03 らてぃあ 著 嘘 『世界はウソで回っている』
最初の日の夜
神隠しに遭った兄貴が20年ぶりに帰って来た。
「まだお前がいるとは思わなかった。空き家で野宿よりずっとましか」
「一度外で就職したけど、戻って来たんだ」
僕の言葉を聞く素振りも無く兄貴は台所にあった焼酎をぐひぐひ飲み干し、梅酒にまで手を出すと着替えもせず僕の布団で寝てしまった。
よく眠っているので遠慮なく兄貴の顔を観察してみる。髪は金色に染めているが目元や顎の肉はたるみ顔色は悪かった。四十路相応というよりさらに老けている。確かに兄貴なのだが面影は注意して探さねばならなかった。
〈ススムは神隠しに遭ったんだ〉
昔、婆様が僕にそう言った時、神様と楽しく遊び暮らす様を想像したが、そうでもないらしい。
電気を消し、僕は台所の床で毛布にくるまった。これからここで暮らすなら兄貴が畑仕事を手伝ってくれるか考えながら眠りに落ちた。
次の日の晩
「金貸してくれないか」
兄貴の最初の一言だった。朝僕が出掛ける時にはまだ寝ていて、帰って来ると台所で鶏肉を焼いて食べ、梅酒を飲んでいた。
「どうして? この村じゃお金はかからないよ。農協の小川さん覚えている? 仕事を紹介してくれるって言ってたよ」
兄貴の帰還は村だけでなく近隣の噂の的になっていた。
「近くに来たから寄ったまでだ。こんな田舎に住む気はないね。どうせ口さがない連中が面白おかしく脚色するんだ」
「どこへ行くつもりだよ?」
「とりあえずフィリピンだ。パスポートも用意した。偽造だがよく出来てる」
〈偽造〉、驚いた。そんなものを使うなんて。僕も何度か海外へ行ったことはあるが合法的な手続きしか知らない。
「今は持ち合わせがないよ」
「じゃあ明日お金を下ろしてくれ。それくらいの暇はあるだろう」
「今は金が無いよ。一週間後に野菜の代金が入るからちょっと待って」
「仕方ないな」
兄貴が納得したのを見て複雑な気分だった。貯金ならある。兄貴を引き留めようと咄嗟に嘘をついたのだ。
3日目の昼
兄貴が嫌がる村の好奇の視線はなくならないどころか爆弾が訪ねて来た。
「あたしミユキ。よろしくね」
可愛らしく微笑んだピンクの霞をまとうような女の子に、つい身分証を求めたら保険証で彼女は23歳だと確認出来た。化粧は濃いが童顔で女性というより女の子という呼称が合う。
「兄貴とどういう関係でしょう?」
僕の質問に道案内で付いて来たおばちゃん3人が目を輝かせる。
「ニンチしてもらうの」
一瞬思考がフリーズしたが母子手帳を突き出され腰を抜かしかけた。ふんわりしたワンピースは彼女の体形を巧みに隠していた。
たちまち我が家におせっかいおばちゃんが数人乗り込んで来て兄貴は押入に籠城した。
妊婦が騒ぎの場に居てはいけないとミユキは早々に台所に追い出された。
「コレ食べていい?」と言ってミユキがトマトにかぶりついて食べ始めたのでキュウリも切って温かいお茶を入れてやる。
「兄貴とはいつ、どこで知り合ったの?」
「2ヶ月くらい前よ。あたしが働いてた〈パラダイス〉ってお店にススムちゃんが雇われたの。貧乏な女の子から3万円借りて、お腹の子の父親になってくれるって約束したのに逃げちゃうんだから、ひどいのよ。あなたのお兄さん」
絶句。
お茶を啜りながらミユキは全身で僕の反応をうかがっている。見た目は軽いが兄貴の居場所を突き止めたこと、おばちゃん連中味方に付けたことといい馬鹿ではない。そして必死だ。
僕は対立を諦めてミユキを家に泊めることにした。押入れになっている部屋を空ければいい。
おばちゃんたちは兄貴を〈人でなし〉に決定して夕飯前に帰って行った。
4日目の夕方
家に帰る途中の公衆電話の前でミユキと出くわした。
「携帯つながりにくくて不便だろ」
「全然、連絡取る友達もいないの」
「ずっとここに住むつもり?」
「子供を育てられればどこでもいいわ。ここは食費はかからないみたいね」
ミユキが見せたビニール袋は村人からもらった食べ物が詰まっていた。
