06 深海 著 さくらんぼ 『口づけ』
のんびりと天空の島に住んでいる二人のお話です。
登場人物
レク:見た目十二才ぐらいのメニスのボクっ子。レナンに変若玉を飲ませて不死身の魔人にした。
レナン:かつて黒き衣の導師だった。今はレクの保護者兼恋人。
天を仰ぐ。
雲海の上に広がる青空はとても澄んで蒼い。
まぶしさに思わず目をすがめる。
初夏の陽ざしがかなりきつい。
ここは高度二万フィート、天上に浮かぶ島だから、太陽の光が直接降り注いでくる。
黒い衣を着ているのでかなりの暑さだ。
「レナー」
私の子が庭の方から手を振って走り寄ってくる。
私の子はかわいい。
誰もが言うが、本当にかわいい。
見た目十二才、長い銀髪。紫の瞳。華奢な女の子体型。
容姿だけでも相当に萌えるのだが、
「レナ! ごはん作った!」
最近下界へ行った折に、「パン焼き」なるモノを覚えてきた。
「焼きたてだよ。食べて。ねえ食べて」
普通よりかなり黒い気がするパン。そこはそれ、かまどの火ならぬ愛情の火が強すぎたんだろうと
強引に脳内変換して、覚悟を決めて籠から手に取る。
「どう? どう?」
「表面を剥けば食べられる。昨日のよりいいね」
「ほんと? わあ、やった」
ここ数日、私の子は朝早くから一所懸命粉をこねてパンを焼いている。
味見をするのが最近の私の仕事だ。
焦げ臭い味のパンを頬ばりながら、白い頬についているかまどの煤を親指で拭いてやる。
無邪気な笑顔がはじける。
おねだり通りに、庭にどんとレンガのかまどを作ってやった甲斐があった。
試行錯誤して何度も作り直して大変だったが、こんな笑顔が見られるのだから苦労が報われた
感でいっぱいだ。
「でも、メティが焼くパンには、まだまだ程遠いなぁ」
メティ?
ああ……また、メティか。
先日大変喜ばしく大変いい気味でざまあみろなことに、旧知の厄介者カンナ・ジルのところに
嫁が来たのだが、その新妻がかなりできた娘だった。
月一でトオヤ族の街に降りる私の子は、毎回カンナの新居に寄って「素敵なお嫁さん」に
会うのを楽しみにしている。
「メティがね、教えてくれたんだよ」
始めはちょっとした繕い物なるものをレクチャーされてきて、私の黒衣のほつれを直す
つもりが……さらに大穴を開けた。
「メティがね、教えてくれたんだよ」
次の月には、糸紡ぎなるものをレクチャーされてきて、紡ぎ針で指を刺して大さわぎだった。
「メティがね、教えてくれたんだよ」
さらに次の月には編み物なるものをレクチャーされてきて、私に襟巻を編むと宣言して、
結局手首に巻けるか巻けないかぐらいの包帯ができた。
つまり。
「パン焼きも、メティが教えてくれたのか?」
「うん! なんとか基本のパンができたから、今度はいよいよパイ生地に挑戦するっ」
ぐっと拳を握りしめて気合を入れる私の子。顔が恐ろしく真剣だ。
「パイ生地? パイを焼きたいのか」
「うん!」
目を輝かせて言われても。
レク。
君に、で き る の か?
「大丈夫!」
私の子は屈託なく答え、びろっと立派な羊皮紙の巻物を広げて私につきつけた。
「レシピ、ここの記録箱でみっちり調べたから」
なるほど、分かりやすく図解入りか。材料の分量もちゃんと書いてある。
何のパイだ? りんごだろうか。うむ、そうに決まってるな。
私の子はりんごが大好物だから――ん?
りんごにしては粒が小さいものが大量に、完成予定図のパイのてっぺんに描かれている。
これは、さくらんぼか?
「うん、メティがね、大好きなんだよ」
ちょっと待て。ひょっとして。
「できあがったらね、メティに食べてもらうの」
なんだって?
