5章 過去-3 倒れた彼女が見せた別の顔
扉の外で見張りをしている護兵に水を買いに行く旨を伝えると、袖の上からでも良く分かる筋肉隆々の腕を伸ばして「突き当りになります」と教えてくれた。
廊下はひっそりと静まり返っていて、硬い床が足音を響かせる。
修司たちの居る二階にはキーダーの個人部屋がずらりと並んでいた。
部屋主を示したプレートの中に『田母神京子』の名前を見つけて、修司はあっと目を見開く。彼女に会うことを密かに楽しみにしていたのだ。かつて平野のバーの前で倒れ、あの頑固な一辺倒をあっさりとキーダーにしてしまった女性は、恐らく彼女だろう。
明日には会えると聞いて興奮するこの気持ちは、握手会前日の譲と似ているのかもしれない。
中央の大階段を挟んだ反対側は共用スペースになっていて、一番奥に食堂があった。
廊下の突き当りが見えた所で、修司はふと足を止める。
何かが聞こえた気がした――そう思って耳を澄ますと、確かに雑音のようなものが遠くで鳴っている。
人の声だろうか。距離が邪魔してハッキリと聞き取ることができないが、修司は聴覚をその音に集中させながらそろりと食堂へ向かった。
徐々に大きくなる音が威嚇する獣の声にさえ聞こえてきて、修司は息を呑みこむ。音の主が判明したのは、食堂のすぐ手前まで来てからだ。
声で相手を察することができた。綾斗だ。しかし獣のような唸り声はそのまま響いている。
「もう。桃也さんいないとセーブできないんですか?」
疲れの混じる呆れ声。廊下の右側の壁が切れた所で、制服を着た綾斗の背中が見えた。
修司は声が届くギリギリの位置にあった背の高い観葉樹の陰に隠れ、そっと様子を伺う。
オープンスペースの食堂はすっかり照明が落ちていたが、木のパーテーションで区切られた廊下側の空間にはソファと自動販売機が並んでいる。こんばんはと挨拶して用を済ませればいいのだが、プライベートであろう状況に足を踏み入れることを躊躇ってしまう。
姿の見えない相手から「うぅ」と悲痛な声が漏れる。
獣の唸り声だと思ったものは女性の声だった。何度も声を絞り出した後、息も絶え絶えに「もうダメ」と零す。
衝動的にもう一歩二人に近付くと、もう隠れる場所はなくなっていた。同時に女性の姿が視界に飛び込んできて、修司は思わず「あ」と声を漏らしてしまう。
仁王立ちになった綾斗の前で、ソファに全身を預けた女性が、仰向けに晒した顔を真っ赤に火照らせて肩を上下させる。白いシャツに紺のタイトスカート。ワイン色のハイヒールが床に転がり、パンストで覆われた足が内股で床に投げ出されていた。
具合が悪いのかと思ったが、その予感をすぐに否定する。もっと当てはまる状況を知っている。
酔っ払いだ。
この場に居合わせてしまったことに気まずさを感じながら、修司はその場に立ち尽くしてしまった。きっと綾斗は修司に気付いているだろうが、二人ともこちらを気にする素振りを見せない。そして、彼女が誰であるかはすぐに理解することができた。
「だから俺が代わりに行くって言ったじゃないですか」
「綾斗飲めないじゃない! 折角二十歳まで待ってたのに、って。あぁ、気持ち悪っ……」
ようやく彼女の言葉を聞き取ることができた。意識はあるようだが、時折背を丸めて目をきつく閉じている。綾斗はそんな彼女の横に浅く掛けて背中をさすった。
「嫌そうに言わないで下さいよ。そういうのをパワハラって言うんですよ。まぁあの人たちの宴席もパワハラまみれなんですけどね」
手慣れた様子で介抱しながら、綾斗は「京子さん」と彼女を呼んだ。予想通り、田母神京子だ。けれど、大舎卿のイメージをあてて作り上げてきた聡明な彼女像とは大分掛け離れている。
「意識があるだけ上出来です。もっと酷いのを予想してましたからね。でも、最初から俺が行った方があの人たちだって諦めたんじゃないですか? 俺の事、もっと頼ってくれて構わないんですからね? 自分の事労って下さい」
