第1話:偽りの断罪
※AIを使用しての作品となります。
全4話を予定してます。
高く、精緻なフレスコ画で飾られた天井から吊り下げられた無数のシャンデリアが、黄金の光を洪水のように降り注がせている。磨き上げられた大理石の床は鏡のようにその輝きを映し、オーケストラが奏でる優雅なワルツの調べに乗って、色とりどりの絹のドレスと軍服の波が絶えず揺らめいていた。高価な香水の香り、楽しげな笑い声、グラスの触れ合う軽やかな音。すべてが、ヴァルハイト王国が誇る武威と栄華の象徴そのものだった。
その喧騒と色彩の奔流から意図的に距離を置くように、開け放たれたテラス近くの壁際で、エリアーナ・フォン・ヴェルナーはただ静かに佇んでいた。彼女の周りだけ、時の流れが止まっているかのようだ。
光の輪の中では目立たないアッシュブラウンの髪は、金の櫛一本で無造作に、しかし実用的に結い上げられている。繊細な銀縁の眼鏡の奥にあるヘーゼルの瞳は、華やかな夜会ではなく、もっと複雑で難解な盤面を見つめているかのように理知的だ。彼女がその身に纏うのは、数年前に仕立てた、刺繍もレースもないシンプルな紺色のドレス。腰の位置もスカートの広がりも、とうに流行遅れのデザインだ。今朝方、鏡の前でため息をつく彼女に、妹のリリアーナが言い放った。
『まあお姉様、夜会の壁紙と一体化するおつもり?ちょうどいい色ですわね』
その嘲笑が、まだ耳の奥で微かに響いていた。
事実、エリアーナの頭の中は、夜会の華やかさとは無縁の、極めて実務的な思考で満たされていた。
(――来月の予算編成、第三騎士団の装備更新費が想定を上回っている。歳入の不足分は、先日締結した隣国との貿易協定で得られる関税収入で補填できるはずだけれど、その協定の履行には『穀物安定供給法』の最終調整が不可欠だわ……)
帳簿の上で踊る数字の緻密な羅列、外交文書における一言一句の重み、国境へ物資を届けるための複雑な兵站網。それらを解き明かし、組み上げる瞬間にこそ、エリアーナの心は静かに沸き立った。難解な法案を成立させ、それが人知れず飢饉を防ぎ、紛争の火種を消し止めたと知る時、誰からの賞賛もなくとも、胸の奥に灯る熱い喜びこそが彼女の全てであり、誇りだった。
それに比べ、『王子の婚約者』という役目は、まるでサイズの合わない窮屈な衣装を着せられているかのようだった。動きやすさよりも見た目を優先されるドレス。中身のないお世辞の応酬。ジークフリート殿下が自身の剣技を自慢する隣で、ただ淑やかに微笑んでいることを求められる時間。そのすべてが、退屈で、心をすり減らすだけの茶番に思えた。婚約は政略であり、王国という巨大な組織図に書き込まれた、ただの一本の線に過ぎない。インクと羊皮紙の匂いに満ちた静かな書斎こそが、玉座の隣にある華やかで空虚な場所より、よほど彼女にとって価値のある世界だった。
その婚約者――ジークフリート・エル・ヴァルハイト王子は今、夜会の主役として、人々をかき分けるようにホールの中心に立っていた。金糸銀糸で彩られた豪奢な軍礼服をその逞しい身体にまとい、腰のサーベルに手をかけた姿は、武を尊ぶこの国の王子として申し分ない威容を誇っている。彼の腕には、エリアーナの異母妹、リリアーナが猫のようにしなだれかかっていた。
燃えるような赤毛は複雑に編み込まれ、ダイヤモンドの髪飾りがシャンデリアの光を受けて火花を散らす。豊満な胸元を惜しげもなく晒した純白のドレスは、最新の流行を取り入れたもので、スカートの裾には何層ものレースが波打っていた。彼女はまさに、物語に登場する可憐な姫君――その役を完璧に演じきっていた。周囲の貴族たちは、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように二人を取り巻き、次から次へと賞賛の言葉を捧げている。
「リリアーナ、君のその聖なる力こそ、我が国の宝だ」
「まあ、ジークフリート様……!わたくし、お国のために祈ることしかできませんもの」
