第3話:破滅への三重奏
※AIを使用しての作品となります。
公爵領での新たな生活は、エリアーナにとって、まさに世界が反転するような体験だった。
アレクシスが与えたのは、彼女を飾るための豪華な宝飾品やドレスではなかった。代わりに用意されたのは、動きやすさを重視した上質な生地のワンピースと、そして何よりも――大陸中の書物を集めた、天井まで届く本棚が壁一面を埋め尽くす広大な書庫だった。古い羊皮紙の匂いと、インクの香り。それはエリアーナにとって、どんな高価な香水よりも心を落ち着かせる香りだった。
彼女は文官としての能力を遺憾なく発揮した。その初仕事は、公爵領の財政監査。何十年も公爵家に仕えてきた、プライドの高い古参の文官たちは、ぽっと出の、しかも隣国から追放されてきた若い女に指図されることを、あからさまに不快に思っていた。
「こちらが過去三十年分の帳簿です、エリアーナ様。まあ、おいおいご確認いただければ」
特に、白髪頭の会計責任者であるゲルトは、侮りと憐憫が入り混じったような目で、エリアーナの前にうず高く帳簿の山を積んだ。それは、何ヶ月も彼ら全員で頭を悩ませてきた、解決不能な赤字の元凶。暗に「お嬢様のお遊びに付き合っている暇はない」と告げているかのようだった。
だが、エリアーナはその挑戦的な態度にも怯まなかった。
「ありがとうございます。早速、拝見しますわ」
彼女は、公爵家の書庫に籠もった。そこは、長年の領主たちの無関心により、膨大な資料がただ無秩序に積まれているだけの、カビと埃の巣窟だった。しかし、エリアーナはその中で、まるで宝の山を見つけた探検家のように瞳を輝かせた。
彼女は埃まみれになりながらも、驚異的な集中力で帳簿の数字の羅列を追い、書庫の片隅から見つけ出した数十年前の交易記録や、忘れ去られていた関税の条文とを一つ一つ照らし合わせていく。矛盾点や非効率な支出、そして、誰も気づかなかった巧妙に隠された不正の痕跡を、次々と洗い出していった。
三日後、公爵家の会議室には、ゲルトをはじめとする古参の文官たちが集められていた。彼らの顔には、エリアーナがどんな言い訳をするのか見届けてやろうという、意地の悪い好奇の色が浮かんでいる。
しかし、エリアーナは、たった一枚の羊皮紙を手に、静かに口を開いた。
「財政赤字の主要な原因は三つ。第一に、十年前の鉱山開発における初期投資の、不自然な長期にわたる分割支払い。第二に、特定の商会との交易における、不平等な関税率の適用。そして第三に――」
彼女が指摘する内容は、あまりに的確で、誰もが「まさか」と顔を見合わせた。ゲルトの顔からは、みるみる血の気が引いていく。
「……そんな、馬鹿な。その記録は、全て確認したはずだ」
「ええ。ですが、ゲルト様。あなたは二十年前に改訂された『越境交易法』の、さらにその五年前に廃止されたはずの古い補遺条項を適用し続けておいででした。その結果、本来徴収すべきだった関税の七割が、特定の商会に不当に還流していたのです。故意か、過失かは、詳しくお話を伺わなければ分かりませんが」
その姿は、もはや令嬢ではなく、冷徹な法廷に立つ検察官のようだった。彼女の瞳は、ゲルトの心の奥底まで見透かしている。
ゲルトはその場に崩れ落ち、他の文官たちは、当初の侮りが恐怖へ、そして最後には純粋な畏敬へと変わっていくのを感じていた。この若い女性は、自分たちが何十年もかけて築き上げ、そして見過ごしてきた病巣を、たった三日で完璧に見抜いてしまったのだ。
そして、財政の黒字化に目処をつけた彼女が次なる一手として着手したのが、農業改革だった。
領内の畑を歩き回り、痩せた土をその手に取り、じっと耳を澄ませるように植物たちの「声」を聞く。農夫たちは最初、そんな彼女の姿を「お貴族様のお遊びだ」といぶかしげに見ていた。
