第5項 宿題
夜は、思ったより静かだった。
昼間は絶えず聞こえていた足音や話し声も、日が落ちるにつれて少なくなり、学内はゆっくりと沈静化していく。遠くで鐘のような音が鳴り、一定の時間を知らせているらしい。
めぐるは部屋の灯りを落とし、椅子に深く腰を沈めた。
今日は、特別なことは何もしていない。歩いて、見て、食べて、休んだだけだ。それなのに、身体の奥には、妙な疲労が溜まっている。
「……環境が変わるって、こういうことか」
独り言は、壁に吸われるように消えた。
めぐるは机に向かい、レオンから押しつけられた三冊の本を改めて見下ろす。
六属性魔法基礎理論。
既存魔法法条文集。
過去の魔法事故判例。
「……読め、か」
白玉は、机の端にちょこんと座り、めぐるの手元をじっと見ている。丸い体を揺らしながら、尾の膜を畳んだり、また広げたりしているのが、やけに落ち着かない。
「……お前、暇そうだな」
声をかけると、白玉はヂ、と短く鳴いた。肯定とも否定とも取れない、曖昧な返事。
めぐるは、まず一冊目――六属性魔法基礎理論を開いた。
文字は読める。言語に問題はない。それでも、数ページで、頭が重くなり始める。
魔法は六つの属性に分類される。火、水、風、土、光、闇。
適性、魔力量、発動条件、反動――すべてが、驚くほど体系立てられている。
(……思ったより、ちゃんと「技術」だな)
感覚で押し切る世界だと思っていた自分の認識が、ずれていたことを突きつけられる。才能があれば使える、曖昧で都合のいい力。だが、ここに書かれているのは、管理され、測定され、制御される対象だった。
読み進めるうちに、ある一文で、手が止まる。
――召喚魔法は、既存六属性のいずれにも完全には属さない。
「……」
喉の奥が、わずかに詰まる。文字を追う速度が、無意識に遅くなった。
召喚魔法。自分が、この世界に来る原因になった魔法。ほかにも六属性に含まれない魔法が説明されているが、ついつい召喚魔法の記述を目で追ってしまう。
説明によれば、それは「空間・存在干渉型」の高度魔法であり、便宜的に複合魔法として扱われているらしい。便宜的、という言葉が引っかかる。
(分類が、追いついてない)
魔法が先にあり、理論が後から整えられた。それ自体は、珍しくない。だが、そのズレを、どこまで放置しているのか。
白玉が本の端に前足を乗せ、ぺら、と一ページをずらした。
「勝手に進めるなよ」
軽く言うと、白玉は鼻を鳴らし、素直に手を引っ込める。その動きが、妙に人間くさい。
次に、条文集。魔法の使用制限。登録制度。禁止行為。罰則。構造は、日本の法律と大きく変わらない。違うのは、対象が「魔法」だというだけだ。
――召喚魔法に関する規定は、驚くほど少ない。
しかも、どれも散発的だ。
(……後付けだな、これ)
事故が起きるたび、問題が表面化するたび、その場しのぎで足されてきた規定。体系というより、応急処置の集積。
最後に、判例集。これが一番、重かった。
誤召喚。暴走。消失。意思疎通ができなかった例、回収不能になった例。そして、ごく稀に。召喚された「存在」が、記録として処理されている事例。
(……物、みたいだ)
人とも、動物とも書かれない。ただ「存在」。 記録上は、それで十分なのだろう。誰であれ、何であれ、分類できなければ、そう書くしかない。
責任の所在は、どれも曖昧だ。召喚者か。管理者か。制度そのものか。判決文は、決着をつけたふりをして、核心を避けている。
めぐるは、静かに本を閉じた。
頭が疲れている。だが、それ以上に、胸の奥に、言葉にならない違和感が溜まっていた。
白玉が、いつの間にか、めぐるの膝に乗っている。小さな体重。温かい。めぐるは、何も言わなかった。ただ、その感覚を、覚えておく。
(……お前も、「存在」なんだよな)
