キスプリ
あだ名
魔ミキ→風間美希
キノリ→谷本乃莉
そこで、乃莉はメールを打つのを止めた。それでなくとも難しいカミングアウトをこの際送ってしまいたい。そうすればこの罪悪感や所詮叶わぬ思いから開放されるのではないかと思う。生きた心地のしないこの張り裂けそうな思いに終わりを告げる。
そうしたら、自分はどうなるのだろう?随分と長いこと千鶴を想って来た。千鶴の居ない世界で、過去にする……その決意さえ出来ればいいのに、どこかで今迄通り友達ズラして側に居れるのではないか、どこまでも諦めきれぬ鎮座した根がそこにあった。
「乃莉、ご飯よ」
部屋の固く鍵を掛けた扉越しに母親の声が聞こえた。乃莉は、部屋のドレッサーの鏡で自分の陰鬱とした表情を確認すると悟られぬよう顔を整えるかのように両手で顔を覆った。
古びた階段を降りて、ダイニングキッチンへ着き椅子に座ると母親は言った。
「あんたいつまで、上げ膳据え膳でいるつもり?お料理ぐらいそろそろ覚えてもらわなきゃあお嫁に行けないわよ」
「結婚なんて……料理は母さんが生きている内にはそこそこ出来る程度にはなるわよきっと。この間、カレー作ったじゃない」
ため息を交えて乃莉は言った。
「随分と気の長い話をしてくれるわね、あの綺麗なお友達……千鶴ちゃんってまだ独りなの?」
「うん」
思わぬ所で千鶴の話が出たことで乃莉の心拍数は跳ね上がった。饒舌でない乃莉は相槌を打つのが精一杯だった。
「じゃあ、あんたはもっと後になっちゃうわね」
どういう基準で言っているのか、曖昧だがあの綺麗な子がまだなら乃莉のような地味な顔の子は遅くなる、そう母親は自分に言い聞かせるようだった。
「でも、私からするとお兄ちゃんが先だと思うけど」乃莉には35歳になる離れた場所で暮らす兄のことを持ちだした。
「お兄ちゃんねえ」母親はそう一言吐き出すと何も言わなくなった。固く閉ざした唇が緊張している。それをわかっていて乃莉は時々わざと兄の事を言う。だから、きっと母は兄から受けていた性的行為について知っているのだと思う。一度も、触れては来ないが兄の事となると途端に口を閉ざす。
だが、こんな風にまるで武器であるように振りかざす事が出来るようになるとは、塞いでいた当時からすると強くなったものだなと乃莉は思い、また出勤時間まで自室に引きこもった。
当時、高校1年生の乃莉の異変に気づき、また救ってくれたのは千鶴だった。狂った兄からの行為は絶対に知られたくない。そう頑なにしていたが千鶴は「最近何かキノリおかしくない?」としつこく引かなかった。少し鋭くハッキリとした目がそれを見抜いているようにも感じ取れた。
「どこか、変?」キノリは恐る恐るその理由を聞いた。
「キスプリ、キスプリ見た時から様子が変だなあって、まあキスプリ自体そんなに褒められたもんでもないし嫌悪感を持つ人はいるかも知れないど、リアルに吐くなんてさ。初めは風邪引いてんのかなって思ってたけど、何だか無口さが尋常じゃないっていうかなんて言うか……」
そのキスプリは当時の乃莉にとって色々な意味で衝撃を与えられた。千鶴が見せてくれたプリクラはこの間初めて千鶴に出来た彼氏とのものだった。今迄、クラスメイトやらネット経由やらで目にしていた脳天気、お花畑とキラキラに縁取られたキスとは明らかに違っていた。
千鶴がとにかく嫌そうに写っていた。それが、まるで昨夜の自分が思い出された。一緒にプリクラを眺めていたクラスメイトはその千鶴の態度を笑っていたがその間に、一変に具合が悪くなり、トイレに駆け込み吐いたのだ。何人かのクラスメイトに囲まれ笑っていた千鶴にはてっきり自分の行動のことなど知られてはいないだろうと思っていた。
どこか拗ねた思いもそこにはあったのかも知れない。だけど千鶴は自分のことをちゃんと見ていた。それが乃莉にとって嬉しかった。怯えて冷え固まった心臓に熱い血が流れだしたようだった。
「誰にも言わないでよね」
乃莉は、同居している歳の離れた無職の兄に三回襲われたことを話した。乱暴に胸を揉みしだかれ半裸にされた事、強引に唇を舌で割って実の妹の乃莉の口腔内を犯した事。だが兄は良心の呵責か気の弱さか乃莉はそれまでに奇跡的に処女を奪われずに済み、未遂に終わっていたと言うことを話した。だが誰にも話さず過ごしていたらそれは時間の問題だったと思う。そして、制服のブレザーを脱いでシャツのボタンを外し、その時に出来た肩から背中の痣を見せた。
千鶴は少しの間絶句すると冷静にこう言った。
「まず鍵、いくつかつけようよ。ホームセンターで売ってるじゃん。あと、少しの間私があんたの部屋に泊まるってのはどうかな?」
「え?」
「とりあえず、誰かいたらやり難いはず。それに、こう言っちゃあなんだけど仮に何かあったとしてもあんたの兄貴、男の割にほっそい身体してるし……何とかなるんじゃないの」
「何とか……?」
ある程度大人になって考えてみると、ただの女子高生が個人でこのように対応するのは危険だったと思うが、千鶴には無限の強さが宿っているように当時は思えた。
簡単に親や教師などには言えないことが、千鶴という無鉄砲な友達が全て解決してくれるような気がした。そして実際に、千鶴が泊まりに来たその時からまるで無かったもののように静けさを持って収束した。