年配の農夫ハンスは、腕を組んで、面白くなさそうにエリアーナを眺めている。
「公爵様も物好きなお方を連れてきたもんだ。あんなひょろっとしたお嬢様に、土のことなんざ分かりゃしねえだろうに」
「だが、ゲルト様をやり込めたって話だぜ、親父。見た目によらねえのかも」
息子のカールがそう言っても、ハンスは鼻を鳴らすだけだった。
「ふん、口が達者なだけだろう。畑仕事は口じゃできねえんだ」
そんな彼らの視線も気にせず、エリアーナは痩せた土地が広がる畑の一角で足を止めた。そこには、他の作物が育つのを諦めたかのような痩せた土地に、数本だけ、雑草に紛れてか細い麦が自生していた。だが、彼女には聞こえる。か細いけれど、懸命に「生きたい」と叫ぶ、その声が。
「ハンスさん、これは?」
エリアーナの問いに、ハンスはぶっきらぼうに答えた。
「ああ、ありゃあ昔から生えてるただの雑草ですだ。寒さには強いが、実は小さくて食えたもんじゃねえですよ」
「これを、少しだけ育てさせていただけませんか?」
ハンスは呆れた顔をしたが、公爵様が連れてきた令嬢の頼みを無下にもできず、畑の隅の小さな一画を彼女に貸し与えた。どうせすぐに飽きるだろう、と。
だが、エリアーナは毎日その畑を訪れた。特別な肥料をやるでもなく、ただ、その小さな畑のそばに座り込み、優しく声をかけるように、じっと麦の成長を見守るだけだった。
数週間もすると、農夫たちは異変に気づき始めた。
「親父……なんだか、あそこの麦だけ育ちが違わねえか?」
カールの言う通り、エリアーナの区画の麦だけが、周囲の麦とは比べ物にならないほど力強く、青々と育っていたのだ。
やがて、その麦は太陽の光を凝縮したかのような、重く、美しい金色の穂をたわわに実らせた。誰もが見たことのない、生命力に満ち溢れたその光景に、農夫たちは言葉を失う。
収穫の日、ハンスは恐る恐るエリアーナに尋ねた。
「お嬢様…いや、エリアーナ様。一体、どんな魔法を…?」
エリアーナは、黄金色の穂を愛おしげに撫でながら、穏やかに微笑んだ。
「魔法ではありませんわ。この子たちが、頑張ってくれただけです」
その奇跡の小麦は、寒冷地でも育ち、これまでの品種の倍以上の収穫量と栄養価を誇った。領民たちは感謝と畏敬の念を込めて、その小麦を「陽光麦」と呼んだ。その誕生は、公爵領の未来を明るく照らす、まさに希望の光となったのだ。
アレクシスは、彼女がもたらす奇跡の数々を冷静に分析し、その価値を正しく評価していた。財政を立て直し、新たな食糧資源を生み出す。それは、一人の文官の能力を遥かに超えた、まさに国を動かす力だ。彼女はクラインフェルト公爵領にとって、紛れもなく「至宝」だった。
だが、彼の心を捉えていたのは、それだけではなかった。いつからか、アレクシスは執務の合間に、エリアーナの姿を目で追うようになっていた。
書庫で一心不乱に資料を読む彼女の横顔は、近寄りがたいほどに知的で、美しい。難解な箇所に差し掛かると、無意識にきゅっと唇を結ぶ癖。時折、インクで汚れた頬にも気づかずに、熱心にページを繰る姿。その真剣な姿を見るたび、アレクシスは領主として、彼女という類稀な才能を得た幸運に満足感を覚えた。
しかし、その感情は、次の瞬間には全く別のものへと変わる。
執務室の窓から見える中庭で、エリアーナはルーンの大きなお腹に頭を乗せ、本を読んでいる。時折、ルーンが甘えるように彼女の顔を舐めると、エリアーナは「もう、ルーンったら」と、年相応の、困ったように愛らしい笑顔を見せるのだ。そして、そのもふもふの毛を遠慮なくくしゃくしゃと撫で回す。書庫にいる時とはまるで別人のような、無防備で、柔らかなその表情。
そのギャップが、常に冷静であるはずのアレクシスの心を、どうしようもなく揺さぶった。
(……なんだ、この感情は)
「氷の公爵」と揶揄される自分が、柄にもなく、胸の奥が温かくなるような感覚に戸惑っていた。
