01 紅之蘭 著 車 『ハンニバル戦争トレビア会戦1/4』
【あらすじ】
紀元前三世紀、カルタゴの若きスペイン総督・ハンニバルは、アルプス山脈を越えて、イタリア半島に雪崩れ込んだ。
大艦隊と軍団をローマ元老院から託された老練な執政官コルネリアスは、フランスでスキピオの腹を読んで、親衛隊のみを率いて帰還、新設の4個軍団でハンニバルがいる北イタリアにむかう。そして最初の大規模戦闘・ティキヌス河畔での会戦となり、敗北・負傷してしまう。老執政官は、後方に戦線を移し、ロングス執政官麾下にある南方・シチリア方面の軍団との合流を図った。
コルネリアスの息子で騎兵将校のスキピオは……。
ハンニバル戦争
車陣 「トレビア会戦1/4」
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空はどんよりと曇っていた。
薄く覆った雪。
そこを三騎の馬が東にむかって駆けていた。
山脈の北麓をなした台地が、北流する渓谷で途切れ、駒はそこを
馬に乗っていたのは、カルタゴ人の兄弟とギリシャ人からなる三騎だ。往時は鐙が発明されていない。そのため騎兵は馬の腹をしっかりと足で押さえつけるという馬術スタイルだ。
カルタゴ人の兄弟のうち、兄は眼帯をしていて、弟は長いまつ毛をしている。
スペイン=新カルタゴ総督ハンニバルは、二十九歳。アルプス越えの疲労から眼病を患ってしまい、ついには隻眼となった。細面に隻眼の風貌は馬上にあるこの人をさらに精悍にみえさせた。細面で顎が尖っているのがバルカ家の男たちの特徴で、当然、長征に参加した末弟マゴーネも同じだ。
マゴーネはまつ毛が長く、ともすれば、美しい娘のようにもみえる。ハンニバルは、長征の最中、四歳年下である弟の才能を見出し、アルプス山脈を越えてからというもの、片腕として重用し始めた。
ギリシャ人の軍師シレヌスは白髪でノッポだ。ハンニバルの父・ハミルカル将軍にみいだされて家庭教師となり、現在は参謀として、ハンニバルに近侍している。
ノッポの軍師が若い隻眼の総督にいった。
「それがしがローマ軍に潜ませていた密偵の話ですと、ティキヌス会戦に敗れたコルネリウス執政官麾下の北部方面軍の軍団は、ロングス執政官麾下のシチリア島の南部方面軍と合流。北部方面軍はロングス執政官の指揮下に入った模様です」
「して、ロングスの人となりは?」
「平民出の叩き上げだとか」
隻眼のハンニバルがはにかんだ。
「なるほど、平民出の叩き上げか。たぶん、そこが付け目だな」
「兄上、そこのどこが付け目なのですか?」
マゴーネが怪訝そうにその人をみやった。
すると、隻眼の総督に代わって、白髪の軍師が答えた。
「ローマ共和国は、貴族が幅を利かしているのは事実ですが、実力主義という一面もあります。特に軍事方面では、兵士が投票で自らの百人隊長を選び、さらに百人隊長が執政官を選ぶのです。平民出の執政官は、自分がいる平民階層の地位向上のため、貴族階層に侮られぬよう勇敢になる」
「無茶をやらかすと?」
「はい」
なるほどとマゴーネがうなずいた。
三騎が雪原の台地を渓谷に沿って北に駆けてゆき、大河との合流地点にまで行った。
その途中、隻眼の長兄がいった。
「マゴーネ、眼下にみえる渓谷の底と灌木林とをみろ」
「浅瀬。……ローマ軍が渡河するとすればあのあたり。さすればあの林に分遣隊を伏兵として潜ませ、敵主力が通過してから背後を衝く、ということですか?」
隻眼の若い総督が膝を叩いて笑った。
軍師が続く。
「さすがですな」
ハンニバルの末弟である将領が微笑む。
やがて雨になった。
曇天はついにミゾレ混じりの雨を降らせた。
軍師がいった。
「ローマの南・北方面軍を合わせれば四万。われらは三万八千。ほぼ互角ですね」
「師よ。焚火で兵士たちを十分に休ませた上、オリーブ油をたっぷり身体に塗り付け保温に努めるように指示して欲しい」
「心得ました」
どしゃ降りの中、三騎はテントが群れを成している自軍の宿営地に戻った。
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イタリア半島北部・アペニン山脈の山裾がなだらかに傾斜して北麓を形成していた。そこを穿って渓谷をなしたところを北流しているのがトレビア川だ。ここから川沿いに二十キロ下れば本流・ポー河との合流地点になる。
