6章 真実-3 別れを告げたサヨナラの珈琲
灰色のビルに窓を塞がれ、照明が消えたままの部屋は薄暗く陰湿な空気に包まれていた。ついこの間来たばかりだというのに、別の部屋かと思ってしまうくらいだ。
「もう私は退去したことになってるけど、大家さんに事情を話して居させてもらってるの」
「大家さん、って。その人も貴女の仲間なんですか?」
「そういう事よ。他の住人は関係ないけどね」
入口でもたつく修司に説明して、律は「早く入って」と入室を促す。修司は言われるまま中へ入り扉を閉めた。テーブルの横で膝を突き合わせ、修司は背負った鞄を横に置く。
「どういうつもり? そんな恰好で」
律の視線が修司の左手に落ちる。彼女はあの日のままなのに、ほんわかと笑んでいた丸い瞳が張り詰めた厳しい表情を含ませる。
「どうしてあの三人に俺を迎えに来させたんですか?」
ハンバーガー屋の前で待ち構えていたのが律だったら、自分の運命に迷いが出たかもしれない。あんな、映画に出てくる悪役のような男たちだったからこそ、受け入れることができなかったのだ。
けれど律は冷めた表情で「上の命令だからよ」と答えた。
「上に指示されたから、あの三人を向かわせた。それだけよ。貴方は来てくれると思ったんだけど」
律の寂しげな表情に惹かれそうになるが、修司は曖昧な自分を押し殺した。
「やっぱり、律さんはホルスなんですか?」
「聞いたんでしょ? そうよ。繋がってるっていうのが正しいのかもしれないけど」
もしもの望みを、彼女の言葉がばっさりと断ち切った。
「何でホルスなんか。貴女はそこで何がしたいんですか? 貴女は『大晦日の白雪』のような暴走はさせちゃいけないって言ったじゃないですか。俺には理解できません。慰霊塔の前で何を思って手を合わせたんですか? 犠牲者をいい気味だとでも思ってるんですか?」
山のように湧いてくる疑問を整理できないまま吐き出すと、律は声を荒げて否定した。
「違うわ。ホルスは悪の組織なんかじゃないのよ。能力者が国の犬に成り下がるこの現況を変えようとしているだけなの」
「俺は律さんに会って、一緒の時間が心地良いって思ったんです。バスクのままでもいいかなって思えたのに。何でホルスなんですか。本当にホルスのやる事が今の能力者の立ち位置を覆せると思っているんですか?」
「思ってるわ。それに、信念を持って立ち上がらなければ、何も変えることはできないのよ。キーダーは平和な現況に甘んじているだけじゃない。いつかきっと身を亡ぼすわ」
右手を斜めに払い、律はキーダーを否定する。
有事が起きたら、キーダーは国民の壁にならねばならない。そして、彼女のようなバスクを取り締まる事も仕事だ。
修司は左手の銀環を掴んで、律を睨む。
「それで俺を仲間にって思ったんですか? それも上の指示なんですか? 貴女はいつもスマホを持ってましたよね。あれはホルスとのやり取りだったんですね。俺にやさしくしてくれたのは、その為のパフォーマンスだったんですか?」
「仲間を増やすのは私の仕事。けど、修司君と一緒に居たいって言ったのは本気よ」
アルガスとホルス。根本的な考え方の相違がこの対立を生み出している。
バスクとして生活していると、確かにホルス寄りの考えになるのは事実だ。修司も最近まではキーダーと国の関係に納得できずにいた。けれど平野が選んだのはキーダーで、実際修司もアルガスでキーダーと過ごし、自分が思い描いていたキーダーという肩書よりもずっと人間らしいと思ってしまった。
修司は浮いた腰を床に落とし、腹の前で手を組み合わせた。
「彰人さんは、ここには来てないんですか?」
「山に行った時以来、会ってないわ。勘の良い人だから、全部分かっていたのかもしれないわね」
沈黙が起きて、修司は細く息を吐き出した。あの人は何だったんだろう。けれど、ホルスを否定していた彼がその事実を知ってしまったのなら、至極納得のいく行動だと思える。
夕方の空に部屋が一段と暗くなり、律は天井からぶら下がる蛍光灯の紐を引いた。電気が一度瞬いて、部屋がオレンジ色の明かりに包まれる。
「元々キーダーを警戒して消してただけだし。修司くんがここに居るなら、もう関係ないわね」
突然現れた記憶のままの部屋。家具もカーテンも手製の棚に乗ったフォトフレームも、全てがあの日のままだった。テーブルの上には花柄に装飾された彼女のスマートフォンが置かれている。
律はキッチンへ向かい、水を入れたやかんを火にかけた。カップにドリップコーヒーのフィルターをセットすると、くるりと体を回してシンクの淵に腰を預ける。
「十五歳の時に日本に来て、独りぼっちだった私に声を掛けてくれたのが高橋洋よ」
