「いつまでもいけられよおに」
初めて書きます、エッセイ。
面白いおてがみをくれた姪っ子に感謝を込めて。
五歳の姪から、私の母宛に葉書が届いた。
幼稚園の授業――と呼ぶのかは判らないが――で書いたものだろう。クレヨンでニコニコした似顔絵――と呼べるのかも判らないが――が描かれてあり、その下に一言添えてある。
その一言、姪が手書きした平仮名の文章を読んで、私は笑った。
いつまでも
いけられよおに
何とも気の抜けた字面だ。五歳児の拙い文字だから尚の事。
これを日本語として正しく校正するなら「いつまでも生きられる様に」、意訳をするならば「いつまでもお元気で」となる。
授業内容は《おじいちゃんおばあちゃんへのお手紙》とか言ったところだろう。そうか成る程。曜日感覚を全く失した私はすっかり忘れていたが、去る九月十五日は《敬老の日》だった。意図を汲んでみれば、じき六十歳になるお祖母ちゃんへの労いの葉書だった訳だ。
――ちなみにだが。
お祖父ちゃん、つまり私の父宛でない理由は察しが付く。姪は私と両親の暮らす実家にちょくちょく預けられているのだが、その相手をするのは決まって私と母。父は出勤で不在の場合が多いという事もあるが、例え預かっている内に帰宅しても、預かったのが休日であっても、姪の遊び相手をしない。父は理屈屋と言うか、頑固と言うか、どうも寛容さに欠けたところがあって、ガキの世話が苦手らしい。だから、姪にとってお祖父ちゃんの印象は薄いのだろう。
――それは、兎も角。
この文言には大いに笑わされた。「いけられよおに」は無いだろう。どの地方の方言なのか。いや「活けられよ鬼」などと読んでしまったら何が何だか解らない。止ん事無きお方の命で鬼が活け作りにされてしまうのか。しかも「いつまでも」だ。地獄の鬼が生き地獄である。残酷なのだか滑稽なのだか。
――そんな下らない話も、兎も角。
笑いのネタにするのも飽きたところで、ふと、神妙な気持ちになった。
私の母も《敬老》されてしまう歳なのだなあ、とか。
いやはやあの姪っ子ももうこんなに字が書ける様になったのだなあ、とか。
そんな感慨ではない。
衝撃を受けたのだ。
皆様は《カブトムシの電池が切れた》というフレーズをご存知だろうか。
都会の子供が死んだカブトムシを指して、動かなくなったから電池交換をしようと言った、という都市伝説である。
都市伝説と言い切ったのは、そんな事を口走った――ほざいた、と言い換えても良い――子供が実在したかが不明であるし、電池がゼンマイとされたバージョンも存在するからである。そんな子供が居て欲しくない、という希望もある。
またも余談だが、この都市伝説が発生したのはカブトムシが店頭販売される様になった一九七〇年頃で、七四年には国会の場で問題として持ち出され、同年、かの有名なシンガーソングライター・井上陽水が《ゼンマイじかけのカブト虫》というタイトルの曲を発表している。
似た話に《魚は切り身で泳ぐ》というものがある。二〇一〇年代かその少し前に流行した話だ。最近の子供は魚は切り身で泳いでいると思っている、という抽象的なパターンと、子供に魚の絵を描かせたら切り身の絵を描いた、というやや具体的なパターンのものが見られるが、まあこれも都市伝説と決め付けて良いだろう。
テレビのドキュメンタリー番組やら、ペットショップやらホームセンターやら、いやスーパーマーケットでも魚丸丸一匹の姿を見る機会は沢山あるのだ。それでも魚の像を切り身として認知している子供が居たとするなら、知的障害か発達障害を疑うべきか、或いは先天的に哲学思考を持った天才児である。特殊事例だ。
さて。
都市伝説はものによって問題提起の意味を内包する。上の二例もそうだ。
共通する問題は三つ言える。《児童の知識・知能低下》《自然との隔絶》そして《生死の概念の欠如》である。
私がこんな馬鹿馬鹿しい都市伝説を持ち出したのは、姪の書いた文言を読んで、この三つ目の問題《生死の概念》について考えさせられたからだ。
「いつまでも生きられる様に」
この言葉は一体どこから出てきたのか?
幼稚園の先生がその様に書けと指導したのだろうか。それは考え難い事だろう。先生と呼ばれるだけあって、大学を出て教員免許を持った人達だ。こんな、不躾でどストレートな言葉を子供に教え込むとは思えない。上の「いつまでもお元気で」か「どうか長生きを」くらいが適切だし無難だ。
となると、五歳の姪が考えた文面か。
或いは、どんな内容が良いか粗方の指導があった上で、姪が選んだ言葉だ。
いずれにせよ、この文の発生源は姪の頭脳にある、という事になる。
――つまり。
私の五歳の姪は《生死の概念》を既に理解しているのではないか。
――そう考えられないか。
話を整理する為に、姪の認知を順を追って辿ろう。
まず、私の母、姪にとっての祖母は今「生きられ」ている。
だが「生き」る事は「いつまでも」と願わねばならないのだ。
だから「生き」ていない状態《死》は時間によって訪れると知っている。
「いつまでも生き」《死》を回避して欲しいと願う事は、つまり《死》が訪れたなら二度と「生きられ」ないと知っているという事だ。
――要約しよう。
祖母の《生》の状態を理解している。
《死》と寿命の存在を理解している。
《死》とは《生》の終わりと理解している。
《生死の概念》をすっかり理解している!
いつまでも
いけられよおに
たった五歳の女児がしたためた手紙。
私は見くびっていた。笑った事を深く後悔した。そして恥じた。
五歳児でも、我我大人と同様にしっかりと《生死観》を持っていたのである。
彼らも生死の宿命を背負った同じ人間なのだ。
子供だからと甘く見てはいけないと、自戒するばかりである。
ところで。
《老い》といずれ来たる《死》を五歳児から突き付けられた母の心情とは――。