自信に満ちた青い瞳で、ジークフリートはうっとりとリリアーナを見つめている。その眼差しは、彼女自身というよりも、彼女を隣に置くことでより輝きを増す自分自身に向けられているかのようだ。リリアーナは、計算され尽くした角度で王子を見上げ、潤んだ翠の瞳をいっそう輝かせる。その瞳はひたすらに王子への崇拝と純粋な愛情を映しているように見え、見る者に庇護欲を掻き立てさせた。
二人は、額縁に収められた完璧な絵画のようだった。美しく、華やかで、誰もが称賛するけれど、そこには何の深みもない、静止した虚構の世界。
エリアーナは、その完成された茶番に、小さく、誰にも気づかれないほどの息を吐き出した。それは諦めと、ほんのわずかな憐憫が混じったため息だった。そして、再び思考の海へ――複雑で、しかし確かな手応えのある現実の世界へ意識を沈めようとした。
その時だった。
「姫様っ!」
甲高い悲鳴が、ホールの反対側から響いた。ワルツの調べが乱れ、人々の視線が声の源へと集まる。そこでは、リリアーナの侍女が、リリアーナが口にしようとしていたグラスを叩き落としていた。シャンパンゴールドの液体とガラスの破片が、大理石の床に飛び散る。
「何事だ!」
ジークフリートが鋭く問うと、侍女は顔面蒼白で震えながら、床の液体を指差した。
「こ、このお飲み物に……毒が……!銀の匙が、黒く……!」
侍女が差し出した銀のティースプーンは、先端が不気味に黒ずんでいた。
毒。
その一言がホールに緊張を走らせる。一体誰が、聖女リリアーナの命を?
観衆が息をのむ中、ジークフリートの怒りに燃える青い瞳が、まっすぐに壁際のエリアーナを射抜いた。
「エリアーナ・フォン・ヴェルナー!貴様だな!」
王子はリリアーナの肩を抱き寄せ、守るようにしながらエリアーナのもとへずんずんと歩み寄る。そして、彼女の腕を乱暴に掴んだ。
「聖女リリアーナに嫉妬し、衆人環視の中で毒を盛るとは!なんという浅ましさだ!」
その一言が、エリアーナの思考を氷のように冷徹なものへと変えた。彼女は冷静に、しかし侮蔑を隠さずに片方の眉をひそめた。馬鹿馬鹿しい。衆人環視の夜会で毒殺などという、最も非効率的で不確定要素の多い手段を、この私が選ぶと?
エリアーナの頭脳が瞬時に計算する。成功率、露見するリスク、動機、そして得られる利益。全てがマイナスだ。そんな愚かな賭けに乗るくらいなら、法案の条文一つを書き換える方が、よほど確実かつ静かに相手を社会的に抹殺できる。この突拍子もない告発は、論理の欠片もない、ただの感情的な茶番だった。
エリアーナの冷ややかな沈黙とは対照的に、リリアーナは完璧な悲劇のヒロインを演じきっていた。彼女は王子に庇われるようにその逞しい腕にしがみつき、華奢な肩をわななと震わせる。今まさに命を狙われた恐怖と、姉に裏切られた(という筋書きの)衝撃で、か弱い小鳥のように見えた。潤んだ翠の瞳からは、一筋、計算され尽くしたかのように美しい涙が頬を伝い落ちた。
「お姉様……どうして、ですの……?わたくし、お姉様のことも尊敬しておりましたのに……!」
その演技がかった台詞に、周囲の貴族たちは「ああ、なんとおいたわしい」「やはり地味な姉は、華やかな妹君に嫉妬を…」と同情的な囁きを交わし始める。
エリアーナは、掴まれた腕の痛みに耐えながら、ジークフリートの目をまっすぐに見つめ返した。眼鏡の奥の瞳は、少しも揺らいでいない。
「殿下、それは濡れ衣です。私がそのグラスに触れたという証拠はどこに?」
「証拠だと?この黒ずんだ銀の匙が何よりの証拠だ!それに、あのグラスが置かれていたテーブルの近くにいたのはお前だけだったと、複数の者が証言している!」
「私が壁際にいたのは事実です。ですが、それは殿下とリリアーナがホールの中心におられたため、邪魔にならぬよう控えていただけのこと。そのグラスには触れてすらいません」
「やかましい!言い訳は罪を認めるも同然だ!」
ジークフリートは、エリアーナの言葉をまともに聞く気など最初からなかった。彼女の理路整然とした反論は、彼の苛立ちを煽るだけだった。正論や理屈は、今この場には不要なのだ。彼の頭の中では、すでに完璧な筋書きが出来上がっていた。か弱く美しい聖女リリアーナ。彼女を狙う、嫉妬に狂った地味な姉。そして、愛する人を守り、悪を断罪する英雄たる自分自身。