当時のポー河一帯の山間部・森林地帯には、先住民であるケルト系のガリア人諸族が割拠していた。そのただ中である、支流と本流が合流する三角地帯に、ゼアンツアの砦が築かれており、ローマはそこを拠点に周辺諸族を支配化に置いていた。
前哨戦ティキヌス会戦に敗れたコルネリウスは、負傷し、息子スキピオとともに、ポー河沿いに東に三十キロばかり下流に本隊を下がらせ、ゼアンツア砦に入った。しかしそこでは二万近い自軍を収容しきれない。そこで、ピアンツア砦からトレッピア川を南に二十キロ遡ったアペニン山脈に寄った、渓谷東岸・台地上に陣城を構えた。
陣城は、空になった糧秣用の荷車を、テント群の前面に置いて防壁をつくる。荷車を盾にならべる即席の防御陣なものだから、車城ともいう。
やがてそこに。
シチリアに派遣されていた南方方面軍の執政官ロングスが、麾下の南方方面軍二万とともに、やってきた。
側近に支えられ、担架に横たえていた半身を起こした、白髪の北部方面軍指揮官・コルネリウスは、包帯に松葉杖姿という格好で痛々しかった。
ロングスは猪首で筋肉質だ。
外は時折ミゾレ混じりとなる冷たい雨が降っている。
幕舎の入口に立ったその人は、同僚の姿を確かめると、駆け寄り手をとった。
「コルネリウス執政官。カルタゴ軍の麾下・ヌミディア騎兵とは、そのように精強なのですな」
「不覚をとりました。私はこの様だ。かくなる上は、わが麾下の北方方面軍の指揮を貴方に委ねたい」
「判りました」
そのときだ。
幕舎の戸口に馬が駆け寄ってきた。
「父上、カステッジョ村が、カルタゴ軍にみつけられ、占領に至った様子です」
猪首のコルネリウスが顔を強張らせた。
「あそこはローマ軍の穀倉。だが山奥にあってたやすくみつけられるものではない」
「それがハンニバルなのです。かなりの数の密偵を放ち、一大諜報網によって、こちらの手の内を読み切っている。二十九歳という若さだが油断のならぬ男――」
カステッジョ村は、トレビア川西岸・アペニン山脈の袋谷にある。ローマ軍四万は、カルタゴに自軍の穀倉を奪われはしたものの、本国との補給線を保っていたので、まだなんとかなった。
しかし、飢えかかっていたカルタゴ軍が食糧を得て、水を得た魚のように士気を高めたという事実には変わりがない。
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冬至に近い十二月十八日あるいは二十二日は、もやがかかる、雨上がりの寒い朝だった。
穀倉カステッジョ村を奪取したのはカルタゴ軍の本隊である。そのうちの先遣隊が、トレビア川を渡って右岸台地上に駆け上り、ローマ軍四万が駐屯している陣城の左右両端に奇襲をかけてきたのだ。配備されていたのは騎兵隊で各二千騎だった。
陣城への奇襲と迎撃。
ローマ側は寝起きでテントから飛び出した。
騎兵将校スキピオは、他の兵士同様、寝起きで朝食をとっていない。
同僚の騎兵たちが敵に向って罵っているのがきこえる。
「寒いし、腹減ったし。あったまにくる!」
やがて。
敵・味方双方の騎兵たちによる、馬のいななきと剣戟による喧噪に、驚いて飛び起きたローマ歩兵は、上着を着る暇もなく甲冑を身に着け、武器と盾を手にして加勢した。
カルタゴ軍の騎兵一万弱は波状攻撃を仕掛けてくる。
しかしこちらは四万だ。束となってかかれば、どうだろう。
果たして、カルタゴの騎兵隊は、ローマ軍の総がかりに堪切れず、撤収を開始した。
――追撃する!
ローマの全軍を掌握したロングス執政官が、鳴り物をつかって、追撃を命じた。
かくして、コルネリウス執政官ほか傷病兵を除くローマの大軍は、陣城を飛び出してトレビア川の渓谷を対岸に渡り、崖になっている坂道を駆けのぼっていった。
昨夜までのミゾレが入った雨で、川は水かさを増していた。
薄着のまま駆けだしたローマ軍四万は、渡河の際、胸まで冷水に浸り、ずぶ濡れになった。さらに、雪原となった左岸で隊伍を整列したころには、寒さでガタガタ震えていた。しかも空腹だ。こうなると士気もへったくれもない。
トレビア会戦における戦闘・第一段階である。
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官。