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最終話:幸福の戴冠

※AIを使用しての作品となります。

 ヴァルハイト王国が自滅の道をたどり、大陸の勢力図が静かに塗り替わっていく中、クラインフェルト公爵領は、かつてないほどの活気と豊かさに満ち溢れていた。


 かつては痩せた土地が広がっていた国境沿いの村々は、今や地平線の果てまで続く黄金色の麦畑へと姿を変えていた。「陽光麦」と名付けられた奇跡の作物は、公爵領に莫大な富をもたらしただけでなく、人々の食卓そのものを豊かにした。領都のパン屋からは、一日中、ふっくらとしたパンの甘く香ばしい匂いが漂い、子供たちは黒パンではなく、柔らかい白パンを頬張って元気に走り回っている。


 エリアーナが整備した財政システムは、その富を領地の隅々にまで、公平かつ効率的に行き渡らせた。税収は領民の生活を向上させるために使われ、新しい学校や診療所が次々と建てられた。かつては暗く危険だった裏通りも、ガス灯が設置されて明るくなり、夜でも女性や子供が安心して歩けるようになった。街道は頑丈な石畳で舗装され、物流が活性化したことで、これまで見たこともなかったような南方の果物や、東方の美しい織物が市場に並ぶようになった。


 領都の広場に面した酒場では、仕事を終えた男たちが陽気にエールを酌み交わしていた。


「聞いたか?ハンスのところの畑、今年の陽光麦の出来は、去年をさらに上回るらしいぞ!」


「へっ、あそこの親父ときたら、最初はエリアーナ様のことをお貴族様のお遊びだなんて言ってた癖に、今じゃすっかり女神様扱いだもんな!」


「違いねえ!おかげで、うちの子供らも腹一杯メシが食える。黒パンじゃねえ、ふわふわの白パンだ!エリアーナ様と公爵様には、足を向けて寝られねえよ」


 農夫たちの陽気な声に、隣のテーブルにいた行商人たちも加わる。


「まったくだ。街道が石畳になったおかげで、荷馬車の軸が折れる心配もなくなった。前は半月かかってた道のりが、今じゃ十日で着く。おかげで、南方の珍しい果物も、腐らせずに運べるってもんだ」


「しかも、関所での手続きもエリアーナ様が作った書式のおかげで、あっという間だ。おかげで、俺たちみたいな小さな商人にも、新しい商機がゴロゴロ転がってる」


 壁際の席では、腕利きの職人たちが、新しい道具の設計図を囲んで熱心に議論していた。


「この新しい水車のおかげで、鍛冶場の火力が安定した。これで、もっと硬い鋼も打てるようになるぞ」


「うちの織物工房も、エリアーナ様に教えてもらった新しい染料のおかげで、今まで出せなかったような鮮やかな色が出せるようになった。王都の高級品にも負けねえ品物を作って、公爵様をあっと言わせてやるんだ」


 公爵領全体が、そんな前向きで、力強いエネルギーに満ち溢れていた。誰もが、自分の仕事に誇りを持ち、努力すれば報われるという確かな手応えを感じていた。未来への不安ではなく、希望を語り合える。エリアーナがもたらした最大の奇跡は、人々の心の中に灯った、その温かい光そのものだったのかもしれない。


 そして、その中心には、常に二人の男女と、一頭の巨大な銀狼がいた。領民に「幸運の女神」と慕われるエリアーナと、彼女の隣で、かつての「氷の公爵」の面影をなくし、穏やかな笑みを浮かべるようになったアレクシス。そして、子供たちの格好の遊び相手となり、その巨大なもふもふの体で領地の平和を見守る、伝説の守護獣ルーン。彼らの存在こそが、この豊かさの象徴だった。


 ある晴れた日の午後、アレクシスはエリアーナを連れて、城で最も美しい庭園を訪れた。

 そこは、城の奥に忘れ去られていた「嘆きの庭」と呼ばれる場所だった。かつては、歴代の公爵夫人が故郷を偲んで涙したと言われ、いつしか誰も近寄らなくなり、噴水は枯れ、花壇は雑草に覆われ、ただ荒れ果てていた。

 だが、今の庭園に、その面影はどこにもない。

 エリアーナが時折散策に訪れるようになってからというもの、まるで彼女の存在に応えるかのように、奇跡が起こったのだ。枯れていたはずの噴水からは、清らかな水が絶え間なく湧き出し、キラキラと陽光を反射している。雑草に覆われていた花壇には、色とりどりの、この地方では見たこともないような珍しい花々が咲き乱れていた。甘く、それでいて爽やかな花の香りが風に乗って優しく鼻をくすぐり、どこからともなく集まってきた蝶や小鳥たちが、楽しげに飛び交っていた。ここはもはや「嘆きの庭」ではない。生命力に満ち溢れた「祝福の庭」へと生まれ変わっていた。


