◆ストーカーは見た
衛は部活動に所属していない。王子も同じだ。
放課後。
教室から出て、二人は昇降口に向かう。
昇降口に到着すると、靴を履き替えている季理がいた。
わずかに身体を前屈させ、左手で左足の上履きを脱がしている。
シャツの上からでもくっきりとわかる豊満な胸もさることながら、折れてしまいそうなほど細いくびれが、美しいボディラインを強調させていた。くの字に曲げられた脚に連動して縮む筋肉は、健康的な脚の艶やかさを引き立てる。張りを持った太腿に優しく添えられたスカートの裾と、その下にいらっしゃるサイハイは至高の美を――――、
「衛、にやけすぎだ……。どうみても危ないやつだぞ」
「うおっ」
王子から声をかけられて、だらしのなかった衛の顔は一瞬にして引き締まった。
おっと、まだ涎が。
「しかし、向井って美人で性格もいいけど、逆に怖いよな」
「どういうことだよ?」
王子から告げられた意味が、衛には理解できなかった。
「だから、あれだけの完璧超人が存在するはずないってことだよ。人間、誰だって弱点はあるだろ」
「そんなことはない! 向井さんに弱点なんて存在するはずがない!」
あってたまるものか。
あんなにも神々しい存在に弱点などあっては、天変地異が起こりかねない。
「まあ、俺も想像できないけど。実はかなりの腹黒だったりして」
「それ以上言うと、残りの高校生活ずっとたまごって呼ぶぞ! いや、やっぱたまこ!」
「わかったわかった。俺が悪かった。だから、どっちも勘弁してくれ」
今にも殴りかかりそうな衛と、右眉をぴくつかせる王子。
一触即発だった。
まったくもって不愉快だ。
しかし、こんなことは日常茶飯事だった。
お互い本気で怒っているわけではない。
冗談三割、本気七割といったところだ。
そうこうしているうちに季理が靴を履き終え、校門に向かっていた。
このままでは置いて行かれてしまう。
とはいえ見失ったとしても、季理の帰り道はすべて覚えているから心配ない。
衛は怒りを収め、目先の問題よりも大事な使命を優先させる。
その使命はストーカーという不純なものなのだけれど。
「俺らもさっさと帰ろうぜ」
「そうだな」
険悪だった雰囲気もあっさりと穏やかなものになる。
熱の上がりやすい王子だが、冷めるのも早いのだ。
衛と王子は靴を履き替え、校舎を後にした。
王子の家は衛と違う方向にあるため、校門でいつもわかれている。
ちなみに季理の家は近くないが、帰る方角だけは同じだった。
「じゃあ、また明日な。向井の後をつけたりすんなよ」
一瞬、肝を冷やした。
季理をストーカーしているのが、王子にバレてしまったのかと思ったのだ。
だが、そんなはずはないと冷静を装い、軽くあしらう。
「しねーよ、じゃあな」
ごめんなさい。します。
王子に別れを告げると、衛は足早に季理の後を追った。
そんなに離れていなかったようで、追いつくのに大した時間はかからなかった。
だが、まだ学校から離れていないからか、辺りに生徒の姿がちらほら見えた。
周囲の人間に悟られないよう、且つ季理から離れすぎないように、ある程度の距離を保つ。
そうして五分ほど歩くと、辺りには衛と季理だけになった。
といっても、衛は季理から見えない位置にいる。
ブロック塀で囲まれた家が、多くある街路を二人は歩いていた。
新築の家や、そうでないものが並んでいる。色や大きさに統一性などなく、様々だ。
季理の帰り道にある電柱、曲がり角、隠れられそうな民家を、衛は全て把握していた。
ストーカーの嗜みである。
ひと気がないときは、季理の優美な後ろ姿をまじまじと見ることができた。
歩き方は格式ばっていないし、モデルのように魅せるものでもない。
自然過ぎた。
こんな人が腹黒なわけがない、と衛は確信する。
だから、王子が言っていたことなどあり得ないと思っていた――。
「きゃっ」
突然、季理が何もないところで転んだ。
助けてあげたい衝動を抑えて、反射的に衛は近くに隠れる場所がないか探す。
幸いT字型の道だったので、華麗なバックステッポゥを踏みながらブロック塀の壁に 身を隠した。
壁に背を預け、季理の様子を窺う。
季理の右膝から血が出ていた。
傷が残ったらどうしよう、と自分のことのように衛は嘆く。
勿論、心の中で。
「いったぁ~~」
へたり込んだ季理は、出血した右足をハンカチで拭っていた。
白かったハンカチが赤く染められていく。
「もう、最悪……。脚に傷が残ったらどうしてくれんだよ」
そうそう、どうしてくれんだよって……………………えっ!?