周囲の貴族たちの驚愕と、腕の中で震えるリリアーナの体温が、彼の自己陶酔を極限まで高めていた。彼は今、歴史に名を残す王になるための、最も分かりやすい舞台の上に立っている。エリアーナの冷静な瞳は、その輝かしい舞台に水を差す、不快な雑音でしかなかった。
「まだ言うか!この罪深き女め!」
その時、人垣を割って一人の壮年の男が進み出た。古いが威厳のある礼服に身を包んだ、ヴェルナー侯爵。エリアーナとリリアーナの実の父親だ。
氷のように凍てついていたエリアーナの心に、ほんのわずかな熱が灯った。父上――。この人は、王子のような脳筋ではない。政治の駆け引きと、家の利益を常に天秤にかけてきた冷徹な合理主義者だ。ならば、この茶番の愚かさに気づいてくれるはず。私がこの場で罪に問われることが、ヴェルナー家にとってどれほどの不利益になるか、瞬時に計算してくれるはずだ。エリアーナは、父の厳しい灰色の瞳に、最後の、そして唯一の望みを託した。自分を信じてほしい、と。
だが、侯爵の視線は、エリアーナの上を素通りした。彼はまず、ジークフリート王子の怒りに満ちた表情を窺い、次に王子の腕の中でか弱く震えるリリアーナに目をやり、そして最後に、値踏みするようにエリアーナを見返した。その瞳に宿っていたのは、娘への信頼や情愛ではない。天秤にかけた二つの駒――醜聞を起こした出来の悪い長女と、未来の王妃になる可能性を秘めた次女――を比較検討し、即座に片方を切り捨てることを決めた、非情な政治家の色だった。
エリアーナの中で灯った微かな熱は、一瞬で吹き消された。後に残ったのは、骨身に沁みるほどの冷たい絶望だけだった。
父が放った言葉は、その絶望を決定づける、ただの追撃に過ぎなかった。
「我が家の恥さらしめ!殿下の御前でなんという口の利き方か!」
乾いた破裂音がホールに響いた。衝撃に、エリアーナの頭が横に跳ね、燃えるような鋭い痛みが頬を灼く。顔から弾き飛ばされた眼鏡が宙を舞い、床に落ちて、パリン、と無機質で甲高い音を立てて砕け散った。
世界がぐらりと傾ぎ、耳の奥でキーンという音が鳴り響く。シャンデリアの光が涙で滲んで、いくつもの光輪を描いた。唇の端から流れた血の、鉄の味が口の中に広がる。
頬の熱よりも、心の芯が急速に凍てついていくのを、エリアーナは感じていた。最後の絆だと思っていたものが、今、目の前で砕け散った眼鏡のように、修復不可能なほど粉々になってしまった。この一撃は、肉体的な痛みよりもはるかに深く、彼女の魂そのものを打ち据えたのだ。
ああ、そうか。この人たちには、真実などどうでもいいのだ。ただ、自分たちの都合の良い「物語」が欲しいだけなのだと。
「エリアーナ・フォン・ヴェルナー!本日をもって、貴様との婚約を破棄する!」
ジークフリートが高らかに宣言する。
「そして、王国の秩序を乱した罪により、貴様を国外追放に処す!二度と、この国の土を踏むことは許さん!」
追放。その言葉が、凍てついた湖に落ちた雪片のように、音もなく、ただ静かに胸に積もっていく。痛みも、悲しみも、怒りさえも、分厚い氷の下に閉ざされてしまったかのようだ。
エリアーナは、もはや何の感情も映さない硝子玉のような瞳で、ぼんやりと床の染みを見つめていた。婚約破棄、国外追放――それは彼女の人生の終わりを意味する宣告のはずなのに、不思議と何の感慨も湧いてこない。ただ、心の奥底で、長年使い込んできた機械の歯車が一つ、また一つと停止していくような、静かな感覚があった。
だが、全てが止まったわけではなかった。最後に一つだけ、彼女を突き動かすものが残っていた。それは希望でも未練でもない。長年彼女の身体に染み付いてきた、文官としての性――最後の責務だった。この国がどうなろうと知ったことではない、そう思ったはずなのに、脳裏をよぎるのは、未完成の法案がもたらすであろう未来の混乱だった。エリアーナはゆっくりと顔を上げ、その無表情の仮面の下で、最後の力を振り絞って口を開いた。
