第12項 線を引く者
翌朝の研究室は、いつもと同じ匂いがした。
乾いた紙と、微かに焦げた魔力残滓の匂い。窓辺に置かれた結界測定器が、低い振動音を一定の間隔で刻んでいる。白玉が肩の上で身じろぎをし、耳をぴんと立ててから、安心したように丸くなった。
めぐるは、扉の前で一瞬だけ立ち止まった。
昨日の会議室の扉とは違う。こちらは重厚でもなく、結界も最低限だ。それでも、ノブに手をかけるまでのほんの数秒が、妙に長く感じられた。
ーー参考人。あの呼び名が、まだ耳の奥に残っている。
ノックをすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
いつも通りの声だった。
中に入ると、レオンはすでに机に向かっていた。薄い金の髪が光を受けて揺れ、手元の書類に影を落としている。机の上には昨日の会合資料が広げられ、赤いインクでいくつも書き込みがされていた。
めぐるは鞄を置き、椅子を引いた。
「おはようございます」
「ああ。体調はどうだ」
顔を上げずに問う。
「……大丈夫です」
正確ではない答えだった。体が重いわけではない。ただ、胸の奥に何かが残っている。昨日の視線の重さ、言葉の一つひとつ。あの場で選んだ語が、正しかったのかどうか、まだ判定が出ていない気分だった。
レオンはペンを置き、ようやくこちらを見る。
「なら結構だ」
それだけ言ってから、ほんのわずかに視線が柔らいだ。
「昨日の続きだが」
めぐるは背筋を伸ばす。来るだろうと思っていた言葉だ。
「方向性は固まった」
短い報告だった。だが、その一文に含まれる意味は重い。
「……固まった、というと」
「個別術式規制を主軸にはしない。未整理魔法“全体”に波及する包括的枠組みを検討対象とする」
めぐるは瞬きをした。
「登録制を強く主張する声もあった。許可制にして、審査を通らない限り実験を禁じるべきだと」
「……行政監察局の方、ですよね」
「察しがいい」
淡々と返される。
「だが、術式単位で追う方式は現実的ではない。未分類魔法は日々派生する。すべてを事前審査にかければ、研究そのものが停滞する」
そこまでは、めぐるにも理解できる。
「だから、包括法、ですか」
口に出した瞬間、喉がわずかに乾いた。
レオンは、めぐるを見た。
「お前の提案が軸になった」
私は、息を止めた。
「……私の?」
「消すための線ではなく、越えたときにどう対処するかを決める線にするべきだ、と言ったな」
昨日の自分の声が、脳裏に蘇る。
あの場で、めぐるは確かにそう言った。だが、それはあくまで感情と経験から出た言葉であって、法体系を構築する理論ではない。
「私は、ただ……」
「ただ、何だ」
「禁止するかしないか、という二択にしてほしくなかっただけです」
研究そのものを否定する立場ではない。事故は恐ろしい。だが、未知を理由にすべてを閉ざしてしまえば、この世界は立ち止まる。
レオンは小さく頷いた。
「そこだ」
「……そこ、ですか」
「未分類魔法は定義できないから未分類なのだ。分類できないものを、既存の枠に押し込めて規制するのは無理がある」
椅子にもたれ、腕を組む。
「ならば、術式を縛るのではなく、行為を縛る」
「行為……」
「未分類魔法を用いる者に共通する義務を定める。責任主体の明確化。事故発生時の補償の担保。被害者の法的地位の明文化」
めぐるは、机の上の資料を見る。赤い線がいくつも引かれ、余白には細かい文字が並んでいる。
「昨日の会合で、それを?」
「提案した」
あまりにあっさりと。
「反発は?」
「当然あった。抽象的すぎる、理念先行だ、実効性が疑わしい」
その光景が想像できる。声が重なり、遮り、議長が静かに整理していく様子。
「それでも?」
「方向性としては採択された。次回までに、各委員が条文案、あるいは方向性案を持ち寄ることになった」