「エリアーナ」


 アレクシスは、甘い花の香りに包まれ、隣で嬉しそうに花を眺める彼女の横顔を見つめながら、静かにその名を呼んだ。いつもであれば、何のためらいもなく口にできるはずの言葉が、なぜか喉の奥でつかえる。これまで、どんな外交の場でも、どんな困難な決断を迫られる場面でも、決して揺らぐことのなかった彼の心臓が、今、これほどまでに落ち着きなく高鳴っている。その声には、いつものような冷徹さはなく、彼自身も気づかぬほどの緊張と、隠しきれない熱がこもっていた。


「はい、アレクシス様」


 エリアーナが振り返ると、時が止まったかのように感じた。

 常に背筋を伸ばし、何者にも屈することのなかったクラインフェルト公爵が、その長い脚を折り、芝生の上に片膝をついていたのだ。最高級の生地で仕立てられたズボンが、朝露に濡れた草でわずかに汚れるのも構わずに。そのアイスブルーの瞳は、いつも以上に深く澄み渡り、ただひたすらに真っ直ぐ、エリアーナだけを映していた。そこには領主の威厳はなく、ただ一人の男としての、緊張と、決意と、そして隠しきれない愛情が、痛いほどに込められていた。


「君がここへ来てくれてから、私の世界は色づいた。凍てついていたこの大地は、君という太陽を得て、再び命を吹き返した。それは、この領地だけではない。私の心も、だ」


 彼は、エリアーナの、その勤勉さの証であるインクの染みが微かに残る手を取った。


「君のその力は、単にあらゆる生物に好かれるだけのものではない。それは、生命そのものを育み、大地を祝福する、真の『聖女の力』だ。ヴァルハイトの愚か者どもが気づけなかった、本当の奇跡だ」


 聖女。その言葉に、エリアーナの瞳が大きく揺れる。

 それは、彼女にとって呪いのような言葉だった。妹リリアーナを飾り立て、その空虚な存在を正当化するためだけに乱用された、偽善と欺瞞に満ちた称号。人々の心を惑わし、国を傾かせた、忌むべき言葉。

 だが、アレクシスの声には、あの時のような薄っぺらな響きはなかった。彼が言う「聖女」とは、祈るだけの存在ではない。彼の瞳は、エリアーナが書庫に籠もり、泥にまみれ、知恵を絞って成し遂げた、一つ一つの「事実」をこそ指していた。

 大地を豊かにし、民の腹を満たし、未来への希望を育むこと。それこそが、真の聖女の御業なのだと、彼の真摯な眼差しが告げていた。かつては妹を飾るためだけの称号だったその言葉が、今、全く違う意味を持って、彼女の胸に響いた。


「君という至宝を、誰にも渡したくはない。この先もずっと、私の隣で、その笑顔を見せてほしい。私と、この領地と、そしてルーンと共に、未来を歩んでほしい。エリアーナ、結婚してくれないか」


 それは、計算も、政略も含まれない、一人の男からの、ただ純粋で、ひたむきな愛の告白だった。

 エリアーナの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ、アレクシスの手に落ちる。

 追放された夜に流した、絶望と孤独の冷たい涙ではない。理不尽に打たれた頬の熱よりも熱い、屈辱の涙でもない。

 それは、長年心の奥底に溜まっていた氷が、一気に溶け出して流れ出すような、温かく、浄化されていくような涙だった。

 生まれてからずっと、自分は「役立たず」なのだと思っていた。価値のない人間なのだと。だが、目の前の人は、そんな自分を「至宝」だと言ってくれた。自分の全てを肯定し、受け入れ、そして、愛していると、その瞳で告げてくれている。

 その温かさが、優しさが、彼女の心の傷を、一枚、また一枚と、丁寧に剥がしていく。


「……はい。喜んで、お受けいたします」


 彼女がそう答えた瞬間、まるで世界そのものが二人の愛を祝福するかのように、庭園が奇跡の輝きに包まれた。

 足元の芝生から、優しい光の粒子が立ち上り、エリアーナの涙に濡れた頬をそっと撫でる。それまで蕾だった純白の夜会薔薇が、音もなく、しかし一斉に花開き、甘く濃厚な香りを辺り一面に放った。色とりどりの花々も、まるで命の喜びを謳歌するかのように、その色を一層鮮やかにし、きらきらと輝き始める。