「役立たず」と蔑まれた令嬢が見せる、あの満ち足りた笑顔。その笑顔を守りたいと、アレクシスは柄にもなく、そう強く願うようになっていた。
その日から、彼は厨房の料理長にこっそりと指示を出すようになった。エリアーナが故郷でどのような食事を摂っていたか、侍女たちから聞き取りを行わせ、決して贅沢ではないが、温かく、栄養のある料理を毎日食卓に並べるように、と。
具沢山のポトフ、蜂蜜をたっぷりかけた焼きたてのパン、木苺のタルト。エリアーナは最初、豪華な食事に戸惑い、遠慮していたが、アレクシスが「君の働きに対する、正当な報酬だ」と静かに告げると、少しずつ、しかし確かにおいしそうに食事を口に運ぶようになった。
彼女がスープを一口飲んで、ほっと息をつく。その些細な仕草が、アレクシスの心を満足感で満たした。彼女の心の傷が、少しずつ癒えていくのを、彼は自分のことのように嬉しく感じていた。
美食ともふもふの温もり、そして何より、自分の能力が正当に評価され、必要とされる場所。エリアーナは、クラインフェルト公爵領での生活を通して、追放されて初めて、心からの安らぎと、未来への確かな希望を感じ始めていた。
エリアーナが隣国で新たな人生を歩み始めてから、季節が二つ巡った頃。
彼女を追放したヴァルハイト王国は、静かに、しかし確実に、崩壊への道をたどっていた。
エリアーナという国家運営の精密な歯車を失った王国は、軋みを上げながら、末端から腐り始めていた。
ジークフリート王子は、複雑な政務から目をそむけ、問題が起きるたびに「なぜ俺の言う通りにできない!」「気合が足りん!」と武力や精神論で解決しようとした。彼が承認した街道の修復計画は、現実を無視したずさんなもので、完成を待たずに橋が崩落。物流は滞り、物価は高騰した。
妹のリリアーナは、ジークフリートという新たな庇護者を得て、その浪費癖に拍車がかかっていた。「聖女」として民の前に立つための衣装代、心身を清めるための宝石を浮かべた風呂、祈りの効果を高めるための豪華な夜会。その全てが国庫から支出され、財政は火の車だった。
エリアーナがいた頃は、隅々まで管理されていた納税システムも、今や完全に麻痺していた。彼女が緻密に作り上げた税率の計算式を理解できる者は誰もおらず、役人たちは適当な数字を報告するだけ。地方の有力貴族たちは、これを好機と中央政府への納税を渋り、その富を私腹を肥やすことに専念し始めていた。かつてエリアーナが結んだ有利な交易協定も、担当者の無知により、いつの間にか相手国に都合のいいように内容を書き換えられていた。
王国は、エリアーナというたった一人の人間が、いかに多くのものを背負っていたか、その不在によって初めて思い知ることになったのだ。
そして、その歪みは、最悪の形で噴出した。
大規模な飢饉。
原因は、エリアーナが追放される直前に、最後に気に掛けていた『穀物安定供給法』の欠陥だった。冷害に備えた条文の不備を、彼女の後に修正できる者はおらず、予見されていた通りの凶作が王国を襲ったのだ。
「食糧がないだと?嘘をつくな!我が国の備蓄はどうした!」
玉座の間で、ジークフリートは大臣たちに怒鳴り散らしていた。だが、震え上がるばかりの大臣たちから、有効な答えは返ってこない。
「そ、それが……先の視察では、まだ十分な量があったはずなのですが……」
「言い訳は聞きたくない!今すぐ民に配給する食糧を用意しろ!」
王宮でジークフリートがいくら吠えても、もはや備蓄倉庫は空だった。杜撰な管理のせいで、備蓄穀物の大半はネズミに食われ、カビが生え、見るも無惨な状態になっていたのだ。
王都では、パン屋の前に暴動寸前の長蛇の列ができ、母親たちは痩せこけた子供を抱きしめて途方に暮れていた。民衆の怒りは、贅沢な暮らしを続ける王家へと真っ直ぐに向き、各地で暴動が頻発するようになっていた。