衛の身体が硬直した。
学校とはまったく違う季理の口調に戸惑っているのだ。
少なくとも衛が知る限り、学校での季理は丁寧語で話している。
清楚な振舞いの彼女に、丁寧語は絶妙に調和していた。
誰もが憧れ、羨むほどに完成された人。それが向井季理だ。
その姿が今、崩れようとしている。
でも幻聴かもしれない。きっとそうだ。そうに違いない――。
「あ~もう、うっぜえええぇええ!」
突然、苛立ったように季理は大声を上げるいなや、ぴたりと動きを止めた。
辺りを見回している。酷く険しい表情だ。
ひとしきり見回すと、季理はほっとしたように溜息をついた。
「誰も見てないよね……」
ごめんなさい、余すことなく見ていました。
知ってしまった真実を、衛はまだ受け入れられなかった。
鮮血で染め上げられたハンカチを右手で握り締め、季理が立ち上がる。左手でスカートについた埃を払う。
身だしなみを整えた後、季理はハンカチをじっと見つめている。
唐突にハンカチを後ろ手に放り投げた。
血を吸い込んだハンカチは、質量を持って空を舞う。
その様子を衛は惚けながら見上げていた。
段々とハンカチがこちらにやってきて……。
ぺたりと衛の額に乗った。
額に乗ったハンカチを緩慢な動作で手に取る。
間近で視認する血は、衛の惚けた顔を一変させるには充分だった。
「うおっ」
思わず声を上げてしまった。
覗かせていた顔をすぐさま引っ込ませ、完全に身を隠す。
これで季理からは衛を見ることはできない。だが、洩れてしまった声は取り返しがつくはずもなく、
「だれかいるのっ!?」
切りつけるような声だった。
張り詰めた空気が辺りを覆う。
季理の足音がこちらに近づいてくる。
このままでは見つかってしまう。
どこかに隠れるところは…………………………………………なかった。
最後の手段を使うしかない。
全力疾走!
「――ッ!」
後方から何か聞こえた気がするが、止まらず逃げる。
会話すらしたことのない自分の後ろ姿を曝しても、どうせ季理にはわからないだろうと高を括ったのだ。
そうして走り続けて体力が尽きた頃、ようやく笠羽家に到着する。
途中、通行人と何度か出くわしたのだが、皆、驚愕した顔で道をあけていた。
そんなに走っているときの顔は酷いのか、と衛は落胆する。
呼び鈴を鳴らした。
家の中からどたどたと音が聞こえてくる。雫の足音だ。
鍵を持ち歩いてはいるのだが、雫に出迎えてもらうために使わないようにしていた。
ドアが開けられると、雫が顔を出す。
「おかえり、お兄ちゃん……って、どうしたんだ、それ!?」
衛の顔を見るなり、雫も先ほどの通行人たちと同じ表情をした。
「雫まで俺をそんな眼で見るのか。そんなに俺の顔は酷いのか。そうかそうか――」
「何いってんだ! そこだよ、おでこ!」
激しく言い立てるようにして、雫は衛の額を指差してくる。
衛は右手を額に持っていき、さすった。
すると、何かが手についた。
「あ、これか」
この後、救急車を呼ぼうとしていた雫を止めるのに苦労した衛だった。