「メティはね、夏に食べるさくらんぼのパイが大好きなの。喜んでくれるといいなぁ」
……。
とりあえず、深呼吸する。ずきずきと痛む我が胸をさりげなく撫でて宥める。
怒っては、いけない。嫉妬など、みっともない。
この数十年間で、なんとか免疫をつけてきたはずだ。
月一でしつこくやってきた腹黒覇王とか。目が見えない赤毛の捨て子とか。
私の子に取り憑いた大陸最強レベルの害虫どもにくらぶれば、ごくごく一般人である人妻など
余裕だ。月とすっぽん、比較にならない。
私の子は、ただ単に珍しがってるだけだ。そうに違いない。
なにせ、「お嫁さん」だ。おめでたい新妻だ。カンナ・ジルの結婚式が実にすばらしく
感動的で夢のごとき光景だったせいで、絶対的な憧れを持ったことがそもそもの原因だ。
そう、私の子は単に「お嫁さん」を、希少価値のある珍しい生物だと思っているだけだ。
動物園の目玉珍獣である、白熊や紅獅子や骸骨竜を見に行く子どもとおんなじだ。
だから落ち着け、私。
まあたしかにあの結婚式の折、棺おけに両足突っ込んだような顔の新郎はともかく、
十六歳の新婦は非常に清楚で慈愛に満ちた顔をしており、まさしく女神のごとき美しさだった
のは認めよう。
私の子より格段に落ちるが、美少女の範疇に入る顔立ち。
才色兼備で狩りも家事も完璧。気立てもすこぶるいい。
私の子がたちまちなついてしまったのは、当然といえば当然だ。
この子は、優しい母親の愛を知らないから……
「さくらんぼの木ってうちの果樹園にあったよね」
「二、三本あったように思う」
「だよね。絶対、すごいの作ってみせる!」
すごいのって……。形容詞が不穏だ。
なんだろう、この気合の入れ方は。ちょっと尋常ではない。
不安を呑み込む。こげた味のパンと一緒に。
気のせい。これは、絶対に気のせいだ。
天空の島の果樹園はドーム型の温室で、さほど手入れをしなくともいろんな種類の果実が
たわわに実っている。
温度管理、光合成促進の光量調整、灌漑、剪定などの諸作業はすべて自動機械で行われるので、
私たちが手をかける必要は全くない。常時なにがしか旬の果実が実るよう設計されており、
私たちの食卓は一年中豊かだ。
庭園に植えられている金のりんごの木は例外で、これだけは私の子が一所懸命毎日手入れしている。
本日、私の子はその愛してやまないりんごの木を素通りして温室に入り、さくらんぼの木を探した。
さっそく見つけるや、満面の笑顔。
ちょうど旬の時期と合うように収穫できるよう設計されているものだから、木には赤い実が
鈴なりに成っていた。
私の子は脚立の上で背伸びをして、鼻歌交じりにさくらんぼを籠いっぱいに採取。
それから庭のかまどの前に置いた作業台でバターを入れ込んだ粉をこねまわし、氷水や牛乳を
加えて、一所懸命パイの生地を作り始めた。
ただ材料を混ぜればよいというものではないようで、めん棒でのばして三つ折りにしてから
しばし時間を置く、という作業を何度も繰り返した。生地がなじむのを待つ間には作業台に
頬杖をつき、生地やさくらんぼに向かって呪文のように何度も何度も唱えていた。
「おいしくなってね。すごーく、おいしくなってね。大陸一、おいしいパイになってね。
メティが喜びますように。メティがびっくりして、あっという間に全部食べちゃいますように」
さくらんぼは丁寧にひとつひとつ種とヘタを取られ、さっと砂糖とワインとで混ぜられて、
赤い鋼玉のようだ。
「レク、がんばってるね」
私がおそるおそる声をかけると、私の子はグッと真剣な表情で拳を握って気合を入れた。
「うん! メティに、絶対おいしいパイをあげるんだ!」
……。
気づかれないように離れてから深呼吸する。ずきずきと痛む我が胸をさりげなく撫でて宥める。
怒っては、いけない。嫉妬など、みっともない。
そのパイ生地を地べたに落としてやりたいとか、さくらんぼを全部食べ尽くしてやりたいとか、
そんな子どもじみた考えなど、露ほども抱いてはいけない。
作業の邪魔をするべく、寝室に連れ込む力技を今すぐかましたい気がむくむくと湧いてくるが――
自重しろ、私。
私は分別ある大人だ。この子の伴侶になって何年経った?
たかだか十六歳の「お嫁さん」という珍獣に対して、何を動揺している?