うっすらと漂うアルコールの匂い。京子は酒気を逃がすように大きく息を吐き出して、仰向けに身体を捻った。目を閉じたまま暫く会話が途切れる。寝てしまったのだろうかと表情を伺うと、修司の視線を感じ取ったかのように「あぁ」と大きな瞳がパチリと開いた。
京子は片腕を軸にして体を起こそうとするが、「どうしたんですか」と綾斗に押し戻される。
「昨日言ってたでしょ、近藤武雄の話。詳しく教えて」
「詳しく言った所で覚えてられるんですか。明日話しますよ。それより、京子さんがここで潰れてるとアルガスの風紀を乱しますからね。移動してもらいますよ」
立ち上がり掛けた綾斗の手を引いて、京子は「もうちょっとだけ」とソファに顔を伏せた。
綾斗は「はいはい」とあしらい、繋がれた手を彼女の顔の横へ移動させた。
京子が口にした男の名前には聞き覚えがあった。けれど記憶には繋がらず、修司はそのまま聞き流してしまう。尋ねる程の興味も湧かなかった。
「ねぇ綾斗、明日、桃也が帰って来るんだよね?」
目を閉じたまま京子は顔を少しだけ綾斗に向ける。
「今日、長官を送った足でコージさんが向こうに入ってるんで、明日の夕方には帰還予定です」
何処か不満気に淡々と答える綾斗とは対照的に、京子は「よかったぁ」と顔をほころばせた。目を細めて笑んだ顔は、少しだけ律に似ている。
安心しきった顔で、京子はそのまま寝息を立て始める。獣とまではいかないが、少々荒々しい鼾が静まり返ったホールに響いた。
「あぁ、寝ちゃった」
しょうがないなと零して、突然綾斗が修司を振り返る。「予想と違った?」と唐突に聞かれ、修司は考える間もなく「はい」と答え、そっと二人に近付いた。
「年に何度かアルガスの各支部から代表を募って、交流会と言う名の飲み会があるんだよ。ノーマルの熟練幹部も居るからね、大酒飲みばっかだって話。京子さんも弱いのに好きだからね」
「そうなんですか。京子さんは大丈夫なんですか?」
「久々に酔ってご機嫌だから平気だよ。もう少ししたら部屋に連れてくから気にしないで」
苦笑して、綾斗は京子から少し距離を置いて座り直した。
「それより、君がキーダーになるかは別として。ここに居る間はトレーナーっていう教育係を付けさせてもらうんだけど、君のトレーナーが明日ここに来るから」
「もしかして、桃也さんって人ですか?」
「そう。ここに所属してるキーダーの一人で、京子さんの恋人」
「恋人!」と思わず出してしまった声に、京子の鼾が重なる。
「桃也さんの拠点は一応ここなんだけど、外の仕事が多くてあんまり居ないんだよね。今回もひと月ぶり。でも君のトレーナーって事で暫くは留まれるだろうし、京子さんも嬉しいんだよ」
キーダーの中でも仕事は色々あるらしい。修司は話を聞きながら何度も大きく頷いた。
「あと、これは俺からの個人的な頼み。来たばっかりの君に余裕なんてないだろうけど、美弦の事色々気に掛けてもらえないかな?」
思い悩んだ表情を浮かべて、綾斗が肩を落とす。
「トレーナーの俺には弱音吐いてくれないから。真面目だし能力はある筈なのに、彼女の中の目標値が高すぎて、実際とのギャップに自己否定気味なんだよね。そんなに急ぐ必要ないのにさ。君には何でも言えるみたいだから、側に居てくれるだけで彼女も発散できると思うんだよね」
発散とは当たり散らすことじゃないだろうか。美弦が修司に対する『何でも言える』の意味は、綾斗の言うものとは大分違う気がする。
「俺のできる範囲なら」
彼女が自分に本音を吐露してくれるとは思えないが、力になれたらとは思う。少しずつ芽生え始めたキーダーになりたいという気持ちは、世界平和や英雄の称号の為ではなく、美弦と同じ位置に立って事情を共有したいからなのだ。
それが颯太の思いを振り切ってしまうことだとしても……。




