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第2話:邂逅と目覚め

※AIを使用しての作品となります。

 夜の「魔の森」は、死の匂いがした。


 腐った落ち葉と湿った土が混じり合った、生命の循環が停止したかのような淀んだ匂い。冷たく湿った空気が、夜会用の薄汚れたドレスを通してエリアーナの体温を容赦なく奪っていく。肌に張り付く濡れた絹の感触が、不快でならなかった。闇の奥から聞こえる夜行性の獣の低い咆哮が、腹の底に響く。風が奇妙な形にねじくれた木々を揺らす音は、まるで聞き取れない言葉で嘲笑う、亡者の囁きのようだ。時折、近くで小枝が乾いた音を立てて折れ、そのたびに心臓が凍る。


 打たれた頬は未だに鈍く熱を持ち、唇の端は切れて、乾いた血の鉄錆びた味がした。だが、そんな肉体的な痛みなど、もはや些細なことに思えた。何よりも辛いのは、心の芯まで完全に凍てついてしまった、この感覚だった。


 父に打たれ、信じていたはずの最後の絆を断ち切られた。婚約者に見捨てられ、民のためにと捧げてきた文官としての誇りさえ、「役立たず」の一言で塵芥のように踏み躙られた。

 希望も、誇りも、未来も、全てを失った。胸の中にぽっかりと空いた虚無の穴を、森の冷気が満たしていく。もはや、生きる意味などどこにもなかった。

 胸に、懇願して手に入れた一冊の本を抱きしめる。硬い背表紙の感触だけが、自分が誰であったかを思い出させる唯一のよすがだった。


(このまま、獣に喰われて終わるのも、あるいは……)


 そんな虚ろな思考が頭をよぎった時、エリアーナの足元の草むらが、カサリと音を立てた。

 びくりと体をこわばらせる。獣だ。そう思ったエリアーナだったが、闇から現れたのは、予想よりもずっと小さな生き物だった。


 見れば、一羽の小さなウサギが、黒曜石のようにつぶらな瞳でじっとこちらを見上げている。本来、臆病なはずの野生動物が、人を前にして逃げ出すそぶりも見せない。その口には、朝露に濡れた瑞々しい木の葉が数枚、大事そうに咥えられていた。

 ウサギは、ぴょん、と一度跳ねては止まり、長い耳をぴくぴくと動かして周囲を警戒する。それでもなお、エリアーナから離れることなく、泥に汚れた彼女の靴のすぐそばまで来ると、まるで大事な宝物を献上するかのようにそっと木の葉を置いた。そして、もう一度エリアーナの顔をじっと見上げ、それから矢のように身を翻して、あっという間に森の奥へと消えていった。


「……?」


 エリアーナは、その不思議な行動に首を傾げた。しばらくの間、毒かもしれないという警戒心が、空腹に勝っていた。だが、胃がきりりと痛むほどの飢餓感と、もうどうなってもいいという投げやりな気持ちが、彼女に泥だらけの指を伸ばさせた。

 恐る恐る、震える手で葉を一枚つまみ上げ、口に運ぶ。

 その瞬間、驚くほど濃厚な甘みが、舌の上に広がった。それはただの甘さではない。森の生命力が凝縮されたかのような、深く、滋養に満ちた味だった。乾ききっていた喉を潤し、空っぽの胃に優しく染み渡っていく。その温かい感覚は、肉体だけでなく、凍てついていた心の表面をも、ほんのわずかに溶かしてくれるようだった。忘れていた涙が、再び頬を伝った。


 その夜、エリアーナが木の根元で膝を抱え、容赦なく体を打ちつける寒さに震えていると、再び不思議なことが起こった。

 ぱさ、ぱさ、と軽い音がして、何かが彼女の周りに落ちてくる。見上げると、何羽もの夜鳥たちが枝から枝へと飛び移り、自分たちの羽や、集めてきたのであろう乾いた柔らかな苔を、彼女の周りへと落としていく。それはまるで、一人の凍える人間のために、温かい寝床を必死に作ってくれているかのようだった。エリアーナは、その優しさの欠片に包まれ、久しぶりに浅い眠りへと落ちていった。


 ごつごつした木の根を背に眠ったせいで、体のあちこちが痛んだ。夜明けの冷気と、張り付くような喉の渇きに苛まれてエリアーナが重い瞼をこじ開けると、木々の隙間から差し込む朝の光が、目の前の光景を幻想的に照らし出していた。