家に帰って、ミユキが寝るのを確認してから僕は兄貴を押入から引きずり出した。
「どうするつもりだよ。あの娘のことも自分の人生も」
「俺には無理だ。第一借金取りに追われている。一番ヤバい所に500万円払わないとコンクリ詰めだ」
「500万?!」
その時、外に車が停まる音がした。
兄貴は飛び上がって、一度裏口に走ったが解錠出来なかったらしく再び押入に潜り込んだ。
「俺は居ないと言ってくれ」
しかし鍵が掛かっていなかった玄関から頬に傷のある男が飛び込んで来て、僕は間一髪で衝突を避け、男は押入から兄貴を引きずり出した。
「もう逃さん!腎臓売ってでも金を返してもらうからな!」
ヒィ――っと兄貴が小さく悲鳴を上げた。借金取りはそのまま兄貴を引きずって行こうとする。
「待って下さい!」
借金取りの視線が僕に向いた。ナイフでなぞられるように顔の皮膚がちりちりした。
「いくら払えば兄貴を見逃してもらえるんでしょう」
「あんたはこのロクデナシの弟か。儂のとこは悪徳じゃないから基本は本人に払ってもらうことになってる。どうしてもと言うなら払って貰おう。損金付けて600万」
僕は婆様の肖像写真の裏から預金通帳を取り出し、印鑑と一緒に借金取りに渡した。通帳を開いた借金取りが数字と僕たちの顔を交互に見た。
「オイ、こりゃあ、とっくの昔に引き出して口座はカラッポなんてことじゃないのか?」
「まだ600万全額入ってます。もともと爺様の遺産で兄貴の取り分です」
借金取りは外で待たせていた子分にそれらを渡すと居間にどっかと座り込んだ。
5日目
残高があることはすぐ確認出来たが、その他の手続きで僕たちが解放されたのは 次の日の昼過ぎだった。
借金取りが帰ると兄貴の物言いたげな視線に気が付いた。
「嘘を言ったのは謝るよ。追われてるなんて思わなかったから」
「いいよ。爺様の遺産なんて俺が持ってたら、とっくに使い切っていたはずだ」
「これからどうする?」
「やっぱり出て行く。お前は覚えていないだろうけど父さんや母さんが生きていた頃に住んでいた狭苦しい団地がいまだに懐かしいと思うことがある。子供の頃はずっとそこに帰りたかった」
両親が死んだのはもう30年以上前のことだ。しかし兄貴の人生に影を落としたのは確かだった。
「この村が嫌いだ。俺の家出を〈神隠し〉で片付ける事なかれ主義も。あっさり受け入れたお前が羨ましくもあった」
6日目
兄貴は僕に5万円借りると早めに飛行機に乗ると言って夜明け前に出て行った。兄貴を見送ってすっかり目が覚めてしまった僕は散らかった部屋を掃除してから縁側に座って夜が明け始めた村の景色を眺めていた。
「ねえ、お兄さんが町でどんな生活をしていたか知りたくない?」
いつの間にかミユキが背後に立って言った。振り向くと化粧をしていない彼女の白い顔は弱々しくも美しく見えた。
「知りたくないよ。そんな事より、あの借金取りに兄貴の居場所を教えたのは君だろう」
「そうよ。認知はしてくれないし、とても酷いことを言われたから。怒った? あたしを追い出す?」
「怒ってない。確認しただけ。この家には好きなだけ居ればいい。僕もね。兄貴に言わなきゃならない事をたくさん黙っていたから」
爺様が死んだ後、弁護士の先生に財産目録を見せられた僕は本気で腰を抜かした。いくつかの銀行には8ケタ以上の金額が預けられていた。
爺様はかつて株と不動産取引で巨万の富を築いた資産家だったのだ。勘当息子が僕たちの父親だが、爺様の商売敵はそれに構わす両親を誘拐、挙げ句、殺してしまった。爺様がすべての事業の売却、婆様と孫二人を連れて田舎に引っ込んだのはそれからだ。
遺産で僕は金融を学びウォール街で少しだけ成功した。しかし気が付くと当時の妻を含めてすべての人間が僕の財産を狙っているという妄想にとらわれていて離婚と仕事も辞めて故郷に戻ることを決めた。
目を閉じてミユキの子供が成人するまでの生活費を計算していると隣にミユキが座る気配がした。
了




