1章 上京-5 衝突から始まった彼女との運命
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高三のゴールデンウィーク。夜の色が空を覆って間もなくの繁華街。
友人と別れて、人混みを縫うように駅まで移動している時だ。
修司は突然前からやってきた女にぶつかった。
フワフワの長い髪が鼻をかすめて、女が「きゃあ」と尻餅をつく。
甘い香りにコンマ数秒の高揚感を噛みしめながら、修司もドスンと地面に崩れた。
カラカラと地面に鳴った高い音を目で追い掛けると、スマートフォンがコンクリートを滑って行くのが見えて、反射的に手を伸ばす。
「ごめんねぇ。大丈夫だった?」
「いえ、俺は平気ですけど、そっちは」
痛みの響く患部を撫でながら身体を立て直し、修司は彼女へと空の手を伸ばす。
改めて確認した彼女の顔に一瞬見とれて、恋しそうになる気持ちを振り払った。
あどけなさの残る大人の女性だ。くっきりとした二重の丸い瞳が修司を心配そうに見上げている。
「私も平気。っと……あら?」
空の両手に眉をしかめた彼女に拾ったスマホを差し出すと、顔いっぱいに安堵を広げて「ありがとう」と頭を下げた。
けれど再び合わせた視線が、修司を捕らえて表情を陰らせる。
スマホを手に自力で立ち上がった彼女は、次に両手を広げて勢いよく修司の胸に飛び込んて来た。
「えええええっ?」と修司は驚愕の悲鳴を上げる。状況が読めない。
彼女の柔らかい感触と甘い香りに当てられて修司は混乱するが、耳元で囁かれたその言葉に現実へと引き戻された。
「気を抜いちゃ駄目よ。気配が漏れてる。隠しなさい」
状況を理解できないまま、慌てて自分の気配を閉じた。
ぶつかった衝撃で気が緩んでいたのは彼女の指摘通り。常時消していた筈の気配が外に出てしまっていたようだ。
女は静かに修司から身体を離し、来た方角を見据える。
穏やかだったその表情は、一変して怒りさえ含ませていた。
「いい、走るわよ? 私、キーダーに追われているの」
思わず「へ?」と叫んだ口を、彼女の右手がきつく制した。
もごもごと口籠りながら、修司は彼女の視線を追う。
大型連休でいつもより人出が多く、数メートル先さえ見渡せない状況で感覚を研ぎ澄ますが、修司にはその気配を読み取ることが出来なかった。
けれど視界の一点に目が釘付けられる。
若い男だ。見知ったキーダーの制服姿ではないが、定期的に颯太から見せられる写真と同じ顔がキョロキョロと辺りを警戒している。
「木崎綾斗? お姉さん、キーダーに追われてるって……」
アルガスの東京本部に在籍すると言う、若い男のキーダーだ。記憶より少し大人びて見えるが、それなりに時は経過している。
とすると、彼女の言ったことは本当なのだろうか。
「だから、急がなきゃ。あの男の嗅覚はバスク並なんだからね。逃げるのよ、走って!」
フワフワした見た目からは想像もつかない程の強い力で、彼女の手が修司の腕を鷲掴みにする。
キーダーが彼女の敵だとすれば、自分と同じ立場なのかもしれないと修司の心臓が高鳴った。
言われるまま逃走を試みて、しかし修司は再度振り返った視線の先にもう一人の姿を見つける。
「美弦――?」
綾斗の傍らに、細いツインテールを揺らす小柄な少女の姿があった。
二年前に一度会っただけの記憶とは髪型が違っていたが、ツンとした表情はそのままだ。
間違いないと確信すると、急に足が地面から離れることを拒んだ。
動くことを躊躇う修司に、女は「はやく」と声を上げて逆方向へと急かす。
「捕まりたいの? 貴方はバスクなんでしょう? 逃げなさい!」
ピシリと鋭く甘い声は、人混みの騒音に掻き消えていく。
本当にここから逃げなければならないのだろうか。心のどこかでずっと美弦に会いたいと思っていた。それがアルガスへの投降を意味することになっても。
けれど綾斗の視線がこちらに向いて、「まずいわ」と先に彼女が駆け出した。
考える余裕はなかった。心臓が突き上げられる衝動に駆られ、修司はロックを解除されたように地面を蹴り、雑踏の中へと消えかかる彼女の背を必死に追い掛ける。
それが、修司と安藤律との出会いだった。