分類されきらないもの。規定に収まらないもの。それを扱おうとすれば、歪みが出る。
机の上の本の山を見つめたまま、めぐるは小さく息を吐いた。今日は、ここまででいい。
ベッドに戻ると、白玉がわずかに身じろぎした。めぐるが横になると、その気配を感じ取ったのか、白玉はゆっくりと近づいてくる。そして、ためらいがちに、袖口のあたりに身を寄せた。
「……お前も、落ち着かないよな」
返事はない。だが、白玉は逃げなかった。めぐるは、しばらくその姿を眺めていた。
言葉は交わせない。それでも、ここに来てから、ずっと一緒にいる存在だ。自分が「一人ではない」と思える理由としては、それで十分だった。
◇
研究棟の廊下は、朝でも静かだった。
窓から差し込む光は柔らかいが、石造りの床に吸われるせいか、足音がほとんど返ってこない。歩いているはずなのに、廊下に自分だけが切り離されたような感覚が残った。
めぐるは、召喚当日に赴いた部屋の前に立っていた。今日はレオンに宿題の成果を話す日だ。
扉の向こうからは、紙をめくる音がする。ためらいは一瞬だけだった。ノックをすると、すぐに声が返ってくる。
「入れ」
短い。だが、拒絶の色はない。
扉を開けると、昨日と同じ光景が広がっていた。高い天井、壁一面の本棚、中央の机。違うのは、机の上に広げられた紙の量だけだ。レオンは椅子に座り、視線を落としたまま言った。
「来たか」
「はい」
めぐるは一歩進み、立ったまま様子をうかがう。レオンは顔を上げない。代わりに、万年筆を机に置いた。
「宿題は?」
それだけだった。問いは短い。だが、逃げ道はない。めぐるは一瞬、言葉を探した。
「……全部、理解できたとは言えません」
「それは想定内だ」
淡々とした口調だが、そこには苛立ちも失望もなかった。めぐるは続ける。
「正直、専門書と法文と判例を、一気に読むのは、かなりきつかったです」
「だが、読んだ」
「……はい」
レオンはようやく顔を上げた。視線が合う。
「それで?」
続きを促す声だった。めぐるは息を整えた。
「うまく言葉にできるか、わかりませんが……」
ここから先は、整理された意見ではない。ただの感想だ。そう前置きして、めぐるは話し始めた。
「基礎理論書を読んで思ったのは……魔法は、思った以上に“技術”なんだな、と。感覚や直感で使えるものじゃなく、体系があり、干渉や反動も理論化されている。条文集は……整っているようで、実態は継ぎ足しだらけ。判例集は……事故の後が、全部あやふやでした。……なんて言えばいいか、うまくまとまってないんですけど」
言葉を詰まらせながらも、めぐるは視線を落とす。声にしない思考の渦が、そこには確かにあった。
「最初から結論を出す必要はない。違和感は、整理する前の素材だ」
めぐるは、ふっと息を吐き、机の上の書類を見つめる。違和感を拾うだけで十分。結論は、まだ先の話だ。
レオンは椅子の背に体を預けた。
「ただ、一つだけ、聞かせろ」
レオンが続ける。視線が、真っ直ぐに向けられる。
「何が、一番引っかかった」
めぐるは、即答できなかった。だが、考えるまでもなく、胸の奥に残っているものがある。
「……召喚魔法です」
その言葉を口にした瞬間、空気がわずかに変わった。
「どの本でも、扱いが違いました。理論書では、便宜的に複合魔法。条文では、特殊事案。判例では……その都度、扱いが変わる」
言葉にしていくうちに、心の奥に溜まっていた違和感が、少しずつ輪郭を持ちはじめた。定義は曖昧。条文は散在。判例でも揺れている。重要なのに、法の中心には据えられていない。
沈黙が落ちる。レオンは否定しない。肯定もしない。ただ、机の引き出しに手を伸ばした。紙の束が、机の上に置かれる。
「だからだ」
レオンは言った。
「まず、召喚魔法から始める」