めぐるはしばらく言葉を失った。
包括法。未整理魔法全体に波及する枠組み。
それは、めぐるの事故だけを対象にするものではない。この先、起こり得る無数の事例を想定した制度だ。
「……私の言葉が、そこまで影響するとは思っていませんでした」
正直な感想だった。レオンは、わずかに目を細める。
「お前の言葉だけではない。議論は積み重なっている。だが、あの場で“思想”を明確にしたのは、あなたの発言だ」
「思想……」
「何を守るための法か、という軸だ」
昨日、議長も似たことを言っていた。
“何を守るための規制か”。
めぐるは、守られなかった側の人間だ。だからこそ、見えたものがあるのかもしれない。
「私は……」
言いかけて、止まる。
「何だ」
「ただ、怖かっただけです」
レオンは黙っている。
「怖いという感情が、どこにも記録されないことが」
条文にも、報告書にも、処分通知にも、私の恐怖は書かれなかった。
「法は感情を扱わない」
レオンは静かに言う。
「だが、感情を無視して設計された法は、現実から乖離する」
その声音は、いつもよりわずかに低い。
「昨日まで、包括的枠組みは理論としては考えていた。だが、委員会で主軸に据えるつもりはなかった」
「……なぜですか」
「合意形成が難しい。抽象度が高い案は、政治的に扱いにくい」
現実的な理由だった。
「だが、お前の発言で腹を決めた」
腹を決めた。その言葉が、胸の奥で小さく跳ねる。
「私が、決めさせてしまったんですか」
「“決めさせた”のではない。選択肢を明確にした」
レオンは机の上の一枚をめぐるに差し出した。走り書きのメモだ。まだ条文化されていない、箇条書きの断片。
――未分類魔法の運用に際しては、行為主体の登録義務を課す。
――事故発生時の補償能力の事前担保。
――被害者の法的地位の明文化。
文字を追いながら、めぐるは思う。これは、禁止法ではない。
「研究を止めるための法ではないのですね」
「当然だ」
即答だった。
「研究は社会の基盤だ。だが、無条件ではない」
「条件を、先に決める」
「そうだ」
静かなやり取りの中で、何かがはっきりしていく。
めぐるは事故の当事者だ。だが同時に、この制度の出発点の一部になっている。それは望んだ役割ではない。けれど、無意味でもない。
「……包括的、と言っても」
私は顔を上げる。
「曖昧になりませんか?」
「曖昧さは残る」
レオンは否定しない。
「だが、術式を網羅することよりも、行為の結果に責任を持たせる方が、実効性は高い」
「事故は、なくなりませんよね」
「なくならないだろうな」
迷いのない返答。
「だが、事故の後に“人が消える”ことは、減らせる」
その言葉に、めぐるは静かに息を吐いた。昨日の会議室で、めぐるは“実例”だった。けれど、ここでは違う。
「……私が巻き込まれた意味が、少しはある、ということでしょうか」
問いというより、確認だった。レオンは少しだけ視線を外し、それから戻す。
「意味は、後から作るものだ」
簡潔な答え。
「お前が望まなくとも、出来事は起きた。ならば、それを無意味にしない方向へ動かす」
机の上の草案を、彼は指で軽く叩いた。
「それが、今できる最善だ」
窓の外で、結界測定器が小さく鳴った。白玉が耳を動かし、めぐるの肩の上で落ち着いた位置を探す。
めぐるはゆっくりと頷いた。
「……では、次回までに、もっと具体的に詰めるんですね」
「ああ」
「私も、意見を出していいですか」
言ってから、自分で少し驚く。参考人ではない。被害者でもない。関与する側の言葉だった。
レオンは、わずかに口元を緩めた。
「最初に線を引いたのは、お前の方だ」
静かな研究室に、その言葉が落ちる。包括法は、まだ案にすぎない。だが、動き始めている。
めぐるは、机の上の草案をもう一度見つめた。昨日の白紙は、もう白紙ではない。