千鶴は1週間もの間学校祭の準備という理由を思いついて乃莉の部屋で寝食を共にしていた。実際には、学校をサボって遊んで歩いたり千鶴の家に行ってある程度の時間を過ごしたり、その時に風呂や着替えなどを済まして自由にやっていた。その間兄は何かを感じたのか家を空けだした。何日間かは漫画喫茶へ行ったらしかった事が解っていたが、そのまま戻って来なくなった。母親に聞くと、兄は海外赴任している父親の紹介で寮完備の会社に入ることが出来たと聞いた。突然の展開に驚いたが、千鶴がずっと乃莉の側に居ることで何か察したことに違いなかった。母親かも知れないし、兄本人かもしれない。
「長いこと、お邪魔してすみませんでした。これでいい作品ができそうです」
千鶴は流暢に二人で設定した『学校祭で発表する演劇のシナリオ』について説明した。
学校祭なんて実際には興味もなくむしろ反発していたが、演劇のシナリオづくりと言う設定は読書好きの乃莉がする活動として説得力を発揮していた。
「あら、そう。成功するといいわね」
「ありがとうございます」
姿勢を正して鮮明に言葉を発する千鶴はとても格好が良かった。この頃に、千鶴の姿勢の良さは習慣にしているストレッチによるものだと知った。
「ねえ、千鶴いろいろありがとう……」
登校途中に乃莉は言った。兄が寮に入り当分は戻って来ない事を聞いた夜にも言ったが、改めてもう一度言った。
「……別に、ほっとしている所に水差すわけじゃないけど鍵はずっと掛けておいたほうがいいよ。やっぱり、家族だし何時戻ってくるかわからないからさ。もし、奪われて閉じ込めらるようなことがあってもスペアキーは私が持ってるし……キノリが思うほどの事はしてないよ私ずるいから」
最後に、ずるいと付け足した事が乃莉は気になった。こんなに良くしてくれるのだから千鶴のことも全て知りたいと思うのはおかしいのだろうか。そして力に成れることがあれば成りたいと思う。
「ずるいなんてどうして?」
「……あいつとやっぱ別れようと思うんだよね」
あいつ、とはあのキスプリの男子のことだろう。でも付き合って1ヶ月経っただろうか、自分がドタバタしていたせいでその辺が曖昧だった。千鶴と一緒に居た数日間、一言も彼氏の話など出て来なかった。乃莉はそれは千鶴が自分の置かれている精神状況を案じている為だと思っていた。
「べつに、やっぱ恋愛感情とかってよくわからないし。他の女みたくメール貰ってもうまいこと返せないし、第一あいつの学校の校風を考えたら私みたいな女なんかに構っていたら置いて行かれちゃうよ……」
千鶴は少し愚痴っぽく、いかにも戸惑っているという様子だった。
「あ、いや、メール返せないってのはなんて言うかだるい感じで何も思い浮かばないんだよね。適当に大人を交わす嘘ならスラスラ出てくるのにね」
取り繕うように千鶴は言う。
「それって私のことに関わって疲れたんだよ、きっと」恐る恐る乃莉は言った。千鶴の気持ちを恋愛から遠ざけてしまったのは自分のせいかも知れない。だからといって、どうしていいかは解らなかった。
「違うよ、関係ない。違うの。あんたのことは洒落になんない状況だったんだし、ひとまずはこれで良かったんだから。何もしないでいてあんたに何かあったらきっと後悔したし、……私には多分、キノリの方が重要だったんだと思う。それが今回身に染みちゃってね」
「そう、嬉しいよ」
千鶴が乃莉の存在を優先的に事を進ませ、心を暗くしていた問題を解決させることが出来たということが乃莉の中に、特別に甘く広がった。その嬉しさは今迄の経験には無かったことだった。大好きだ、とその時思った。二人が永遠に守り守られ生きていけるような気がした。千鶴さえ居ればこの世では無敵のように思えた。その嬉しさから千鶴の彼のことなど、千鶴の方が別れを選択し傷がつかなければあとはどうでもいいような乃莉の極端な気持ちがそこにあった。
それから、乃莉は夢見心地のような日々を迎える。千鶴との蜜月に乃莉の気持ちは自覚していた以上に自分でも取り扱えぬ、持て余す程のものになっていった。
風間美希が、相変わらずふざけて千鶴にするキスへ苦しみ始めたのはこの頃だった。
それはまたしてもキスプリとして姿を現した。キラキラと縁取られたそれには、ポエムまで装飾されていた。二人のことだからきっと雑に選択したに違いないと思う。特に深く考える必要は無いのだろうと、その時は気を落ち着かせたがいつまでも頭から離れなかった。
一緒にいたら楽しいね
これからも、ずっと一緒だよ
その優しさ、独り占めしたいよ
この、ポエムを思い出すと乃莉は美希のことを同性愛者じゃないかと咄嗟にでっちあげたことに対する罪悪感は鳴りを潜める。メールでそのことを謝ろうかと新規作成の画面を開いたが、わざわざ何も言うことは無いのかも知れないと思い直した。謝ったからといって必ず許しが約束されている訳ではない。口火を切ったばかりにもっと傷つけ合う結果になるかも知れない。乃莉は携帯電話の電源を切った。誰かから連絡が来る可能性は無いことも無かったが、最近の電波受信状況の悪さ理由にしようと、乃莉の部屋のノートPCでニュースサイトを眺めた。
それには風間美希との疎遠をひっそりと願う意味があるのかも知れない。
プリクラっていつの間にか模様どころか臭いポエムまでくっつける事ができるようになってましたよね。