 どこからともなく現れた無数の蝶が、宝石の粉を振りまくように、二人を優しく包み込んで舞い踊る。木の枝にとまっていた小鳥たちは、一斉に美しい声でさえずり、それはまるで、この日のために練習された祝婚歌のようだった。

 そして、少し離れた木陰で見守っていたルーンが、嬉しそうに「くぅん」と一声鳴くと、その巨体を揺らしながら立ち上がり、二人の周りをぐるぐると楽しげに駆け回り始めた。その大きな尻尾が、まるで犬のようにちぎれんばかりに振られている。

 アレクシスは、その幻想的な光景と、目の前で涙に濡れながらも幸せそうに微笑むエリアーナの姿を、ただ、愛おしさに胸を締め付けられながら見つめていた。



 エリアーナとアレクシスの結婚式は、公爵領の歴史上、最も盛大で、温かいものとなった。

 その日、領都の家々の窓には公爵家の旗が掲げられ、民衆は沿道にあふれ、新たな公爵夫人を一目見ようと詰めかけていた。祝福の歓声と、宙を舞う色とりどりの花びらが、まるで終わることのない春の嵐のようだった。

 大聖堂へと向かう馬車の中から、エリアーナはその光景を、夢見るような心地で眺めていた。彼女が身に纏うのは、ヴァルハイト王国で着ていたような地味なドレスではない。クラインフェルト公爵領の最高の職人たちが、彼女のために心血を注いで作り上げた、シンプルながらも最高級の絹とレースを用いた、光輝くような純白のウェディングドレスだ。


 大聖堂の祭壇で待つアレクシスは、氷の仮面を脱ぎ捨て、ただひたすらに優しい眼差しで彼女を迎えた。彼がそっとエリアーナの手を取ると、そのアイスブルーの瞳が、熱を帯びたように揺らめいた。


「綺麗だ、エリアーナ。今日、君を迎えられることを、生涯の誇りに思う」


 アレクシスが、ほとんど囁くようにそう告げる。エリアーナは、幸せに頬を染め、震える声で答えた。


「アレクシス様……。私の方こそ、夢のようです。あなたが、私を見つけてくださったおかげです」


 神の前で愛を誓う二人の姿に、参列した領民たちは惜しみない拍手と喝采を送る。その中には、かつて彼女をいぶかしげに見ていた文官たちや、農夫ハンス親子の、涙に濡れた笑顔もあった。

 そして、大聖堂の入り口では、ルーンが誇らしげに胸を張り、まるで忠実な番犬のように、静かに二人を見守っていた。


 公爵夫人となったエリアーナは、その類まれなる知識と、聖女の力で、領地を大陸一豊かで平和な楽園へと導いていく。

 彼女がまず最初に着手したのは、知識の開放だった。アレクシスの全面的な支援のもと、彼女は領都に巨大な図書館「陽光の書庫」を設立した。それは、ただ本を収めるだけの場所ではない。身分に関係なく、誰もが自由に訪れ、学ぶことができる、大陸初の公共図書館だった。子供たちのための絵本から、職人のための技術書、農夫のための農業指南書、そして学者も唸るほどの専門書まで、あらゆる知識が集められた。


「ねえ、母さん!僕、大きくなったらエリアーナ様みたいな文官になるんだ!」


 鍛冶屋の息子が、初めて自分で読めるようになった本を抱きしめてそう叫ぶ。その光景は、もはや公爵領の日常となっていた。この書庫から、やがて大陸中に名を馳せる多くの学者や技術者が巣立っていくことになる。


 次に彼女は、交易路の整備と、複雑怪奇だった関税制度の改革に着手した。何日も書庫に籠もり、過去数百年にわたる交易記録を分析した彼女は、全ての商人が公平に利益を得られる、画期的な関税システムを構築した。不正の温床となっていた複雑な手続きは簡素化され、街道は領地自慢の陽光麦を運ぶ荷馬車で、昼夜を問わず活気に満ち溢れていた。


「クラインフェルト公爵領との取引は最高だぜ。手続きは明快だし、役人の袖の下もいらねえ。何より、街道が安全で走りやすい!」


 キャラバンを組む商人たちの間で、そんな会話が交わされるのが常となった。クラインフェルト公爵領は、瞬く間に大陸随一の商業都市へと発展していく。


 アレクシスの彼女への溺愛はとどまることを知らず、彼はエリアーナが執務に集中できるよう、自らも剣を置き、彼女の政策を全力でサポートした。二人の周りには、いつも民衆の笑顔と、巨大なもふもふの相棒の姿があった。