追い詰められたジークフリートは、ついに決断する。
「……使者を送れ。周辺国から食糧を緊急輸入する。我が国の金を使えば、いくらでも手に入るはずだ」
彼はまだ、自国の財貨と権威が、かつてと同じように通用すると信じて疑っていなかった。
しかし、数日後にやつれ果てて帰ってきた使者がもたらした報告は、彼の甘い認識と、なけなしのプライドを、ズタズタに引き裂くものだった。
周辺諸国の市場は、一つの銘柄の小麦で、かつてないほどの活況を呈していた。どこの国の市場へ行っても、パン屋からは香ばしい匂いが溢れ、人々は満ち足りた顔で買い物を楽しんでいる。使者が絶望と共に見たのは、ヴァルハイト王国だけが、この豊かさから取り残されているという残酷な現実だった。
その活況の中心にあるのが、黄金色の輝きを放つ奇跡の小麦――「陽光麦」だった。
「陽光麦……だと?聞いたこともない。どこの国の産物だ?」
使者は、震える声で答えた。
「それが……アレクシス公爵領で、この半年ほどの間に、新たに開発されたものだそうで……」
「なんだと!?」
ジークフリートは絶句した。あの、忌々しいアレクシスの領地だと?
使者の報告は続く。アレクシス公爵領で新たに開発されたその小麦は、驚くほど安価で、栄養価も高く、何より、今年の厳しい冷害の影響を一切受けていないという。その品質と安定供給により、瞬く間に周辺国の市場を席巻してしまったのだ、と。
ジークフリートは屈辱に顔を歪ませながらも、背に腹は代えられず、アレクシス公爵に使者を送ることを決めた。王家の使者として白羽の矢が立ったのは、老練な外交官であるバルマ伯爵だった。彼は、痩せこけた馬に鞭打ち、クラインフェルト公爵領へと向かった。
国境を越えた瞬間、バルマ伯爵は息を飲んだ。ヴァルハイト王国側の、荒れ果て、人々が絶望の表情でうずくまる村々とはまるで違う。黄金色の麦畑が地平線の果てまで広がり、道行く人々は皆、血色が良く、その顔には活気が満ち溢れていた。パン屋からは、ヴァルハイトではもう何ヶ月も嗅いでいない、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。この豊かさこそが、ヴァルハイトが失ったものの象徴だった。
公爵の城にたどり着いた伯爵は、応接室で半日以上も待たされた挙句、ようやくアレクシスの執務室へと通された。氷の公爵は、膨大な書類の山を背景に、冷たい瞳で彼を一瞥しただけだった。
「して、敗軍の将が、何の用向きかな」
その言葉に、バルマ伯爵は屈辱に唇を噛み締めながらも、王国の窮状を訴え、小麦の買い付けを懇願した。アレクシスは、その言葉を最後まで黙って聞いていたが、やがて、ふっと嘲るような息を漏らした。
「売ってやらぬこともない。ただし、価格はこちらで決めさせてもらう」
提示された価格は、市場価格の三倍。足元を見られた法外な要求だった。
ヴァルハイト王国は、かつて自分たちが「役立たず」と蔑み、捨てた令嬢がもたらした奇跡の作物に、国庫の底をはたいて頭を下げ、買わなければならないという、惨めな屈辱を味わうことになったのである。
国内の不満を逸らし、高騰した小麦の代金を捻出するため、ジークフリートは貴族たちへの増税を試みた。だが、王家の権威が失墜した今、彼の言葉に耳を貸す者などいない。むしろ、貴族たちの不満は限界に達し、王への責任を追及する声が日増しに高まっていた。
完全に追い詰められたジークフリートは、起死回生の一手を打つ。それは、彼の浅はかな思考回路が導き出した、最悪の選択だった。
近隣の国々を集めた首脳会議の場で、全ての責任をアレクシス公爵に押し付け、国際社会を味方につけるという暴挙だ。
