8章 叫び-5 光の消えた空間に残されたもの
「修司くん!」
耳の奥に届いた彰人の声に、意識が引き戻される。頬に地面の硬さと少し温かい熱を感じて、次に全身の鈍い痛みを覚えた。
意識と共に飛んだ身体が地面に叩き付けられたらしい。口の中に砂利が入り込んでいて、吐き出したコンクリートに血の跡が滲んだ。
目の前の光景が悪夢のようだ。霧のように屋上全体を覆った白い光から、元の風景がにじみ出てくる。
数か所に立ち上る煙。剥がれた足元のコンクリートは、破片が飛び散ってガタガタだ。その風景の中央で彰人が姿勢を低くし、力なく横たわった律の身体を抱き上げていた。
だらりと垂れた彼女の腕に修司は愕然とする。よろめく足を立ち上げると、飛散したコンクリート片が全身からボロボロと落ち、バタバタと払い落として二人の元へと駆け寄った。
「大丈夫ですか? 彰人さんも……」
状況からすると、衝撃は屋上だけで完結している。あの大晦日の夜にモニター越しに見た光景とは違っていた。
崩れたのは表面だけで、建物はまだそこにある。桃也が引き起こした悪夢は全てを無にしていた――だから、これは暴走でない筈だ。
暴走しそうになった律を彰人が止めてくれたのだと理解したところで、修司はハッと彼女の言葉を思い出す。
『そんなことしたせいで、彼も死んでしまった』
彰人の制服の所々が裂けていて、髪も乱れている。かつて同じように律の暴走を止めた男が亡くなった現実を重ねてしまうが、煤だらけの彰人は「平気だよ」と笑顔を見せ、修司は胸を撫で下ろした。
しかし律は息も絶え絶えで、もうこのまま目を開かないのではないかと思ってしまう。
「律さんは……」
「死んではいないってトコかな。全く、バスクってのはどうしてこうも無茶な事ばかり起こすんだろうね。僕も他人のこと言えないけど、キーダーになって本当にそう思うよ。これじゃノーマルが怖がるのも無理ないよね」
「本当に、そうですよね。律さん……」
瀕死の彼女にこれほどの威力が残っていたとは到底思えない。けれど、その状況こそが被害の引き金になったんだと思うと、やはり銀環のない力の存在は危険だと確信する。
返事のない律を見守っていると、彼女の瞼が震えて細く目が開いた。
「あきひと?」
「どうしたんですか? 律」
朝の目覚めにでも応えるように、彰人は穏やかな表情で首を傾げた。
「私、暴走しちゃったの? 貴方、こんなトコに居たら、死んじゃうわよ」
やっと聞き取れる程のか細い声。力なく緩む律の目に涙が滲んだ。
「それとも一緒に、地獄へ行ってくれるのかしら」
律はそうなることを望んでいるのだろうか。けれど、彰人は「まさか」と呆気なく否定し、「暴走もしてませんよ」と告げた。
「地獄に行く気もないし、今貴女と心中する気なんてありませんから」
「冷たいのね」
「だって、死んだら貴女はあっちの世界で恋人の所へ行くんでしょう? そんな惨めなのはごめんですよ。死に損ってやつだ」
「確かにそうかもしれないわね。けど、貴方ともう少し一緒に居たかった……」
律の言葉が途切れた。再び閉じた目が最後の瞬間を物語って、修司は「律さん!」と声を出すが、彰人は静かに首を横に振った。
「気絶しただけだよ。大丈夫、まだ生きてる」
彰人はそう言って仰向けに眠る律を覗き込んだ。
「律、貴女は死というものを安易に受け入れようとしすぎだ。貴女の罪は消えないけど、償えない訳じゃないんですから」
語り掛ける彰人の言葉に、律が笑顔で答えたような気がした。
☆
屋上に設置された照明は殆どが衝撃で破壊され、暗い闇を残った幾つかの明かりがぼんやりと照らしている。
ドアの開く音に振り向くと、桃也が怪訝な表情を滲ませながら三人に駆け寄ってきた。
「ったく、思い出させるなよな」
「ちゃんと食い止めたよ。京子ちゃんは置いてきたの?」
「あぁ、預けてきた。その女助けるんだろ?」
不服そうに眉を寄せる桃也に、彰人は表情を緩める。
「分かってて来てくれたんでしょ? 感謝するよ」
彰人は律に微笑み掛けてその髪をそっと撫でると、自分の胸元から銀色の輪を取り出して彼女の左手首へとそれを通した。
「これをするくらいなら死にたいとか言うんだろうけどね」
そう言って銀環に手を当て、力を強めた。銀環を手錠だと比喩するのは良く聞くが、修司はその通りだと思った。けど、これ一つで暴走への不安を払拭できるならやむを得ないだろう。
律に結ばれた銀環を確認し、桃也は彼女の身体を引き継いで床に寝かせた。
「修司、ここは俺たちに任せて地下の綾斗と合流してくれるか? ホールから降りれば近いから。観客の避難は済んでるし、後はスタッフを逃がすだけだぜ」
「終わったんですか?」
「とりあえず一区切りついたかな」
「ほんとですか! 分かりました。桃也さん、彰人さん」
急に緊張が解けて、修司は肩の力をだらりと抜いた。一安心と思いたいところだが、
「まだ気を抜くには早いよ」
彰人の注意が飛んできて、修司はピンと背筋を伸ばす。桃也が「そうだな」と頷いた。
「下も激しくやってたから、足元にも気をつけろよ。何かあったらすぐに連絡すること」
桃也が促して、彰人が苦笑交じりに修司へ自分のイヤホンを差し出した。
「ありがとうございます」と修司は早速耳に装着するが、ザラザラという雑音が聞こえて来るだけだ。
「じゃ、行ってきます」
修司は趙馬刀の柄を手に二人へ頭を下げ、階段へと走った。