 そこには、大きなシダの葉が皿のように置かれ、その上に、まるで腕利きの料理人が盛り付けたかのように、色とりどりのキノコが綺麗に並べられていた。白く丸いもの、茶色く傘の大きなもの、鮮やかなオレンジ色のもの。そのどれもが、きらきらと朝露の雫を纏い、新鮮そのものだった。それは明らかに、誰かの意図によってそこに置かれていた。まるで、彼女のために用意された朝食のように。


「……運がいい、だけよね」


 エリアーナは、かろうじて動く唇でそう呟いた。自分に言い聞かせなければ、おかしな期待をしてしまいそうだったからだ。これは全て偶然の産物だ、と。

 彼女のスキル――『愛されし者』など、何の役にも立たない。


 そもそもスキルとは、建国の神が貴族の血筋にのみ与えたとされる特別な力。それは血の正統性と、選ばれた者であることの証そのものだ。だからこそ、何の役にも立たないスキルを持つことは、ただの無能であること以上に、一族の恥とされた。

 そう、ずっと言われ続けてきた。武力こそが全てと信奉されるこの国で、敵を討つ力にも、富を生む力にもならない彼女のスキルは、物心ついた時から「残念スキル」と呼ばれていた。スキル鑑定の儀式の日、鑑定官が憐れむような目で「ただ……あらゆる生物に好かれてしまう、それだけのようですな」と父に告げた時の、あの失望に満ちた空気を、エリアーナは今でもありありと思い出せる。

 妹リリアーナの、人々を魅了するだけの薄っぺらい力が「聖女の輝き」と持て囃される一方で、エリアーナの力はいつも嘲笑の的だった。そんなものが何の役に立つのか、と。


 だから、違う。この森の動物たちの親切は、自分の力とは関係ない。きっと、私が弱っていて、脅威にならないから。そうに違いない。そうやって長年、自分を納得させてきたように、エリアーナは目の前の奇跡から必死に目を背けた。


 しかし、その「幸運」は続いた。昼間、森をさまよっていると、一匹のリスがしきりに木の枝を駆け回り、甲高い声で鳴きながら彼女の注意を引いた。そして、彼女が気づいたと分かると、巨大なクルミの木へと導き、その根元に隠していたたくさんの木の実を分けてくれたのだ。またある時は、巨大な影が前方を塞ぎ、エリアーナは死を覚悟した。だが、森の主とも思えるほどの巨大な熊は、彼女を襲うどころか、低い唸り声を一つ上げると、その大きな鼻でゴツゴツとした岩壁を一つ押した。するとそこには、雨風をしのげそうな小さな洞窟が隠されていた。熊はもう一度エリアーナを一瞥すると、興味を失ったかのようにのっそりと森の奥へ消えていった。


 動物たちは決して彼女を襲わず、むしろ、何かを助けようとするかのように、つかず離れずの距離で見守っている。それはまるで、森全体が「お前を死なせはしない」という一つの意志を持っているかのようだった。

 数日が経つ頃には、エリアーナの心境にも変化が訪れていた。もう死んでしまってもいい、という投げやりな気持ちに変わりはなかった。だが、次から次へと差し伸べられる純粋な善意を前に、自ら命を絶つことすら、この森に対する裏切りのように思えてきたのだ。彼女は死ぬことをやめていた。いや、死ぬことを許されていない、という奇妙な感覚に陥っていた。


 そして彼女がこの森に来てから、周囲の木々が目に見えて生き生きとし始めたことに、彼女自身はまだ気づいていなかった。かつては毒々しい紫色のキノコや、ねじくれた枯れ木ばかりだった森が、日に日にその色合いを変えていた。地面からは瑞々しい若草が芽吹き、木々の葉は艶やかな緑を取り戻しつつあった。淀んで重苦しかったはずの森の空気が、少しずつ澄み渡り始めていることにも、絶望に沈む彼女はまだ気づく余裕がなかった。


 ある日の午後、あてもなく森をさまよっていたエリアーナは、まるで何かに導かれるように、森の奥深くへと足を踏み入れていた。木々の密度が濃くなり、瘴気の残滓が薄れていくにつれて、空気がどこか神聖なものに変わっていくのを感じる。やがて、目の前に巨大な遺跡群が現れた。

 蔦に覆われた巨大なアーチ、天を突くようにそびえながらも半ばで折れた石柱、風雨にさらされ、刻まれた紋様も判読できなくなった敷石。それらは、人間が作ったにしてはあまりに壮大で、それでいてどこか自然と調和していた。まるで、忘れ去られた神々の庭のようだ。

 その中心、ひときわ大きく開けた円形の広場で、彼女はそれを見つけた。


 木漏れ日がスポットライトのように降り注ぐその場所に、月の光を溶して銀糸にし、それを幾重にも束ねて編み上げたかのような、美しい毛並みを持つ巨大な狼が丸くなって眠っていた。

