出せる場所もまたヘリの外だ。受け入れざるを得ない現実にやっと口から出た言葉は「もう駄目だ」である。
「全く」と見かねた美弦が溜息を漏らして、じろりと修司を横目に睨んだ。
「無事に下に降りれたら、ほっぺにキスしてあげてもいいわよ」
「えっ?」と耳を疑う発言を直前の記憶から拾い上げて、修司は「マジで?」と眉を上げる。
「ちょっ……ううん、やっぱりやめた。嘘。冗談よ、本気にしないで!」
「いいや、聞いたからな。絶対だぞ?」
頬を赤らめて、面食らった美弦の横顔に、自分でも驚く程に頭がスッキリしてきた。
相変わらず単純だと笑う。少しでもキーダーになったことを後悔したら速攻やめろと言った平野の言葉が蘇ってきた矢先のことだった。
十分後の自分が生きていたら、やっぱりキーダーで良かったと思えるはずだ。辛いことも多そうだけれど、こんな選択もアリだと思える。
とりあえず後のことは、ほっぺにキスしてもらってから考えることにしよう。
End