不安など、杞憂にすぎぬ。
近いうちに確実に、物珍しさは常態となるはず。
私の子があの珍獣に対して抱いている関心など、じきに薄れてなくなるだろう。
そう、近いうちに――
たぶん一年もすればメティはカンナ・ジルの子を身ごもるだろうから、私の子の関心はメティのお腹の中にいる奴に移行す――
ってそれではだめだ。赤ん坊だと? しかもカンナ・ジルの子?
長年レクの中に住み着いていて、その体を支配したことすらあるあのカンナの?
ようやく人間に生まれ変わって独り立ちしたと思ったら、ことあるごとにレクレクと
すがってくるあのカンナの?
つまり、レクの分身の子ども?
……。
……。
……だめだ。およそ勝てる気がしない。
かわいい赤ん坊といい年した男。どう考えても、勝負にならない。
赤ん坊が男の子でも女の子でもどちらでも、私の子は狂喜するに違いない。
なにせ、かつて私に黙って捨て子をこっそり拾って、隠れて育てていた前科がある。
『ボクの子どもだよ。認知して』
さらりと言われたあの衝撃の瞬間を思い出すと、今でも気が遠のく――。
『……親御さんに返してきなさい』
『この子、捨て子だよ? 砂漠の国の、スラムのはじっこで拾ったの』
『所有の印がついている。これをたどれば誰の子かわかる』
『やだ、ボクが育てる』
『レク、赤ん坊は仔猫や仔犬じゃないんだよ』
『やだ! やだ!』
無理やり赤子を本来在るべきところに返したら、私の子は泣きじゃくって私を罵り、家出した。
宥めすかして連れ戻してなんとか仲直りしたものの、今でもあの捨て子には未練たらたらで、
天からひそかに見守っては一喜一憂している。
こんな調子なのだから、もしカンナ・ジルに子ができたら……
最低でも名付け親になるとか、最悪だと養子にするとか、言い出すに決まっている。
な ん と い う こ と だ……。
「どうしたのレナ、頭抱えてしゃがみこんで。頭いたいの?」
「い、いや。なんでもない。大丈夫だ」
レク。私は君と二人きりで、平穏に暮らしたい。誰にも邪魔されずに。
ただそれだけが、望みなのに――。
「レナ、かまどに火を入れてくれない?」
「あ、ああ」
よろよろ立ち上がり、かまどに火を入れてやると。
私の子は嬉々として、整形してさくらんぼをのせたパイ生地を窯にそっと投入した。
たちまち鼻をつく、香ばしくおいしそうな香り。
「どうか、うまくいきますようにっ」
どうか、消し炭に――。いや、だめだ。そんなことを願っては。
沸き起こる自己嫌悪。
頼むレク。私のレク。どうかそいつを……焦がしてくれ。
その日の夕方、私の子はいそいそと鉄の竜ロンティエに乗り下界へ降りた。
焼きたてのさくらんぼのパイと生のさくらんぼを入れた籠を、後生大事に抱えながら。
かまどの神は奇跡を与えたもうて、私の子にこの上ない喜びを与えたのである。
そう、私にとっては無情なことに、でき上がったのだ。焦げていない、まったく黒くない、
ごくごく普通の、さくらんぼのパイが。
「メティー!」
はじける笑顔の私の子は、ロンティエから降り立つなりカンナ・ジルの家へ走った。
ああ、危ない。雨上がりのトオヤの街。発展途上のこの街は、道路という道路に石畳を
敷いている最中で、そこかしこにでこぼこの水溜りがある。
レク、そんなに勢いよく走ったら――
「きゃああああ!」
やっぱり。見事に水溜りにはまり、滑ってすっころぶ私の子。
宙に舞い上がるパイ入りの籠。
私の子の目の前で、大きな水溜りめがけて籠が落下していく。
このまま落ちれば……あれがダメになれば……。
醜い願望が一瞬心をよぎる――。
「いやああああ!」
哀しい悲鳴に、私はハッと我に返った。
籠が実にゆっくりと落ちていくように見える。
その一瞬で私は悟った。
私の子は、一所懸命作ったのだ。精魂込めて作ったのだ。
私のためではなく他の奴のためだが、それでも真心を込めて作ったのだ。
その努力を水泡に帰する? 泥水だらけにする?
だめだ、そんなことは。絶対だめだ――!