 その大きさは大型の馬ほどもあり、ただ眠っているだけなのに、周囲の空気を震わせるほどの圧倒的な存在感を放っている。一本一本の毛先が、まるでそれ自体が光を放つかのように淡く輝き、その体が上下するたびに、銀色の毛並みが柔らかく波打った。ゆっくりと繰り返されるその呼吸は、遠い山の地響きのように低く、深く、穏やかだった。


(あれが、伝説の魔物……フェンリル)


「厄災の獣」と恐れられ、山脈一つを消し飛ばす力を持つという伝説。しかしエリアーナは、恐怖よりも先に、別の感情を抱いた。


(……なんて、寂しそうなんでしょう)


 その圧倒的なまでの存在感は、同時に、同じくらい巨大な孤独の影を纏っているように見えた。永い、永い時間、誰に理解されることもなく、ただ恐れられ、避けられ、たった独りでここにいたのだろうか。その計り知れない孤独を思うと、数日前の夜会で、たった一人、壁際に立っていた自分の姿が重なった。理不尽に断罪され、誰にも信じてもらえなかったあの絶望が、胸の奥でちくりと痛んだ。


 エリアーナは、まるで見えない糸に引かれるように、吸い寄せられるように一歩、また一歩と、眠る魔物へと足を踏み出した、その時。

 まるで彼女の心のざわめきを感じ取ったかのように、フェンリルの金色の瞳が、ゆっくりと開かれた。


 その瞳は、エリアーナの姿を捉える。神話の獣が持つべき獰猛さや敵意はなく、ただ純粋な好奇心と、そしてほんの少しの警戒が宿っていた。

 フェンリルはゆっくりと身を起こすと、その巨体でエリアーナの匂いをくんくんと嗅ぎ始めた。エリアーナは身動きもせず、ただ、その金色の瞳を見つめ返す。

 やがて、フェンリルは探るような仕草をやめ、ふぅ、と長い息を吐いた。それは緊張が解けた安堵のため息のようだった。次の瞬間、その巨大な獣が「くぅん」と、体格にまったく似合わない、子犬が甘えるようなか細い声で鳴いた。そして、少しだけ躊躇うようにエリアーナを見上げた後、その巨大な頭をごつん、と無防備に彼女の膝の上に乗せてきた。ずしりとした重みと、毛皮越しに伝わる生命の温かさ。エリアーナが驚きに固まっていると、フェンリルはさらに彼女の手に自分の鼻先をすり、と押し付けてくる。もっと撫でて、とでも言うように。やがて満足したのか、その金色の瞳を幸せそうに細め、安心しきった寝息を立て始めた。


「……あったかい」


 エリアーナは、思わずそのもふもふの銀色の毛並みに顔をうずめた。指を立てれば、どこまでも沈んでいきそうなほど深く、柔らかな毛。そこからは、乾いた草と、日に焼けた石と、そして生命そのものの、どこか懐かしい匂いがした。それは、死の匂いが支配していたこの森で、初めて感じる温かい匂いだった。

 裏切られることも、見捨てられることも、値踏みされることもない。ただ、そこにあることを許してくれる絶対的な安心感。その温もりが、凍てついていた心の壁を静かに溶かしていく。ぽろり、と一筋の涙が頬を伝った。それは始まりに過ぎなかった。一度こぼれ落ちた涙は、堰を切ったように次から次へと溢れ出し、彼女の肩は小さく震え始めた。声も出せず、ただただ嗚咽を漏らしながら、彼女は泣いた。失ったもののために。踏み躙られた誇りのために。そして、生まれて初めて触れた、無償の優しさのために。ルーンの銀の毛は、そんな彼女の涙を、まるで何もかも受け止めるかのように、静かに吸い込んでいった。


「あなたの名前は、ルーン。今日から、それがあなたの名前よ」


 エリアーナがそう囁くと、フェンリル――ルーンは、嬉しそうに「くぅん」と喉を鳴らした。


「――公爵様、あれを」


 剣の柄に手をかけ、緊張を滲ませた声で側近が囁く。その視線の先にある光景に、他の従者たちも息を飲んでいた。無理もない。ここは「魔の森」。一歩間違えば命はないと覚悟して踏み入れた、呪われた土地なのだ。


 だが、アレクシス・フォン・クラインフェルトは眉一つ動かさなかった。氷のように冷たいと評されるアイスブルーの瞳が捉えていたのは、従者たちが見ているような「脅威」ではなかったからだ。