中立国の大聖堂で開かれた首脳会議。ステンドグラスから差し込む荘厳な光が、巨大な円卓を囲む各国の王侯貴族たちを照らし出していた。議題は、もちろん「陽光麦」がもたらした市場の混乱について。誰もが、その小麦の恩恵を受けながらも、一つの公爵領が市場を支配することへの警戒心を隠せずにいた。ジークフリートは、この空気を読んだつもりだった。今こそ、自分が主導権を握る時だと。
彼は、頃合いを見計らって、わざとらしく立ち上がった。
「クラインフェルト公爵!貴殿の領地による『陽光麦』の独占は、周辺国の食糧安全保障を脅かす、許されざる行為だ!その独占をやめ、我が国に正当な価格で小麦を譲渡することを要求する!」
各国の王侯貴族が集まる厳粛な会議場で、ジークフリートのヒステリックな声が響き渡った。円卓を囲む各国の代表たちは、眉をひそめたり、扇で口元を隠して隣国の者と視線を交わしたりと、その反応は様々だ。だが、その根底にあるのは、ヴァルハイト王国の失墜に対する侮蔑と、クラインフェルト公爵領の急成長への警戒心がない交ぜになった、複雑な感情だった。
しかし、非難の矢面に立たされたアレクシスは、その氷のような表情を一切崩さなかった。彼は肘掛けにゆったりと腕を預け、まるで対岸の火事でも眺めるかのように、冷静にジークフリートを見つめている。その落ち着き払った態度が、かえってジークフリートの焦燥を煽った。
「聞いているのか、アレクシス公爵!これは我が国だけの問題ではない!大陸全体の秩序に関わることなのだぞ!」
ジークフリートがさらに声を荒らげた、その時。アレクシスは、テーブルに置かれたグラスを静かに手に取ると、ゆっくりと喉を潤した。その一連の動作には、一分の隙もない。議場の全ての視線が彼に注がれるのを待ってから、彼はゆっくりと口を開いた。
「私の見解を述べる前に、我が領が誇る最高顧問を紹介しよう」
アレクシスの言葉と共に、議事堂の重厚な樫の扉が、軋むような音を立ててゆっくりと開かれた。逆光の中に、一人の女性のシルエットが浮かび上がる。その場にいた誰もが、息を飲んだ。
光の中へと静かに歩みを進めたその女性は、まるで月光そのものを織り上げて仕立てたかのような、上品な銀色のドレスを身に纏っていた。過度な装飾はない。しかし、その生地の光沢、流れるようなシルエットは、最高位の職人が手掛けた一級品であることを雄弁に物語っていた。
追放された夜に着ていた薄汚れた紺色のドレスの面影は、どこにもない。地味だと揶揄されたアッシュブラウンの髪は、今は優雅に結い上げられ、クラインフェルト公爵家の紋章をかたどった、小さな銀の髪飾りが控えめに輝いている。
だが、何よりも見る者の視線を奪ったのは、その顔だった。かつて彼女の理知的な瞳を覆い隠していた銀縁の眼鏡はなく、その代わりに、恐ろしいほどの自信と、全てを見透かすような静かな落ち着きを宿したヘーゼルの瞳が、真正面から議場を見据えていた。それはもはや、夜会の隅で壁の花を気取っていた、地味な文官令嬢の姿ではなかった。一国の運命を左右する会議の場に立つにふさわしい、一人の為政者の顔だった。
「……あれは、誰だ?」
「見たこともない顔だが……」
各国の代表たちが、ひそひそと囁き合う。
その中でただ一人、ジークフリートだけが、血の気が引いた顔で呆然と立ち尽くしていた。目の前の、見違えるように美しく、そして何より、圧倒的な存在感を放つ女性が、自分が「役立たず」と蔑み、捨てた元婚約者であるという事実を、彼の脳が理解することを拒んでいた。
そう、エリアーナ・フォン・ヴェルナーだった。
「なっ……!エリアーナ、貴様、なぜここに……!」
ジークフリートが驚愕に目を見開く。エリアーナは彼に一瞥もくれず、各国首脳に向かって優雅に一礼すると、淀みない声で語り始めた。
「皆様、クラインフェルト公爵領が『陽光麦』を独占しているというご指摘は、事実に反します。これは、我が領の技術革新と、適切な投資、そして何より、たゆまぬ努力によって生み出された正当な『成果』です」