気づけば。我が腕は前方に伸びており。体は勢いよく跳躍しており。前方の水溜りに
着地しようとしていた。
ざぶりと水しぶきが上がる。滑り込んだ水溜りは、意外に深い。一瞬でずぶぬれだ。
けれども。
「落とすものか!」
私はしっかり受け止めた。パイの入った籠を。
腕になんとか収まったそれを大事に掲げ、後ろを振り向く。
私の子が、目を見開いて私を見つめている。
「パイは無事だよ、レク」
せいいっぱい微笑んでやる。たちまち、私の子の表情がたまらなくかわいらしいものになる。
私に対する賛辞と尊敬と。愛情あふれるまなざし。
「レナ……! ボクのレナ! すごい! ありがとう!」
レク。私のレク。君の泣き顔を見なくて済んで、本当によかった。
「レナ、最高! 大好き!!」
レク、今、君の瞳には唯一人――私しか映っていない。私しか、見つめていない。
私は悟った。
おのれが大いなる勝利を手にしたことを。
泥水まみれになった私たちは、カンナ・ジルの嫁からびっくり顔で迎えられ、浴室で
湯をもらった。
私の子はまるで英雄でも見る目つきでうっとり私を眺めながら、私の背中を流してくれ、
小さな手で一所懸命私の髪を洗ってくれた。
他人様の家の浴室なので「自重」せねばならなかったのが大変辛かったが、楽しみは
家に帰ってからにとっておこうと何とか我慢した。
風呂からあがるとすでに茶が入れられていて、私の子が作ったパイが主役よろしく、
卓のど真ん中に堂々と鎮座していた。
「素晴らしいわ。さくらんぼがとってもきれい。初物かしら? もう市場に出ているの?」
「ううん、ボクんちの果樹園に成ったのを取ってきたの」
「まあすてき。ありがとうレク」
幸いカンナ・ジルは父親と一緒に役場で書類の山と格闘しているらしく、家にはいなかった。
くそったれな奴の顔を見ないで済んだのは、なにげに僥倖だ。
カンナの嫁は私の子が作ったパイを褒めちぎり、ひと口かじってほっぺたが落ちそうだと
述べてくれた。
素人の作ったごく普通のものをずいぶんと持ち上げてくれて、私は彼女に深く感謝した。
やはりこの嫁はできがいい。
しかし私の子はそわそわして、お嫁さんをチラチラ見ていた。何か気になることでもあるかのように。
カンナの嫁が席を立って厨房に皿を下げると、私の子は生のさくらんぼの入った籠を抱え、
彼女にちょこちょこついていった。
「あの、あの、メティ。約束、覚えてる?」
そんな声が聞こえてきたので、私は眉根を寄せた。約束、だと?
思わず腰を浮かして席を立ち、厨房へ近づいて耳をそばだてる。
「約束?」
「夏になって、さくらんぼのパイを食べる時がきたら教えてくれるって」
「あ、ええとたしか……キスが上手になるおまじないだったかしら?」
な……んだと?!
「うん、それ! 教えて。今すぐ教えて。だからボク、夏になってメティが作ってくれるの
待ちきれなくて自分でパイ作ってきたの。籠の中に生のさくらんぼ、いっぱい入れてきたの。
さくらんぼをつかうんでしょ?」
私の子は籠の中からさくらんぼを取り、カンナの嫁に渡した。
嫁は茎つきのままさくらんぼをもぐもぐ。私の子も、さくらんぼを口に放り込んでもぐもぐ。
「ええとね、舌で茎を丸めるようにするのよ」「ふにゅ?」
「舌を縦にして、軸を犬歯に引っ掛けるの」「ほにゅ?」
「歯の裏に押し当てて、輪に通してみて」「うにゅうう!?」
カンナの嫁は手のひらに、ぷっとさくらんぼの茎を出して見せた。なんとその茎は
くるくる丸まって、きれいな結び目になっていた。
なんと器用な舌なのだろうか。
しかしこれが、おまじない?