 一方、ヴァルハイト王国では、指導者を失い、経済も完全に破綻。飢えた民衆による革命の炎が、王都を包んでいた。

 きっかけは、ジークフリートの愚かな逃亡だった。王子が国を捨てたと知った民衆の怒りは、ついに沸点を超えた。かつて王家に従順だった衛兵たちも、飢えと絶望の中で反旗を翻し、暴徒と化した民衆と共に王宮へと雪崩れ込んだ。豪華な調度品は破壊され、王家に伝わる宝物は略奪され、ヴァルハイト王国の栄華は、一夜にして灰燼に帰した。


 そして、その怒りの矛先は、当然のように、私腹を肥やしていた貴族たちにも向けられた。

 ヴェルナー侯爵家の壮麗な屋敷は、松明を手にした民衆によって完全に包囲されていた。


「エリアーナ様を追放した裏切り者め!」


「俺たちの税金で、贅沢三昧しやがって!」


 罵声と共に、石つぶてが窓ガラスを突き破る。屋敷の中で、ヴェルナー侯爵は恐怖に顔を歪ませ、震えていた。

 かつて、エリアーナを打ち据え、切り捨てた、あの冷徹な政治家の面影はどこにもない。ただの、追い詰められた老人の姿があった。


「やめろ!私に逆らう気か!」


 彼の虚勢に満ちた声は、民衆の怒りの声にかき消される。やがて、頑丈だったはずの屋敷の門が、巨大な丸太によって打ち破られた。

 雪崩のように押し寄せる民衆によって、ヴェルナー侯爵家が誇った高価な絵画や壺は無残に破壊され、その歴史に、最も惨めな形で幕を下ろした。


 ジークフリートは、一市民として、その身分を隠しながら瓦礫の街で暮らすことになった。

 かつての栄光も、プライドも、全てを失った彼は、今はただ、汚れたぼろ布を纏い、無精ひげを生やした、どこにでもいるただの男だった。王都の裏通りにある、崩れかけた廃屋をねぐらに、日雇いの仕事でその日暮らしの生活を送っている。

 飢えと寒さに苦しむ日々の中で、彼は自分が捨てたものの本当の価値を、骨身に沁みて思い知っていた。

 ある日の夕暮れ、彼はなけなしの銅貨を握りしめ、施しのように売られている黒パンを買いに、広場へと向かった。その時、ふと、風に乗って、信じられないほど甘く、香ばしい匂いが漂ってきた。

 匂いの元をたどると、そこには、クラインフェルト公爵領から救援物資として届いた「陽光麦」で作ったパンを、無料で配給している天幕があった。そこだけが、この瓦礫の街で唯一、希望の光を放っているかのようだった。

 人々が、その温かいパンを求めて殺到する。ジークフリートも、飢えに突き動かされるように、その列に加わろうとした。だが、彼の汚れた姿を見た人々は、彼を突き飛ばし、罵声を浴びせた。


「どけ、汚い!」


「お前なんかに食わせるパンはねえ!」


 彼は、人々の波に押し出され、泥水の中へと倒れ込む。

 そんな彼をあざ笑うかのように、街角のパン屋から、焼きたての「陽光麦」の匂いが、再び漂ってきた。その匂いを嗅ぐたびに、彼はエリアーナの顔を思い出す。自分の愚かな言葉で、彼女の全てを否定した、あの夜会の光景を。そして、今、その「役立たず」が生み出した恵みに、自分は与ることすらできないのだ。

 彼は、泥水の中で、ただ静かに、後悔の涙を流し続けた。


 リリアーナの末路は、彼女が最も恐れていた、美しさのかけらもない場所で訪れた。

 彼女が送られた岩塩鉱山は、陽の光も届かない、暗く湿った地の底だった。ひんやりとした空気が肌を刺し、岩塩と汗の混じった独特の匂いが鼻をつく。かつて彼女が纏っていた純白のドレスとは似ても似つかぬ、囚人用のゴワゴワとした粗末な麻の服は、彼女の柔な肌を擦り、絶えず不快感を訴え続けた。自慢だった燃えるような赤毛は、坑内の粉塵と汗で汚れ、見る影もない。手入れの行き届いていた、宝石のように輝く爪は、最初の数日で全て無残に割れてしまった。


 鉱山での初日、彼女は震える手で、生まれて初めてつるはしを握った。


「さあ、働け、元姫様よ!」


 看守の罵声と、他の囚人たちの冷たい視線が突き刺さる。彼女は、かつてのように涙を浮かべて助けを求めようとした。だが、誰も彼女を見ない。彼女の美貌など、ここでは何の意味もなさなかった。