そんな言葉を皮切りに、律はフォトフレームに映る男の話を始めた。アルガスで聞いた話では、彼女の元恋人でホルスの幹部だったらしい。名前を聞いたのは初めてだ。
「コーヒー淹れるのも久しぶりね」と出来立てのコーヒーをテーブルに並べ、律は反対側に座って話を続ける。
それは、彼女の口から語られた、彼女の真実だった。
「私もね、トールになろうと思ったことがあるの。けど、あの門をどうしても潜れなくて」
「俺も東京に初めて来たときに一度行ってみたけど、入れませんでした」
二年前、美弦に会ったあの日のターニングポイントを曲がることが出来なかった。
「敵の侵入を防ぐためなんだろうけど、あんなに大きな門があっちゃ畏縮しちゃうわよね」
目を細めて微笑む律がホルスだとはどうしても思えない。「先入観を持たないこと」と言った桃也の言葉を必死に噛み締めていると、律はカップを両手で握りながら遠い目を漂わせた。
「高橋に会って、バスクであることを初めて良かったって思えたの」
力の存在を怖がる律に近付き、凄いと褒め称えた高橋が彼女に求めた力は『感じる力』だったという。
律によってホルスになったバスクが何人もいると聞いて、修司は身構えた。
「でもそれって、国の指示に従うキーダーと変わりないんじゃないですか?」
「そんなことない。確かにホルスの上層部は殆どがノーマルだけど、ノーマルだって最前線の仕事をする。キーダーだけが駒じゃないの」
でも、アルガスの護兵だって戦いのスペシャリストでありながらノーマルなのだ。結局、どちらも同じなのかもしれない。ホルスもアルガスも、互いを相容れないだけなのではないか。これではどこかの宗教戦争のようだ。
「高橋もノーマルだけど前線に居たのよ。バスクとの戦闘で死んでしまったけれど」
律はもの悲しさを含んだ目を修司に向けて、「私はね」とその話をした。
「彼が死んで、暴走しそうになったの」
「暴走って、力の暴走ですか? 律さんが?」
我を忘れたバスクが起こすという力の暴走を止めることなんてできるのだろうか。
ふと沸いた不安に、修司は声を震わせる。
「もしかして大晦日の白雪は、律さんが……」
九年前の大晦日に起きた悲劇も、バスクの暴走が起こしたものだと言われている。
「私じゃない! あれはホルスとは関係のない話。私は、目の前で高橋が殺されて、我を忘れてしまったの。気付いたら高橋を殺した男に助けられてた」
律は背を丸め、両手で自分の顔を覆った。
何度も顔を左右に振って、今度は両膝を抱える。
「敵なのよ? 逃げる選択肢だってあったはずなのに、そんなことしたせいでその男も死んでしまった。私だけ助かっても仕方ないのに」
「なら余計に、命懸けで暴走を止めたその人の為にも、律さんは銀環を付けた方がいいと思います」
高橋を失った衝動で暴走しかけたという律。計り知れないこの能力において、「大丈夫」の根拠はゼロに近い。
だからノーマルは銀環を作り出した――律の話を聞くと、ノーマルが感じた恐怖に納得してしまう。
「俺には、暴走を止めてあげられる力なんてないですからね」
前に律から正気を失ったら止めてくれるかと聞かれたことがある。
「あれは私を庇って死ねって意味じゃないのよ。もし暴走しそうになったら、修司くん私を殺してくれる?」
「殺して、って。そんなのくれませんよ! そこまでの覚悟があって、律さんはどうしてまだホルスで居ようとするんですか」
「私は高橋が好きだから。忘れることができないの。私がホルスに協力したら、あの人も「好きだ、愛してる」って言ってくれたのよ。自由になれたら一緒になろうってのがあの人の口癖だった。私は単純だから、アルガスの機能を停止させたら結婚できるんだって思ってたのよ。いまだにあの言葉の意味は分からないけど」
「言葉のままなんだと思いますよ」
「修司くん、今からでもこっちに来ない?」
甘く聞こえる律の誘いに、修司は反射的に左手首を庇った。
「――ごめんなさい。俺には無理です」
修司は深く頭を下げた。自分が貴女の敵になるという宣告だ。その意味を改めて理解すると、急に胸が苦しくなる。
この選択が最善かどうかは分からないけれど、後悔はしない筈だ。
「俺、帰ります」
そうすべきだと判断して立ち上がると、壁の写真が目についた。若い頃の律と高橋だ。二人の笑顔からは、国を相手に戦おうなんて志は微塵も垣間見ることはできない。
「彰人に会いたいな」と律は立ち上がり、戸口で修司を見送ってくれた。
また彼に会うことはできるのだろうか。彼だったら律をホルスから脱却させることができるかもしれないと思うのに、連絡先すら知らず修司にはどうすることもできなかった。
「もう、来ちゃ駄目よ」
彼女の忠告に「はい」と答えると、「じゃあ」と余韻を残して律が戸を閉めた。摺りガラスの奥はすぐに暗転する。




