5章 過去-7 戦場から帰って来た煤だらけの男
「そういえば、この間力を使ったって言ってたけど、山に行った時の事?」
こちらを伺う京子の言葉に、修司は身体を強張らせた。
「バスクはよくやるんだよね。でも山には管理者が必ず居るし、ああいうのは良くないから」
確かにそれは分かる。あの場所がキーダーの施設だということも知っていた。
「意地悪なこと言ってごめんね。これは私の仕事だから。あの日はたまたま近くを通って気配を感じたの。あんな馬鹿デカい力使われたら、綾斗じゃなくても分かるよ」
そう言われて、修司は顔を起こした。京子の視線がじっとこちらを見つめている。
隠すなど無駄なことで、彼女の質問は確認でしかないようだ。
「あれは京子さんだったんですか?」
観念して尋ねると、「そうだよ」とはにかんだ笑顔が返って来る。
舞い戻る山での恐怖。薄れていた感覚が一瞬強く下りてきて、修司は自分の膝を抱え込んだ。ヘリの接近を敵の襲撃だと判断したが、その相手は今目の前で穏やかに笑む京子だという。
敵か味方を判断しろよ――そう自分に言い聞かせる。「すみません」と絞り出す修司に京子は「うん」と返事して、
「警告だよ。あそこで無闇に力を使ったバスクへのね。あれだけでも抑止力にはなったでしょ?」
それ以上の追及はなかった。そして京子は突然意外な人物の話題を口にする。
「全く、師匠が師匠なら弟子も弟子だよね。修司は平野さんのトコに居たんだって?」
思わず美弦を振り返ると、「今回アンタがここに来るってことで、色々調べさせて貰ったのよ」と、最早自分にとって何が隠し事だか分からなくなるほどの丸裸状態だと知らされた。
「平野さんの店の前で倒れたキーダーってのは、やっぱり京子さんだったんですか?」
修司の推測に京子はぎょっと肩をすくめ、やがて「知ってたんだ」とケラケラと笑い出した。
「恥ずかしいからあんまり言わないでよ。あの頃は東北にキーダーが不在だったから、能力沙汰に関してはこっちが管轄を広げて受け持ってたの。アルガスに入りたての綾斗と行ったんだけど、ほんと頑固で大変だったんだから。すぐは無理だけど、平野さんにはそのうち会えるよ。同じキーダーなんだから」
京子は美弦と同じことを言うと「そろそろ別の事しようか」と立ち上がって制服を整えた。
ポケットを探った京子は、真っ赤なゴム風船を取り出しておもむろに膨らませる。修司はえっと美弦を振り向くが、彼女も眉を寄せたまま首を傾げていた。
何の変哲もない風船が顔くらいの大きさになって、京子は「これくらいかな」と口を縛る。
「美弦も初めてだよね? まぁ、ゲームみたいなものだから」
ふわりと空中に投げた風船は、ヘリウムを入れたかのようにぐんぐんと上昇し、やがて天井に貼り付いた。アルガスでは二階分だが、民家なら四階ほどの高さだろうか。首の後ろが痛いくらいに天井を仰ぎ、遠くの赤い丸に修司は目を凝らした。
「あれを割るのが今日の課題。私が力で押さえておくから、力で割っても、落としてから割っても好きにしていいわよ」
「えっ? そんなこと俺にはまだ……」
修司はずっと握っていた趙馬刀をズボンのポケットに突っ込んで、手を横に振った。銀環の効果でただでさえ未熟な力が半減されているというのに、あんな遠くのものを操るなんて到底無理だと思ってしまう。
「そんな難しく考えなくていいよ。ちょっと動かせば落ちて来るって。美弦はどう?」
美弦は固い息を飲み込んで、風船を見上げたまま首を傾いだ。
そんな時、背後でカチリとペンをノックする音がした。
それまでなかった人と力の気配が同時に現れて、修司はドキリと背中を震わせつつ振り向こうと試みたが、相手を確認する直前でパンと頭上で高い音が鳴り、視線が上へと引き上げられた。