彼女は、一枚の羊皮紙を円卓の中央に広げた。そこには、誰が見ても分かるように、両国の財政状況を示すグラフが描かれている。
「まず、ヴァルハイト王国が主張する、我が国の不当な利益について。こちらの資料をご覧ください。これは、過去十年間のヴァルハイト王国の歳出の内訳です。特筆すべきは、儀礼目的の『白薔薇騎士団』に、実戦部隊である辺境伯騎士団の三倍もの予算が割り当てられている点。この無駄な軍事費が、どれほど国庫を圧迫していたかは、皆様も容易にご想像がつくかと存じます」
ざわ、と議場がどよめく。エリアーナは構わず、次々と証拠を突きつけていく。
「次に、食糧備蓄について。ヴァルハイト王国では、帳簿上は毎年、国民二年分に相当する穀物が備蓄されていることになっておりました。ですが、実際にはその穀物が購入された記録はなく、ただ空の倉庫を維持するためだけに、多額の管理費が計上され続けていたのです。これは単なる怠慢ではなく、国家的詐欺行為と言っても過言ではありません」
「最後に、今回の飢饉の直接の原因となった、『穀物安定供給法』。私は半年前、この法律には冷害への対策が全く考慮されていないという致命的な欠陥があることを、ジークフリート殿下に直接進言いたしました。その際の私の提言と、それに対する殿下のご回答も、全て記録に残っております」
彼女の言葉は、淡々としていながら、一つ一つがヴァルハイト王国の心臓を抉る、鋭い刃となっていた。ジークフリートは「そ、そんな記録はない!」と叫ぶが、エリアーナは冷ややかに彼を見据えた。
「いいえ、ございます。全ての執務記録は、私が個人的に写しを保管しておりましたので」
彼女の言葉は、ヴァルハイト王国の無能さを、国際社会の面前で余すところなく白日の下に晒した。
「……そもそも、ヴァルハイト王国が飢饉に苦しんでいるのは、天災が原因ではありません。それは、政を担うべき者がその責務を放棄した結果にすぎない、純然たる人災です」
エリアーナが静かにそう締めくくると、議事堂は水を打ったように静まり返った。
そして、とどめを刺すように、アレクシスが冷ややかに言い放つ。
「貴国がその手で『役立たず』と捨てた石を、我々は至宝として磨き上げました。その輝きに今更嫉妬するのは、滑稽の極みですな」
その言葉を引き金に、張り詰めていた空気の糸がぷつりと切れた。
最初に噴き出したのは、東方の商業国家の恰幅の良い王だった。彼は隠すことなく、腹を抱えて「ぶはっ」と派手に笑った。その笑いを皮切りに、それまで扇や手で口元を隠していた貴婦人たちが、くすくすと上品な、しかし明確な嘲笑を漏らし始める。厳格な顔で知られる北の帝国の老将軍でさえ、その口ひげをぴくぴくと震わせ、肩を揺らしている。
それは、ジークフリートの耳には、地獄の釜が煮え立つ音のように聞こえた。
彼が必死に築き上げようとしていた「被害者」という立場は、エリアーナの完璧な論証と、アレクシスの容赦ない一言によって、木っ端微塵に砕け散った。
彼は、ただの愚かで無能な王子。憐れみの対象ですらない、滑稽な道化。各国代表の目が、そう雄弁に物語っていた。
ジークフリートは、助けを求めるように円卓を見回す。だが、そこには、かつて彼におべっかを使っていた者たちの、冷たい視線しかなかった。
視線が、アレクシスの隣に立つエリアーナと合う。そのヘーゼルの瞳に宿っていたのは、憎しみではなかった。怒りでもなかった。それは、もはや彼を対等な存在とすら認識していない、ただの無関心と、ほんのわずかな――憐憫だった。
その無慈悲な眼差しが、ジークフリートの心の最後の砦を、完全に破壊した。
「あ……あ……あああああ……」