 それは、信じがたいほどに矛盾した、そして何よりも興味深い光景だった。


 自領の発展に不可欠な「マナの源泉」を守る守護獣を探しに、彼はこの森を訪れていた。古文書を紐解き、ついに探し当てたその中心地は、しかし、予想とは全く違う姿をしていた。瘴気が浄化され、生命力に満ち溢れている。まるで、この一角だけが神の祝福を受けた聖域のようだ。

 そして、その聖域の中心にいるのが――。


 伝説の魔物フェンリル。その巨体は、並の軍馬を遥かに凌ぐ。ひとたび咆哮すれば天変地異を引き起こすと伝えられる「厄災の獣」が、今はただの巨大な銀色の毛玉と化し、無防備に腹を見せて眠っている。

 さらに信じがたいことに、そのもふもふの腹を枕代わりに、一人の令嬢が、彼女が懇願して唯一持ち出せたのであろう一冊の古びた本に静かに読み耽っていた。

 令嬢の纏うドレスは泥と葉で汚れ、頬には痛々しい傷跡が残っている。だが、背筋は凛と伸び、その佇まいには揺るぎない気品があった。彼女がページをめくる指の動きは、まるで優雅なワルツのように滑らかだ。


「エリアーナ・フォン・ヴェルナー……」


 アレクシスは、その名を静かに口にした。ヴァルハイト王国で最も有能な文官にして、最も不当な扱いを受けた令嬢。その噂は、彼の元にも届いていた。追放先はこの「魔の森」だと。そして今、目の前には伝説の魔物を手懐ける、明らかに常人ではない力を持つ令嬢がいる。状況証拠と消去法から導き出される答えは一つしかない。噂には聞いていたが、これほどとは。


 アレクシスの瞳は、彼女の周囲に満ちる尋常ならざる生命力を見逃さなかった。空気が違うのだ。淀んだ森の空気とは明らかに異質な、清浄で密度の高いマナが、彼女を中心とした同心円状に広がっている。彼女が息をするたび、足元の草花が歓喜するようにわずかに揺れ、その葉の色を鮮やかにする。近くの木の枝にとまった小鳥たちは、人間を恐れることなくさえずり、色鮮やかな蝶が彼女の開いた本のページにひらりと舞い降りた。


(これは……ただ魔物を手懐けただけではない。ヴァルハイトの愚か者どもが「残念スキル」と断じた力の、これが本質か)


 彼の怜悧な頭脳が、全ての事象を結びつける。あのエリアーナ・フォン・ヴェルナーこそが、この聖域そのものの源なのだ。彼女は生命に好かれるだけではない。生命そのものを活性化させ、大地を豊かにする力を持っている。


「下がっていろ」


 アレクシスは、未だ警戒を解かない従者たちを手で制すると、一人で彼女たちのもとへ歩み寄った。これは力でどうこうする場面ではない。愚かなヴァルハイトの王子とは違う。彼は、目の前の「至宝」の価値を、正しく理解していた。


「失礼。少しよろしいだろうか」


 その声に、エリアーナは驚いて顔を上げた。ルーンの反応は、それよりも速かった。

 今まで彼女の膝の上で子犬のように眠っていた巨大な獣が、一瞬でその姿を変える。ガバリと頭を持ち上げ、エリアーナを背後にかばうように、しなやかな体躯で立ちふさがったのだ。銀色の毛が逆立ち、その体躯は一回りも大きく見える。喉の奥から響く低い唸り声は、大地そのものを震わせるかのようだった。穏やかだった金色の瞳は、侵入者を射抜く鋭い光を宿し、唇の端がめくれ上がって、鋼さえも断ち切るであろう純白の牙が覗く。甘えていた巨大なペットから、伝説に謳われる「厄災の獣」への変貌は、絶対的で、肌が粟立つほどの殺気を周囲にまき散らした。


「ルーン、大丈夫よ」


 エリアーナがその巨大な首筋に、そっと手を置いた。その声は、叱るでもなく、宥めるでもない。ただ、絶対的な信頼を込めた、静かな響きを持っていた。

 すると、あれほどの殺気を放っていたルーンが、ぴたりと動きを止めた。逆立っていた銀の毛が滑らかに収まり、地響きのような唸り声が、安心したようなため息に変わる。敵意に燃えていた金色の瞳は、再び蜂蜜のような温かい色を取り戻し、エリアーナを見上げて「くぅん」と情けない声を漏らした。まるで、いきり立ってしまった自分を恥じているかのようだ。


