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哲学短信 ウィトゲンシュタインはカントの焼き直しにすぎないのか?

作者: 八神あき

 私はウィトゲンシュタインが好きだ。

 しかし、カントを読んでいるとひとつの疑念が沸き起こってくる。ウィトゲンシュタインはカントと同じことを言っているのではないか。だとすれば、二番煎じに過ぎない。

 私のような浅学者が、かの碩学両名を比べるなど、身の程知らずというほかない。しかしカントの言う通り、理性は自らに分不相応な疑問を投げかけるものなのだろう。



〇カント


 カントは「私」と「物自体」の二元論を足場とし、議論を展開する。

「私」の感性が「物自体」に触発され、表象の世界を描く。表象は、それだけでは、元素と空虚のタペストリーでしかない。のっぺらぼうな印象画から、人や、大地や、個体を切り出すのは悟性の能力だ。

 悟性は対象を認識するためのカテゴリーを持っている。

 4つあるカテゴリーのうち、ここでは関係性を取り上げる。

 関係性カテゴリーは以下の三つが含まれる。

1,実体と偶有性

2,因果関係

3,相互作用


 木から、りんごが落ちた。

 感性は光の波長を時間変化の中でとらえ、表象を描く。

 悟性は感性がとらえた対象に作用し、カテゴリーをあてはめる。


 りんごから、色を、形を、匂い、その他すべての形容詞的要素を取り除いても残るものが実体。取り去った形容詞たちが偶有性。

 実在するとは、実体カテゴリーを適用することに他ならない。


 関係性カテゴリーも作用する。りんごが落ちた原因は重力だ。

 ここで、理性が尋ねる。その原因は何か、と。

 重力の原因は引力(と遠心力)。重力の原因は素粒子力学における対称性の破れ。では、対称性の破れの原因は?

 理性は因果の遡行を命じる。どこまでもどこまでも、際限なく。その先にあるものを、カントは「自然」と名付けた。自然は必然性に縛られるのか、自由の余地はあるのか?


 しかし、その疑問に答えは出ない。「自然」とは、理性が命令を続けた先に置かれた幻想、仮象でしかないからだ。

 カントは「自然」「魂」「神」の三つを仮象として取り上げる。

 神や自然に関する問いを発するためには、それらが実在しなければならない。しかし実在カテゴリーは、感性がとらえた対象にしか適用できない。仮象に実在カテゴリーを適応させることはできない。

 あたかもそれが実在するがごとくふるまい、思弁を重ねるのは、詭弁だ。


 かくして思考に限界が引かれる。感性がとらえられる範囲内、経験によって真偽の判定を下すことが可能な領域が、理性による遡行の限界。それを超越することは許されない。


〇ウィトゲンシュタイン

「語りうることはすべて、明晰に語りうる。語りえないことについては、沈黙しなければならない」

 思考の正体は言語の組み合わせだ。

 しかし、言語の組み合わせは野放図になされるべきではない。有意味な思考として認められるには条件がある。事実との像関係だ。

 目の前に「りんご」がある。あなたは空気を振動させ、「りんご」なる音の連なりを発する。

「りんごは赤い」「りんごは食べられる」「りんごはみかんである」

 前二つはいい。音の連なりは目の前にある事実と像関係を持っている。しかし三つ目は違う。像関係は崩れている。これは言語として、思考として、認められない。


 事実との像関係を失ったとき、思考は意味を持たなくなる。「神は存在する」「魂は永遠である」「森羅万象は物理法則に支配されている」どれも意味を持たない、思考もどきでしかない。語りえないものである。

 語りえぬものについて、人は沈黙するしかない。


〇その先

 超越を禁じたカント、沈黙を選んだウィトゲンシュタイン、両名の行方は異なる。

 カントは思弁の限界を立てたが、理想を捨てたわけではない。思弁を終えたカントは実践の領域で、理想を追求する。


 ウィトゲンシュタインは語りえぬことを無価値と断じたのではない。むしろ思弁によって汚されぬ領域に、それらを昇華させたのだ。

 語りえぬことのひとつに「幸福」がある。ウィトゲンシュタインはいう、「幸福に生きよ!」 


 思弁の限界を引く、という点で二人は共通している。それを足場とし、二人は異なる場所へ飛び立った。

 カントは実践の場において「善因善果」を掲げた。幸福に値するためには徳が必要である、とすべきであると説いた。


 ウィトゲンシュタインは幸福を、理論から解放させた。幸福は理論的な裏付けが必要なものではない。幸福になるために、一切の資格は必要ない。


 思弁を極めた二人だからこそ、その限界を知り、それを捨てた。東洋人ならば「悟り」といいたくなる。

 覚者たる二人は、そこに行きつく道のりも、行く先も違う。しかし交わる点はあった。それこそが「純粋理性批判」と「論理哲学論考」であったのだと思う。


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