喉から、意味をなさない声が漏れる。王族としての威厳も、騎士としての誇りも、全てが剥がれ落ちていく。彼の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、その場で子供のようにわっと泣き崩れた。
荘厳な大聖堂に響き渡る、一国の王子の、みっともない嗚咽。それは、ヴァルハイト王国の終わりの始まりを告げる、哀れなファンファーレだった。
首脳会議から逃げ帰ったジークフリートは、完全に正気を失っていた。
国際社会の笑いものとなり、国内の貴族たちからも見放され、民衆の怒りは沸点に達している。彼の耳には、昼夜を問わず、嘲笑と罵声の幻聴が響き続けていた。
「すべて、あの女のせいだ。エリアーナが、俺の全てを奪った」
彼の思考は、もはや正常な判断能力を失い、単純な復讐心と、歪んだ所有欲だけが渦巻いていた。エリアーナは自分のものだったはずだ。自分が見出した、自分の駒だったはずだ。それを、アレクシスという卑劣な男が横から奪い取った。ならば、力ずくで奪い返せばいい。それが、武を尊ぶヴァルハイト王国の、王たる自分のやり方だ。
彼は、王宮の地下牢に繋がれていた囚人たちに恩赦を約束し、わずかながらの金で流れ者の傭兵をかき集めた。かつて彼が率いた、誇り高き王家の騎士団の姿はどこにもない。そこにいたのは、血と略奪に飢えた、三十人ほどのごろつきの集団だけだった。
「いいか、お前たち!クラインフェルト公爵領へ行き、エリアーナという女を連れ帰る!成功すれば、望むだけの褒美をくれてやる!」
真夜中、ジークフリートは、かつての華やかな軍装ではなく、顔を隠すように深いフードを被り、手勢を率いて王都を抜け出した。その瞳だけが、狂的な光を爛々と放っていた。
しかし、彼らが国境を越え、公爵領の森へ足を踏み入れた瞬間、その目の前に、一体の巨大な銀狼が立ちはだかった。ルーンだ。
「な、なんだ、あの魔物は……!かかれ!蹴散らせ!」
ジークフリートの虚勢に満ちた号令も、ルーンの前では何の意味もなさなかった。
月明かりに照らされたその獣の体は、ただ大きいというだけではない。その筋肉質な四肢は大地に深く根を張り、銀色の毛皮の隙間からは、まるで内なる星々が瞬くように、青白い魔力の光が明滅していた。
ルーンは、ただ一度、咆哮しただけだった。
それは音ではなかった。物理的な衝撃を伴う、純粋な魔力の塊だった。空気がビリビリと震え、大地そのものが悲鳴を上げるように細かく揺れる。晴れていたはずの夜空には、ありえない速さで暗雲が渦を巻き、その中心から、紫電が空を引き裂いた。
ジークフリートが雇ったごろつきどもは、その圧倒的な存在感の前に、なすすべもなかった。馬はいななき、前足を上げて暴れ狂い、鞍上の乗り手を振り落とす。傭兵たちは「ひぃっ」と短い悲鳴を上げ、自慢の剣や斧をその場に取り落とし、ある者は恐怖のあまり泡を吹いて倒れ、ある者は我先にと背を向けて逃げ出していく。それはもはや、戦闘ですらなかった。ただの、一方的な蹂躙だった。
ジークフリートは、その場で腰を抜かし、意識を失った。伝説の厄災が、今まさに自分を飲み込もうとしている。その恐怖だけを、その魂に刻みつけて。
その頃、ヴァルハイト王国の王宮では、リリアーナの断罪が行われていた。
ジークフリート王子が国から逃げ出し、指導者を失った王国では、残された貴族たちが我先にと責任のなすりつけ合いを始めていた。そして、飢えた民衆の怒りを逸らすための、最も手軽で分かりやすいスケープゴートとして、彼女が選ばれたのだ。
かつて「聖女」ともてはやされたリリアーナは、今や「国を傾けた悪女」として、王宮の広場に引きずり出された。投げつけられる石や泥を避けるように、彼女は震えながらうずくまる。
「お前のせいで、俺の畑は全滅だ!」
「子供が飢えているのに、自分だけ贅沢をしやがって!」
