鈴木
「霧、濃いわね。」
「あぁ。」
「お願いだから事故らないでね。」
「うん。わかってる。」
当然、事故を起こす気などさらさらない。事故を起こそうものなら妻や息子にどんな目で見られることか。どんな言葉を投げかけられることか。考えただけでも恐ろしい。だが、そうだとしても久方ぶりの休日を返上してこうして運転しているのだから集中力にも限度がある。しかも、よりにもよってこの濃霧ときた。霧さえなければ富士山や芦ノ湖を一望できる眺めだったはずなのに。
「はぁ。霧、晴れてればいい景色だっただろうなぁ。」
そんなことを言われても。霧は俺ではどうしようもない。だが、こんな妻の小言にも慣れてしまった。小言は左耳から右耳へ抜けた。運転に集中し、霧の中に目を凝らす。カーブに差し掛かったところで対向車のライトがぼんやりと見える。焦らず慌てず、速度を落とす。
―――ドン!
フロント部に何かが当たったような音がしてグッとブレーキを踏む。
「なによ!急ブレーキ踏まないでくれる?」
「あぁ、ごめん。何かに当たったみたいなんだ。少し、見てくる。」
パーキングにしてハザードを焚く。後続車が来ないことを祈りつつ車外に出る。どうやら対向車も停まっているようだ。ハザードの点滅がうっすらと見える。内心、ビクビクしながらもフロントに目を向ける。
「あれ。」
何もない。確かに何かにぶつかったはずなのだが。道路に膝をつきフロントに凹みがないか見てみる。黒のセダン、そのグリルに似つかぬ色が見える。茶色の短い毛。
「大丈夫ですか?」
思いがけない声に驚いた。振り返ると若い男の人がいた。おそらく対向車の運転手だろう。彼と二言三言言葉を交わして車に戻る。おそらく小動物か何かだろう。血の跡もないし、なによりモノがない。スピードは落としていたし、きっと跳ねられた後すぐに逃げてしまったんだろう。対向車の運転手に話した推理を妻にも話し、車を再び走らせる。妻にはまた小言を言われたが気にしたら負けだ。さっさと九頭龍神社に向かおう。