 硬い岩盤と、つるはしを振るうだけの毎日。最初の数日で、彼女の白い手は豆だらけになり、それが潰れて血が滲んだ。シルクのように滑らかだった肌は、岩屑と汗と泥にまみれ、見る影もなく荒れ果てていく。食事は、水で薄めた硬い黒パンと、塩辛いだけのスープ。かつては一口も口にしなかったような代物だ。


「いや……いやよ!私はこんなところで終わる人間じゃないわ!」


 彼女は何度も逃げ出そうとしたが、そのたびに看守に捕まり、鞭打たれた。


「お姉様!ジークフリート様!助けて!」


 その悲痛な叫びも、坑道の闇に虚しく響くだけ。むしろ、他の囚人たちの嘲笑を誘った。


「まだ夢見てやがるぜ、あの女」


「俺たちの苦しみも知らずに贅沢三昧してきた罰だ」


 誰も彼女を助けず、誰も彼女を覚えていない。かつて「聖女」と呼ばれたリリアーナは、今やただの番号で呼ばれる、無名の囚人の一人だった。

 ある日、彼女は坑内の水たまりに映る自分の姿を見た。痩せこけ、頬は落ち窪み、髪は鼠の巣のよう。そこにいたのは、もはやリリアーナ・フォン・ヴェルナーではなかった。絶望の中で、彼女は静かに、つるはしを置いた。そして、ふらふらと、坑道の最も深い闇へと歩いていく。

 数日後、彼女の亡骸が発見されたが、それを気にかける者は、誰もいなかった。



 それから、五年後。


 クラインフェルト公爵領の城の中庭は、穏やかな陽光と、楽しげな笑い声に満ちていた。

 柔らかな芝生の上では、小さな男の子が、巨大な銀狼の背中に一生懸命よじ登ろうとしていた。母親譲りのアッシュブラウンの髪と、父親譲りのアイスブルーの瞳を持つ、エリアーナとアレクシスの息子、アルフレッドだ。


「よいしょ、よいしょ……!」


 小さな手でもふもふの毛を掴み、短い足を一生懸命に動かす。だが、伝説の魔獣の背中は、アルフレッドにとってはまるで緩やかな山のようだ。何度も滑り落ちそうになりながらも、彼は諦めずに挑戦を続けている。


「るーん、まってー!」


 男の子がそう言うと、伝説の魔獣は心得たように、その巨大な体をゆっくりと芝生に伏せた。山のように高かった背中は、今やアルフレッドにとって、登りやすい丘へと変わる。それでも、ふわふわの銀の毛皮に小さな手足を取られ、アルフレッドは何度もずり落ちそうになった。


「うー、もうちょっと……!」


 歯を食いしばる息子の姿に、エリアーナは思わずくすくすと笑みを漏らした。その隣で、アレクシスは腕を組み、口元には穏やかな笑みを浮かべてその光景を見守っていた。かつて、どんな些細なことにも動じなかった「氷の公爵」の面影は、もうどこにもない。彼の瞳は、ただひたすらに、目の前の愛しい家族に向けられていた。


「ふふ、アルフレッドは本当にルーンが好きですね」


「君に似たのだろう。私には、あんな風に甘えてくれたことは一度もないがな」


 アレクシスの少しだけ拗ねたような言葉に、エリアーナは悪戯っぽく笑いかける。ルーンは、そんな公爵のやきもちを知ってか知らずか、ようやく背中に登り切ったアルフレッドを乗せたまま、満足げに尻尾を揺らしていた。


「あの子も、君の力を受け継いだようだね。庭の動物たちが、片時もそばを離れようとしない」


 アレクシスの言う通り、二人の周りには、リスやウサギ、小鳥たちが、まるで家族の一員であるかのように集まっていた。


「ええ。でも、あの子がその力で苦しむことは、きっとないでしょう。ここには、それを正しく理解し、愛してくれる人たちがいますから」


 エリアーナは、穏やかに微笑んでアレクシスを見つめ、そっとその手に自分の手を重ねた。

 かつて「役立たず」と追放された令嬢は今、大陸一の幸せを手に入れた。

「もふもふ聖女」と「氷の公爵」、そして伝説の魔物が織りなすその物語は、吟遊詩人によって、この先も末永く語り継がれていくことになる。

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― 新着の感想 ―
とても良かったと思う。元父侯爵?の最後がもっと分かりやすく 悲惨な最後だったら良かったな。最後の最後がもふもふとお子ちゃまのほんわかだったのが読後感を良きものにしてました。
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