かつて彼女の美貌にひれ伏し、その微笑み一つで意のままになったはずの民衆が、今や憎悪に満ちた目で彼女を睨みつけていた。
そんな中、老齢のヴェルナー侯爵――彼女の実の父親が、震える足取りで広場の中央へと進み出た。彼は、娘の罪を断罪することで、自らの家門だけは守ろうと必死だった。
「この度、我が娘リリアーナが、国を揺るがす大罪を犯したことが明らかになりました!彼女が用いていた聖女の力は偽りであり、人々を惑わす邪悪な魔術に他なりませんでした!」
父のその言葉に、リリアーナは顔を上げた。信じられない、という表情だった。自分を溺愛し、姉を追い出すことに加担してくれた父が、今、自分を見捨てようとしている。
「お父様!?何を……!?」
侯爵の合図で、隣国から招かれたという高名な老魔術師が、リリアーナの力の鑑定を始めた。彼は、リリアーナが放つ微弱な魔力に眉をひそめると、侮蔑を隠さずに言い放った。
「これは……酷い。聖女の御力などという、高尚なものでは断じてない。ただ、見る者の判断をわずかに曇らせるだけの、低俗で安っぽい魅了の魔術。それも、術者の美貌に依存する、極めて不完全な代物だ」
その言葉は、まるでリリアーナの心の最後の支えであるガラスの玉座を、容赦なく鉄槌で打ち砕くかのようだった。
自分の美しさ。人を惹きつける力。それが、彼女の全てであり、世界を支配するための唯一の武器だった。姉から王子を奪ったのも、周囲の人間を意のままに操ってきたのも、全てはこの力のおかげだった。それなのに、偽物? 安っぽい魔術? そんなはずはない。
「う、嘘よ!この人は偽物だわ!私こそが、本物の聖女よ!」
リリアーナはヒステリックに叫んだが、その声はもはや誰の心にも響かない。魔術が解けた今、人々が見ているのは、ただの着飾った、中身の空っぽな女でしかなかった。
エリアーナを陥れた罪も全て、これを好機と見た貴族たちによって、次々と明るみに出されていく。
「あの夜会の晩、リリアーナ様がご自身の侍女に『あのグラスにこれをお入れなさい。あとはよしなに』と、怪しげな小瓶を渡しているのを、我が家の者が見たと申しております!」
「そうです!あの日、リリアーナ様が『あんな地味な姉、邪魔ですわ』と呟いていたのを、私も聞きました!」
かつて彼女の美貌を讃え、甘い言葉を囁いた貴族たちが、今や手のひらを返し、我先にと彼女を断罪する側に回っていた。彼らにとって、リリアーナはもはや利用価値のない、むしろ自分たちに累が及ぶ前に切り捨てるべき存在でしかなかった。
「よくも我らを騙してくれたな!」
「この女のせいで、我が国は!」
全ての地位と財産を剥奪されたリリアーナは、その場で、衛兵によって豪華なドレスを乱暴に引き剥がされた。絹が裂ける耳障りな音と共に、彼女の白い肌が衆目に晒される。だが、そこに同情の眼差しはなく、あるのはただ、冷たい侮蔑だけだった。
代わりに着せられたのは、囚人用の、ゴワゴワとした粗末な麻の服。肌を擦り、不快な感触が、彼女のプライドをさらに傷つけた。
自慢だった燃えるような赤毛は、泥水で濡れた雑巾のように無造作に掴まれ、一本の縄で乱暴に縛られる。手入れの行き届いていた、宝石のように輝く爪は、石畳に押し付けられて無残に割れた。
彼女は、かつて姉を追いやった「魔の森」の近くにある、最も過酷な鉱山へ、一人の労働者として送られることになった。陽の光も届かない、暗く湿った坑道で、つるはしを振るい、その白い手を血と泥に汚し、命が尽きるまで働き続けるのだ。
「いや!いやよ!こんなところ、いや!お姉様、助けて!私が、わたくしが悪かったわ!だから、助けて……!」
罪人用の馬車に放り込まれながら、リリアーナはそう泣き叫んだ。だが、その声が届くことは、もう二度となかった。
次回最終話です。
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