一
名前注釈
侑佳・ユカ
和臣・カズオミ
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侑佳は肩を揺すられて起きた。
三分前から先頭車両の隅の席――二人掛けだが向かい側にはない――で眠り呆けていた。
「あの、回送電車なので……」
車掌の男は帽子のつばを触りながら、しどろもどろにそう言った。
侑佳は慌てながら「すみません。今降ります」と立ち上がって、急いでホームに降りた。
「あ、待って!」
ピンクのスマートホンを差し出しながら、男が続いて降りてきた。それは侑佳のスマートホンだった。
侑佳も手を伸ばし、謝りながら男からスマートホンを受け取った。
男はまだ反対の手でつばを触っていた。少し不思議に思った侑佳は、その男をじっと見るなり、それが同級生だった和臣であることを思い出した。
和臣と侑佳はクラス委員だった。もう十三年も昔のことである。和臣は小学生ながら、度胸の据わった男子だった。明るくてサッカーが上手くて人気の男子だった。
「……あたしのこと覚えてる?」
「小学校で同じだったよね。ごめん、仕事なので、じゃ」
和臣は踵を返して車内に戻った。侑佳は自分の胸がいつもより強く脈打っていることに気付いた。
北茨田園線茨田園駅は茨田が広く丘陵地帯ということもあり、それを掘って作られた駅だった。そのため南口は駅と車道とを橋で繋がっている。車道と一番ホーム沿いは緩やかな崖で、そこは夏に大がかりな雑草刈りがあるものの、それ以外の季節は伸びっぱなしの雑草と、不規則に並ぶ桜の木が生えていた。
橋に一番近い場所に生えている桜だけは八重桜という種類で、侑佳はこの桜が好きだった。
いや、侑佳がとりわけ八重桜を気に入っているだけで、好きなのはこの橋から見渡す景色全てだった。坂さえなければ、家から走って三分もかからないはずなのだが、この坂のせいで毎朝五分は走っていた。毎朝線路の遠くの方に見える朝日はいつも変わらず綺麗でいたから、侑佳は全力で坂を駆け上がることも気に入っていた。
侑佳は欄干に寄りかかり、月を見つめた。
肌寒い風が体中を撫で、すり抜けていく。
卒業式の後、この街で一番大きいレストランで食事会をした後だった。
和臣の見送り会をすると誰かが言いだして、クラスメイト全員で和臣を茨田園駅まで送ることになった。和臣は一人だけ進学先が違った。それに三学期には中学の近い市に引っ越していたから、一人だけ三十分かけて通学していた。だからその日を境になかなか会えなくなるだろうから見送ろうという話になったのだ。
みんな橋の上にいた。和臣以外の誰も改札には近付こうとしなかった。和臣はクラスメイトと別れの挨拶をして、仲のいい男友達と話をして、夕方のチャイムに間に合うようにと時計をチラチラ見ながら別れの日を噛みしめていた。
北茨田園線は一駅区間のみでの運行で、あまり乗客もいない電車だったから、東京にしては運転間隔も広く十五分に一本という具合だった。三時四十五分の電車が発車した時、和臣は「次の乗らなくちゃ」と言って、改札に向かおうとしていた。
侑佳は心細い思いでポケットをまさぐった。手紙を渡すはずだったけど、みんなが見ている前で躍り出る勇気もなく少し寂しそうに俯いていた。渡しに行けないのは他の友達も同じなんだろうと考えると、侑佳にはどうしても渡す気が起きなかった。
「侑佳!」
驚いて顔を上げると、夕日に染まる和臣が頭を掻きながら歩み寄ってきていた。温まった風が体をすり抜けていった。
「あのさ、……ううん。元気でね」
侑佳は何も言えず、強く頷いた。でも、目を合わせられなくて、また俯いた。
いきなり冷えた風が吹いた。
「か、か、和くん、風邪ひかないでね」
侑佳がやっと声を振り絞り顔を上げると、おどけたように和臣は笑った。
「侑佳も。あ、あと。ホワイトデー返せなくて、ごめん」
顔が熱くなるのを感じた。熱が一気に体内を駆け巡り、侑佳は急に顔を背けた。
冷たい風が気持ち良い。
「い、いいよ、全然。あのね、和くん。あの、これ電車で読んで」
ポケットからリボンの形の手紙を渡した。
「うん」
いつの間にか少し遠くの踏切で警報音が鳴り出した。
侑佳はハッとして橋の下を見た。電車は発車しようとドアを閉じた。
電車はあっけなく動き出した。
さっきまで乗っていた先頭車両は後部車両になって、その車掌室の小窓から和臣が身を乗り出していた。
「なんかバカみたい」
ぼそっと呟き、侑佳は電車を見送った。