「始めはなかなかできないと思うけれど。できるようになったら、キスがとっても上手に
なるって言われてるわ」
なるほど。確かにこんな芸当が出来るぐらいの舌なら、口づけどころか……。
いやその。やはりカンナ・ジルにはもったいなさすぎる嫁だ。
「じぇ、じぇったいできるように、がんばる!」
私の子は口の中でふがふがとさくらんぼの茎を転がした。
「い、いつもね、レナからばっかりれね、ボクの方からはね、その……さっぱりで、
ごめんなさいらから。ふがごご」
レク? 大丈夫か? 喉に詰まらせたんじゃないか?
「ごふっ。だからね、口づけ上手になってね、レナに喜んでもらうの」
私の子は口に人さし指を当ててカンナの嫁に懇願した。
「あのね、いまの、ないしょね? レナにはないしょね?」
嫁がうなずいて微笑むと、私の子は彼女の両手をぎゅうと握った。
「メティ、ありがとう。ほんとにいつもありがとう。おかげでボク、レナに、ちょっとだけ
お嫁さんらしいことできるようになった。また教えて。いっぱいいっぱい教えて」
「もちろんよ、レク。こちらこそ、パイを本当にありがとう」
まさかレク。
カンナの嫁にずっと張りついてたのは……
繕い物やパン焼きを教えてもらったのは……
単に「お嫁さん」がもの珍しいからではなくて……
ああ。
私の子は、ほとんど母親を覚えていないから。
今までだれも、家事なんて教える人がいなかったから。
だから……
私は二人に気づかれぬよう忍び足で卓へ戻り、目尻にじわじわ滲んでくるものを拭いながら、
さくらんぼのパイにかじりついた。
口の中に甘酸っぱい味が広がる。
レク。私のレク。とてもおいしい。これは、文句なしに世界で一番。
最高のパイだ。
「あの、レク」
こうして私はこの上もなく幸せな気持ちで天の島に帰ったのだが。
「んー? んー?」
「いいかげんに、さくらんぼの茎を口から出しなさい」
「んー……」
眼の前にはさくらんぼが山のように盛られた籠と困った顔の私の子。
茎を口の中で結ぶ芸当は相当に難しいらしい。カンナ・ジルのところから帰ってきてからこっち、
ずっとさくらんぼばかり食べて挑戦しているのだが、なかなかできない。
しびれをきらして、顎をくいと支えて口づけしてやろうとしても。
「だめ! 口の中に入ってるから」
拒否してくる。
「もう少し待って。もう少し。これ、できたらね」
これはもしかして。口の中で結び目ができるまで口づけはお預け、なのか?
レク、その真剣な表情とけなげな努力はとても嬉しいが。
あれから三日も口づけひとつない超ストイックな生活とか、それはちょっと……
途方にくれて夏の空を仰ぐ。
天が近いこの島では、太陽も月も星もとても近くに見える。
しかしこの夏の太陽はいつも思うがまぶしすぎる。
肌を刺す陽光。ひたいに浮かぶ汗。じっと待っているだけだと、いらいらが募る。
ダメだと思いつつも、私は一所懸命口をもぐもぐさせている子の肩をつかんでしまった。
「レク、もういいから」「だめ!」
「もうやめなさい」「だめー!」
「いいから」「だ……!」
強引に口づける。
「ふ……ぁ」
逃げられないように抱きしめて ゆっくり舌を絡ませたら。
「んん……」
口の中にさくらんぼの茎が入ってきた。
「レク……レク……」
「ふぁ……」
しばらくいったりきたり。
夢中でさくらんぼの茎を舌でやり取りしていたら、手ごたえを感じた。
……もしや?
唇を離して、口の中で受け取った茎を手のひらに乗せてみる。
「わあ!」
私の子が、歓声をあげた。とても嬉しそうに。
「やった! ねえすごい! できてるよ!」
きれいに結び目ができた軸を握りしめながら、私はこつりと私の子のおでこに額をつけ。
それからもう一度そっと口づけた。私の子は私の首に腕を回して応えてくれた。
「ねえ、もういっこ、作ろ?」
私は笑いながら籠からさくらんぼを取って口に放り込んだ。
とたんに私の子が笑って、さくらんぼを奪おうと私に口づけてきた。
いい香り。甘酸っぱい味。
レク。私のレク。私たちは二人でなら、なんでもできる。
きっと、なんでも。
口づけ(桜桃) ――了――
深海さんのお話をもちまして、『自作小説倶楽部会員作品集 第10冊』は打ち止め。第11冊でまたお会いしましょう。ご高覧に感謝いたします。