小さくしぼんだ赤い風船が力を失って宙を舞い降りてくる。同時にカツンと高い音を響かせて床に叩き付けられたペンがくるくると床を滑って後方へと走っていった。
余りにも一瞬の出来事で、修司にはきちんと状況を把握することが出来なかった。
ポタリと落ちた赤い風船の残骸から顔を起こすと、
「桃也――」
京子が背後を一点に見つめたまま泣き出しそうに顔を歪めた。
「桃也さん?」と京子の声に食い付いて、修司より先に相手を確認したのは美弦だ。
夕方帰還予定だった京子の恋人である高峰桃也。
ペンを拾い上げて「ただいま」と告げる長身の男は、キーダーの制服こそ着ているが、ジャケットのボタンやタイは外されていて、全身が泥だか煤で汚れている。
思わず「凄いですね」と目を丸くした美弦が「お疲れ様です」と挨拶すると、桃也は釣り目がちの目尻を僅かに下げて「おぅ」と返し、感極まった表情の京子へと視線を向けた。
「早く会いたかったから。コージさんに無理言って、朝から飛ばしてもらったんだぜ」
ギャラリーの目もはばからず平然とそんな言葉を口にして、桃也は京子の前に行きその身体を抱き寄せた。
「無事で良かった」と安堵した京子の目に涙が溢れる。「心配するなって言っただろ?」と髪を撫でながら桃也が笑うと、京子は声を上げて泣き出してしまった。
見慣れぬ男女の抱擁に戸惑いながらも、修司は彼がキーダーとしてどんな仕事をしてきたのだろうと考えてしまった。朗らかに酔っぱらった姿や、綾斗とのやり取りで見せた時とはまた別の表情を見せる京子が、どこか不安気で儚く思えてしまう。
それでも京子は涙を拭い、彼の胸を離れて「ごめんなさい」と修司たちを振り返った。目を真っ赤に潤ませたまま京子が「お帰りなさい」と改めて伝えると、桃也は「ただいま」と繰り返し、修司の前にやってきた。
「大体資料は読んできたよ。保科修司だよな? トレーナーになる高峰桃也です。よろしく」
「はい、よろしくお願いします」と頭を下げる修司に頷いて、桃也は京子を振り返った。
「でも、俺でいいのか? 俺もまだ新人みたいなもんだぜ?」
桃也的には予想外の任務らしいが、京子が「適任だよ」と微笑んだ。二年前の資料に名前のなかった彼が自分を新人だという経緯を知りたいところだが、今はそんな雰囲気ではなさそうだ。
「とりあえず今日は夕方まで報告とか溜まってるから、終わったらお前の家まで荷物取りに行こうぜ」
突然の話に、修司は「俺ですか?」と自分を指差す。
「いきなり拉致されて来たんだろ? 着替えとか必要なもん取りに行って来いって、綾斗から言われたんだよ」
拉致という言葉が適当かどうかは分からないが、あの家に戻れると思うと嬉しくなってしまう。そして「後でな」とホールを後にしようとした桃也を見送る京子に、美弦が声を掛けた。
「私たち、二人で風船割ってみます。だから、京子さんは桃也さんと――」
「気を遣わなくてもいいんだよ?」
恥ずかしそうに遠慮する京子だが、桃也が「ありがとな、美弦」と戻って来た。
「俺も、手伝ってもらえると助かるんだけど。甘えさせてもらってもいいか?」
「任せて下さい。コイツが脱走しそうになったら、私がちゃんと仕留めて見せますから」
どんと胸を叩く美弦とは対照的に、修司はふるふると首を横に振る。
「心配しなくても修司はそんなことしないでしょ? じゃあ、二人とも仲良くね」
京子は申し訳なさそうにしながらも嬉しさを滲ませ、今度は青色の風船を取り出した。
前よりも一回り大きく膨らんだ風船が天井に辿り着くのを見届けて、「三十分くらいは留まってると思うから、それまで頑張ってみて」とエールを残し、京子は桃也とホールを後にしたのだ。
 