 そのあまりにも劇的な変化を、アレクシスは瞬きもせずに見つめていた。彼の表情はいつものように冷静沈着な仮面に覆われていたが、そのアイスブルーの瞳の奥では、驚愕の嵐が吹き荒れていた。


(……なんだ、これは)


 魔物を力や恐怖で従わせる調教師は数多く見てきた。だが、これは違う。命令ではない。支配でもない。ただ、ひと撫でと、一言だけで、伝説の魔物がその本質さえも変えてしまう。それは、魂のレベルで結ばれた、絶対的な絆の証だった。この令嬢は、フェンリルの弱点なのではなく、心臓そのものなのだ。

 彼は冷静に、しかし単刀直入に切り出した。


「クラインフェルト公爵、アレクシスと申す。君が、先日ヴァルハイト王国を追放されたエリアーナ・フォン・ヴェルナー嬢とお見受けするが」


「……ご存知で」


「君ほどの有能な文官が、濡れ衣で追放されたという報せは、すぐに届く」


 アレクシスの言葉に、エリアーナは驚いて目を見開いた。彼女の心が、まるで硬い氷を割られたかのように、鋭い衝撃に揺れる。

 有能な文官。

 その言葉は、彼女がずっと昔に失くしてしまった、大切な宝物の名前を突然告げられたかのようだった。それは、彼女が最も誇りに思い、自らの存在価値の根幹だと信じていた部分。そして、あの夜会で、元婚約者によって「役立たず」の一言で無残に踏みつけられた、心の傷そのものだった。

 忘れようとしていた痛みが蘇る。だが、それと同時に、今まで感じたことのない種類の温かさが、胸の奥で微かに灯った。この人は、他国の公爵であるこの人は、私をそう見てくれるのか。私を捨てた者たちとは違う目で。その事実が、驚きと、戸惑いと、そしてほんのわずかな希望となって、彼女の心をかき乱した。


「私の領地に来ないか。君のその類稀なる知識と、その…」


 とアレクシスはルーンを一瞥し、言葉を続けた。


「もふもふを手懐ける力を貸してほしい。もちろん、相応の待遇と安全を約束する」


 スカウト――その言葉の意味を、エリアーナは一瞬、理解できなかった。

 彼女は今まで、駒でしかなかった。ヴェルナー家の娘として、王子妃候補として。その役割を果たすための道具であり、能力があるのは当然で、それを評価されることなど一度もなかった。

 だが、今、目の前の男は彼女を「評価」し、「必要だ」と言っている。私の知識を? この、誰からも「残念スキル」と蔑まれた、もふもふを手懐けるだけの力を?

「役立たず」という烙印が、心の傷となって疼く。だが、アレクシスの揺るぎないアイスブルーの瞳には、侮蔑も憐憫もなかった。ただ、純粋な価値を見出す者の、冷徹なまでの光があった。

 自分を必要としてくれる人がいる。利用するためでも、見下すためでもなく、ただ純粋に、エリアーナ・フォン・ヴェルナーという一個人の能力を求めてくれる人が。その事実が、何年も、何十年も分厚い氷に閉ざされていた彼女の心の奥深くに、小さな、しかし確かな亀裂を入れた。そこから、じんわりと、温かい何かが染み出してくるようだった。


 エリアーナは、目の前のアレクシスと、膝の上で信頼しきった顔を向けるルーンを交互に見つめた。

 このまま森で生きながらえることはできるかもしれない。森は、優しい。けれど、この温かい生き物と共に、ずっとここで孤独に生きていくのだろうか。

 目の前の男は、自分を「必要だ」と言ってくれた。その言葉は、毒にも薬にもなりうる。だが、彼の瞳に嘘はないように思えた。何より、自分の知識と力が、誰かの役に立つかもしれない。その可能性は、エリアーナが文官として生きてきた誇りを、もう一度奮い立たせるには十分だった。

 失うものは、もう何もない。ならば、この差し伸べられた手を信じてみてもいいのではないか。

 エリアーナはゆっくりと立ち上がると、破れたドレスの裾を払い、貴族令嬢としての完璧なカーテシーを見せた。


「……お受けいたします、クラインフェルト公爵閣下。このエリアーナ・フォン・ヴェルナー、このルーンと共に、閣下のお力になれるのであれば」


 その言葉に、アレクシスは満足げに、ほんのわずかに口角を上げた。

 こうして、追放された令嬢は、巨大なもふもふの相棒と共に、新たな大地へと旅立つことになった。

 彼女を待ち受けるのが、甘いお菓子と温かい寝床、そして何より、彼女の真の価値が認められる場所だということを、この時のエリアーナは、まだ知らなかった。

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