「……私が立案した『穀物安定供給法』の最終調整稿は、第二書庫の……」
「黙れ、役立たずが!」
それは、雷鳴のような怒号ではなかった。むしろ、汚物でも吐き捨てるかのような、底冷えのする侮蔑に満ちた声だった。ジークフリートの顔は、正義を執行する英雄の恍惚から、理解不能なものに対する苛立ちへと変わっていた。この期に及んでまだ、小難しい政の話をするのか。この女は、自分の罪の重さを理解できないほど愚かなのか。彼の表情がそう物語っていた。
その「役立たず」という一言が、エリアーナの心の最後の歯車を、粉々に砕いた。今まで彼女が捧げてきた全て、寝る間も惜しんで向き合ってきた無数の書類、国の未来を案じてきた膨大な時間。その全てが、この一言で無価値なゴミ屑として切り捨てられた。
ああ、そうか。
私の人生は、この男にとっては、この国にとっては、ただの「役立たず」だったのか。
ぷつり、と。心の奥で、最後の糸が切れる音がした。
夜会で着ていた流行遅れのドレスは薄汚れ、掴まれた腕には乱暴な手形の痣が浮かんでいた。エリアーナは、王宮の華やかな正面玄関からではなく、生ゴミの匂いが漂う薄暗い裏口から引きずり出された。
引きずられていく途中、かつては自分の領域であった文官詰所の前を通り過ぎた。開いた扉の隙間から、乱雑に積まれた書類の山と、その上に無造作に置かれた一冊の使い古された本が見えた。それは、彼女が心血を注いで改正に取り組んでいた法典の解説書だった。
「お待ちください!」
エリアーナは、生まれて初めて衛兵に懇願した。命乞いではない。
「……あの本を……どうか、あの本だけを……」
衛兵は一瞬怪訝な顔をしたが、やがて侮蔑の笑みを浮かべた。
「へっ、この期に及んで本かよ。まあいい、餞別だ」
男は乱暴に本を掴むと、エリアーナの胸に押し付けた。
「さあ、とっとと行け!」
彼女は罪人用の、窓すらない荷馬車に乱暴に押し込められた。ガタガタと不快に揺れる荷台の上で、エリアーナはただ、己の膝を抱える。どれほどの時間が経っただろうか。やがて馬車が止まり、扉が乱暴に開けられると、そこはひどく冷たい夜氣に満ちていた。
「降りろ、罪人」
引きずり下ろされた先は、巨大な鉄の門の前だった。錆びつき、不気味な蔦が絡みついたその門は、文明社会と、その外側に広がる混沌とを隔てる最後の砦だった。門の向こうからは、夜行性の獣の鳴き声や、風が木々を揺らす不気味な音が聞こえてくる。ここが追放先、「魔の森」の入り口だ。
衛兵の一人が、硬いパンと干からびた肉、そして皮袋に入った水を、まるで犬に餌でもやるように彼女の足元に放り投げた。
「ありがたく思えよ、元・侯爵令嬢様。本来なら、お前のような大罪人はここで首を刎ねられるところだ。殿下の御慈悲に感謝するんだな」
もう一人の衛兵が、下卑た笑い声を上げる。彼らの目には、かつての王子の婚約者に対する敬意など微塵もない。あるのはただ、地に落ちた権力者への侮辱と、嗜虐的な喜びだけだった。
エリアーナは何も答えなかった。答える言葉も、力も、もう残っていなかった。衛兵はそんな彼女の背中を力任せに突き飛ばした。
ぬかるんだ地面に膝をつき、ドレスの裾が泥に汚れる。エリアーナが顔を上げる間もなく、背後で、彼女の運命を閉ざす音が響いた。
ギイイィ、という耳障りな蝶番の音。そして、ゴウ、と地響きのような音を立てて、重い鉄の門が閉ざされる。最後に、かんぬきが下ろされる、冷たく絶望的な金属音が、エリアーナの鼓膜を打った。
一人、夜の闇に閉ざされた森を前に、エリアーナはゆっくりと立ち上がる。頬が熱く、唇の端からは血の味がした。
だが、彼女の心は不思議なほど、静かだった。
(役立たず、か……)
そうかもしれない。この国では、私の力は役に立たなかった。
ならば、もういい。
この国がどうなろうと、もう私の知ったことではない。
エリアーナは、一度だけ王都の方を振り返ると、迷いのない足取りで、深く、昏い森の中へとその身を投じた。
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